「角福」調整に腐心、衆院議長に
「いぶし銀の調整役」保利茂(8)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕
1972年(昭和47年)7月の自民党総裁選では佐藤栄作首相、保利茂幹事長が推す福田赳夫が敗れて田中角栄が新総裁になった。福田は第1回投票で1位になり、佐藤首相の調整で2位の田中を降ろす作戦を立てたが、長期政権で余力を使い果たした佐藤首相にそのような力はなかった。田中は中曽根派の支持を得て第1回投票で1位となり、決選投票では大平派、三木派の支持を得て圧勝した。この総裁選で保利は佐藤派内の福田支持グループを集めて「周山クラブ」を6月19日に結成した。
「周山クラブ」結成し、福田派に合流
メンバーは坪川信三、塚原俊郎、細田吉蔵ら保利側近や松野頼三、瀬戸山三男、大橋武夫、増田甲子七、西村直己ら24人。周山クラブは総裁選直後の7月8日、福田派に合流した。保利派の結成を期待していた坪川、塚原、細田らは落胆したが、保利は「これからは福田君をもり立ててやってほしい」と淡々としていた。保利はすでに70歳を超えており、いまさら派閥をつくる気はなかった。
派閥をつくるということは首相をめざし資金を集めて子分を養うことである。「政界の脇役」を任じてきた保利はあえてそうしたことをしなかった。保利にも親しい財界人はいた。新日鉄の永野重雄、日本精工の今里広記とは特に親しく、2人を幹事とした財界人の集まり「二火会」を持っていた。しかし、保利は無理なカネ集めはせず、生活もいたって質素であった。保利の趣味はゴルフ、マージャン、囲碁で、保利の周囲には人望を慕う坪川、塚原、細田、田中派の金丸信らマージャングループの側近が常に集まっていた。
田中内閣は発足早々、日中国交回復を成し遂げたが、昭和48年のオイルショックで物価と地価が急騰し、国民生活は不安定にさらされた。対策に忙殺されていた愛知揆一蔵相が急死し、その後任には田中首相と総裁の座を激しく争った福田がインフレ克服の切り札として起用された。この内閣改造で保利も福田蔵相の介添え役として行政管理庁長官で入閣した。保利の役割は深いシコリを残す田中・福田の調整役であった。
このころから保利は「自民党の乱れは国の乱れ」と思い定め、田中と福田の関係調整こそ自分の役目と心中深く期していた。それは佐藤政権末期に佐藤から福田への円満な政権移行に失敗し、田中と福田による血みどろの「角福戦争」につながったことへの深刻な反省があったからである。
1974年(昭和49年)7月の参議院選挙で自民党は「金権選挙」の批判を浴びて結果は不振だった。その直後に三木武夫副総理・環境庁長官が「党改革に専念したい」として辞任した。三木の地元・徳島に田中首相が側近の後藤田正晴を公認候補として立て、三木派の現職議員が無所属で戦った「三角代理戦争」が背景にあった。三木辞任に続いて福田蔵相辞任の動きが表面化し、保利は福田に辞任を思いとどまるよう必死に説得した。
保利の主張は「田中の政治手法に疑問があるのは分かるが、ここは我慢して田中に協力すれば、君の政権の道が開けるし、国民も安心する。君が三木君と一緒になって田中君と争えば、党は混乱して国民にも迷惑をかける。ここは辛抱して自重すべきだ」という趣旨である。福田は田中の金権体質に強い危機感を持っていた。「田中流の金権政治は一日も早く終止符を打つべきだ。そうでないと自民党が国民から見放される」。3日間にわたった保利と福田の会談は、どこまで行っても平行線であった。福田派内では代貸し格の園田直を中心に主戦論が高まっていた。
福田説得に失敗した責任をとり保利は福田辞任に先立って田中首相に行管庁長官の辞表を提出した。三木、福田の相次ぐ辞任で田中政権は危機に陥った。追い打ちをかけるように雑誌・文芸春秋が田中の金脈問題と越山会の内情を暴露する特集記事を掲載した。田中首相は精神的にも追い詰められ、10月25日の河野謙三参議院議長との会談で辞意を漏らし、政権を椎名悦三郎副総裁に預けたいとの意向を示唆した。
