第137回 高橋 信彦 氏 (株)ロードアンドスカイ 代表取締役

インタビュー リレーインタビュー

高橋 信彦 氏
高橋 信彦 氏

高橋 信彦 氏 (株)ロードアンドスカイ 代表取締役

 今回の「Musicman’s RELAY」は(株)ホットスタッフ・プロモーション 代表執行役員 会長兼社長 永田友純さんからのご紹介で、(株)ロードアンドスカイ代表取締役 高橋信彦さんのご登場です。東京で生まれるも、幼少期に引っ越した広島で音楽の楽しさに目覚めた高橋さん。以後人生を共に歩むバンド仲間や吉田拓郎との出会いを経て、バンド「愛奴」のベーシストとしてデビュー。バンド解散後は、浜田省吾をマネージャーとして現在まで支え、ロードアンドスカイ設立後はスピッツや斉藤和義などのマネージメント、レーベル運営、日本音楽制作者連盟等での活動と幅広く活動されてきた高橋さんにたっぷりお話を伺いました。

2016年4月21日 掲載
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

プロフィール
高橋 信彦(たかはし・のぶひこ)
(株)ロードアンドスカイ 代表取締役


1952年 東京都生まれ、小学校から高校まで広島市で育つ。
71年 上智大学外国部学部西語学科入学
74年 吉田拓郎のツアーバンドとして春、秋のツアーに参加
75年 AIDOの一員としてアルバムデビュー
77年 秋より浜田省吾のマネージャーとしてホリプロ(カレイドスコープ)入社
83年 浜田のパーソナル・マネージメント・オフィス(株)ロードアンドスカイ設立
89年 (社)日本音楽制作者連盟 監事に就任 以降断続的に現在まで役員を歴任
91年 スピッツ・デビュー その後、ORIGA、区麗情他のマネージメントを手掛けるようになる。
98年 (株)ジェマテイカ・レコーズ設立。
01年 基本的に1アーティスト1マネージメント会社という考えの下、グループを分割する。
01年 著作権管理団体(株)Japan Rights Clearance 設立に参加、役員として現在に
至る。(2月1日より(株)NexTone)
05年 声優マネージメントおよびアニメ音楽制作の(株)ボイスアンドハートを(株)アニプレックスとの共同事業として設立。08年より映像および音楽制作会社に変更、グループ会社として再スタート。15年閉鎖。


 

 

  1. 引っ越し先の広島で受けたカルチャーショック
  2. 音楽が一番ワクワクするものだった
  3. 大学での挫折から再びバンドの道へ〜浜田省吾との出会い
  4. 愛奴のメンバーとして吉田拓郎のツアーサポート
  5. 「俺のマネージャーになってくれないか?」浜田省吾のマネージャーに
  6. 堀社長への直訴からホリプロ独立〜ロードアンドスカイ設立へ
  7. スピッツ、斉藤和義との出会い
  8. 人生観を変えた「全日空61便ハイジャック事件」
  9. 一人で頑張っているようなアーティストの手助けをしたい

 

1. 引っ越し先の広島で受けたカルチャーショック

−− 前回ご登場頂いたホットスタッフ・プロモーション 永田友純さんとはいつ頃出会われたんですか?

高橋:私はホリプロのカレイドスコープというセクションで、浜田省吾のマネージャーを始めたんですが、マネージャーとしてはまだ駆け出しで、なにをやったらいいか分からない、でも「ライブだけはやっていこう」という認識はあったんですね。

当時、浜田は今もサポートやってくれている町支寛二と2人でライブをやっていたんですが、とにかく貪欲にお客を掴んでいくようなライブをやっていて、私は「たくさんの人にこのライブを観せれば形になっていくだろう」と信じていたんです。まぁ、それだけしかできなかったんですけどね。例えば、プロモーションとか全然分かっていなかったですし、とにかくライブをやるにはどうしたらいいかということばかり考えていました。

それで各地の主催者、プロモーターの人に話を聞いてもらうために、昔ですから白盤を各地に送って、近場に関しては直接お会いして、というとこからスタートしました。最初はメロディーハウスにプロモートを依頼していたんですが、その後、ロックをメインにやっているプロモーターと言うことでホットスタッフを紹介してもらい、永田さんにお会いしたのが最初だと思います。

−− そうなりますと、永田さんとはかれこれ30年以上のお付き合いなんですね。

高橋:70年代終わりからですからね。当時ホットスタッフが得意だった神奈川のライブをまずお願いして、その後、山梨もお願いするようになりました。関東を2つ、3つに分けて、それそれのプロモーターにお願いするというのは珍しいやり方だったんですが、そういう形で仕事が始まりました。ですから、ビジネスだけで見るとそんなに濃い関係というわけではないんですよね。関東の中でも1部ですから。もちろん永田さんには今でも浜田をやってもらっていますが、ビジネス的にはそんなに大きなものでもないですし、普通に考えたらお互い「ワン・オブ・ゼム」なんですが、なんか馬が合うんですよね(笑)。

−− 波長が合うと。

高橋:彼はゆったりしているというかガツガツしてない、と言うと他の人がガツガツしているみたいですが(笑)、彼が持っているそういったゆったりとした雰囲気とか、安心感みたいなものに惹かれるんですよね。

永田さんがルルティモでおやりになっている大人向けのイベントがありますよね。ああいうのってすごく分かるんですよ。私もやりたいなと思いますし、センスや好みが近いんだと思います。だからそんなにたくさん話さなくても「ですよね」みたいな感じで話が進んじゃうし、居心地が良いんですよね。

−− ここからは高橋さんご自身のお話を伺っていきたいのですが、お生まれは東京だと伺っております。

高橋:52年5月8日、ゴーヤの日に東京で生まれました(笑)。その後、小学校入学直前に、父親の転勤で広島へ引っ越しました。それで小学校3年の夏休みに「東京に戻る」と言うことで、同級生に別れの挨拶をして、姉なんか餞別までもらったのに、その後、何が起こったのか分かりませんが「転勤が延長になりました」と(笑)。それで、9月になっておずおず学校へ行って、同級生は「あれ?」みたいなね(笑)。すごく恥ずかしかったのを覚えていますよ。結局そのまま広島にずっといることになったんですね。

−− 広島に引っ越されたときはどんな感じでしたか?

