第1節 極左暴力集団等の変遷

1 極左暴力集団の草創期(昭和32年ころから41年ころまで)

(1) 極左暴力集団の誕生
 極左暴力集団は、現在では、多数のセクトに分かれているが、これらは、その成立の経緯や指導理論等から、革共同系、共産同系、革労協系、構造改革派系、親中共派系の主要5グループと、アナーキストグループ、ノンセクト・黒ヘルグループに大別される。このうち、主要5グループの源流である革共同(革命的共産主義者同盟)、共産同(共産主義者同盟)、革労協(革命的労働者協会)、構造改革派、親中共派は、昭和32年から41年の間に相次いで生まれた。
ア 革共同、共産同の誕生
 日本共産党は、終戦後、「愛される共産党」を標ぼうするとともに、占領下での「平和革命」への可能性を主張し、戦後の混乱期に乗じて勢力の拡大に努めた。しかし、この主張は、25年、コミンフォルムから痛烈な批判を受け、これに端を発する党内分裂後再び党の統一を回復した26年には、第5回全国協議会を開催して、平和革命論を否定し暴力革命唯一論を採る「51年綱領」を採択するとともに、軍事方針を決定し、軍事組織の結成と暴力的破壊活動の展開に力を注いだ。
 しかし、その後、日本共産党は、武装闘争戦術の行き詰まりとこれに対する反省から、30年、第6回全国協議会を開催してそれまでの戦術を自己批判し、戦術転換を図った。
 また、31年には、ソ連共産党第20回大会において、スターリン批判が行われるとともに、米ソ平和共存路線が打ち出され、これを契機に、ポーランド暴動、ハンガリー暴動が発生した。
 これらの出来事を通じて、日本共産党の軍事方針を忠実に守り、火炎びん闘争等の前面に立ってきた党員やその同調者の間には、絶対無誤謬(びゅう)の存在とされていた党に対する不信が生ずるとともに、マルクス・レーニン主義への懐疑から、スターリンの対立者であったトロツキー(注)を評価する気運が生じた。また、日本共産党を唯一の前衛党とする従来の考え方が根底から覆され、独自の前衛組織を作ろうとする運動論が主張された。
 こうして、32年1月、トロツキズムを信奉する元日本共産党員らが、我が国初めてのトロツキスト組織として、日本トロツキスト連盟を結成し、同年12月には革共同に改称して、学生運動の中に浸透を図っていった。
(注) レオン・トロツキー(1879~1940)は、レーニンとともにロシア革命の指導者であるが、レーニンの死後、スターリンとの権力闘争に敗れ、国外に追放され、1940年8月、メキシコで暗殺された。スターリンの一国社会主義革命論に対し、永続革命(世界革命)論を主張した。
 また、全学連(全日本学生自治会総連合)は、23年の結成以来日本共産党の指導、影響下にあったが、このような中で、日本共産党の路線の変更等に不満を持つ党員が主流派を占めたため、ことごとく日本共産党中央と対立するようになった。そして、33年6月には、党中央が招集した全学連大会代議員グループ会議において、全学連主流派党員が会議を制して党中央委員全員の罷免を要求するなどし、対立は決定的となった。これを契機に、多数の全学連主流派党員が日本共産党から除名され、あるいは自ら離党するに至ったが、これらの学生活動家は、部分的にはトロツキズムを評価しながらも革共同には参加せず、33年12月、独自に共産同を結成した。
イ 構造改革派の誕生
 日本共産党は、第6回全国協議会後、新しい綱領作りをめぐって激しい論争を続けていたが、36年7月、構造改革路線(注)を主張する少数派が党を離れて、新組織を結成し、さらに、その後、当時の中ソ対立に際し、中国共産党寄りの路線を採った日本共産党中央の方針に反対して除名された元中央委員らも、この一部と合流して、新組織を結成した。これらの組織は、当初構造改革路線を採っていたことから、構造改革派と呼ばれていたが、44年ころから、その多くが、若手急進派の台頭により、過激路線に転換した。
(注) 構造改革路線とは、イタリア共産党のトリアッチ書記長が唱えた革命路線であり、民主主義の拡大、経済の民主化を通じて、社会主義への道を切り開くという考え方である。
ウ 親中共派の誕生
 いったんは中国共産党寄りの路線を採った日本共産党も、40年のインドネシア共産党の武装蜂起(「9.30事件」。中国共産党の強い指示の下に計画され、実行されたと言われる。)と政府軍による鎮圧に強い衝撃を受けた。その後、ベトナム戦争が激化し、また、中国において「文化大革命」が進行する中で、ソ連との関係、あるいは日本における革命の手段、方法等をめぐって中国共産党と日本共産党の意見対立が深まり、ついに、41年春の宮本顕治・毛沢東会談の決裂により、日本共産党は、中国共産党との関係を断絶し、「自主独立」路線を採るに至った。
 この路線転換を批判して除名された元日本共産党員らは、41年以降、各地で新組織を結成した。これらの組織は、中国共産党や毛沢東思想を支持していたところから、親中共派と呼ばれた。
エ 革労協の誕生
 35年に日本社会党の指導により結成された日本社会主義青年同盟(社 青同)には、共産同系の活動家が「加入戦術」(注)に基づいて多数潜入していたが、これらの活動家は次第に勢力を伸ばし、40年には社青同解放派を組織して共産同から独立し、さらに、44年には革労協を結成した。
(注) 加入戦術とは、トロツキストが自らの組織を作るに当たって、初めから一つの党派を標ぼうしても多くの同志を結集できない場合、まず、他の政党、大衆団体の中にもぐり込んで、次第に勢力を広げ、ついにはその組織を乗っ取るか、その組織から出て自らの独立した組織を結成するという戦術である。
(2) 高揚する学生運動
 誕生後間もない極左暴力集団は、学生運動の中に次第に勢力を拡大し、昭和33年、全学連の主導権を握った。極左暴力集団に指導された全学連は、社会主義実現を目指す闘争を重点に活動するようになった。特に、実力行動を重視する共産同が主導権を握った34年からは、翌年に予定された日米安全保障条約の改定を「本格的軍事同盟への改変」ととらえ、その反対のための闘争を「日本帝国主義に対する闘いであり、社会主義革命への突破口をなすものである」として、これに強力に取り組んでいった。
 「60年安保闘争」は、安保条約の存続に反対する社会、共産の両党や総評等の労組が中心になって取り組み、共闘組織である安保条約改定阻止国民会議の下で、34年4月から35年10月までの約1年7箇月にわたり、延べ約464万人を動員して23次に及ぶ全国統一行動を展開した。この中で、全学連は、革命闘争の主張には必ずしも賛同しない多数の一般学生のエネルギーをも「反安保」に結集して、過激な行動を繰り返した。
 34年11月27日には、全学連部隊が国会陳情デモの先頭に立ち、「国会乱入事件」を引き起こした。また、35年1月16日には、岸首相ら改定安保条約調印全権団の渡米を阻止しようと、学生約700人が羽田空港ロビーを占拠するという事件を引き起こした。これらの過激な行動に対しては、世論が厳しく批判しただけでなく、全学連の内部でも批判が生じ、全学連は分裂状態に陥った。
 しかし、その後も、主流派である共産同系の全学連は、過激な行動を繰り返し、「国会請願デモ(国会乱入未遂)事件」(35年4月26日)、「首相官邸乱入事件」(5月20日、6月3日)等を引き起こしたほか、改定安保条約批准承認成立やアイゼンハワー米国大統領訪日を目前に控えた6月15日には、「安保決戦の日」と叫んで、またしても国会構内に乱入した。この行動では、女子学生1人が死亡した。
 「60年安保闘争」は、批准書交換完了(6月23日)と岸首相の辞意表明により目標を失い、急速に鎮静化した。このため、全学連主流派を形成していた共産同は、指導責任をめぐって分裂し、次第に全学連の主導権を失っていった。一方、革共同は、旧共産同の有力活動家が多数合流し、勢力を伸ばしていったが、38年には、闘争路線をめぐる意見の対立等により、中核派と革マル派に分裂した。