保利は11月3日、静岡県須走の別荘に椎名副総裁を訪ねて会談した。保利と椎名はそれまで疎遠だった。会談を仲介したのは田中派の金丸信と中間派の田村元である。保利は「ここは一つご奮発を願って事後の収拾にあたっていただきたい。私もお手伝いすることがあれば何でもします」と椎名に政権担当を強く勧めた。椎名が健康問題で躊躇(ちゅうちょ)すると「鳩山さんをご覧なさい。再起不能とまで言われたあの不自由な体を引きずってソ連まで行ったじゃないですか。いま党の状況は重大で、国難のときです。体のことを言っておられますか」と説いた。
椎名裁定で保利の名も
この会談をセットした金丸と田村には「椎名が健康問題で固辞するなら、そのときは保利でよろしく」との期待が込められていた。椎名副総裁は保利の説得で一時は政権担当の気になった。保利は田中首相に会ってフォード米大統領の来日前の内閣改造では椎名を次期首相含みで副総理に起用するよう進言したが、「椎名副総理説」は大平正芳蔵相の強い反対で実現しなかった。田中首相はフォード大統領離日後の11月26日に正式に退陣を表明し、後継総裁は椎名副総裁の調整に委ねられることになった。
椎名副総裁と福田、大平、三木、中曽根康弘の実力者が一堂に会する協議が始まった。このうち中曽根は後継候補から降りて椎名の補佐役に回った。後継候補は福田、大平、三木の3人だったが、椎名は3人以外にも保利、前尾繁三郎、灘尾弘吉の長老3人も候補者として検討した。保利周辺では坪川、金丸、田村らが「保利暫定政権」で田中派や中間派への根回しを精力的に進めていた。保利も自分にお鉢が回ってくる事態になればあえて拒まず、という心境だったと見られた。
椎名が下した裁定は意外にも「後継は三木武夫」であった。保利も金丸らも三木だけは全く予想しておらず不意をつかれた感じであった。首相をめざしてきたわけではない保利にとってこのとき一瞬、政権に手がかかりそうになり、その機会は一瞬にして過ぎ去った。三木内閣ができて間もない昭和50年1月、保利は中国を訪問し、周恩来首相、トウ小平副首相と相次いで会談した。訪中は「保利書簡」以来の念願を果たしたものであった。
1976年(昭和51年)2月、ロッキード事件が明るみに出てロッキード社から収賄した「政府高官」に注目が集まり、三木首相は世論に向かってロッキード事件の徹底究明を強調した。こうした三木の姿勢に批判的な椎名副総裁は5月に入ると田中、福田、大平の実力者や保利と相次いで会談し、三木首相に退陣を求めていくことで一致した。7月26日に田中角栄が逮捕されると、田中派の三木に対する憎悪が爆発した。8月15日、田中派、福田派、大平派、中間派の議員277人で「挙党体制確立協議会」(挙党協)が結成された。保利は船田中とともに代表世話人になり、三木降ろしの先頭に立った。
大福一本化の密約
自民党内の7割を固めた挙党協を背景に福田副総理と大平蔵相が三木首相と会談し、速やかな退陣を求めたが、三木は退陣要求をかわして秋の臨時国会で解散する構えを見せた。挙党協は臨時国会召集に強く反対し、三木と挙党協の対立は一段と激化したが、土壇場で中曽根幹事長が「臨時国会は開くが解散はしない」と収拾案を示し、保利ら挙党協もこの線でいったん妥協した。粘る三木を退陣させるには後継候補を福田と大平の間で一本化することが不可欠であった。
保利は「大福一本化」工作に乗り出した。保利と福田の関係は冷却化していたが、金丸信が二人を仲介して保利・福田会談が実現した。常識的に見て次期首相は福田、その後が大平の順である。保利は大平の側近・田中六助を招いて大平説得を依頼した。田中六助は4日続けて大蔵大臣室を訪ねて大平を説得した。保利がゴルフをしながら大平と会談したのは10月10日である。この間、田中派の西村英一を通じて田中角栄の意向も確認した。10月27日、品川のパシフィック・ホテルで保利と福田、大平、園田直、鈴木善幸が会談し、その席上で2年交代を示唆する大福一本化のメモが読み上げられ、保利が立会人となって文書に福田、園田、大平、鈴木の4人が署名した。