高橋:1958年頃ですから、まだ新幹線もないですし、全く広島のことを知らないままで行きましたから、とにかくビックリしました。引っ越し先は広島市内だったんですが、畑も田んぼも一杯あるし、とにかく広島弁が怖かったんです(笑)。子供が喋っていても、その言葉遣いが怖くて、最初は家に閉じこもっちゃったほどでした。うちの家族は東京から転勤してきた人たちが住むエリアに住んでいて、クラスにも東京組が2、3人いたんですよ。だから、結局そいつらとつるんでいたので、自慢じゃないですけど、広島弁は喋れないんですよ。

−− 広島弁は話されないんですか。

高橋:もちろん次第に慣れてきたんですが、広島弁自体を使わない仲間でいつも遊んでいましたし、家の中もそうだったので、ヒアリングのみでスピーキングはダメなんです(笑)。

−− 中学は公立校に行かれたんですか?

高橋:いえ、中高一貫の修道学園という私立の男子校に通っていました。後輩に吉川晃司君がいるんですが、彼が入っていた水球部やサッカー部、書道部が当時全国レベルの学校で、いわゆる藩校からの歴史がある名門校なんですが、なぜ修道に入ったかというと、他の学校は私立も含めて、みんな坊主にしなくてはいけなかったんですよ(笑)。でも、修道は大丈夫だったんです。それだけで修道を選んだんですよ(笑)。

−− 坊主頭は嫌ですよね(笑)

高橋:そう(笑)。何か妙に色気づいていて「坊主は嫌だな」と(笑)。だって小学校6年のときにビートルズを聴いてしまったし、そうしたら坊主なんかあり得ないじゃないですか(笑)。

 

2. 音楽が一番ワクワクするものだった

−− 音楽と出会うきっかけはなんだったんですか?

高橋: 7才年が離れた姉がいるんですが、姉は高校を卒業して本屋さんに就職して、自由になるお金が出来てレコードをよく買ってきていたので、それを聴いていました。小学校4年くらいからラジオを聴くようになって、主に音楽番組、当時は「P盤アワー」「L盤アワー」とか洋楽に惹かれたんですよ。ですから、音楽自体はそのくらいから意識していたというか、一番ワクワクするものでしたね。野球とかもしていましたけど、音楽の方がワクワクしていました。

−− 周りに高橋さんのような子供はいたんですか?

高橋:いなかったですね。

−− 広島でFENは入ったんですか?

高橋:入りました。隣に岩国がありましたし、浜田省吾もよく聴いていたようです。でもFENに気がついたのは小学校6年生くらいだと思います。

−− いや、それでも早熟な少年ですよね。

高橋:そうかもしれませんね。特に特徴はないけど、おとなしくて行儀の良い子供だったんじゃないですかね。いつも通信簿の備考欄に「成績は悪くないんだけど、積極性に欠けます」みたいなことが必ず書いてあるんですよ(笑)。

−− ガキ大将だったとか、そういうことは全くなかったと。

高橋:ええ。地味で、面白みのない子ですよね(笑)。オタクってほど音楽が好きだったわけでもないですし。その後中学に入ってからは小遣いを貯めて、レコードを買う少年になっていきましたね。

−− その頃はどんな音楽を聴かれていたんですか?

高橋:ジャンル的にはぐちゃぐちゃで、ヘンリー・マンシーニがあったり、カンツォーネがあったり、必ずしもアメリカンポップスをずっと聴いていたわけではなくて、何が何だか分からなかったですね。とにかくラジオでかかっているヨーロッパ、アメリカ、イギリスといった国の音楽を全部一緒に聴いていた感じです。

−− 邦楽はあまり聴いていなかった?

高橋:そうですね。テレビの「ザ・ヒットパレード」でも洋楽カバーをやっている伊東ゆかりさんとか、布施明さんとかは好きでしたが、いわゆる歌謡曲はあまり得意ではなかったです。それで、中学に入るとクラスに話が合う音楽好きがいて、その中の二人がのちに愛奴を一緒に組む町支寛二と山崎貴生(旧姓)です。

−− お二人は中学の頃からの同級生なんですか。長いお付き合いですよね。

高橋:中学2年のときからですから、もう50年です(笑)。

−− そして、町支さん、山崎さんと「バンドを組もう!」という話になるわけですか。

高橋:ええ。二人とは中2で同じクラスになって、中3でフォーク・グループを作ったんです。私は中1になったときに親にエレキギターを買って貰ったんですよ。テスコか何かの一番安いやつを。それで3人でグループを組むにあたり、ギターの腕試しをしたら、私が一番下手で、それでベースをやることになったんですよ(笑)。

−− ギター対決に負けてベースに。ありがちな話ですよね(笑)。どんな曲を演奏されていたんですか?

高橋:その3人でやっていたのはサイモン&ガーファンクルとか、フォーク・ロック系ですね。ママス&パパスとか。本当はビートルズみたいなドラムが入った曲をやりたかったんですが、ドラムをやる奴なんていないですからね。ドラムはお金持ちで、環境が整わないとできませんから。

−− 高校でもそのバンドは続けられたんですか?

高橋:高校2年の終わりまでやっていました。高校2年のときにヤマハライトミュージックコンテストの中国地区予選まで行ったんですよ。高校生は私たちしかいなくて、他は大学生でした。で、下馬評として「あいつら本選に行っちゃうんじゃないの?」なんて言われていたんですが、結局、最終予選は4位で何ももらえず(笑)。

−− 吉田拓郎さんはもう少し前ですよね。

高橋:そうですね。私が高校1年のときに広島フォーク村という存在を知って、入ったんですよ。そうしたら、そこのスター的な存在が拓郎さんで、拓郎さんのライブを高校1年のときに初めて観て、「凄いな、この人!」と思いました。その2年後に拓郎さんはデビューすることになります。

 

3. 大学での挫折から再びバンドの道へ〜浜田省吾との出会い

高橋 信彦 氏 (株)ロードアンドスカイ 代表取締役社長

−− その後、東京の大学へ進学されますね。

高橋:私は、早い段階で人生の進路を決めちゃったんです。南米で日本のおもちゃを輸入する仕事をやるという。

−− 決めたんですね?(笑)

