詳細検索結果
以下の条件での結果を表示する: 検索条件を変更
クエリ検索: "ライナーノーツ"
24件中 1-20の結果を表示しています
  • 《ランドスケープ》《地平線のドーリア》《秋庭歌一具》の共通性
    宮川 渉
    音楽表現学
    2018年 16 巻 1-20
    発行日: 2018/11/30
    公開日: 2020/05/25
    ジャーナル フリー

     武満徹の《秋庭歌一具》は雅楽の重要な作品として知られているが、この作品を書く上で下地となった作品が二 曲存在すると考えられる。それは《ランドスケープ》と《地平線のドーリア》である。本稿はこれらの三作品において、どのようなかたちで雅楽の要素が現れているかを検証することにより、これら三作品の共通性を明らかにすることを目的とする。そのためにこれらの作品における音組織と反復性の二点に焦点を当てて分析に取り組んだ。また《地平線のドーリア》には、 ジャズ・ミュージシャンのジョージ・ラッセルが提唱した理論であるリディアン・クロマティック・コンセプトからの強い影響もあると武満自身が語っており、武満は、この理論を用いてジャズよりも雅楽の響きに近いものを追求したと考えられる。 その点も合わせて検証した。

  • 長田 裕臣
    ファルマシア
    2016年 52 巻 11 号 1057_1
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/01
    ジャーナル フリー
    遡ること数十年前,中学生だった私は同級生の影響でロックを聴くようになった.当時の日本は歌謡曲が全盛でJ-POPなる言葉もなく,ロックと言えば欧米が主流であった.同級生から紹介された作品の中で,エイジアの1stアルバムが一番のお気に入り.ドラマティックな楽曲に魅力を感じ,関連作品も聴いてみたくなる.YouTubeはおろかネットもない時代,
    ライナーノーツ
    を頼りにエイジア各メンバーの足跡を辿ることにした.
  • 杉山 紘一郎
    芸術科学会論文誌
    2008年 7 巻 4 号 170-180
    発行日: 2008年
    公開日: 2009/01/14
    ジャーナル フリー
    電子付録
    風が通り抜けると、ひとりでに音を奏でるエオリアン・ハープ。不思議な印象を与える発音方法と繊細で神秘的な音色のため、古くから人々を魅了してきた。しかし、現在では都市の喧噪に飲み込まれるようにほとんど失われつつある。本稿では、エオリアン・ハープの歴史的な背景をおさえながら、独特な発音原理を紐解いていく。そして、オーストラリアやアメリカで活躍しているエオリアン・ハープ・アーティストの作品、著者によるエオリアン・ハープの実践を紹介していく。多くのアーティストは主に安定した風の吹く広大な土地の中で実践を行なっている。しかし、著者は住んでいる都市にエオリアン・ハープを組み込むことを考えた。普段感じている都市特有の複雑な風をエオリアン・ハープの音を通じて改めて感じ、日常的な感覚をより鋭敏にするためである。また、こうした体験を通じて制作した新たなエオリアン・ハープを紹介し、現代におけるエオリアン・ハープの可能性を探る。
  • ―ジョン・ゾーン《コブラ》 (アマチュア版) の制作と小学校音楽科における実践
    寺内 大輔
    音楽教育実践ジャーナル
    2015年 13 巻 1 号 92-103
    発行日: 2015年
    公開日: 2017/05/30
    ジャーナル フリー
  • 木村 寛子
    山梨英和大学紀要
    2011年 10 巻 A83-A94
    発行日: 2011年
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は、予測を外す表現や非常識な発想をおかしみと共に受け入れる方法を明らかにすることである。そこで、予測とのずれ、常識とのずれを含むユーモアエッセイを分析資料とし、資料から読み取ることのできるずれを確認したうえで、理解主体がずれの他に読み取っているものや感じとっていることを、周囲の表現を見ながら明らかにするという手順で分析を行った。分析の結果、ずれを生み出す表現主体の着眼点や、本題とは無関係な理屈、常識的ではない発想の中にある日常性などを、理解主体はずれの他に読み取っていること、そこからさらに表現主体の心理や現状を想像できるようになることが明らかになった。表現主体の発想を理解し、心情を想像することは、理解主体が表現主体に共感したり期待を抱いたりすることにもつながるだろう。このような過程を通して理解主体の中に生まれる共感や期待が、ずれをおかしみと共に受け入れるために重要だと考えられる。
  • 在宅から災害時まで,いざというときの適切な処置と役割
    東田 道久
    ファルマシア
    2016年 52 巻 11 号 1057_2
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/01
    ジャーナル フリー
  • 庄野 進
    美学
    1995年 46 巻 1 号 56-66
    発行日: 1995/06/30
    公開日: 2017/05/22
    ジャーナル フリー
    Since the birth of electroacoustic media our listening attitude has been changed fundamentally, because of the very character of those media : the acousmatic. P. Schaeffer has defined it to listen to the sounds of which sources are invisible or unknown, refering to Pythagorean ritual. The traditional listening attitude has assumed the real sounding substance behind the reproudced sounds. But nowdays, because of the development of music technology, we can mostly get sounds that have been created from scratch or modulated electronically as a whole. We listen to surface sounds, which are also real in another meaning. Today, even in the live performance of traditional classical music, people receives it in the same manner as through the acousmatic media. It means that the model of the musical experience becomes the acousmatic. It follows the loss of the physicality in the experience of sounds. Some effort in the electroacoustic and computer music are made to retrieve the physicality of sounds, investigating live performance or interactive systems. Or, it is pursued that certain contextualization of those sounds occurs while receiving those acousmatic sounds, by cover jackets, liner notes or discourse of record reviews. In either case, however, if we lose the experience of the real live sounds, we must be imprisoned in a kind of cultic world.
