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[ History of MIN-ON ]
VOL.02 民音・シルクロード音楽の旅の歴史
「精神シルクロード」の実現へ
演出家 藤田敏雄氏インタビュー
創立者のモスクワ講演からはじまった民音・シルクロード音楽の旅。20年で10回のシリーズまで広がり、11回を迎えた2009年。演出家として数々の平和の架け橋を築いてきた藤田敏雄氏に当時のお話を伺いました。
―――まず、シルクロードについて教えてください。
シルクロードをわかりやすく言うと、中国の唐の時代に長安からローマへ向かって、ラクダの背中に絹を乗せた隊商((キャラバン)がオアシスからオアシスをたどって、西へ西へと旅した砂漠の道のことです。 このルートは「オアシス・ルート」と呼ばれていますが、ドイツの地理学者リヒトホーフェンが「絹の道」(シルクロード)と名づけました。直線距離で約1万3千キロ。地球の一周の1/3にあたる大変な距離です。 また、モンゴルからユーラシア大陸を経由し、トルコへ向かう大草原の道「ステップ・ルート」もありますが、古来、シルクロードは単に交易路というだけでなく、東西の文化交流の道にもなりました。 15世紀末の大航海時代以降、船舶でのより大規模な交易が始まるまで「オアシス・ルート」と「ステップ・ルート」が交易の主要道路だったと言ってよいでしょう。 日本人は「シルクロード」に独特のロマンを感じてきたと思います。井上靖氏や司馬遼太郎氏など様々な作家が、シルクロードに憧憬を抱き、色々な小説をお書きになっている。 私もシルクロードに未知なる世界への憧れを感じてきました。
―――民音創立15周年を記念した企画として「シルクロード音楽の旅」と題してシリーズをスタートさせましたが、その経緯などをお聞かせ下さい。
1976年に、民音からシルクロードについての企画・演出を依頼されました。
演出については自信がありましたが、シルクロードの民族音楽や舞踊の知識については、私は専門ではありませんので、企画は東京芸術大学楽理科主任教授の小泉文夫さんを推薦いたしました。
企画を進める上でまず現地調査の必要性がありました。シルクロードの中で重要な地域といえる新疆ウイグル自治区や旧ソビエト連邦のウズベク共和国、モンゴルなどは、共産主義という、当時の政治体制により入国制限があったため、日本人の学術調査ができない状況でしたが、調査団の派遣を民音の努力で実現することができました。この地域への調査団派遣は、当時の日本としてはまさに画期的なプロジェクトだと言えるでしょう。帰国後の記者会見ではプレスやテレビ関係者が50人くらい集まりましたからね。
民音の公演では、毎回必ず最低でも3カ国を招聘したことの意義は大きい。いろんな民族芸能に接することができただけでなく、各国のアーティストが一つの舞台で共演することによって、芸術の場と同時に、国境、民族、言語、宗教を超えた友情の場も生まれたからです。
象徴的な出来事は、1985年、同時まだ国境紛争が絶えなかった中国とソ連に働きかけ、その二つの国のアーティストを招聘することに成功しました。ピンポン外交というのを覚えていますね?スポーツの交流によって米ソの冷戦構造に雪どけが生じたわけですが、それに触発されて、民族音楽の交流による芸術の場で、中ソの雪どけという友情の場が創出されたわけです。私はこの第4回公演「遥かなる平和の道」は世界でも前例のない画期的な民音のプロデュースだったと思っています。
「精神のシルクロード」についてお話しましょう。1975年に民音の創立者がモスクワ大学で「東西文化交流の新しい道」と題して講演をされ、国境、民族、言語、宗教を超えた対話こそ恒久平和のための新しい道であると、「精神のシルクロード」について提言されました。
民音がシルクロード企画を立案したのはこの提言に基づいています。が、当初は「精神のシルクロード」をどう顕在化するか、戸惑いがあったものの、「遥かなる平和の道」公演で今後の方向性を見い出すことができました。実は第1回は歌をテーマに、そして第2回は楽器編、第3回は舞踊編、第4回は総集編と4回で終了する予定だったのですが、シルクロード公演をずっと続けてゆくことになりました。
―――好評のうち全10回にわたってシリーズが続きましたが、社会的にも何か影響を与えたと思いますか?エピソードを交えて教えてください。