2 活発な街頭武装闘争(昭和42年ころから46年ころまで)

(1) 暴走する極左暴力集団
 「革命の起爆剤」を自認する極左暴力集団は、昭和40年代には、45年の安保改定に照準を合わせ、世界的なスチューデント・パワー(注)の高揚とベトナム戦争をきっかけにした反戦、反米気運や、学園紛争の中から生じた反体制ムードの高まり等を背景に、一般学生や青年労働者等を巻き込んで長期にわたる過激な「70年闘争」を展開した。
(注) 43年から44年にかけては、フランスの5月危機を招いたパリ大学生の学制改革への参加要求闘争、米国のカリフォルニア大学を中心とした反戦、反軍、反人種差別闘争をはじめ、英国、イタリア、中南米諸国において学生による激しい闘争が展開され、それぞれの国の治安を揺さぶった。
 極左暴力集団は、「60年安保闘争」後、分裂と混迷を続けていたが、41年12月、旧共産同、中核派、社青同解放派(後の革労協)を中心として、いわゆる三派系全学連を組織し、これが中心となって、42年10月、「総理訪越阻止が70年闘争の幕開け」と叫んで「第1次羽田事件」を引き起こし、さらに、11月には、首相の訪米に反対して「第2次羽田事件」を引き起こした。
〔事例〕 第1次羽田事件
 42年10月8日、極左暴力集団約2,500人は、佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止すべく、早朝から羽田空港への乱入を図り、規制に当たった警察部隊に歩道敷石を砕いて投石したり、こん棒、角材を振りかざしたりして攻撃を加え、警察官840人、一般人5人に重軽傷を与えるとともに、警備車両に次々と放火して7台を炎上させたほか、42台の車両を破壊した。このほか、奪った警備車両で空港突入を図ったが、その途中で学生1人をひき殺した。
 この日、警視庁は、学生多数を含む58人を公務執行妨害、凶器準備集合等で現行犯逮捕した。
 第1次羽田事件は、警察部隊に対する計画的な攻撃、大量の武器(角材、石塊等)の使用等の点で飛躍的に悪質化した闘争であり、
○ 闘争凶器をエスカレートさせるきっかけとなったこと
○ 「70年闘争」の主役として極左暴力集団の士気を高めたこと
などの点で、その後に重要な影響を与えた。
 これに力を得た極左暴力集団は、43年に入って同様の集団武装闘争を繰り広げ、1月の「エンタープライズ寄港阻止闘争」を皮切りに、「米軍王子野戦病院開設阻止闘争」、「10.8羽田闘争一周年全国統一行動」等で暴走に次ぐ暴走を重ねた。
 闘争形態では、ヘルメットに覆面、角材姿のいわゆる全学連スタイルが街頭、学園を横行し、軍団編成(突撃隊、ゲバルト棒隊、特殊工作隊、投石隊、別働隊等)による武装闘争が極左暴力集団の常套手段となった。また、凶器の面でも、角材、竹ざお、石塊のほか、竹やり、鉄棒、鉄パイプ、鉄片、農薬、劇薬等が登場した。
 これらの闘争を通じて、極左暴力集団は、群衆を巻き込み、利用する戦術を意識的に強めていたが、10月21日の「国際反戦闘争」では、全国で約2万人を動員して武装闘争を繰り広げるとともに、最も群衆を集めやすい東京の新宿駅を選んで「新宿騒擾(じょう)事件」を引き起こした。この日、全国で学生ら1,012人(うち、東京で770人)を逮捕したが、同時に、学生らの投石等で、警察官1,157人が重軽傷を負った。
〔事例〕 新宿騒擾(じょう)事件
 国際反戦デー(43年10月21日)の当日、極左暴力集団約4,000人は、新宿駅周辺で1万人以上のやじ馬を巻き込んで、同駅周辺を長時間占拠して集会、デモを行い、さらに、駅構内や線路になだれ込んで鉄道施設を占拠した上、枕木や電車のシートを持ち出してバリケードを築き、これに放火したほか、手当たり次第に電車、駅舎、派出所等を丸太、石塊等で破壊するという暴力的破壊行動を繰り返し、騒乱状態を引き起こした。
 これに対し、警視庁は、27年の「皇居前メーデー騒擾(じょう)事件」以来16年ぶりに騒擾(じょう)罪を適用して364人を検挙したほか、公務執行妨害、放火、鉄道営業法違反等で86人を検挙した。

 44年に入り、極左暴力集団は、11月の沖縄返還交渉のための首相訪米時を「安保決戦」とする方針に切り替え、これに向け、「4.28沖縄闘争」、「アスパック(アジア・太平洋閣僚会議)阻止闘争」、「10.21国際反戦闘争」、「総理訪米阻止闘争」等で連続的に集団武装闘争を繰り広げた。また、闘争戦術は、街頭で大量の火炎びんを投てきするなど、一段とエスカレートした。