高橋:そうなんですよ(笑)。きっかけは何なのかよく分からないんですが(笑)、当時日本のおもちゃってプラスティックで安いんだけど良質の物が多くて、世界中に輸出されているという話を何かで見たのかもしれません。それで、なぜかそれを仕事にしようと決意して、南米で仕事をするためには、まずスペイン語を学ばなくてはならないので、大学もそういうところに入ろうと。学費のことを考えると一番は東京外国語大学なんですが、理数が全然ダメだったので(笑)、候補から外して、じゃあ上智だと。それで上智のスペイン語学科を目指して、バンドなんかやっている場合じゃないと思って、私はバンド活動を止めたんです。

−− でも、目指そうと言っても、上智はそう簡単に入れるところではないですよね。

高橋:でも、ちょっと舐めていたところがあって、3科目だし1年みっちりやれば大丈夫かな?と。それで受かったんですよ。当時は記憶力がよかったのかもしれませんし、多分、集中していたんだと思います。そこまではよかったんですけどねぇ・・・(笑)。

−− そこまではなんですね?(笑)。

高橋:それで東京に戻ってきて、初めて一人暮らしをするんですが、学校は四谷ですから、中央線沿線の高円寺あたりに住みたかったんです。でも、予算の関係から三鷹でワクワクしながら一人暮らしを始めたんですが、私はスペイン語を学ぶ四年間ということを甘く見ていたんですよ。なにより授業の密度が濃くて、最初の授業から宿題が一杯出て、次の週までに単語で何百ワードも覚えなくてはいけない。当たり前と言えば当たり前なんですが、それがきつくて、だんだん自堕落な生活になり・・・(笑)。

上智は女の子がいますから華やかなキャンパスなんですが、とにかく勉強が苦しくなってしまって5月病みたいになってしまったんですよ。それで「これ続くのかな?」と不安になっていたときに、軽音の部室へ遊びに行ったんですよ。そうしたら髪の長い奴が何人もいて、私も髪だけは長くて、「自分の居場所はここだ!」と(笑)、部室に入り浸るようになっちゃって、簡易的なバンドを組みはじめたら、もう朝の授業に出なくなっちゃうし、自分でも1年以上は葛藤していたんですが、結局は音楽一色になっちゃったんですよ。

−− スペイン語は挫折されたんですね。

高橋:進路は飛んじゃいましたよね。所詮、子供の考えだったんでしょうね。そんな状態だったので2年生になったら、完全に学校へ行く気がなくなりました。

その頃に中学からの友達の町支寛二と浜田たちがバンドをやり始めたんですね。それで「遊びに来ない?」って町支に誘われて、浜田が通っていた神奈川大学の軽音の部室へ練習しているのを観に行ったんですよ。

−− 浜田さんとは面識はあったんですか?

高橋:浜田のことはそれまで知りませんでした。で、彼らはオリジナルを作っていたんですよね。高校のときもオリジナルは作りましたが、ほんの数曲だったんですが、大学生になったときに浜田が詞を書いて、曲が結構できていたんですよね。それで、私も演奏に加わってオリジナルを演奏したらとても新鮮で、「一緒にやらない?」と誘われたときには「はいはい」と二つ返事で参加することになりました(笑)。そこからはそのバンドの活動にのめり込んで、「このバンドで世に出たいな」と思うようになり、「中途半端に学校へ行っても駄目だな」と、親に「申し訳ないけど、大学を辞める」と伝えました。

−− お父様は何と仰ったんですか?

高橋:親父はあまり語らず「わかった」と。むしろ母親の方がうるさかったです。まあ、当然ですよね(笑)。もちろん申し訳ないなという気持ちもあったんですが、入学するときにお金を預けますよね、大学に。それは戻ってくるんですよ。

−− そうなんですか?

高橋:ええ。今どうなのかは分からないですけど、預託金みたいなものですよね。それが20万くらいで、「そのお金でベースが欲しい」と・・・(笑)。これからは自分でバイトして自立するけど、最後のお願いと(笑)。

−− しょうがない息子ですね(笑)。

高橋:(笑)。当時の20万ですから結構な額なんですが、銀座の山野楽器でフェンダーベースを買って、それでバンドを本格的に始めました。

−− バンドマンとしての第一歩はどんな活動だったんですか?

高橋:まずは曲を作って、練習しなくてはいけないんですが、当時はリハスタなんて今みたいになかったんですよね。で、誰かの紹介で新宿の歌舞伎町にあるリハスタに、お金もないので週に一回くらい行って、あとは町支とアルバイトを始めました。

−− どんなアルバイトをなさっていたんですか?

高橋:私は新宿ルイードでウエイターをやっていました。髪の毛を切って。それで私、町支、山崎、浜田の4人でちまちまやっていたんですが、そうそうピッチが上がらないですよね。そうこうしているうちにネム音楽院に行っていた、青山徹というギタリストが東京に遊びに来たんです。彼は一学年下なんですが、同じ高校だったので当時から知っていて、彼が私たちのアパートに来たときに「曲を作って練習しているんだけど」みたいな話をしたら、「僕も参加させて欲しい」と。彼は一番音楽的センスがあり、理論もあり、アレンジもできますから、参加はありがたいんですが、「徹、学校はどうするの?」と聞いたら「辞める」というのでビックリして。まあ、他人のこと言える立場じゃないんですけど(笑)。

−− (笑)。

高橋:青山の広島の実家は割と大きな家で、大音量は出せないですけど、そこそこ演奏できる部屋があったので、みんなで広島に戻って練習しようという話になったんです。「週に一回の練習じゃ、埒が明かない」と思っていましたし、もっと曲を作らなくてはいけなかったので、広島で集中してやれば、曲も貯まるだろうということで、73年の秋にみんなで広島に戻ったんですよ。

 

4. 愛奴のメンバーとして吉田拓郎のツアーサポート

−− 全員、学校を辞めて広島に戻ったんですか?

高橋:いや、休学にしたメンバーもいました。私と町支は学校を辞めたんですよね。

−− 東京のアパートはどうされたんですか?

高橋:私と町支はそのときから腹をくくっていたので、二人で中野のアパートに住んでいたんですよ。どっちにしろ今回の広島行きは練習をして曲を貯めるための一時的なものだから、中野のアパートは残しておこうと、ルイードのバイト仲間に又貸しをしました(笑)。

−− 広島での日々で、バンドとしても成長されましたか?