  • 葛西 周
    音楽学
    2021年 67 巻 1 号 52-54
    発行日: 2021年
    公開日: 2022/10/15
    ジャーナル フリー
  • ―カンタン=ブローの「預言」への一考察―
    市井 吉興
    スポーツ社会学研究
    2022年 30 巻 1 号 7-23
    発行日: 2022/03/30
    公開日: 2023/04/26
    ジャーナル フリー
     本稿の目的は、国際オリンピック委員会によるライフスタイルスポーツのオリンピックへの取り込み(co-option)をめぐるカルチュラルポリティクスに注目し、ライフスタイルスポーツがオリンピックとの関連で避けることのできない「コンフリクト」について、検討を試みることにある。
     このコンフリクトとは、ライフスタイルスポーツがオリンピックに取り込まれるとき、ライフスタイルスポーツが、ヘニング・アイヒベルグ(Henning Eichberg)が述べた「業績達成型スポーツ(achievement sports)」という近代スポーツのイデオロギーとの「同一性」を求められることである。以下に、本稿の議論のプロセスを簡潔に示したい。
     第1章では、ライフスタイルスポーツが「業績達成型スポーツ」という近代スポーツのイデオロギーへの「抵抗」や「オルタナティブ」といった独自のスポーツ文化を掲げて誕生、発展してきた意義を、改めて確認する。
     第2章では、ライフスタイルスポーツがIOCによるオリンピックへ取り込まれるプロセスを、2014年12月にIOC総会で決議された「オリンピック・アジェンダ2020」の前後でのカルチュラルポリティクスの違いに注目する。
     第3章では、ライフスタイルスポーツがオリンピックに取り込まれるとき、ライフスタイルスポーツが近代スポーツのイデオロギーとの「同一性」を求められることで生じる「コンフリクト」について検討を試みる。この問題を検討する際、テオドール・アドルノ(Theodor Adorno)が『否定弁証法』(1966=1996)において深化させた「物象化」概念を援用したアントワーヌ・カンタン=ブロー(Antoine Cantin-Brault) のスケートボード分析に注目したい。
     カンタン=ブローは「スケートボードが2020年にオリンピック種目になる可能性があることは、スケートボードの物象化の最後の一撃となることは間違いないだろう」[Cantin-Brault, 2015: 65]と述べたが、彼の「預言」をどのように解釈するのかが、2020東京オリンピック後のライフスタイルスポーツのあり方とも関わることになると考える。
  • 1920-40年代・丸福レコードの実践を通して
    高橋 美樹
    ポピュラー音楽研究
    2006年 10 巻 58-79
    発行日: 2006年
    公開日: 2009/10/29
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は1920-40年代に沖縄出身の普久原朝喜が丸福レコードにおける〈媒介者〉として、どのような実践をしていたのか明らかにすることである。制作者としての役割を果たしながら、歌手・演奏家、聴衆を仲介する人物として、朝喜の実践を分析した。結論は以下の3点である。第1に、朝喜はレコードを沖縄、日本、海外における沖縄系エスニック・コミュニティに向けて発信するスタイル、つまり〈内向き〉発信スタイルに基づきレコードを発売していた。第2に、レコード制作は沖縄固有のローカル性に富み、聴衆と販路は国境を越え流動化していた。ただし、丸福レコードの活動は国という地理的な境界は越えたが、沖縄人という民族的な境界は越えていなかった。第3に、大阪在住の朝喜の存在は沖縄移民の中継地として機能していた。朝喜は沖縄、日本、海外における沖縄系ネットワークを有効に活用し、レコード制作販売に反映させることで商業的成功を成し遂げたといえる。
  • 桝矢 令明
    美学
    2001年 52 巻 1 号 70-83
    発行日: 2001/06/30
    公開日: 2017/05/22
    ジャーナル フリー
    In this paper I make a study of B. Eno's Ambient Music by examining its conceptual and methodological relationship with experimental music. In particular, I approach Discreet Music (1975), which could be regarded as the incipient work of Ambient Music, through (1) a comparison of Eno's idea of hearing music as part of the ambience of the environment with E. Satie's "furniture music" ; Satie is "the only pre-experimental composer whose work is more than merely relevant..." (Nyman) ; (2) studying the relationship between the methodology of the Tape Delay System in Discreet Music and J. Cage's "rhythmic structure"-Cage belonging to the first generation of experimental music-and (3) the examination of the influence of S. Reich's early tape music It's Gonna Rain (1965) and of his methodological essay, Music as a Gradual Process (1968) ; Reich is typical of the composers of the post-Cage generation. Through the discussions in this paper, I would like to clarify what Ambient Music is, and show how I have arrived at the interpretation of it as "music as perceived sound".
  • 難波 弘之
    ポピュラー音楽研究
    2000年 4 巻 71-82
    発行日: 2000年
    公開日: 2009/10/29
    ジャーナル フリー
  • 奏者間のやり取りに着目した検討
    寺内 大輔
    音楽表現学
    2017年 15 巻 55-72
    発行日: 2017/11/30
    公開日: 2020/05/25
    ジャーナル フリー