この大福一本化が決め手となって三木首相は昭和51年末の衆議院任期満了選挙後に退陣し、後継首相には福田が円満に選出された。保利は衆議院議長に就任した。任期満了選挙の結果、参議院に続いて衆議院も与野党伯仲状態となり、国会運営の困難な舵取りは保利の手腕に託された。同時に保利の役割は福田から大平への円満なバトンタッチを見届けることであった。
保利議長は側近の金丸議院運営委員長とコンビを組み、話し合い重視の円満な国会運営を心がけた。野党も保利の重厚な人柄に敬意を払い、保利の議長在任中は与野党伯仲状況だったにもかかわらず、国会運営は極めてスムーズに運んだ。保利の懸念は別のところにあった。福田首相の周辺から衆議院の解散論が流れたことである。衆議院を解散して長期政権をめざすのは大福一本化の合意から逸脱していた。保利は解散論をけん制するため「解散権の恣意的な乱用は好ましくない」と繰り返し述べるようになった。これに対して「吉田内閣の抜き打ち解散の当事者である保利にそのようなことを言う資格はない」との反論もあった。
解散権めぐり「保利見解」
保利の死後に文書の形で公表された解散権に関する「保利見解」は次のような趣旨である。解散権は首相の専管事項であり、憲法7条による解散は当然可能だが、その運用は憲法69条に規定された内閣不信任案の可決ないしは内閣信任案の否決とほぼ同じような事態、すなわち重要法案の否決などで政局が行き詰まった場合と、前回総選挙で与野党が想定していなかった新たな重要課題が争点に浮上して国民の判断を仰ぐ必要がある場合に限られるべきで、恣意的な解散権の行使は好ましくない、とするものであった。
福田首相周辺の解散論は昭和53年春を過ぎるころには下火になった。保利議長は懸案の日中友好平和条約の締結について福田首相の決断を促してきた。その日中条約も同年8月12日に調印となり、保利は一安心した。残りの使命は同年11月の総裁選で福田から大平への円満なバトンタッチを見届けるだけであった。
しかし、大福2年交代の密約は守られなかった。福田首相側近の安倍晋太郎、中川一郎、石原慎太郎らは強硬に福田の総裁選出馬を主張した。福田はそうした主戦論を抑えきれず、自身も翌年の東京サミットまでは政権にとどまりたいとの希望もあって10月24日、大平幹事長に「周囲の事情から出馬するのでよろしく」と電話連絡した。総裁選告示の11月1日、福田と大平が出馬のあいさつに訪れた。福田に対して保利は「私は2年前のことに責任を感じている」と厳しい表情で対応したが、大平には温かく激励した。保利はこの2年間、幹事長として黙々と福田政権に協力してきた大平を高く評価していた。
総裁選告示の翌日、保利は体調悪化で入院した。肝臓がんに侵されていた。病床で大平の総裁選勝利を見届け「大平総裁でわたしの使命は終わった。大平の門出はわたしがやってやらなきゃ」とつぶやいた。12月7日の首相指名選挙では病を押して議長席についた。昭和54年1月の施政方針演説と各党代表質問が終わると、保利は衆議院議長を辞任した。そして同年3月4日に永眠した。78年の生涯だった。保利は死の直前に「目的地が近づいたようだ。厳しい旅だった」と漏らしたという。
保利茂は「百術は一誠に如かず」をモットーに政治活動に打ち込んできた。「寝業師」「策士」の風評もあったが、晩年は誠実で重厚な人柄が高く評価され、与野党の枠を超えた人望を集めて「名議長」と評された。保利の自民党葬で大平首相は「保守党の守護神」と賛辞を贈った。保利の存在が角福戦争の一定のブレーキ役となっていたことは間違いない。保利の死後半年を経過すると、調整役を失った自民党は再び大平・田中連合軍と福田・三木連合軍による血みどろの党内抗争に見舞われることになる。=敬称略
(終わり。次回からは前尾繁三郎です)
保利茂著「戦後政治の覚書」(75年毎日新聞社)
岸本弘一著「一誠の道」(81年毎日新聞社)
保利茂伝刊行委員会編「追想保利茂」(85年同刊行委員会)
※3枚目の写真は「一誠の道―保利茂写真譜」(80年保利茂伝刊行委員会)より
関連企業・業界