高橋:そんなこともないんですけどね(笑)。なんとなく場数は踏んで、東京だと練習するだけでしたが、広島ではデパートの催事場とかに出させてもらって、小さな町ですからバンドの名前も知れ渡り、結果それがNHKの人の耳に届き、拓郎さんとの仕事に繋がっていくんです。

−− それにしても無謀な若者たちですよね(笑)。

高橋:結果から見るとラッキーですよね(笑)。浜田省吾のソニー初代ディレクターに蔭山敬吾さんという方がいるんですが、この人は広島フォーク村の私たちの先輩であり、拓郎さんの後輩だったんですね。この人がソニーミュージックに就職して、最初は営業だったんですが、NHKのFM番組に出させて貰ったときに録ったテープを浜田が蔭山さんに渡したんです。その頃、レコード会社の知り合いなんて蔭山さん以外いませんでしたし、唯一の知り合いの蔭山さんに「聴いてみてもらえませんか?」と。それが蔭山さんの先輩である拓郎さんに渡されて、拓郎さんも高校生の頃の私たちを知っていたので「あいつら、バンドをやっているんだ」と、オーディションをやることになり、スタジオに呼ばれたんです。

オーディションでは自分たちの曲をやったんですが、これは自分たちのバンドとしてのオーディションなのか、拓郎さんのツアーのオーディションなのか、とにかく分からなかったんです(笑)。結局そこではレコードデビューの話は全くなくて(笑)、「ツアーやんない?」みたいな話だったんですよ。

−− 拓郎さんのツアーのサポートですか?

高橋:そうです。「サポートするほど上手くないのにな…」とは思ったんですけどね。だって、前年のツアーなんて、それこそ岡澤明さんとか一流プレイヤーばかりでしたから、私たちなんて比べようもないです(笑)。ただ、拓郎さんがボブ・ディランとザ・バンドのツアーを観に行った影響で、「バンドと自分」みたいなイメージしたらしいんですけど、「でも俺たち”ザ・バンド”じゃないぞ」みたいな(笑)。

−− (笑)。

高橋:もちろん喜んでやりましたけどね。

−− そもそも浜田さんって昔からドラムをやっていたんですか?

高橋:いや、最初4人で週一回新宿でリハーサルを始めたときに、初めてドラムを叩いたんです。ですからパターンなんか叩けやしないし(笑)、そもそも私のベースとギターの町支はパートが決まっていて、あとはドラムとキーボードが欲しいと。浜田も山崎も二人ともキーボードもドラムもやったことがないですから、二人でじゃんけんをして勝った方が好きなパートを選べると(笑)。最初、山崎が勝って「ドラムをやる!」と言ったんですけど、気が変わってキーボードになり、浜田がドラム(笑)。ただ、浜田は神奈川大学の軽音の部室が使えたので、そこでドラムを練習できたんですよ。「じゃあドラムは浜田のほうがいいよね」みたいな(笑)。

−− 拓郎さんのツアーの思い出は何かありますか?

高橋:「落陽」という名曲がありますよね。当然セットリストに入っていて、事前にテープを貰い、聴いていたんですが、1、2回リハをしたら「はい、次」みたいな感じだったんですよ。それ以降、リハで「落陽」はやらなくて、いつの間にか「落陽」はギター弾き語りになっていたんですよね(笑)。

−− 「こりゃ駄目だ」と・・・(笑)。

高橋:そうそう(笑)。

−− その後、愛奴はデビューが決まりますね。

高橋:74年の春と秋の拓郎さんのツアーをやらせて貰い、その間に拓郎さんの事務所のユイ音楽工房からデビューさせて貰えるかも、みたいな感触はあったんですよ。で、私たちもそれを期待していたんですが、ユイからは別のバンドがデビューすることがすでに決まっていたらしく、「バンドは2ついらない」ということになり、話が立ち消えになったんです。そこで蔭山さんが動いてくれて、秋のツアーが終わるまでにCBSソニーからレコードを出す算段を整え、当時、山口百恵さんのホリプロサイドのディレクターだった川瀬泰雄さんを紹介してくれたんですよ。その川瀬さんはビートルズ・フリークでバンドも大好きで、陽水さんもやっていた凄く音楽的な人なので、バンドを気に入ってくれて「じゃあやりましょう」と言って下さったんです。

−− それでホリプロ所属になったんですね。

高橋:ええ。秋のツアーが終わる頃にはそのラインが決まっていたので、12月から1stアルバム「愛奴」のレコーディングに入りました。だから、そこもラッキーだったんですよね。

−− トントン拍子ですものね。

高橋:その時は当たり前のように思っていたんですが、当時ってデビューするだけでも大変だったじゃないですか。愛奴は私以外みんな歌が歌えたんですが、浜田はドラムが大変でしたし(笑)、彼自身はボーカリストとして自分をあまり認めていなくて、メロディーメーカーとしての才能も自分はあまりないのかな? と思っていたらしいんですが、結局デビューシングルも浜田の詞曲ですしね。

 

5. 「俺のマネージャーになってくれないか?」浜田省吾のマネージャーに

高橋 信彦 氏 (株)ロードアンドスカイ 代表取締役社長

−− 私は愛奴のデビューをよく憶えているんですよ。「なんて名前のバンドなんだ!」と思って(笑)。

高橋:凄い名前ですよね(笑)。バンドの中でも「この名前、どうなの?」というのはあったんです。これは浜田がある文学作品から付けた名前なんですが、意味は良いとしても、語感と字を見た感じが「愛”やっこ”? 芸者じゃないの?」とか言われますし、ポップな感じがしなかったので、デビューするときにみんなが諸手というわけではなかったんですが、代案がなかったんですよ(笑)。だから仮タイトルがそのままになっちゃったみたいな感じでした。同じ年にデビューしたシュガー・ベイブとか、センチメンタル・シティ・ロマンスとはえらい違いで・・・(笑)。すでにそこで敗北感があったんですよね・・・田舎者な感じが(笑)。

−− (笑)。愛奴は1stアルバム以降、順調だったんですか?