あります。まず、日本にシルクロードブームが到来しました。
具体的な例をあげますと、1980年より放送されたNHKのテレビ番組「シルクロード・シリーズ」やサントリーなどシルクロードを題材にしたCMが好評を博しました。
その意味でそれ以前に、民音が行ったシルクロードシリーズはパイオニアとしての大きな功績があったと思います。日本人にとってシルクロードへの旅行が一般的ではなかったのに猫も杓子も出かけるようになりましたからね。
社会的影響のみならず、学術的にも貴重な成果がありました。
例えば、砂漠の道「オアシス・ルート」の民族舞踊は敦煌の壁画にも描かれた「胡旋舞」のようにクルクル廻る旋回舞踊が主流で、西はトルコから中央アジアを経て東は朝鮮半島まで広範囲にわたって分布しています。
一方草原の道「ステップ・ルート」の騎馬遊牧民のダンスは、乗馬の上下動を思わせる躍動的なステップが基本で、中国では「胡騰舞」と呼ばれています。
この「胡旋舞の道」と「胡騰舞の道」の系譜を私は民音の文化講演会で映像を見せながら発表しましたが、これは日本はもちろん、世界でも前例にない試みでした。
それから日本人にぜひ認識してほしいシルクロードは「ブッダロード」。いわゆる「仏法東漸の道」です。実は日本の音楽がこの「ブッダロード」を通って渡来したからです。その物的証拠が奈良の正倉院に保管されている「亀茲琵琶」などの古楽器で、聖武天皇の御代に営まれたあの大仏開眼供養ではなんと60人の楽人が演奏したという記録も残っています。1000年も前に60人のオーケストラが編成されたのですからビックリしてしまいますね。
民音のシルクロードシリーズは、そうした音楽文化の起源を探る上でも大きな功績があったと思います。
―――明治以降の日本では、学校教育の現場を見ても西洋音楽(クラシック)こそが一番優れているという見方があったように感じます。このシリーズで各国から一流の民族音楽を招聘してきたことによって、音楽に対する価値観への影響もあったのでしょうか?
残念ながら価値観を変えるところまではいっていないのではないかと思います。
例えば、アラビア音楽の旋法は「マカーム」、インド音楽では「ラーガ」といいます。楽器についても奏法やリズムなど西洋音楽とはまったく違うものです。
複雑で高度な音楽の数々をこのシルクロードシリーズを紹介することができましたが、それによって「好奇心」を湧き立てることには、大いに役立ったと思います。
更に民族音楽の素晴らしさを広めるには、西洋音楽と融合させることによって、つまりフュージョンがひとつの解決策だと思いますね。例えば、映画「戦場のメリークリスマス」で坂本龍一さんがインドネシアの音楽と西洋音楽を融合させた曲でアカデミー賞作曲賞にノミネートされましたが、こうしたフュージョンが若者と民族音楽を結びつけるために必要なんじゃないかと思います。
日本には音楽が氾濫しすぎています。電車の車内放送ですら音楽付きです(笑)。しかし、それらは全て西洋音楽の音階です。私は日本古来の邦楽を含め、西洋音楽以外の音楽に対してももっと関心が持たれてもいいんじゃないかと思いますね。
ところで民音のシルクロードシリーズが高い評価を受けたのは、単なる民族音楽の音楽会ではなく、妹尾河童さんなど優秀なスタッフの協力もあり、美術・照明などの面でも芸術的に非常にレベルの高いステージだったことも忘れてはならないでしょう。
そして、そんな芸術の場から友情の場が生まれてきました。
これまでシルクロードのある地域では、ヨーロッパ列強諸国の影響を受けながら国家、国境が成り立ってきました。アフガニスタンが一番わかりやすい例です。イギリスとロシアによって一本の線で国境が引かれた。つまり植民地支配などの影響で国境が決められたわけです。その後、ずっと紛争が続いています。同情を禁じえません。そのような列強諸国の作った国境によって分断されてきた民族が肩を組んで、フィナーレで日本の歌を合同演奏する演出を取り入れました。
民族楽器による日本の歌の演奏は相当な難しさはありましたが、前田憲男さんが編曲に挑戦して解決してくれました。また、日本の振付家による舞踊練習など、苦労を共にすることによって、次々に友情が芽生えてきた。私は「精神のシルクロード」も芽生えてきたことを実感しました。
―――シルクロード企画の今日的な意義をお聞かせ下さい。
21世紀になり、シルクロードシリーズの復活をしたいというお話が、民音からありました。第1回のテーマは「アレキサンダー大王」。
