57歳で初当選、岸内閣の官房長官に
「飄逸とした仕事師」椎名悦三郎(3)
政客列伝 特別編集委員・安藤俊裕
1945年(昭和20年)8月15日、椎名悦三郎は軍需次官として終戦を迎えた。「敗戦と同時に一も二もなく辞めるつもりだった。次官として相当の責任を負ってやってきたのだし、責任の上でもやる気という点でも、もう即座に辞任する以外にないという心境だった」が、東久邇宮内閣の軍需大臣になった中島知久平から「辞めるのは軍需省を平時体制に戻してからにしてくれ」と強く押しとどめられた。
公職追放、企業経営に失敗
8月26日、軍需省は廃止されて商工省が復活し、椎名は中島商工大臣の下で再度商工次官になった。軍需省に在籍していたすべての軍人を整理し、戦後の経済再建に当たる新しい商工省の組織作りと人員配置に取り組んだ。こうした仕事も一段落したので東久邇宮内閣の退陣に合わせて10月12日に商工次官を辞任して官界から身を引いた。A級戦犯容疑者の逮捕が続々と始まり、椎名の兄貴分だった岸信介もA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に逮捕・収容された。
椎名は逮捕されなかったが、「軍部の走狗」と見られても仕方がないという自覚と反省はあった。当時、自宅のあった鎌倉から電車で東京に出て友人・知人と会って情報交換を行い、夜は料理屋で酒を飲む日々が続いた。仕事もなく肩身は狭かったが、商工省の後輩の世話や親しかった経済人からの援助などもあり、経済的には比較的恵まれた境遇にあった。岳父の世話で東京・銀座の一角に事務所も構えた。この間、久しぶりに水沢に帰省し、夫人の実家がある神戸・大阪にも旅行した。巣鴨にいる岸信介には衣料などをこまめに差し入れた。
椎名も米国人検事からしばしば取り調べを受けた。主として岸の満州国時代の行動を聞かれたが、椎名は岸に不利な証言は一切しなかった。椎名は1947年(昭和22年)11月、正式に公職追放になった。岸信介は昭和23年12月、不起訴処分となって巣鴨拘置所から釈放され公職追放になった。公職追放といっても民間会社の社長になることは制限されなかった。
椎名悦三郎は昭和22年11月、郷里の人々の強い要請を受けて盛岡市に本社がある東北振興繊維工業株式会社の取締役社長に就任した。この会社は戦前、東北救済のために設立された国策会社・東北興業株式会社の衣料生産部門の子会社で、戦時中は陸軍の監督工場となり軍服や毛布などを生産していた。戦災を免れて主力の盛岡工場や山形工場は機械、設備とも健在で原材料の在庫も豊富にある恵まれた会社であった。翌年3月には東北毛織株式会社に社名を変更した。
会社の関係者は椎名に東京での顔を生かして融資や許認可で動いてくれればいい、あとは社長のイスに黙って座っているだけでいいと考えていた。しかし、椎名は社長になる以上はこの会社を一流の繊維会社にしようと考え、繊維工業の先進県である滋賀県や愛知県の工場を見て回り研究を重ねた。東北毛織は紡毛の設備しかなかったが、椎名は一流の繊維会社になるためには梳毛工場を造って洋服地やワイシャツ地も製品化する必要があると判断した。大東紡の東京・金町工場を買収し、梳毛の機械を買い入れて新たな技術者を雇い入れた。膨大な設備資金を必要としたが、復興金融公庫の融資をあてにしていた。
ところが、昭和24年のドッジラインの実施で復興金融公庫の融資が打ち切られ、椎名は銀行や友人・知人を駆け回って融資や出資をかき集めた。昭和25年の朝鮮戦争の特需で繊維業界は沸き返ったが、東北毛織はこの波に乗り遅れた。ようやく生産された梳毛製品は技術水準が十分でなく品質が伴わなかった。朝鮮特需の反動で不況になると東北毛織の資金繰りは一気に悪化した。手形の決済期限が迫る度に銀行を必死になって駆けずり回る日々が続いた。
公認得られず初陣は惨敗
1951年(昭和26年)6月、椎名は公職追放解除になった。多くの戦前派の政党人や大物官僚が政界入りをめざして動き始めていたが、椎名はそれどころではなかった。会社の危機を回避するため銀行、日銀、通産省などを走り回ったが、ついに万策尽きて昭和27年5月、東北毛織は会社整理法の適用を受けて経営破綻し、椎名は同年7月に社長を辞任した。その直後に心労から体調を崩して病床に伏すことになった。東北毛織はその後呉羽紡に吸収された。同年8月、吉田茂首相は抜き打ち解散を断行して10月に総選挙が行われたが、椎名は立候補さえできなかった。