    本稿は、アメリカの音楽家、ジョン・ゾーン(John Zorn 1953— )の代表作《コブラ(Cobra)》(1984)を対象とし、その演奏行為に内在する〈ゲーム〉としての特質を考察する論文である。まず、〈ゲーム〉としての特質が内在する音楽のなかで、《コブラ》以前にゾーン以外の作曲家によって作られた諸作品が持っていた特質を振り返る。次に、《コブラ》における奏者間のやり取りに着目した検討を行い、演奏の進行を司る〈プロンプター〉が〈ゲーム〉を活性化させるためにトリックスターとしての性格を有していることを指摘し、また演奏者相互のやり取りが流動的な関係性のなかで 展開していることを論じる。それをふまえ、《コブラ》の演奏行為に含まれる〈ゲーム〉としての特質を 4 つの視点で考察 する。最後に、〈ゲーム〉としての《コブラ》が多様な側面を持っていること自体が、前述の《コブラ》以前に作られた諸作品には見られなかった特質―面白さを生み出したと結論づける。

  • ――日本語教育文法の視点から――
    庵 功雄
    日本語教育
    2009年 142 巻 58-68
    発行日: 2009年
    公開日: 2017/04/25
    ジャーナル フリー

     「でしょう(だろう)」には推量と確認の2つの用法がある。しかし,実際の発話データを分析した結果では確認が多数派である。特に,推量の「でしょう」の言い切りの用法は極めて少ない。「でしょう」で言い切ることができるのは発話者が「専門家」である場合(天気予報はその典型である)など一部の場合に限られる。にもかかわらず,日本語教科書では推量の「でしょう」(言い切り)は必ず導入されている。これは「体系」を重視する日本語学的発想によるものであり,「日本語学的文法から独立した」日本語教育文法という立場からは否定されるべきものである。本稿では発話データと日本語教科書の分析を通して,「でしょう」の実相を明らかにし,それに基づいて「でしょう(及び「だろう」)」の導入の順序について論じる。本稿は白川(2005)らが主張する日本語教育文法の内実を豊かにすることを目指すものである。

  • 大坪 英之
    デジタルアーカイブ学会誌
    2022年 6 巻 1 号 20-24
    発行日: 2022/02/01
    公開日: 2022/03/22
    ジャーナル オープンアクセス

    現在日本においてアニメ作品は日々大量に制作されていることは異論がないが、しかし、どのような作品が公開されたり、過去にどのようなパッケージが販売されていたのかは十分に明らかではない。また、それら作品制作/製作に関わったスタッフ等については、公開されている情報の中でも内容の信憑性が保証されたものは限られている。現在公開されている情報のうち、どこまでが信用できるのか、それはなにに依拠しているのか、現在進行形で対処している事はなにか、問題解消を阻む障壁はなにかについて明らかにする。

