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[ステンドグラス] 日本建築史を飾る義塾の建築物 ~谷口吉郎氏とイサム・ノグチ氏を中心に~

1999/05/01 (「塾」1999年MAY(No.219)掲載)
日本の近代化の幕開けとともに誕生し、政治・経済・教育・文化をはじめとする社会のさまざまな分野の牽引役として
大きな役割を担ってきた慶應義塾。進取の気象に富んだ福澤精神は、わが国の近代建築史・美術史にも大きな奇跡を残している。
その中で、第2時世界大戦における慶應義塾のキャンパス復興に大きく貢献した人物とその作品を紹介する。

- 三田キャンパス第二研究室「新萬来舎/ノグチ・ルーム」

 慶應義塾の建築・施設は、第2次世界大戦によって多大な被害を被ったが、1947(昭和22)年の慶應義塾創立90周年を契機として、復興に向かった。
 この戦後の慶應義塾キャンバスの再建を語る上で、欠かせない人物がいる。東京工業大学教授であり、建築家の谷口吉郎氏である。生涯を通じて、谷口氏は慶應義塾のさまざまな建築物を設計した(下表参照)。その中で氏の名作の一つとして知られるのが、慶應義塾大学三田キャンパスの「第二研究室」(1951年度建築学 会賞受賞)。この建物は、かつて福澤諭吉が建てた「萬来舎」の跡に位置している。
 戦後の混乱の中、当時の潮田江次塾長から校舎復興を委託されていた谷口氏は、三田山上という土地のもつ意味に思いを馳せると同時に、新しい時代へのはつ刺とした時間を建築空間の中に具体化しよう思索していた。それが「第二研究室」とその1階南側の談話室ホ-ル「新萬来舎」の構想である。
 この時のことを、氏は後に「新しい[第二]研究室が建つ場所は、明治の初年、福澤諭吉がそこに『萬来舎』を開設した跡だった。それは名称のごとく千客萬来、来る者はこばまず、去る者は追わず、今の言葉で一言えば、広く識見を求めようとする対話の場所であった。それが戦災で壊滅したのである。だから新しく建てられる『新萬来舎』は福澤精神の新しい継承を必要とする。従って建築もそれに応じて開国的な新しい意匠でいいはずだと、私は考えた」と述懐している。本来ならば、教授室を連ねた第二研究室の中の談話室にすぎない小空間も、気鋭の建築家・谷口氏にとっては大きな意味を持っていたのである。
谷口吉郎設計による義塾の建築物
 
●幼稚舎校舎 (渋谷区恵比寿 1937年)
●大学予科日吉寄宿舎 (横浜市箕輪町 1938年)
●中等部三田校舎 (港区三田 1948年)
●幼稚舎合併教室 (渋谷区恵比寿 1948年)
●大学第三校舎四号館 (港区三田 1949年)
●通信教育部事務室 (港区三田 1949年)
●大学第二校舎(五号館) (港区三田 1949年)
●大学学生ホール (港区三田 .1949年)
●大学病院は号病棟 (新宿区信濃町 1950年)
●大学第二研究室(新萬来舎) (港区三田 1951年)
●女子高等学校第一校舎(三号館) (港区三田 1951年).
●普通部日吉校舎 (横浜市日吉本町 1951年)
●女子高等学校第二校舎(四号館) (港区三田 1952年),
●大学病院ほ号病棟 (新宿区信濃町 1952年)
●大学第三研究室 (港区三田 1952年)
●大学体育会本部 (港区三田 1952年)
●大学病院特別病棟 (新宿区信濃町 1954年)
●大学医学部基礎医学学第一校舎 (新宿区信濃町1956年)
●中等部三田校舎 (港区三田 1956年)
●大挙医学部基礎医学第三校舎 (新宿区信濃町1957年)..
●慶應義塾発祥記念碑 (中央区明石町 1958年)
●幼稚舎講堂(自尊館) (渋谷区恵比寿 1964年)
●幼稚舎百年記念棟 (渋谷区恵比寿 1976年)

