運命のドラフト会議が行われる。悲喜こもごも…数々のドラマを生んできた同会議。そこで過去の「パ・リーグ名場面」を振り返る。

<ドラフト喜怒哀楽>

◆西武 85年、清原和博(PL学園)は、あこがれの巨人からの指名を信じた。ところが巨人は早大進学を明言していた同僚の桑田真澄を指名。ショックを隠しきれない清原は涙を浮かべ「巨人が悔しがるようなバッターになる」と見返す決意を語った。

◆西武 渡辺監督が09年に6球団競合の菊池雄星(花巻東)を引き当てた。ドラフト前日に岩手の地酒「南部美人」を飲み、当日は花巻東のスクールカラーである紫色のボールペンを携帯する熱意が通じた。渡辺監督は翌10年も6球団競合の大石達也(早大)を引き当てている。

◆ソフトバンク ダイエー時代の89年、8球団が競合した野茂英雄(新日鉄堺)の抽選に外れると、巨人以外には行かないと表明していた元木大介(上宮)を果敢に指名。田淵監督は「狙っていた。当然でしょう」と自信を見せた。元木は目頭に手をやり「残念としか言えない」と悔し涙。入団を拒否し、浪人してハワイへ野球留学した後、翌年1位で巨人入りした。

◆ソフトバンク 94年、駒大進学を表明していた城島健司(別府大付)を強行指名。仕掛け人は西武時代から「球界の寝業師」と呼ばれた根本陸夫専務だった。当初は入団拒否の姿勢だったが、交渉に出馬した王監督の「日本を代表する選手に育てたい」という熱烈なラブコールにより進学を辞退。大リーグでも通用する捕手に成長した。

◆日本ハム 05年の高校生ドラフトでは当たりくじの訂正が連発する混乱。陽仲寿(現陽岱鋼=福岡第一)を引き当てたのは日本ハム・ヒルマン監督だったが、ソフトバンク王監督の方が当たりだと思い歓喜してしまった。一方、辻内崇伸(大阪桐蔭)を当てたとしてオリックス中村GMが喜んだが、交渉権を得たのは巨人堀内監督だった。

◆日本ハム 11年、巨人入りを熱望していた菅野智之(東海大)を強行指名。巨人との一騎打ちとなった抽選で、津田球団社長が当たりくじを引いた。菅野の母の兄が原監督という関係からも、菅野と巨人は相思相愛。巨人一本釣りの雰囲気が濃厚だったドラフトは、大波乱となった。菅野は入団を拒否して浪人を決意。翌年巨人入りした。

◆日本ハム 12年の大谷翔平(花巻東)はサプライズ指名だった。ドラフト4日前の10月21日、「アメリカでプレーさせていただくことを決めました」と大リーグ挑戦を表明していたからだ。指名を受けた大谷は「自分自身の考えとしてはゼロ」と入団を完全否定。交渉は4度を重ね、球団側は綿密な資料などを持参し熱く説得。46日間悩んだ末、12月9日に入団決定。

◆オリックス 89年、野茂の外れ1位で指名を受けたのは、熊谷組の佐藤和弘(94年は登録名パンチ)だった。パンチパーマ姿で取材に応じ「ちゃんと紹介してください。その他のドラフト選手ですって字幕スーパーでというのはやめてくださいよ」などの語録で人気者に。上田監督から電話が入ると「上田監督だ! 佐藤です! 初めまして。あの、会社の方と相談して決めることですけども、自分の心は1つです」。

◆オリックス 02年2巡目で元大リーガーの鈴木誠(マック鈴木)を指名した。鈴木は滝川二を中退して渡米しており、日本でプロ経験がないためドラフト対象選手。この年もロイヤルズで先発していた。「実家が神戸なので、やってみたいという気持ちがわいてた」。新人王の資格を与えられたが「プロに入ったばかりの選手の賞なので」と、辞退して話題になった。

◆ロッテ 90年、小池秀郎(亜大)に史上最多8球団が競合。交渉権を獲得するも、「今は何も考えられません」と拒否されてしまった。小池の希望はヤクルト、西武、巨人で、次がダイエー、大洋。事前に断られていたロッテは強行指名及ばず。

◆ロッテ 06年大学・社会人ドラフト7巡目で指名したのが、独立リーグ「四国アイランドリーグ」高知の角中勝也だった。角中は予想外の指名に驚きを隠せず「育成はあるかな、と思っていたが、(支配下の)ドラフトは考えていなかった。四国アイランドリーグに『ありがとう』と言いたい。子どもの目標になる選手になりたい」と意気込んだ。発掘された無名選手は12、16年と2度の首位打者に輝いた。

◆楽天 かつては島田亨社長が4球団競合の06年田中将大(駒大苫小牧)を「黄金の右手」で、5球団競合の07年長谷部康平(愛知工大)を「プラチナの左手」で引き当て、球団では社長の縁起物グッズを発売した。

◆楽天 立花陽三社長も強運で12年森雄大(東福岡)13年松井裕樹(桐光学園)14年安楽智大(済美)と3勝した。松井はソフトバンク、日本ハム、DeNA、中日との5球団競合。星野監督は「あの社長、持ってるな! 何か夢を見ているようだ」と大興奮。吉報は続き、ドラフト2日後から始まった日本シリーズでは巨人を下し球団初の日本一。

◆近鉄 消滅した近鉄もドラフト史には欠かせない。平成最初の89年に仰木監督が史上最多8球団競合の野茂英雄(新日鉄堺)を引き当てた。カメラマンのポーズに応じた仰木監督は「笑ってほしい? そんなこと言われんでも、もう笑いっ放しやろ。野茂君だけで150点のドラフト」。

◆近鉄 95年は佐々木監督が紅白ふんどしを締めて7球団競合の福留孝介(PL学園)を引き当て「よっしゃー」と雄たけび。ドラフト史上最大の声と言われた。福留には入団を拒否されたが、その後に中日のコーチとして福留を指導する巡り合わせに。