明治天皇の皇城図発見 焼失4年前に使節作成
1869(明治2)年に明治天皇の住まい「皇城」(旧江戸城西丸)でオーストリア・ハンガリー帝国使節団が天皇と謁見した際、詳細な見取り図を作成していたことが21日分かった。見取り図は手記と共にオーストリアで保存されていた。
皇城は73年に火災に遭い、皇城に関する文書なども焼失。元宮内庁書陵部編修課長の岩壁義光氏は「当時の記録として謁見の場所を具体的に描いた視覚的な史料は見たことがなく、一級の史料だ」としている。
見取り図と手記はリンツ市司教区文書館にあり、同市郊外シュタイレック城の宮田奈奈研究員とドイツ・ボン大のペーター・パンツァー名誉教授が調査で確認した。手記には謁見4日後のピアノ御前演奏の様子も描かれ、明治天皇の素顔の一端がうかがえる。
皇城は二重橋(正門鉄橋)に近い現在の宮殿の南側にあった。見取り図は、皇城の玄関から謁見に使われた大広間を描写。天皇が謁見時に用いた御帳台や雅楽奏者、グランドピアノなど贈り物の位置のほか、使節団が茶菓の接待を受けた殿上の間も描かれていた。
学習院大史料館の客員研究員を務める岩壁氏によると、皇城の火災で73年までの主な公文書の原本はほぼ残っていない。見取り図について「大広間など西丸の儀礼空間を謁見にうまく活用した様子がよく分かる。外国との交流史の隠れた一面が浮き彫りになる」としている。
見取り図と手記を記したのは、日本と修好通商航海条約を締結するため69年に来日したオーストリア・ハンガリー帝国東アジア遠征隊の3等書記官オイゲン・フォン・ランゾネ男爵。
手記や日本側の外交史料「墺地利使節参朝並条約調印一件」によると、使節団は公使アントン・フォン・ペッツ男爵を全権代表とし、10月16日に皇城で当時16歳の天皇に謁見。ランゾネは、御翠簾(すだれ)で顔を隠した天皇が使節団のお辞儀に答礼するため身をかがめて立ち上がった際「若々しいお顔を拝見する機会にあずかった」とも記した。
〔共同〕