高橋:もちろんセールスは全く駄目でしたね。今でも浜田が歌っている「二人の夏」というシングルはビーチボーイズスタイルの凄くポップな曲で、「これは売れるんじゃないか?」と思われたみたいなんですよ。当時ソニーでも女子大生とかモニターを集めてやった調査では、浅田美代子さんの「赤い風船」以来の高得点だったと(笑)。それくらい売れる確率が高いと前評判が高かったんです。それで5月にリリースしたら全然売れなくて、3〜5,000枚の売上だったそうです。

−− それは寂しい結果ですね・・・。

高橋:その曲のイメージとバンドのイメージが全く違ったんですよね。この曲も含めて2、3曲さわやかな曲はありますけど、それ以外は多少ドロッとしたところもありましたし、そもそもロックバンドですから、トータルイメージと上手く整合できていないみたいなね。そこで誰かが上手くコントロールすれば、もしかしたら売れる可能性があったかもしれません。今から考えるとですけど。シュガーベイブも「ダウンタウン」を聴いたときに「これは凄い曲だな!」と思いましたけど、彼らも当時は売れませんでしたね。

−− そういう時代だったのかもしれませんね・・・愛奴での活動は短いですよね。

高橋:ええ。浜田がドラマーとしての限界を感じだしたんですね。なぜかというと、ちょうど16ビートが主流になっていって、そういうドラムが好きでない、そしてできない浜田に対し、どんどんそういう方向性に向かっていくバンドという溝ができてしまって、浜田が「自分がバンドの足を引っ張っているんじゃないか?」と思ったのが一つ。

あと浜田の作る曲がだんだんはっきりしてきたんでしょうね。アレンジを意識したメロディー作りよりも、歌としてのメロディー作り、あとメッセージ性とか、ソングライターとしての意識ですよね。バンドだと、どうしてもその辺が曖昧になってきますから、ギャップを感じだして、浜田は「辞めます」と。それで、岡本あつおを後任のドラムとして入れて、少しだけ浜田がボーカルだけでやったりもしたんですが、結局一人でやるという判断をしました。で、バンド自体もソングライターがいなくなっちゃったので、芯がなくなり、結果、解散してしまったんです。

−− 高橋さんはその瞬間、目標がなくなってしまったわけですよね。

高橋:ええ。デビューして、今でいうフェス的なところに出て、他のバンドを見るとみんな上手いんですよ(笑)。少なくとも私よりは下手なのはいないわけで「これでは駄目だな・・・どうしよう?」と思ったんですよ。それでもバンドだから良かったものの、ピンでやるのは厳しいなと。廻りも気を遣ってくれて、ディレクターだった蔭山さんが古井戸の仕事だったり、レコーディング仕事だったり、ブレイクする前のサーカスのちょっとしたツアーとか、紹介してくれてたんですが、他流試合をすると、自分で「ベースプレイヤーとしては駄目だな」とよく分かるんですよね。

−− なるほど・・・。

高橋:そもそも練習をあまりしないのもあったんですけど(笑)。

−− (笑)。

高橋:やっぱりバンドが解散しちゃって、「夢破れた」みたいな気分だったんですよね。それでどうしたらいいのか分からなくなっちゃって、何ヶ月か普通のバイトをしたりもしました。そんな煮詰まった時期に浜田が「俺のマネージャーになってくれないか?」と会いに来てくれたんです。その頃、浜田のマネージメントは現在までずっと一緒に仕事をしている鈴木幹冶が兼務していたんですが、彼はもともと音楽出版のディレクターなので、浜田の活動が活発になると当然マネージメント業務は誰かがやらなくてはいけないと。じゃあ、高橋でいいのではないか? という話になったんだと思います。暇そうだし(笑)。

−− (笑)。

高橋:それで浜田が「星勝さんがアレンジした曲をシングルで出すんだけど、どうかな? 」って聞いてきたんです。正直言って、私は浜田の1stアルバムがきつかったんです。音楽的というよりも、詞の方が先に出てきてしまうような感じで。私はボブ・ディランとか苦手なんですよね。

−− そうなんですか!?

高橋:ええ(笑)。ポップな音楽の方が好きなんですよ。プログレも好きですけど、まあそれは置いておいて。

−− 高橋さんはサウンド志向なんですね。

高橋:そうです。それは浜田も知っていたし、だから「ポップなシングルができたんだよ」「僕もこういうのできるんだよ」というようなことを遠回しに言ってくれたのかもしれないです。私は別に浜田のことは嫌いなわけじゃないですし、今やることもないし、「じゃあ、やってみよう」と。でも、マネージャーってやったことないですから、最初は戸惑いますよね。雑用とかもやらないといけないですし。

−− この間までバンドメンバーとして世話をしてもらう側だったんですものね。

高橋:ただ、浜田とは同じバンドだったから色々話せるのは良かったと思います。これが他の人だったら絶対無理ですよね。だって、ステージのセッティングとか、そういう仕事をするわけじゃないですか。屈辱感ということではないですが「恥ずかしいな」という感じが最初ありました。でも、浜田と一緒にいる時間も多いですし、他のスタッフも含めチームみたいな意識が徐々に出てきました。

 

6. 堀社長への直訴からホリプロ独立〜ロードアンドスカイ設立へ

高橋 信彦 氏 (株)ロードアンドスカイ 代表取締役社長

−− その頃の浜田さんはまだメジャーな存在じゃないですよね。

高橋:全くですね。だから、コンサート・プロモーターを紹介してもらって、ツアーというか、何とかスケジュールを入れてくれというお願いからですよね。ギャラはもちろんなしで、交通費だけは持ってほしいみたいな。

−− マネージャーってやはり大変なお仕事ですよね。

高橋:でも、あまりつらいという感じはなかったです。給料が安くて大変でしたけど(笑)。これは浜田の力ですけど、1回ライブをやると「次また来いよ」と声を掛けてもらえたんです。それで少しずつスケジュールが埋まっていく感じが、自分としてもすごく楽しかったんですね。

−− マネージャーとして自覚が徐々に芽生えてきた?