〔事例〕 総理訪米阻止闘争(44年11月13~17日)
 極左暴力集団は、佐藤首相の訪米を阻止しようと、全国で延べ約7万4,000人(うち、東京で延べ約3万4,000人)を動員して反対闘争に取り組んだ。特に、東京では、訪米前日の16日、約1万9,000人を動員して、蒲田、品川等都内各地で火炎びん、爆発物、鉄パイプ、角材等を使用した「ゲリラ」的集団武装闘争を繰り広げ、警察官487人、一般人65人を負傷させたほか、学生1人が死亡し、検挙は2,557人を数えた。この間使用された火炎びんは約1,200本、未使用のまま押収されたものは約3,300本に及んだ。
 世論は、これらの闘争を支持せず、マスコミも、「狂気のサタである」などと論評した。
 極左暴力集団は、「11月決戦」時の大量検挙で、結成以来といわれる大打撃を受け、しばらくは組織再建を最優先にせざるを得ず、当初ヤマ場と予定していた45年の「6月闘争」も、大勢は武装闘争を展開できなくなり戦術ダウンを余儀なくされたが、46年に入り、沖縄返還協定調印、批准時を次のヤマ場として、一斉に武装闘争を再開した。中でも、中核派は、機関紙に「東京大暴動決起宣言」を発表し、国会審議が最大のヤマ場に差し掛かった11月14日及び19日には、それぞれ約6,000人を動員して、14日の「渋谷暴動」では火炎びんにより警察官を殺害し、19日の「日比谷暴動」ではレストランに放火して全焼させるなど、武装闘争を展開した。これに対し、警察は、合計約2,000人を検挙したため、極左暴力集団の行動力も底を突いた形となり、長期にわたる「70年闘争」は終息した。
(2) 荒れる学園
 昭和40年1月、慶応大学の授業料値上げ反対闘争に始まった学園紛争は、43年には、全国大学377校中116校に波及し、44年には、379校中173校を数え、そのうち149校でバリケード封鎖や施設占拠が行われた。
 学園紛争は、もともと「学園の民主化と改革」をスローガンに、授業料値上げ問題や学生寮、学生会館問題等学園内の個別的要求の実現を目指して始まった。ところが、42年の明大紛争、法大紛争等を契機に、極左暴力集団が、学園紛争を革命闘争の一環として位置付けて、本格的に介入し始めたことから、学園紛争は、特に、43年の東大紛争、日大紛争以後、「70年決戦に向けて大学を解体していく」ことを主眼に、その本質を一変させ、全国に波及していった。また、紛争形態も、極左暴力集団の革命の論理と暴力至上主義に立った指導の下に、バリケード封鎖や施設占拠といった過激なものに変容していった。
 学園紛争は、その多くが、紛争の過程において既成のセクトや自治会の枠を超えて自然発生的に生まれた共闘組織である大学単位の全共闘(全学共闘会議)により担われていたが、この中から、既成のセクトに属さないノンセクト・ラジカルズと呼ばれる新たな極左暴力集団が生まれた。
 このような全共闘運動に対し、既成の極左暴力集団各派は、積極的に介入、浸透を図り、次第にその主導権を握った。44年9月には、革マル派を除く主要8派が全国全共闘連合を結成し、その名の下でノンセクト・ラジカルズと共闘していった。
 また、学園紛争は、折から高揚する「70年闘争」に出撃拠点を提供する役割をも果たした。
 極左暴力集団は、「学園紛争を、学園バリケード、学園管理で闘いぬき、学園を70年安保・反帝闘争の陣地に転化しなければならない」と主張し、学園を「城砦(さい)」化するなどの「陣地戦」を繰り広げ、さらに、これを出撃拠点や武器庫として学外の「街頭戦」を展開した。当時、紛争大学の校内には、石塊や火炎びんだけでなく、鉄棒、竹やり、投石機や塩酸、硫酸等の劇薬類も隠匿、貯蔵されていた。
 「陣地戦」と「街頭戦」を結合したものとして、44年1月18、19日には、東京大学安田講堂の封鎖解除に対する「安田城死守」戦と、これに呼応した神田駿河台一帯での「カルチェ・ラタン闘争(パリの学生街カルチェ・ラタンで行われた解放区闘争を模倣したもの)」を展開した。
 しかし、警察が極左暴力集団に対する強力かつ徹底した取締りを実施したこと、大学の著しい荒廃に対して国民の批判が高まり、44年8月に「大学の運営に関する臨時措置法」が施行されたこと、これに伴い、大学当局も学園正常化のため大学の管理に乗り出し、警察に対する学内出動

