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[ステンドグラス] 慶應義塾看護教育の原点「看護婦養成所」

2001/09/20 (「塾」2001年AUTUMN(No.231)掲載)
今春、湘南藤沢キャンパスに看護医療学部を開設し、慶應義塾の看護教育は、新しい時代に向けて大きな一歩を踏み出した。
その原点となるのが、今から80年以上前に開設された「看護婦養成所」。
戦後、厚生女子学院、看護短期大学と受け継がれてきた看護教育の原点を紹介する。

- 大学病院設置に先立ち看護教育をスタート

授業風景(大正14年ごろ)
授業風景(大正14年ごろ)
外科手術室(昭和5年ごろ)
外科手術室(昭和5年ごろ)
 慶應義塾における看護教育は、大正7年に開設した「慶應義塾大学医学科付属看護婦養成所(以下、看護婦養成所)」に始まる。
 看護婦養成所は、大学医学科が開設し大正6年に設置認可。翌年約160名の志願者から選抜された第一回生54名の入学式が三田で開催された。最初の1年間は、初代医学部長を務めた北里柴三郎博士が創立した芝養生園内の寄宿舎で学生が生活し、授業や実習は養生園の 食堂や講堂を利用して行われた。
 初代所長には、後の医学部長である北島多一が就任し、日本赤十字中央病院より鈴置銈が看護婦監督として赴任。教員は主任大谷彬亮(伝染病)、尾崎市太郎(内科看護)らで、開設当初から英語教育も行われていた。鈴置監督と共に日赤病院から婦長として赴任し、後に第2代看護婦監督となった松田きくえいは、開設当時の教育現場の様子を次のように述懐している。
 「北島先生、鈴置監督ともに躾のきびしい方でしたから、私もずいぶん気をつかいました。授業は教本なしですから、すべて筆記でした。私も生徒と共に教室で講義を聞いて過ごしました。授業は半日ぐらいで、あとはノート整理に使っておりました」。
 卒業生の証言をたどると、15回生のころまで、こうした筆記による授業が行われていたようである。
 大正8年に大学病院が開設すると共に、看護婦養成所も四谷区西信濃町の現医学部構内に移転する。ここで注目されるのは、大学病院の開設に先立って、看護教育に着手していたことだ。修業年限を終えた看護婦養成所の学生は、大学病院で働く義務年限を経て卒業証書を授与された。修業年限は当初2年間だったが2年半、3年と延長された。一方、義務年限は当初2年間、後に1年半に短縮され、昭和17年に廃止される。
 ここで、看護婦養成所の時代に、学生たちがどのような意識で学業に臨んでいたかについても触れておきたい。というのも、当時は女性が職業を持つということ自体、周囲から奇異の目で見られた時代だったからだ。そのあたりの事情について、11回生の山田美好は、『厚生女子学院六十周年記念誌』に掲載された座談会で次のように語っている。
 「私は学校の先生になるつもりだったんですが反対されまして、お嫁入りの準備をした方がいいなんて言われてたんです。けれども看護婦になりたいと思うようになって、一生独身でもかまわないという気持ちで、猛反対を押し切って東京の叔父を頼って来たわけなんです」。
 当時の学生が看護婦養成所で学ぶことは、現在以上に自分の人生と職業に対する強い意志、すなわち独立自尊の精神が求められたと言えるかもしれない。

- 戦争中の苦難、そして戦後の再生

救急に備えての担架教練(厚生女子学院六十周年記念誌より)
救急に備えての担架教練(厚生女子学院六十周年記念誌より)
 大正11年5月には、産婆養成所が設立され、その後、およそ20年間にわたって看護婦養成所と産婆養成所は別個の学校として併存していたが、昭和19年に合併して「看護婦産婆養成所」となる。
 第2次世界犬戦中、看護婦産婆養成所は苦難の時代を迎えた。昭和20年に入り、東京が米軍機の空襲にさらされるようになると、学生たちも、医師や看護婦と共に空襲で傷ついた負傷者の治療・看護にあたった。そして昭和20年5月24日未明の空襲によって、看護婦寄宿舎を含む大学病院の約6割が焼失してしまう。
 戦後、大きなダメージから立ち直った看護婦産婆養成所は、昭和25年4月、「厚生女子学院」として新たなスタートを切る。看護婦免許も従来の地方免許から国家免許となった。
 その後の医療技術・システムの急激な進展は目覚ましく、厚生女子学院の教育もそれに対応して変化していく。そして、昭和63年の看護短期大学、今年の看護医療学部開設へと至る。
 2回生の村田きくは、同窓会誌に次のように記している。
 「ふと廊下で松田婦長さんと立語をしていたときのことです。『立話はいかん。少しでも患者に不安を与えるような態度は、看護婦として慎みなさい』と北里先生から叱られました」。
 義塾看護教育の主体や方法は変われども、北里の言葉に示される、患者中心の医療・看護の精神は、新世紀へ、そして新学部へと受け継がれていく。

慶應義塾看護教育のあゆみ

大正6年 (1917) 医学科を創設し、慶應義塾大学医学科付属看護婦養成所の認可を得る
大正7年 (1918) 芝白金三光町養生園に仮養成所を設置、第一回生の養成を開始
昭和19年 (1944) 医学科付属看護婦養成所を医学部付属看護婦産婆養成所と改称
昭和25年 (1950) 保健婦助産婦看護婦法により看護婦産婆養成所を慶應義塾大学医学部付属厚生女子学院と改称
昭和29年 (1954) 医学部付属准看護婦学院設置
昭和35年 (1960) 医学部付属准看護婦学院廃止。准看護婦の進学コースとして別科課程設置
昭和46年 (1971) 大学病院付属高等看護学院(准看護婦の夜間進学コース) 設置
昭和51年 (1976) 大学病院付属高等看護学院廃止、厚生女子学院に合併し厚生女子学院に二部課程(定時制)設置
昭和52年 (1977) 学校教育法、施行規則等の一部改正により厚生女子学院は専修学校となる(看護専門課程本科、進学科一部、
進学科二部と改称)
昭和53年 (1978) 厚生女子学院創立60周年記念式典挙行。厚生女子学院進学科一部廃止
昭和58年 (1983) 厚生女子学院進学科二部廃止
昭和63年 (1988) 慶應義塾看護短期大学開講
平成2年 (1990) 厚生生女子学院廃止
平成13年 (2001)  看護医療学部を開設