アレキサンダーは、ギリシャから中央アジア、そしてインドへと東征し、最初にシルクロードを踏破した歴史的なスーパースターと言って差し支えありません。
出場国の中で、ギリシャは自国の英雄ですから、大喜びでしたが、エジプトは、何故アレキサンダーをテーマにした舞台に出なくてはならないのかという思いがあったようです、征服された側ですから。ウズベキスタンにいたっては、論外という感じだったみたいですね(笑)。
だからこそ、演出家として出番がきたと、やる気が起こりました。そのために「精神のシルクロード」があるのだというわけで、公演の第二部は全て3カ国の合同演奏にしました。
―――シルクロード企画の今日的な意義をお聞かせ下さい。
アレキサンダーの様々な文献を調べていく中でわかったのですが、アレキサンダーは「全人類は同胞である」という見果てぬ夢を持っていた。
「紀元前3世紀の時代に、その見果てぬ夢を追ってインドまで進んだ」という民音創立者のアレキサンダーに関する論文に深い感銘を受けました。単なる征服者ではなく、「精神のシルクロード」の最初の旅人だったのです。
今回のステージで、アレキサンダーのこうした思い、見果てぬ夢を抱き続けることが人間、特に若者にとって大切であるというメッセージも込めたかった。その理由から、ミュージカル「ラ・マンチャの男」の主題曲「見果てぬ夢」を「青年アレキサンダー大王の道」の主題曲にしました。
こうしてギリシャだけでなく、エジプトもウズベキスタンもフィナーレで「見果てぬ夢」を歌っているうちにアレキサンダー大王が旅した「精神のシルクロード」を歩くようになっていました。
ですから、全公演が終わって帰国するときに、3カ国のメンバーは抱き合って泣きながら別れを惜しんだそうです。
民音「シルクロード音楽の旅」シリーズは、21世紀バージョンも「音楽による対話」を続けてゆきますから、若い方たちもどうか参加してください。
―――ありがとうございました。
「民音シルクロード音楽の旅」公演 年表 | ||
---|---|---|
第1回 | 1979年 | 「遙かなる歌の道」イラク、インド、中国、日本 |
第2回 | 1981年 | 「遙かなる楽人たちの道」中国、イラク、パキスタン、ルーマニア |
第3回 | 1983年 | 「胡旋舞の道」インド、中国、トルコ |
第4回 | 1985年 | 「遙かなる平和の道」ウズベキスタン、中国、トルコ、日本 |
第5回 | 1987年 | 「遙かなる草原(ステップ)とオアシスの道」タジキスタン、中国、モンゴル |
第6回 | 1989年 | 「遙かなる隊商(キャラバン)の道」イラン、アゼルバイジャン、中国 |
第7回 | 1991年 | 「地中海への道」カザフスタン、ギリシャ、エジプト |
第8回 | 1993年 | 「遙かなる叙事詩(バラード)の道」韓国、中国、トルクメニスタン、ネパール |
第9回 | 1995年 | 「遙かなる英雄の道」シリア、キルギスタン、パキスタン |
第10回 | 1997年 | 「遙かなる未来(あす)への道」中国、ウズベキスタン、トルコ |
2009年 | 「青年アレキサンダー大王の道」ギリシャ、エジプト、ウズベキスタン |
藤田 敏雄(劇作家、作詞家、演出家)
Toshio Fujita
1928年生。京都出身。宝塚歌劇団、劇団四季を経て、主としてミュージカルの制作(脚本、作詞、演出)に携わり、日本の創作ミュージカルの草分け的存在である。
主要作品は「俺たちは天使じゃない」「洪水の前」「歌麿」など作曲家いずみたくとのコンビによるものが多く、「歌麿」は1988年にアメリカ(ロサンゼルス、ワシントンDC、アトランタ等)でも上演し、好評を博した。 その他、「蒼き狼」(林光音楽)「リリー・マルレーン」(前田憲男音楽)「12ヶ月のニーナ」(ロジオン・シチェドリン音楽)「チャイコフスキー殺人事件」(石井眞木音楽)などがある。
作詞における代表作は「約束」「若者たち」「希望」など。
また放送作家としての仕事も多く、1964年にはテレビ朝日のオーケストラ番組「題名のない音楽会」を立ち上げ、35年間にわたって企画構成を担当。
さらに1977年以降シルクロードやアジア各地へ調査旅行に赴き、民音“シルクロード音楽の旅”シリーズを10回にわたって構成演出している。
著書に戯曲選集「リリー・マルレーン」(話の特集社)「ミュージカルはお好き?」(NHK出版)などがある。