を要請するに至ったことなどにより、学園紛争は急速に鎮静化し、極左暴力集団の「城砦(さい)」は相次いで崩壊した。

3 孤立化、先鋭化する極左暴力集団(昭和46年ころから54年ころまで)

 「70年闘争」は、学園紛争とあいまって、政治や社会の現状に不満を抱く多くの学生や労働者を巻き込み高揚した。しかし、極左暴力集団に同調したこれらの者も、警察の強力な取締り、火炎びんや爆弾まで登場して闘争が際限なくエスカレートすることへの危ぐ、革命を叫ぶ極左暴力集団との意識のギャップ、あるいは繰り返される派閥抗争への失望等から次第に脱落していき、極左暴力集団の勢力は、昭和44年をピークに漸減していった。また、世論の批判も厳しさを増し、極左暴力集団は、社会的にも孤立化していった。
 極左暴力集団は、このような孤立化と街頭闘争の行き詰まりの中で、闘争後退への危機感や焦燥感を募らせ、より悪質な闘争手段を取ったり、「ゲリラ」や内ゲバを専門とする非公然・軍事部門を組織したりしたが、これが更に孤立化に拍車を掛けることになった。
 また、極左暴力集団は、46年ころから成田闘争(新東京国際空港建設反対闘争)を中心的課題として、様々な集団不法行為、「テロ、ゲリラ」等を引き起こすようになった。
(1) 軍事化路線の展開
 極左暴力集団は、昭和44年を「70年闘争」のヤマ場として集団武装闘争を繰り広げたが、その皮切りの「4.28沖縄闘争」は、破壊活動防止法による幹部の逮捕、1,000人を超える大量検挙等により、ねらいとしていた霞が関地区の占拠とはほど遠い結果に終わった。共産同内部では、これを契機に、革命路線、特に武装蜂起の是非をめぐる対立が激化し、「11月武装蜂起」を主張する最左派が、同年9月、共産同赤軍派を結成した。
 同派は、結成直後から、「大阪・東京革命戦争」と称して、警察施設を襲撃したり、霞が関、首相官邸武装占拠を企図し爆弾等を準備して軍事訓練を行った「大菩薩峠事件」を引き起こしたが、大量の検挙者を出すこととなり、これらの企図は失敗に終わった。しかし、同派は、この後も武装蜂起計画に固執して、資金獲得のために金融機関を襲撃したほか、海外での革命拠点建設をねらって、「よど号乗っ取り事件」(45年3月31日)を引き起こして北朝鮮に活動家を送り込んだり(注)、その後日本赤軍を組織した重信房子らをレバノンに出国(46年2月)させたりした。
(注) 「よど号」乗っ取り犯人の1人であるAは、63年5月6日、我が国に潜伏中のところを逮捕された。
 このころ、日共革命左派神奈川県委(京浜安保共闘)も、武装蜂起路線を採って、窃取したダイナマイトを使用して数回にわたり在日米軍基地を襲撃したり(44年11月~45年9月)、銃器強奪をもくろんで派出所を襲撃したり(45年12月18日)、銃砲店を襲って猟銃を強奪したり(46年2月)していたところから、赤軍派と同派は、46年1月、盟友として共闘することを宣言し、その半年後には、両者の軍事組織を統合して、連合赤軍を組織した。
 しかし、連合赤軍は、結成直後から「大量リンチ殺人事件」や「あさま山荘事件」を引き起こし、半年あまりで壊滅した。
〔事例1〕 大量リンチ殺人事件
 連合赤軍は、武闘訓練、爆発物製造、警察施設襲撃準備等のため、山梨、神奈川、静岡、群馬等の山岳アジトを転々としていた。その間において、46年末から47年初めにかけて、連合赤軍は、群馬県下の山中において、反抗者、逃亡のおそれのある者、落伍者と判断された者を「処刑」又は「総括」の名の下に、アイスピックで突き刺す、ロープで首を締める、あるいは酷寒の屋外の立木に縛り付けて凍死させるというせい惨なリンチを加えて、総勢29人のうち12人(日共革命左派神奈川県委7人、赤軍派5人)を殺害し、さらに、証拠を隠滅するため、全裸にして山中に埋没遺棄した。
〔事例2〕 あさま山荘事件
 47年2月、山岳アジトを引き払って移動中の連合赤軍5人が、警察官に発見されたため、長野県軽井沢のあさま山荘に人質を取って立てこもり、10日間にわたって銃器や爆発物等を使用して警察部隊と銃撃戦を行ったが、全員検挙された。この事件により、一般人1人が死亡、1人が負傷したほか、警察官2人が殉職し、26人が重軽傷を負った。