- 谷口吉郎とイサム・ノグチとの出会い

《若い人》
《若い人》
《無》
《無》
 谷口氏が「新萬来舎」構想を練っていた1950年初夏、この構想を大きく実現へと導く重要な人物が登場する。彫刻家イサム・ノグチ氏である。その年の5月に来日したノグチ氏は、当時の潮田江次塾長から谷口氏を紹介される。
 ノグチ氏は、谷口氏の構想に共鳴、推薦を得て、かつて自分の父親が教授を務めていた慶應義塾大学の施設のインテリア・デザイン/空間造形を担当することになる。「新萬来舎」の空間デザインはモダニズムのデザイン史上名高いものである。また、隣接する庭園に設置されている彫刻作品《無》(1950~51)、《若い人》(1950)、《学生》(1951)も、ノグチ氏の傑作としてよく知られている。さらに、ホール内には家具什器を含む内装とともに、別個に家具として長椅子(大)1脚、長椅子1脚、テーブル1台、コーヒー・テーブルー台、スツール4脚の作品がある。後にこれらも、氏の室内デザインの傑作として知られるようになる。やがて「新萬来舎」は「ノグチルーム」と呼ばれるようになった。
 時代の新しいコミュニケーションを空間化しようとしていた建築家・谷口氏と、芸術ジャンルや文化圏を自由に横断するトランス・アートの視点をもった彫刻家ノグチ氏との出会いは、20世紀の世界美術史に照らし合わせても、モダニズムのアート・シーンにおける特筆すべき出来事といわざるをえない。
 環境芸術という概念・方法が脚光を浴びている現在、建築家谷口吉郎と彫刻家イサム・ノグチのコラボレーションの結実たる「新萬来舎/ノグチルーム」は、今後ますますその存在感が増していくことだろう。
谷口吉郎(たにぐち・よしろう)

建築家:1904(明治37)年~1979(昭和54)年。石川県金沢出身。1928(昭和3)年東京帝国大学工学部建築学科卒業、1930(昭和5)年同大学院修了。1929(昭和4)年より東京工業大学に着任、1965(昭和40)年退官。近代性と伝統の調和の実現をめざして、藤村記念堂(1947)や東宮御所(1960)、東京国立近代美術館(1969)をはじめ、数多くの建築物や記念碑を設計、戦後のわが国の建築界で指導的な役害を果たす。建築界にとどまらず、活動分野は多岐にわたった。息子の谷口吉生氏は湘南藤沢中・高等部の建築にたずさわった。
イサム・ノグチ

彫刻家:1904(明治37)年~1988(昭和63)年。米ロスアンゼルスに生まれ。父は詩人野口米次郎、母はアメリカ人作家のレオニー・ギルモア《プレイマウンテン》《鋤のためのモニュメント》《メキシコの歴史》《黒い太陽》などの作品で知られる。1970年大阪万博の噴水を制作。1986年「第42回ヴェネツィア・ビエンナーレ」代表(アメリカ合衆国)。同年、日本建築学全創立100周年記念で稲村財団より京都賞を授与される。1987年、国民芸術勲章(アメリカ合衆国)。1988年、勲三等瑞宝章受勲。同年、スカルプチャー・センター(ニューヨーク)より名誉賞受賞。
【イサム・ノグチ庭園美術館】

イサム・ノグチ氏の日本の活動拠点であった香川県牟礼町のアトリエが、平成11年5月18日から「庭園美術館」として一般公開される。
ノグチ氏のアトリエ。住居「イサム家」の周辺、展示蔵、石壁サ一クル、山の一部を一つの彫刻作品とした「彫刻庭園」など、約5,100平方メートルを公開、代表作《エナジーボイド》のほか・石彫作品と金属作品の完成品・未完成品合わせて約150点が展示される。
 ○所在地::〒761-0121 香川県木田郡牟礼町牟礼3519
 ○開館日:火・木・土(午前:10時 午後:1時・3時)
 *庭園内をスタッフが誘導するため、入館には2カ月前から往復はがきによる予約が必要
 ○入館料:一般2,000円、高校生1,000円、中学生以下無料
 ○問い合わせ先:財団法人イサム・ノグチ日本財団事務局(TEL087-870-1500)