高橋:そうですね。若い頃のほとんどの記憶は、ライブやツアーというほど形になっていないころから含めて、ライブの現場という印象が一番強いですね。プロモーションしないといけないけれど私は苦手でしたしね。

−− 浜田さんはいわゆるメディアに出なかったですよね。

高橋:出なかったというか、出せなかったんです(笑)。私よりもうちょっと優秀なマネージャー、プロモーターだったら、テレビは別にしても、雑誌やラジオに出られたと思うんですね。ホリプロのカレイドスコープというセクションは、元々、井上陽水さんとか、RCサクセションとか、いわゆるニューミュージック&ロックセクションなので、芸能的なものと色が違いますから独自でやっていました。

−− 浜田さんは83年にホリプロから独立されますが、堀威夫社長(当時)に浜田さん自ら直訴して、独立を許してもらったそうですね。

高橋:ええ。1年くらい話を続けました。

−− よく許してくれましたね。

高橋:例えば、ホリプロだとライブは興行ですよね。でも、浜田の場合、ライブ自体がすでにプロモーションなんですよね。そこの考え方が違う、というような話から始めていったんですよ。それで「もちろん赤字を背負う場合もあるし、そのときのリスクも含めて、自分でコントロールしたいんだ」と浜田は堀さんに正面から訴えたんですね。

−− なるほど…それをきちんと理解してくれた堀社長は懐が深いですよね。

高橋:本当にそうだと思います。堀さんも元々ミュージシャンですから理解して頂けたんでしょうね。ビジネス的には79年の「君が人生の時…」という5枚目のアルバムで、原盤のリクープができて、81年くらいからはいわゆるツアーでの利益も結構生むようになったんですね。ですから、ある意味恩返し的なものもちゃんとしてから、というようなタイミングだったんですね。

−− その独立は高橋さんの人生にとってもすごく大きいですよね。そのままホリプロに社員として残っていた可能性もあるわけじゃないですか。

高橋:そういう選択肢もあったかもしれません。でも、あのときの私は「30歳までにとにかく自分たちの城を作ろう」みたいな目標でやっていましたからね。

−− そこは浜田さんと高橋さんの気持ちは1つだった。

高橋:ええ。浜田とは同い年ですし「30歳までに形もちゃんと作って、もちろん後ろ足で砂をかけるような形じゃなくて、しっかり恩返ししてから独立しよう」という想いがありました。

−− そしてロードアンドスカイを83年に設立されますが、以降、会社として調子が悪いときってあったんですか?

高橋:人に言えるほど悪いということはないですね…あった方が話としては面白いんでしょうけど。堀さんだって恐らくこんなに続くとは思わなかったと思うんですよね。

−− でも、堀さんの想像を超えた能力がお2人にあったということですよね。

高橋:私はともかく、浜田にはあったんでしょうね。逆に喜んでもらっていますからね。

−− でも「逃した魚はでかかったかな」とも思われているかもしれない(笑)。

高橋:どうですかね(笑)。でも、繰り返しになりますが、あのときに「分かった」と言ってくれた堀さんがいなかったら、どうにもなってなかったと思いますね。

 

7. スピッツ、斉藤和義との出会い

−− スピッツとはどのように出会われたんですか?

高橋:私はバンドの夢が崩れた経験がありましたから、やっぱりバンドのマネージメントを1回はやりたかったんです。私自身、ものすごく大きな夢は見てなかったんですが、とにかくそのバンドが、自分たちのバンドのようにパッと散らないような形で何かできればいいなと思っていました。それで88年ぐらいからバンドを探し出して、時間があるときは毎晩、それこそ2つ、3つのライブハウスを回っていました。レコード会社のディレクターと同じですよね。それで90年頃に出会ったのがスピッツです。

−− スピッツを見つけたとき競合はいなかったんですか?

高橋:プロダクションの競合はなかったんです。それよりもレコード会社の競合が10社くらいあって、本人たちがわけ分からなくなっていたんですよ。

−− 10社は凄いですね。

高橋:とにかく何社からも話が来て、高級なレストランで食事をご馳走になりながら(笑)、どうのこうの言われても、自分たちでは判断ができないと。そこで彼らは先に事務所を決めて、レコード会社は事務所に決めてもらおうと決めたんです(笑)。そんなときに彼らに興味を持った事務所がウチだったんですね。

−− バンドにとっては賢い選択だったかもしれませんね。

高橋:ええ。それで、私はレコード会社各社さんと話し合いをして、最終的にポリドールに決めました。そして、スピッツは91年にデビューしました。彼らは何年も期待のニューホープ的な扱いで、業界内の評価は高かったんですが、「ロビンソン」でブレイクするまで4年かかりました。

−− スピッツはどこで見つけたんですか?

高橋:最初観たのは渋谷La.mamaで、演奏は下手くそでした。その後、今もディレクターをやってくれている、当時ポリドールにいた竹内修君が彼らに目をつけていて、彼からテープを貰ったんです。そのテープを聴いたら、詞と曲と歌という三要素の全てが面白いなと思ったんです。売れるかどうかは分からないですが、独特の個性があるなというのは分かりました。

−− ライブは駄目だった?

高橋:当時は駄目でしたね。下手くそだし、性格も全然ライブ向きではなかったですしね(笑)。でも、曲を作る才能はあるかなと思って、だんだん本人たちとコミュニケートを取って、紹介してもらったポリドールよりウチが先に決まっちゃったんですね。

−− でも、すごくいいバンドを見つけられましたよね。

高橋:一番嬉しいのは、彼らは25年間バンドを解散せずにずっと活動していることなんですよ。今も音楽以外のことはほとんどせず、バンドをやることが一番楽しいという。それが嬉しいですね。音楽をやるものにとって理想だなと思うんですよ。

−− 素晴らしいですよね。バンドのメンバー同士もみんな仲良くって。

高橋:仲良いですよ。よく仲良くできるなと思って(笑)。

−− (笑)。斉藤和義さんはある程度キャリアを積まれてからの所属ですね。

高橋:斉藤和義君は、もう10年近く前に浜田の曲のカバーをしてくれて、浜田のライブも観に来てくれたりしていたんですね。多分それがきっかけになっていると思います。それで、現在彼のマネージメントをやっている新川富之がビクターのディレクターの佐々木コウ君ともともと友達で、斉藤くんは今こんな状況で、事務所は本人がやっているんだけど、実際はビクターがやっていて、ちょっと手が足りないみたいな話をされたと思うんです。そして、上り調子のときにきちんとした事務所機能がないとマイナスになるだろうという彼の判断で「マネージメントをやってくれないか?」と持ちかけられたんだと思います。斎藤君の音はある程度聴いていましたし、すごく良いライブをするし、やらない理由はないと。そういう感じでしたね。

−− 佐々木さんの読み通り、ロードアンドスカイに所属されてから斉藤さんは乗っていきましたよね。

高橋:そうですね。でもそれはタイミングだと思います。15周年のベストを出した年なんですが、その前から多分その兆しはあったんでしょうね。デビューして15年も経っているのに、メディアの人もライブに結構来ていて「こんなに来るんだ」とちょっとびっくりしました。なんか波が来ていたんですよね。