 こうした非公然・軍事化路線は、次第に他セクトにも浸透していき、46年ころから、中核派等も、組織の非公然化を図り、「テロ、ゲリラ」の専門部隊として軍事部門を創設する動きをみせた。
 中核派は、47年1月1日付けの機関紙に、「人民革命軍・武装遊撃隊の建軍」を掲げ、その任務を「[1]ゲリラ的・パルチザン的武装闘争の担い手であり、[2]政治闘争の内乱的、武装的、革命的発展の援助、促進者であり、[3]反革命集団に対する武装糾察隊である」と規定している。
 革労協は、47年10月に「プロレタリア突撃隊」を登場させ、その後、これを「プロレタリア統一戦線戦闘団」と改称したが、その任務として、「対権力ゲリラ戦攻撃」と「プロレタリア革命運動に敵対する諸勢力に対して軍事的に対決する」ことを掲げている。
 革マル派も、48年初め、非公然・軍事組織「特別行動隊」を結成した。
(2) 荒れ狂う爆弾闘争
 「70年闘争」において、武装闘争路線を突っ走った極左暴力集団は、昭和44年には、ついに爆弾の製造、使用にまで踏み込んだ。
 極左暴力集団の中でも、最も過激な路線を採っていた共産同赤軍派、中核派、日共革命左派神奈川県委等は、この年、「10.21国際反戦闘争」、「11.13~11.17 総理訪米阻止闘争」等において、51件に及ぶ爆弾の使用、所持事件を引き起こした。このころの爆弾は、威力も弱く、不発が多いなど技術的にも稚拙であり、その使用目的も、爆発により世間の注目を集めることに主眼が置かれていた。
 しかし、46年6月に至り、共産同赤軍派は、「明治公園爆弾投てき事件」を引き起こし、爆弾を人を殺傷する目的で使用した。
〔事例〕 明治公園爆弾投てき事件
 46年6月17日、都内明治公園で開催された、中核派、第四インター日本支部等の「沖縄返還協定調印反対闘争」の集会において、潜入していた共産同赤軍派が、警察部隊に向かって鉄パイプ爆弾を投げ、一瞬のうちに警察官37人に重軽傷を負わせた。
 これ以後、極左暴力集団による爆弾事件が多発したほか、その使用目的も対人攻撃的色彩が強くなった。また、このころから、黒ヘルグループと呼ばれるノンセクトの集団も爆弾闘争へと走っていった。この年(46年)には、小包爆弾を郵送し、夫人を殺害した「警視庁警務部長宅爆破殺人事件」(12月18日)やクリスマスツリーに偽装した爆弾を派出所に仕掛けた「警視庁追分派出所クリスマスツリー爆弾事件」(12月24日)等の黒ヘルグループによるもののほか、合計62件の爆弾事件が発生した。
 46年を第1次のピークとして、爆弾闘争は、一時鎮静化していたが、49年8月30日の「三菱重工ビル爆破事件」により、再び本格化した。
〔事例〕 三菱重工ビル爆破事件
 49年8月30日、黒ヘルグループの東アジア反日武装戦線「狼」が、「帝国主義者=植民地主義者を処刑する」と呼号して、白昼、東京丸の内にある三菱重工本社ビルの正面玄関前に2個の時限式ペール缶爆弾を仕掛けて爆発させ、通行人等8人を殺害し、380人に重軽傷を負わせた。これは、現在まで、爆弾事件としては最大の被害をもたらしたものとなっている。
 なお、50年5月19日、同構成員5人は一斉に検挙された。