  • 演奏形式と楽曲構造にみる「廻り」のパラダイム
    谷 正人
    東洋音楽研究
    2005年 2005 巻 70 号 19-33,L2
    発行日: 2005/08/20
    公開日: 2010/02/25
    ジャーナル フリー
    Charkh is one of many keywords when considering Iranian culture. In Persian, Charkh initially means “a wheel”, and secondarily “firmament and fate”. In Iranian culture, “firmament and fate” must be regarded as “circulation”, and moreover, the Iranian view of life is often likened to “the wheel of fate”.
    This concept of Charkh is applicable not only for exploring the view of life of Iranian people in Persian classic poetry studies, but also for various fields in Iranology. For example, in Persian music studies, the concept of Charkh, though not necessarily extending to being a view of life is, nevertheless, highly suggestive if only for its implications of “circulation”. In this paper, I illustrate how a Charkh-like structure is reflected in performance type and in the musical structure of Iranian music, and how it exists in various scales as multilayers and interlaces in one performance. Finally, I clarify the Iranian way of listening, feeling and making music which is peculiar to a Charkh feeling.
    The Charkh-like structure in Iranian music indicates the following temporal distribution of traditional melody types such as “change and recursion of tessitura and atmosphere”. Several traditional melody types, which constitute the mode of Iranian music, are, roughly speaking, performed from melody types, which take on lower tessitura, to melody types which take on higher tessitura. And after reaching the highest tessitura of the mode, it returns quickly to the tessitura and atmosphere of a base through a certain fixed melody type called “forud (down)”.
    This “Charkh” structure is surely reflected in the performance type and musical structure of Iranian music, and exists on various scales in multilayers, and interlaces each other in one performance. There is, therefore, way of listening, feeling and making music peculiar to a “Charkh feeling” there. For example, when a performance is heard independently, it can be heard as a climax, and in a “Charkh feeling”, it turns out that its emotional expression is controlled for the following further climax. Moreover, the melody type called “forud” is recognized and felt not as a merely descending figure but as a “recursion” function that forms “Charkh”.
    Namely, this “View of Charkh” has a very important meaning in the mind of the leading player during improvisation in terms of “what to do next?” In the world of traditional music, musical acquisition is not merely memorizing traditional melody types as a repertory but rather the acquisition of a “View of Charkh”. Even in improvisation for fun, a musician sets up a “forud” based on this “View of Charkh”.
  • 柳沢 英輔
    文化人類学
    2021年 86 巻 2 号 197-216
    発行日: 2021/09/30
    公開日: 2021/12/26
    ジャーナル フリー

    本論の目的は、フィールドレコーディングを主体とする実践的な研究手法としての音響民族誌(sonic ethnography)について、その意義を論じることにある。音響民族誌とは、人類学的なフィールドワークの成果物としてのフィールド録音作品のことを指す。人々の営みを経験的に記述する民族誌において、聴覚的な経験よりも視覚的な経験が重視されてきたため、音や録音メディアの持つ可能性はこれまで十分に検討されてこなかった。近年、音響民族誌が注目されるようになった技術的、理論的な背景として、機材のデジタル化により録音・編集環境が一般化したこと、そして、1980年代以降の「音の人類学」、「感覚の人類学」、「感覚民族誌」など、ロゴス中心主義、画像中心主義に対抗し、視覚以外の諸感覚や身体経験に着目した研究の潮流がある。

    本論では『うみなりとなり』という筆者らが制作した音響民族誌を事例として取り上げる。結論として以下のことが言える。第1に、音響民族誌は、音を通して、ヒト、モノ、自然が響きあう相互的で、流動的な世界の在り様を描くことで、我々のモノや世界の捉え方を転換させうる。第2に、録音という行為を通した人やモノ、場所との感覚的な繋がり、調査手法やプロセスへの省察的な考察と循環に、その意義や可能性がある。

  • 慶田 勝彦
    アフリカ研究
    2001年 2001 巻 59 号 116-122
    発行日: 2001/12/10
    公開日: 2010/04/30
    ジャーナル フリー
  • 近藤 博隆
    ロシア・ユーラシアの社会
    2021年 2021 巻 1056 号 75-85
    発行日: 2021年
    公開日: 2023/03/08
    ジャーナル フリー
  • 踊りの物語 ——慈しみの時——
    富田 大介
    芸術文化観光学研究
    2023年 2 巻 182-193
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/10/25
    ジャーナル フリー
feedback
Top