斉藤君の場合、浜田やスピッツのやり方と違って、気ままに色んなことをやるタイプなんです。私から見たら「ちょっと出過ぎじゃないの?(笑)」と思うくらいなんですが、それは彼のスタイルですから尊重しています。むしろ、今年50歳になるのに、よくあれだけ色々なことをやれるなと感心していますよ(笑)。彼はソングライターではもちろんあるんですが、プレイヤーに近い感じがします。ちょっとざっくりした感じとか。ギターも大好きですしね。そしてフランクな人柄で飲み友達が多いから、断れない仕事が多くなっちゃうんじゃないかと(笑)。

−− 飲み屋でお願いされちゃう(笑)。

高橋:彼は愛すべき性格ですね。だから、3.11のときに自分で替え歌を作ってYouTubeで出したときにも「まあしょうがないな」と(笑)。あれ、マネージャーも誰も知らなかったんですよ(笑)。

−− 本当に勝手にやっちゃったんですね。

高橋:そう(笑)。「えー!」みたいな。でも、言っていることは間違いないし。そういうタイプですよね。

 

8. 人生観を変えた「全日空61便ハイジャック事件」

高橋 信彦 氏 (株)ロードアンドスカイ 代表取締役社長

−− 話は変わりますが、高橋さんが乗客として遭遇した99年の全日空61便ジャンボ機ハイジャック事件(注)の話は是非お伺いしたいと思っていました。

高橋:あれは生命のピンチでしたね。2階が操縦室なんですが、私はそこの真下の席だったんですよ。ですから、みんなが犯人を取り押さえる音が聞こえていました。でも、そのときは何が起こっているのか分かりませんでした。「なんだ、なんだ」という感じだったんですよ。

−− 「ハイジャックされました」というアナウンスは聞かれていたんですか?

高橋:もちろん聞いています。

−− そして、犯人に操縦桿を取られた飛行機が迷走して、急降下するわけですよね。

高橋:三百メートルまで降下したと聞きましたが八王子のあたりは海抜が二百メートルとかなんですよね。なので実際には百メートル以下だったそうです。ですから窓から住宅地の窓の洗濯物が見えたという。

−− うわぁ…そのときはどういう気持ちだったんですか?

高橋:これはいつも言うんですが、パニック映画みたいに「うわぁ!」とならないんですよね。もう声すら出なくて、飛行機内はシーンとしちゃって棺桶みたいなんですよ。

−− 何が起こっているのか分からないけれども、明らかに異常だということは分かりましたか?

高橋:分かりました。だから、何かヤバイと思っている瞬間にどんどん高度が落ちてきてね。私は方向的に考えて、横田か何処かに不時着するのかな? と思ったんですよ。そうしたら中央高速のインターが見えて「あれ? これ方向違う…」と思って、この先にはジャンボが降りられるような飛行場がないと思った瞬間、ゾッとしました。そこからさらに急降下して、通路を挟んで隣に座っていた鈴木幹治ともアイコンタクトしかできないですよ。しゃべれないし、書く余裕もなかったです。

−− 完全に凍りついた状況ですね…。

高橋:本当に無言です。こうやって人生ってあっけなく終わっちゃうんだと思いましたし、死を覚悟した瞬間が何度かありました。

−− その後、操縦桿が犯人から奪還されて、飛行機は急上昇しますね。

高橋:急上昇したときもわけが分からないわけですよね。だから「またヤバイのかな」と思いましたね。私はジェットコースターとかあまり好きじゃないですし(笑)、大きな機体が乱高下していますから、Gのかかり方がすごいんですよ。

−− それほどの危機一髪というのは、なかなか味わえない。味わいたくないですけど(笑)。墜落しないで本当に良かったですよね…。

高橋:本当にね。でも、機長の方がお亡くなりになってしまって…。

−− そうですね…でも、たまたま客席に交換要員の機長が乗ってなかったら本当に終わっていましたよね。

高橋:終わっていましたね。そのときに、パイロットってすべての飛行機を操縦できるんじゃないんだと思いました(笑)。専門の機種が違ったんですもんね。だから、コーパイロットに聞きながらという(笑)。それも後から聞くと「へぇ? そうだったの?」と(笑)。

−− 恐い(笑)。それで、羽田に着いたんですよね。

高橋:そうです。羽田に着陸したら機内のプロジェクターにニュースが映ったんですよ。無事に戻れた安堵感もあって、「俺たちだ!映っているよ」みたいな(笑)。まさか機長が亡くなっているとは思わないですから、とにかく「戻れた。良かった、良かった」と思いつつ、「次の便だと何時になるかな?」とか考えたりもしましたね。

−− えっ! まだ北海道へ行く気だったんですか?

高橋:そのときはそうでしたね。実際に行きましたしね。次の日が本番で、その日はリハーサルだったんですね。だから、ほとんどのメンバーは先乗りしていたんですが、リハ当日移動もいたので、まずはそっちを乗せてリハーサルに間に合わせないと駄目だなと。

−− 冷静ですね。

高橋:いや、冷静というか、おそらく、人間は目の前にそういうものがあった方が楽なんですよね。やらないといけないことが何もなかったら、恐くて乗らないですよ。自分1人の出張だったら絶対に乗らなかったと思います。

−− 降りるときに足が震えたりとかしましたか?

高橋:それはなかったですね。ただ、機長が亡くなったというのはすごくショックでした。次の日の本番で浜田が今回の事件の話をして、「機長に黙祷してください」と。それにはウルッときてしまいましたね。その日のコンサートの印象はそれぐらいしか残っていなくて、まだ足が地に着いてない感じでした。

(注)「全日空61便ジャンボ機ハイジャック事件」:1999年7月23日に発生したハイジャック事件。札幌に向かっていた全日空ジャンボ機61便がハイジャックされ、刃物を持った犯人が操縦室に乱入、機長は包丁で刺され出血多量で死亡。日本におけるハイジャックで人質が死亡した初めての事件となった。

 

9. 一人で頑張っているようなアーティストの手助けをしたい

−− 高橋さんはマネージメントだけでなく、レーベルやディストリビューションなど、仕事の幅を広げられましたよね。

高橋:どれも先のこととかを意識して始めたわけではないんですよ。例えば、ジェマティカ・レコーズに関しては、要するに自分でマネージメント業務に携わるのが辛くなってきたところからスタートしているんです。マネージメントって、大げさに言うと、その人の人生に関わるくらい近い距離になりますよね。