 東アジア反日武装戦線「狼」は、自らその爆弾闘争の先陣を切るとともに、爆弾製造方法等を記した「都市ゲリラ兵士読本VOL.1腹腹時計」を地下出版するなどしたことから、極左暴力集団による爆弾闘争は、再び高まりをみせ、威力等の点において大型化、高性能化するとともに、従来とは異なり大衆闘争の高揚といった客観的情勢とは無関係に、また、一般人を巻き込んで無差別に行われるようになった。
 49年と50年の2年間においては、爆弾事件は37件発生し、人的被害は、死者14人、負傷者432人に及んだ。
 しかし、この2年間に30人に及ぶ爆弾犯人を検挙し、公開指名手配等強力な捜査を推進した結果、爆弾闘争も下火となり、54年10月の「第2ハザマビル工事事務所爆弾事件」を最後に、鎮静化した。
(3) 陰惨、悪質化する内ゲバ
 革命勢力各派には、共通して、自派の革命理論、戦術方針こそが唯一正しく、他派は革命を妨げ、混乱させる有害な勢力(反革命勢力)であるとする考えがある。内ゲバ(注)は、このような考えに根ざす党派闘争が暴力抗争の形態を取ったもので、昭和36年ころから、全学連の主導権争い等をめぐって、極左暴力集団相互が角材等を用いて集団乱闘を繰り広げるという形で始まった。さらに、43年ころからは、激化する学園紛争の主導権を争って、極左系学生と日本共産党系学生との間で多発した。
(注) 内ゲバとは、極左暴力集団を当事者(一方又は双方)として発生した暴力抗争事件をいう。
 しかし、学園紛争と「70年闘争」がヤマ場を越えた45年から、再び、極左暴力集団相互間の内ゲバが増加した。特に、中核派と革マル派との間では、中核派が革マル派の東京教育大生にリンチを加え殺害した事件(45年8月)、革マル派が中核派の早大生にリンチを加え殺害した事件(47年11月)を契機に抗争が激化し、さらに、革労協が対革マル派戦に参加するに及んで、革マル派対中核派、革マル派対革労協という図式が定着し、互いに報復を叫んで、凶悪な内ゲバを繰り返すようになった。
 この時期に内ゲバが激化した原因としては、70年安保という大目標に向け対立感情を抑制してきた極左暴力集団各派が、共通の目標を失って、その対立を一気に表面化させたこと、集団武装闘争のエスカレートの中で流血を伴う暴力抗争にも抵抗を感じなくなったことなどを挙げることができる。
 この間、極左暴力集団は、内ゲバを正当化するため、これを革命闘争と位置付け、内ゲバは革命達成に不可避で、それを遂行することは崇高な義務であり、相手セクトの「完全せん滅」なくして革命の勝利はないなどと主張した。
 そして、48年1月、東京都豊島区の喫茶店で、革マル派が中核派の政治局員を襲った事件以後、特定の活動家の殺害や再起不能をねらった事件が増加し、個人「テロ」の様相を強めた。
 この間の内ゲバの特徴としては、
○ 非公然・軍事部門を投入し、襲撃対象の動静を事前に徹底的に調査した上襲撃に及ぶなど、犯行が極めて計画的であること
○ 使用凶器が、鉄パイプ、バール、おの、とび口、刃物とエスカレートし、しかも、主要な凶器である鉄パイプを携行に便利なように伸縮式に改良し、ボストンバッグ等に隠すなど、凶器の携行方法も巧妙化したこと
○ 相手方活動家を再起不能に陥れるように、頭部をはじめ、足、腕の関節部をねらうといった事案が増加したこと
などが挙げられる。
 49年から50年にかけて内ゲバは頂点に達し、革マル派が「中核派書記長殺人事件」を引き起こすなど、この2年間で、死者31人、負傷者1,150人を数えた。
〔事例〕 中核派書記長殺人事件
 50年3月14日未明、埼玉県川口市内のアパートにおいて、鉄パイプ、まさかり等を持って侵入した革マル派十数人が、就寝中の中核派書記長の頭部等を殴打し、即死させた。
 革マル派は、事件後の3月28日、記者会見で、「中核派解体闘争における勝利を最後的に確認」したなどと「内ゲバ停止宣言」を発表した。これに対し、中核派は、革マル派に対する無差別報復を宣言し、「全面戦争」に突入した。
 その後、関係セクトが内ゲバに備えて防衛を強化したことや、内ゲバを短期決戦ではなく長期戦としてとらえ、組織整備に力を注いだことなどから、51年以降、件数的には減少傾向をみせたが、52年にも、革マル派による「革労協書記長殺人事件」や革労協による「浦和市内ゲバ殺人事件」等が発生し、10人の死者を出すなど、その凶悪さは依然として変わらなかった。