椎名は終戦直後からいずれは政界で働きたいという思いを胸に秘めていた。日本の惨めな敗戦に道義的責任を感じ、反省もしたが、同時にそれまでの行政経験を生かして日本の復興・再建に何としても貢献したいとの思いが強かった。企業経営に失敗して昭和27年の総選挙には出られなかったが、次こそはと心中期すものがあった。そのチャンスは意外に早く訪れた。昭和28年3月のバカヤロー解散である。椎名は全く選挙の準備ができていなかったが、とりあえず兄貴分の岸信介に出馬を相談した。
公職追放解除になった岸は前年の総選挙で「日本再建連盟」という政治団体を率いて戦ったが、惨敗を喫した。傷心を癒す欧州旅行中に実弟の佐藤栄作自由党幹事長からの電報でバカヤロー解散を知り、急拠帰国して佐藤幹事長の計らいで自由党公認を得て山口県第2区から出馬した。自分の選挙で手いっぱいだった岸は椎名に「佐藤に相談してみろ」とアドバイスした。椎名は佐藤幹事長と会って自由党の公認を申請したが、佐藤は「小沢君に話してみてくれ」と素っ気ない対応だった。当時の自由党の選挙対策責任者は椎名と同じ水沢出身の小沢佐重喜であった。
小沢は水沢の貧農の出身で筆舌に尽くしがたい苦学力行を重ねて弁護士となり、戦前の東京市会議員を経て戦後第1回の総選挙で当選し、水沢に盤石の地盤を形成して連続当選を重ねていた。吉田首相に重用され、すでに運輸大臣、郵政大臣と閣僚を2回も経験していた。その小沢が同じ水沢出身の椎名を公認するはずがなかった。小沢は「無理だからやめろ。とても公認はできない」と言った。岩手県第2区は小沢のほか、現職の浅利三郎、元職の高田弥市の3人の自由党公認が決まっていた。改進党からは椎名が中学時代に書生として世話になった志賀和多利の甥に当たる志賀健次郎が一関を地盤に当選を重ねていた。左派社会党の北山愛郎も労組の固い支持があった。
椎名は昭和28年4月の総選挙に「今回は旗を立てるのが目的だから」と勝敗を度外視して無所属で岩手県第2区に出馬した。地盤も看板もない苦しい選挙だった。結果は定員4人で左社の北山が6万票余りで1位、2位が自由党の高田、3位が改進党の志賀、4位が自由党の小沢で4万6451票。次点は自由党の浅利で4万3696票。椎名の得票は1万2823票で泡沫候補並の惨敗であった。椎名陣営は選挙の素人が多く、選挙違反容疑で椎名も警察から追及されたが、逃げ切って不起訴になった。
昭和29年に入ると政局は激しく動いた。11月に鳩山一郎を総裁とする日本民主党が結成され、自由党の岸信介は民主党結成に参加して幹事長になり、一気に政界の中枢に躍り出た。吉田自由党内閣は総辞職に追い込まれ、同年末には鳩山民主党総裁が左右社会党の協力を得て首相に指名された。鳩山首相は左右社会党との約束に従って昭和30年1月に衆議院を解散した。鳩山民主党の選挙の指揮をとったのは岸幹事長である。椎名は民主党公認候補となり、岸幹事長の物心両面にわたるテコ入れを受けた。
民主党は「鳩山ブーム」に乗って勢いがあった。椎名の岩手県第2区の地盤は弱かったが、与党の公認候補だったので資金も豊富に集まり、鳩山ブームにも乗ってこの選挙で最下位当選に滑り込んだ。自由党の小沢がトップで2位が民主党の志賀、3位が左社の北山で民主党の椎名は4位。次点の自由党の高田との差はわずか1500票だった。57歳の初当選は政治家としては異例の遅咲きである。
当選2回生の「大物官房長官」
椎名が初当選した年の11月に民主党と自由党が合同して自由民主党が発足した。岸は引き続き幹事長となり、政権党の中枢を担った。保守合同後、椎名は緒方竹虎の人物と清廉さに注目して兄貴分の岸幹事長に「緒方さんに全面的に協力した方がいい」と進言したが、緒方は昭和31年1月に急死した。椎名は後に「緒方さんが生きていたら、その後の日本の政治はだいぶ変わっていただろう」と述べている。
岸幹事長はポスト鳩山を争う昭和31年末の総裁選に出馬し、決選投票で石橋湛山に僅差で敗れた。しかし、石橋首相は昭和32年2月、病気で退陣し、岸が後継首相・総裁になった。岸政権下で椎名は自民党経理局長になった。岸派の代貸しである川島正次郎幹事長から「君は経済界に一応の信用がある。それを正当に行使してもらえれば、それでいいのだ。オレのたっての頼みだ」と言われて引き受けた。政治資金を担当する経団連副会長は商工省の先輩である植村甲午郎だった。日本経済が急ピッチで拡大していたこともあり、椎名が経理局長になって財界から自民党への献金は2億円から10億円に拡大したといわれた。