−− 家族みたいな感じになりますよね。

高橋:そうなると年をとるとしんどいし、アーティストとの距離感を保ちつつ、サポートできるのは何だろう? と考えたときにレーベルかなと思ったんですよね。生活面まではタッチしないけど、音楽を作るときにお助けしますよと。また、インディーズが台頭してきた時代で、自分自身もインディーズに興味があったので、レーベルを始めたんです。ビジネスの結果としては失敗なんですが、マネージメントとは違う出会いもありましたし、発見も多々ありました。

CDバブルの頃、100万枚だの200万枚だのが普通のことになっていて、どこか感覚が麻痺していたんです。でもレーベルを始めてから、1枚ずつ売れることのありがたさを再び感じるようになりましたし、「どこの店で売れたのだろう?」とか色々想像するようになるんですよね。それが、何のプラスになるかは分からないんですが、そういうベーシックなところというのは忘れていました。

−− レーベルからは何タイトルをリリースしたんですか?

高橋:枚数にするとコンピも含めて60枚くらいですね。アーティストは20組くらいリリースしたんですが、結果、ほぼ女性ボーカルとインストのレーベルになっちゃったんですよ。だから、浜田は「オレみたいな音楽好きじゃないんだ、本当は」と揶揄していましたけどね(笑)。

−− (笑)。

高橋:いや、年をとって、でかい音とかバンドものとかってあまり聴かなくなったんだって言ったら、浜田も「分かる。自分も聴くなら女性ボーカルだ」と言っていました(笑)。

−− レーベルもディストリビューターの3Dシステムも、レコード会社の持っている仕事・機能を体験されたと言うことですよね。

高橋:そうですね。マネージメントは現場の人たちに任せて、遠目で管理するというスタンスになったときに、プロダクションという目線での権利に興味を持ったんだと思います。それに気づかせてもらったのは日本音楽制作者連盟に入ってからで、後藤由多加さんや細川健さん達からは色々なことを教わりました。ウチはシンガー&ソングライターがメインなので、持っている権利、預かっている権利というものに対してもう少し意識的にならなくてはと思いましたし、権利をベースとしたマネージメントのあり方を模索することで、例えば、ツアーがなくても安定してマネージメント運営できるかもと思いました。

そうすると原盤だけじゃなくて、その他周りの部分はどうなっているんだろう?と知りたくなったのと、レコード会社に文句ばかり言っているんじゃなくて、自分たちで経験した方がむしろそれなりのやり方が見つけられるのではないか? と思って始めました。実は細川さんにレーベルの集約機能体を目指したPRYAIDの設立に声をかけられたのと、自分がレーベルをやりたいと思ったのはほぼ同時期だったんですね。

−− そうでしたか。

高橋:だから、全く知らなかったディストリビューションのことや著作権のことも含めて、改めて興味を持ったという感じですね。

−− そして、現場のビジネスとしてやってみたと。

高橋:そうですね。ディストリビューターには、様々なジャンルのレーベルから色々な要求が来ます。それは自分のところの事務所、レーベルだけの考え方とは全く違いますから、そういう経験から視点も多少変えられるようになったかもしれません。

それと、デジタルの時代になってきたので、PRYAID設立後作られたインディーズのディストリビューター(バウンディを経て現在はSSNW)である3Dシステムはデジタル・ディストリビューターがメインの仕事という位置づけで始めたんです。ですから、デジタルの時代にどうなるのかということも、多少は早めに考えていたような気がします。そこで理解したことはCDにずっとしがみつくというよりも、先に時代が変わっちゃうんだから早くデジタルに対処して稼ぐことを考える方が良いんじゃないのかなと思いました。そのときに、原盤のビジネスというよりも、むしろその使用料やアクセス権で稼ぐビジネスになるだろうということなんですね。

−− 最後になりますが、高橋さんの今後の展望や目標をお聞かせ下さい。

高橋:現場で直接ミュージシャンを助けるんじゃなくて、例えば、細々とした権利のことや本来彼等が持っているものをもう少し有効に利用できるような環境作りであったり、あるいはチャンスの場を作るようなことができればいいなと思っています。一言で言えば、手助けですよね。もちろん大きく言ったらマネージメントがそういうことなのかもしれないんですが、もっと恵まれてないというか、1人で頑張っているようなアーティストの手助けをしたいですね。

−− もうちょっとパブリックな存在としての手助けですよね。一般社団法人ミュージック・クリエイターズ・エージェント(MCA)での活動もその一環でしょうか?

高橋:そうですね。MCAは単純に相談所みたいな場所なんです。私が直接相談に乗ることはほとんどないんですが、今まで250組くらいの相談に乗っています。色々なレベルの相談があるんですが、すごくシンプルなことを言うと、ある程度キャリアを持っていても、相談相手がいない人が多いんですよ。だから、相談を受けること自体がすでに手助けになっているのかなと思うんです。CDを作ったんだけど売れない、どうしたら良いか? という相談もあれば、すごい人になると、ほとんど人生相談になっちゃうこともあるらしいんですよね。

−− 誰が対応なさっているんですか?

高橋:永田純さんです。私はリアルな事務所をやっていますし、浜田省吾とかそういう固有名詞が出ちゃうと、相談者も違うフィルターで見ちゃうと思うんですよね。ですから、私はあえて後方から永田さんをお手伝いしています。

−− ちなみにホットスタッフの永田さんは、自分たちの商売に引退はないと。生きている限り現役、生涯現役と宣言をされていました。高橋さんはどうお考えですか?

高橋:永田さん、格好良いですね。私は引退したい(笑)。

−− (笑)。

高橋:別に仕事が嫌いなわけじゃないですが、何か、引退したいじゃないですか。それで、引退は60歳と一応決めていて、60歳イコール会社を設立してから30年で良い区切りだし、みたいにずっと思っていたんですが、この有様です(笑)。

−− 浜田さんは今でもお若いですし、現役バリバリですよね。

高橋:そう、浜田は全然元気で楽しそうにやっているんですよ。だから、浜田がやっているのに先にゴメンとは言えないんです(笑)。少なくとも来年くらいまでは浜田のスケジュールが決まっているので…65歳の引退も厳しいなあと思って。今、悩んでいるんですよ(笑)。

−− 本日はお忙しい中、ありがとうございました。高橋さんの益々のご活躍をお祈りしております。

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