〔事例〕 浦和市内ゲバ殺人事件
 52年4月15日、革労協約10人は、革マル派4人が乗車して走行中の車に対し、トラックで進路をふさぐとともに、後方から普通貨物自動車を追突させて停車させ、つるはしで金網付窓ガラスを破壊した上、車内にガソリンを注入点火して炎上させ、車内の4人全員を殺害した。
(4) 混迷する成田
 極左暴力集団は、昭和42年以来、成田闘争に一貫して取り組み、特に、「70年闘争」の終息後は、これをすべての闘争の中心に据え、様々な集団不法行為や暴力的破壊活動、悪質な「テロ、ゲリラ」を引き起こした。
 新東京国際空港は、37年11月、その構想が打ち出され、41年7月4日、成田市三里塚を中心とする地区に建設することが正式に決定された。これに対し、地元成田市及び芝山町の農民を中心に建設反対運動が起こり、7月20日には、三里塚芝山連合空港反対同盟が結成された。反対同盟は、土地買収を困難にするための一坪運動を展開し、さらに、予定地内に「団結小屋」を建て、これを闘争のシンボルとして反対運動の盛り上げを図った。このようにして始まった成田闘争は、元来は、「無抵抗の抵抗で土地を守る」という考えに基づいたものであった。
 一方、当時、ベトナム戦争の激化と安保条約改定時期の接近に伴い、反戦闘争を強化していた極左暴力集団は、新東京国際空港を「日帝の海外侵略基地」、「軍事空港」等ととらえ、建設反対闘争を「現地農民の死活の闘いのみでなく、日米安保同盟粉砕を闘いとらんとする労働者階級自らの闘い」等と位置付け、成田闘争に参加していった。極左暴力集団の成田闘争への取組は、42年9月1日、反対同盟主催の集会に極左系の全学連委員長らが参加し、共闘を申し入れたのが最初であり、その後、集会への参加、援農等を通じ、反対同盟と極左暴力集団の共闘関係が強まり、43年には、中核派をはじめとする各派が、現地に「団結小屋」を作って常駐しながらの闘争へと発展していった。
 「帝国主義打倒の立場以外に闘いを支えるものはない」とする極左暴力集団の介入により、成田闘争は、次第にエスカレートの一途をたどった。極左暴力集団は、成田現地への動員を強めるとともに、ヘルメット、角材、石塊、火炎びん等で武装し、集団武装闘争を展開するなど闘争戦術を凶悪化させた。
 そして、46年9月16日から20日の滑走路用地内団結小屋3箇所等に対する第2次代執行に対し、極左暴力集団等は、延べ約1万5,000人を動員して火炎びん等を使用した激しい反対闘争を行い、9月16日には、警備中の機動隊を襲撃して、3人の警察官を殺害した。極左暴力集団は、その後も、建設の進む空港に火炎車を突入させたり、警備中の機動隊に火炎びんを投てきしたりするなどの暴挙を繰り返し、52年5月9日には、芝山町長宅前派出所を襲撃して、警察官1人を殺害した。
 新東京国際空港は、このような反対闘争の激化、長期化により工事が大幅に遅れたものの、53年3月30日開港予定となった。
 しかし、開港予定日を目前にした53年3月26日には、極左暴力集団約6,000人を含む約1万人が、成田現地に結集して開港阻止闘争に取り組み、特に、第四インター日本支部を中心とする約300人が、改造トラックや火炎車を使って、空港内への突入を図るとともに、別働隊約15人が、地下の排水溝を伝って空港構内に潜入した上、管制塔内に乱入して機器類を破壊するなど、常軌を逸した「ゲリラ」行動を繰り広げ、開港を一時延期のやむなきに至らしめた。
 新東京国際空港は、このような経緯を経て、53年5月20日開港したが、極左暴力集団は、その後も、成田闘争を日本の革命運動を進める上での中心的課題として、引き続き過激な闘争に取り組んでいる。
 一方、反対同盟は、結成当時約1,500戸が加盟し、かなりの動員力を有していたが、条件闘争派への移行、買収受諾者の移転や世代交代等によってその動員力も漸減し、空港開港後は、その勢力は急速に衰えた。さらに、闘争の進め方をめぐって内部対立が深まり、58年3月8日、反対同盟は、北原(事務局長)グループと熱田(行動隊長)グループに分裂した。これに伴って、極左暴力集団も、中核派、革労協狭間派等が北原グループを、第四インター日本支部、戦旗・荒派等が熱田グループをそれぞれ支援することになり、分裂以降の成田闘争は、両者が互いに競う形で取り組まれるようになった。

