映画「仁義なき戦い」などで知られる元俳優の菅原文太(すがわら・ぶんた)さんが11月28日午前3時、転移性肝がんによる肝不全のため、都内の病院で死去したことが1日、分かった。81歳。11月10日の高倉健さん(享年83)に続き、昭和を代表するスターが旅立った。先月30日、福岡・太宰府天満宮祖霊殿で家族葬が営まれていた。

 高倉さんに続き、菅原さんが逝った。高倉さんと同じように葬儀終了後に明らかにされた。

 菅原さんは11月13日、定期健診で訪れた都内の病院にそのまま入院。病室で高倉さんの死にコメントを求められると「健さん、東映、映画のことは時間を置いて自分で書きます」と関係者に伝えていた。その10日後、自らも予期しない急逝だった。

 だが、覚悟は出来ていた。文子夫人によれば、07年にぼうこうがんを発症して以来、「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」の心境で日々を過ごしていたという。俳優としての仕事を絞り、社会的な活動にまい進した。

 09年からは無農薬にこだわった野菜作りを実践。安倍政権の地方創生スローガンには「人気取りだろう。東日本大震災の後には自殺者も多い」と批判した。震災の翌12年には、俳優引退を明言。今年11月1日には知事選最中の沖縄県を訪れ、米軍基地の辺野古移転を批判した。

 自分の命の「限り」を自覚してから、逆に「命の大切さ」にこだわり、世に訴えるようになった。13年前に長男、加織さん(享年31)を踏切事故で失ったころからその思いはあった。友人によると、当時、生活していた岐阜・飛騨高山で長男の死を知った菅原さんは人目もはばからずに号泣していた。家族葬が行われた太宰府天満宮の敷地内、祖霊殿には加織さんの遺骨が納められており、菅原さんは10月にも参っている。

 晩年とは対照的に、それまでは「俳優」としての生きざまにこだわった。こだわりがなければのし上がれない曲折があった。早大中退後、劇団四季では端役にとどまった。兼業したファッションモデルが縁で新東宝にスカウトされるが、同社は倒産。移籍先の松竹では脇役ばかりだった。東映に移り、「現代やくざ

 与太者の掟」で主演を果たしたのは36歳のときだった。東映ニューフェースとして20代から活躍していた高倉さんとは対照的だ。

 73年の「仁義なき戦い」シリーズで東映を代表するスターとなったのは40歳のときだった。生々しい迫力と躍動感は、任侠(にんきょう)に美意識を重ねた高倉さんとは真逆の存在だった。独自のアウトロー像にこだわった。2年後に始まった「トラック野郎」は渥美清さんの「男はつらいよ」と並ぶ、風物詩的なシリーズとなり、42歳にして「映画界の顔」となった。

 一方でNHK大河ドラマにも多数出演。80年の「獅子の時代」主演に始まり、「武田信玄」「徳川慶喜」「元禄繚乱」そして02年の「利家とまつ」まで多彩な役柄を演じ、「寡黙な男の生きざま」を通した高倉さんとは演技面でも好対照だった。【相原斎】

 ◆「朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり」

 「論語」にある孔子の言葉。「朝に道を聞くことができれば、その日の夕方に死んでも後悔しない」の意味。真理を追究することの大切さをあらわしている。

 ◆転移性肝がん

 肝炎ウイルスの感染による肝細胞がんなど原発性肝がんに対し、他の臓器にできたがんが肝臓に転移したがんで、世田谷井上病院の井上毅一理事長は「ウイルス感染がなく、転移性と診断されたのだろう」と指摘した。「人体で最大の臓器で、化学工場に例えられる肝臓は、門脈、肝動脈を通じ、他の臓器のがんが転移する。胃、大腸、膵臓(すいぞう)、食道など消化器系がん、肺がん、乳がんなどから飛ぶことが多いが、ぼうこうから飛んでも不思議はない」。その上で「ぼうこうから付近の臓器に転移し、血管を通して肝臓に移ったことも考えられる」と説明した。

 ◆菅原文太(すがわら・ぶんた)1933年(昭8)8月16日、仙台市生まれ。仙台一高から早大第二法学部に進学も中退。劇団四季に在籍したこともあり、56年に映画出演。ファッションモデルを経験した後、喫茶店でスカウトされて新東宝入りした。58年「白線秘密地帯」で本格映画デビューした。その後松竹、東映に移籍。代表作に「仁義なき戦い」シリーズ、「トラック野郎」シリーズなど。声優やラジオのパーソナリティーとしても活躍。180センチ。血液型O。