1958年(昭和33年)の総選挙は自民党と社会党の二大政党による初めての選挙だった。自民党は豊富な資金を背景に選挙で圧勝した。岩手県第2区では自民党が小沢佐重喜、志賀健次郎、椎名の3人を、社会党が北山愛郎と千葉七郎の2人を公認して定員4人を5人が争った。当選は小沢、志賀、北山、椎名の順でまたしても最下位当選だった。昭和34年6月の内閣改造でそれまで岸内閣を支えてきた河野一郎が一転して反主流派に回り、反主流派の急先鋒だった池田勇人が通産大臣として入閣して主流派になった。
この改造で椎名は当選2回生ながら国務大臣内閣官房長官に抜てきされた。安保改定を翌年に控え、岸首相との信頼関係が深く、ハラが座ってものに動じない椎名が適任と判断された。岸派の代貸しである川島幹事長も椎名を強く推した。
岸は椎名を官房長官に起用した理由について「新安保条約締結という最大の仕事にかかるのだから、一番信頼している人を、あそこに置かなければと思ったからだ。だから、特に椎名君になってもらった。官房長官というのは、気心のわかっている人、ちょっと指一本動かしても、あいつ何を考えているか――がわかる間柄でないとね。とくに、あの忙しい、緊迫した時期、ゆっくり話し合って、どうするなどということの出来ない場面で、私のすべてを理解してやってくれる人――という意味で、私が信頼できるのは椎名君だと思ってなってもらった」と述べている。
2年生ながら椎名は「大物官房長官」と評判になった。記者団の質問に「そういう細かいことは総理に聞いてくれ」と平然と答えた。新聞は「椎名首相・岸官房長官」などとかき立てた。安保国会は川島幹事長が指揮をとっていたので、椎名官房長官は党内対策、特に池田派対策に気を遣った。池田側近の前尾繁三郎や大平正芳と会談を重ね「池田氏はくれぐれも自重するように」と忠告した。池田が黙って安保成立に協力すれば、次の政権は池田になることを示唆していた。岸首相とはあうんの呼吸だった。
岸首相と池田はもともとソリが合わず「池田君には足を引っ張られるばかりで、助けてもらったことはない」と語るほどだった。岸は大野伴睦副総裁との間に「次の政権はあなたに譲る」との密約も結んでいた。その一方で、吉田元首相が安保成立に協力する見返りとして岸から池田へのバトンタッチを強く望み、財界主流も圧倒的に池田を支持していた。
1960年(昭和35年)6月19日、新安保条約は国会で自然承認となり、岸内閣は安保条約の批准書交換を見届けて退陣した。椎名官房長官は岸内閣幕引きの役割を担った。後継について沈黙を守っていた岸は大野伴睦が総裁選出馬を辞退すると一転、池田支持を鮮明にした。岸派と佐藤派の支持を得て後継総裁には池田勇人が当選した。椎名は池田側近の前尾・大平と連絡をとり、岸から池田へのバトンタッチに少なからぬ役割を果たした。椎名はもともと池田のざっくばらんな人柄と独特の経済政策を高く評価していた。
椎名の官房長官としての仕事ぶりを岸は次のようにも述べている。「大体、椎名君というのは上に行けば行くほど偉くなる男だ。役人時代の椎名君は、上に立つ者にとっては使いにくい男でネ。上役だろうが何とも思わない。『フン』といってソッポを向くようなところがあったからね。だからあまり『可愛がられる』方じゃなかったね。ところが、上に行けば行くほど、『先生』は人使いがうまいし、要点をつかむ洞察力、先見性というものは私も及ばない非常に優れたものを持っていたね。石田(博英)、愛知(揆一)、赤城(宗徳)と3人の官房長官を使ってみたが、椎名君は小回りはきかない、腰は重いしで、平時においては、官房長官としてさて、適任だったかどうか、何ともいえんがネ」。さすがの岸も椎名は使いづらかったようである。=敬称略
(続く)
「記録椎名悦三郎(上下巻)」(82年椎名悦三郎追悼録刊行会)
椎名悦三郎著「私の履歴書」(私の履歴書第41集収載=70年日本経済新聞社)
「現代史を創る人びと4(椎名悦三郎インタビュー収載)」(72年毎日新聞社)
「椎名悦三郎写真集」(82年椎名悦三郎追悼録刊行会)
※1枚目の写真は「椎名悦三郎写真集」から