4 「テロ、ゲリラ」の悪質、巧妙化(昭和55年ころ以降)

 昭和46年ころから、極左暴力集団は、集団武装闘争から「テロ、ゲリラ」を主体とした戦術に転換したが、この「テロ、ゲリラ」路線も、爆弾闘争グループの相次ぐ検挙や新東京国際空港開港等による闘争主眼の喪失等により、54年ころには行き詰まりをみせた。
 「ゲリラ」事件の発生件数をみると、53年には128件を数えていたが、54年には60件、55年には23件に減少した。また、爆弾事件は、55年から59年までの5年間、全く発生をみなかった。
 しかし、これらの表面的現象は、決して極左暴力集団の衰亡を意味していたのではなく、極左暴力集団は、この間、組織、体制の再編、整備、勢力拡大を優先した長期展望に立ち、非公然・軍事組織の強化と新たな武器の開発に力を注いだのである。
 このような期間を経て、中核派をはじめとする極左暴力集団は、59年から再び活動を活発化させ、多数の新たな「テロ、ゲリラ」を引き起こしており、60年には、爆弾闘争を再開し、60年10月には成田闘争において火炎びん等を使用した集団武装闘争を再び展開するなど、新たな動きを示している。(なお、この時期の内容については、「第2節 極左暴力集団等の現状」で記述している。)

5 日本赤軍の変遷とこれまでの国際テロ情勢

(1) 日本赤軍の結成
 日本赤軍は、極左暴力集団の1セクトである共産同赤軍派の「国際根拠地建設」構想(注)に基づき、昭和46年2月レバノンに向けて出国した重信房子らによって、組織された。
 当時、赤軍派の幹部であった重信は、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と接触し、その支援を受けて、赤軍派の国際根拠地としての「赤軍派アラブ支部」を設立した。
 「赤軍派アラブ支部」は、46年11月、日本国内の赤軍派と決別し、独立の組織として、日本国内に対し「アラブ赤軍」と名のり、独自の行動を取り始めた。
(注) 「国際根拠地建設」構想とは、日本革命を達成するため、社会主義国に根拠地を建設し、そこから日本に逆上陸して、武装蜂起を決行するという構想である。
(2) 日本赤軍の変遷
 「アラブ赤軍」は、昭和47年5月、B、C、岡本公三の3人で、イスラエル・テルアビブのロッド空港を襲撃して、死者24人、重軽傷者76人を出すという事件を引き起こし、B、Cはその場で死亡、岡本は逮捕された。さらに、48年7月には、パレスチナ・ゲリラとともに「アムステルダム上空日航機乗っ取り事件」(ドバイ事件)を引き起こした。
 その後、「アラブ赤軍」は、活動資金獲得のため、在ヨーロッパの日本商社の幹部等を誘拐し、身の代金を強奪する計画を立て、同計画を「翻訳作戦」と名付けて、49年初めころから、調査活動、旅券偽造、武器の調達等の準備を進めた。しかし、同年7月、フランス・パリのオルリー空港で、メンバーの1人が偽造旅券、偽造米ドル所持で逮捕されたのを端緒に、関係者が逮捕、国外追放されるという「パリ事件」が起こり、この作戦は失敗に終わった。これに対し、同年9月、「在ハーグ・フランス大使館占拠事件」(ハーグ事件)を引き起こし、「パリ事件」で拘禁中のメンバー1人を釈放させた。
 49年11月、「アラブ赤軍」は、それまで日本国内に対しては「アラブ赤軍」、国外に対しては「日本赤軍」と使い分けていた名称を「日本赤軍」に統一した。そして、引き続き「在マレイシア米国大使館占拠事件」(クアラルンプール事件、50年8月)や「インド・ボンベイ上空日航機乗っ取り事件」(ダッカ事件、52年9月)を引き起こして、人質と交換に我が国で在監、勾留中の日本赤軍や赤軍派の関係者をはじめとする11人を釈放させるなど、武装闘争を繰り広げた。なお、両事件により釈放された 東アジア反日武装戦線関係者及び殺人犯は、その後、日本赤軍に参加した。
 日本赤軍の引き起こした主な事件は、表1-1のとおりである。また、クアラルンプール事件及びダッカ事件により釈放された主要な人物の釈放時における処分状況は、表1-2のとおりである。

表1-1 日本赤軍による主な事件

表1-2 釈放時の処分状況(クアラルンプール事件及びダッカ事件)

(3) 国際テロ
 数年前までの国際テロは、中東や中南米、西欧等のほか、我が国出身の一握りのテログループによるものがほとんどであった。
 中東に関しては、昭和43年のPFLPによるエルアル航空機ハイジャック事件にみられるように、PLO(パレスチナ解放機構)内の様々な分派やイスラム過激派等が各地で国際テロ事件を引き起こしていた。また、西欧に関しては、ユーロ・テログループと言われる「直接行動(フランス)」、「西独赤軍」、「赤い旅団(イタリア)」等が主として西欧でテロ事件を引き起こしていた。中南米では、経済不況による貧困とそれに伴う政情不安を背景としたテロ事件が発生していた。
 こうしたテロ情勢に対し、主要国首脳会議においても、53年以降、数次に及ぶテロリズムに関する声明が出されるなど、国際社会でも国際テロに関心が寄せられるようになった。
 しかし、こうした中にあっても、最近に至るまで、我が国は日本赤軍を除いては国際テロとは比較的無縁であるとみられていた。


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