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[慶應義塾豆百科] No.8 「義塾」という名のおこり

慶應義塾の命名の由来は、慶應4年(1868)4月に発表された『慶應義塾之記』に「吾党の士相与に謀て、私に彼の共立学校の制に倣ひ、一小区の学舎を設け、これを創立の年号を取て仮に慶應義塾と名く」とあることではっきりしている。

しかしこれによると「慶應」の説明はなされているが、「義塾」については全く触れるところがない。ところが「義塾」という熟語は当時ほとんど使用例がない新しい用語で、この熟語こそ説明されるべきものであった。そこでこの文章を読み直してみるとその冒頭に、「今ここに会社を立て義塾を創め」とあって、ここでは「義塾」は学校という普通名詞と同じ意味に使われているから、その学校とは先の引用文にある「彼の共立学校」を指しているようである。先生が理想的な私立学校としたのはどこの学校か? この答えを『百年史』では、イギリスのパブリック・スクールと推定している。これは公共団体の基金によって運営される私立学校であるが、ロンドンでそれを視察された先生は、学校の機構や運営方法に大いに感ずるところがあったらしい。それが「彼の共立学校」という訳語になったと察せられる。ロンドンに滞在中に購入された英語と中国語の辞書で“public school”を引いてみると、「義学、学校」とある。この訳を日本の学塾風に「義塾」と改めたのではないかと思われる。

「義塾」という熟語を学校名に付した例はこれ以前にはほとんどなく(皆無ではないが)「慶應義塾」を最古の例としても、大きな違いはないであろう。即ち慶應の前に義塾はないと言って過言ではない。

『百年史』の記述によると明治年間に「○○義塾」と称した学校は125校を数えたとある。また生誕150年を記念して催された「福澤諭吉展」の展示目録をみるとその「義塾という名の学校リスト」にあるその数は350を越え、ほぼ全国に分布するにとどまらず、外国にも設置されて特にヴェトナムの3校(玉川義塾・東京(トンキン)義塾・梅林義塾)は注目される。

(注)最近の研究で江戸時代後期に「義塾」という用語が使われていることが紹介された。その一は、掛川藩儒員松崎慊堂(こうどう)の日記「慊堂日暦」の文政8年(1825)1月25日の条に、慊堂が桑名藩の儒者広瀬蒙斎を訪れて、「義塾の事を議す」とあり、その二は、寺門静軒が天保3年(1832)に著した『江戸繁盛記』4篇学校の項に、「官学外儒門の義塾」とある記事である。この記事の紹介者名倉英三郎
(東京女子大学名誉教授・塾員)は、ここで使われた「義塾」は江戸の官学である昌平坂学問所以外の、諸藩が江戸に設けた江戸学校、学問所ではないかと考えている(『幕末維新期における学校の組織化に関する総合研究Ⅰ』所収論文)。まだ使用例が少ないのでいま一つはっきりしないが、福澤先生はこの「義塾」という古い皮袋に、英国の私立学校制度という新しい酒を盛ったのであろう。