5分で分かった気になるモンロー講座
(真剣に理解したい方は一生かかりますが!)
もし、彼女が生きていたら
どんな90歳のお婆さまになっていたでしょう。
アイリス・アプフェルさんともに、
世界一おしゃれでセクシーなおばあちゃんとして
世界中のメディアに紹介されていたかもしれませんね。
1962年8月5日、36歳の若さでこの世を去ったモンロー。
死に至るまでの経緯は、ここではあまり触れません。
ただただ今もなお、世界中に根強いファンが
存在するのは事実なのです。
ここに25枚の写真を集め、年代順に並べてみました。
愛を求め続けた彼女の変遷を確認しながら、
彼女の90歳を祝おうじゃありませんか。
(C)Getty Images
1926年6月1日、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれた彼女。母親は精神病を患っていたようで、1934年には入院。母の親友であるグレース・マッキーの世話になります。そして1935年、9歳のときに里親であるグレース・マッキーの結婚にともなって、ロサンゼルスの孤児院へ入ります。その後、いくつもの養家をたらい回しにされるという幼少期を過ごします。第二次世界大戦下の16歳のとき、高校を中退し、最初の結婚をします。そして19歳のとき、航空機部品工場で働いていたモンローの写真が陸軍機関誌『YANK(ヤンク)』に掲載されたことがきっかけとなり、ハリウッドスターへの階段を登っては降り、登っては降り、そしてまた登っていったのでした。
その後、良いこともスッタモンダもありながら、トップスターへと登り詰めたかのように見えた彼女だったのですが…。1962年8月5日、36歳のときに自宅の寝室で死亡。モンローの葬儀は、ジョー・ディマジオが取り仕切ったということです。
身長は166.4cm、体重は53.5kg、スリーサイズはB94-W61-H86と、Wikipediaには記されています。トレードマークは口元、真っ赤に塗られたリップとホクロです。「モンロー・ウォーク」という独特な歩き方も生み出しました。靴のサイズは24.5cm。髪はブロンドのイメージですが、本当の髪の色はブルネット(褐色)だったようです。
そして「モンロー」というステージネームは、彼女の実母の旧姓…。様々な理想への思いが複雑に融合して、20世紀最高のセックスシンボルは誕生したのでしょう。そして、様々な欲望の渦中に遭遇して……。
では皆さん、この25枚の写真から彼女の魅力を、今一度噛みしめてみてください。そして、彼女を知っている人も知らない人も、一人の美女が繰り広げた一生を垣間見ることで、なんらかの英気(鋭気も)が養えれば…幸いです。
生後10カ月のノーマ・ジーン
Photograph/Mondadori Portfolio via Getty Images
【1927年4月】
ロサンゼルスにて。ピュアに、そして実に可愛いらしい笑顔を浮かべている子が、生後10カ月のノーマ・ジーン・ベイカーです。のちのマリリン・モンロー。父親は誰なのか曖昧なまま、母親だけの片親家庭に生まれました。生まれたときの出生証明書には、ノーマ・ジーン・モーテンソンと記載。当時、実母のグラディス・ベイカー(旧姓モンロー)が結婚していた相手、エドワード・モーテンソンの姓からとっています。そして1928年には、両親は正式に離婚。
かなり複雑なので、この時点でわからなくなっているかもしれませんね。もし、もっと知りたくなったら、のちほどご自身で調べるといいでしょう…。
ノーマという本名は、映画好きの母が当時お気に入りだった女優、ノーマ・タルマッジからとったそうです。「ジーン」に関しては、1930年代のセックス・シンボルであるジーン・ハーロウに由来するとのこと。まさに命名時における実母の思いを、彼女は自ら成し遂げようと努力したのかもしれません、そうも思えてくるのです。そこでその階段を登るために、時折無理をする。その無理が貯まるに貯まって、このような結果になったのかも…そうも思えるのでした。
幼少期、ビーチにて
Photograph/Archive Photos(Getty Images)
【1930年頃】
6歳の頃の、ノーマ・ジーン・ベイカー。ストライプ水着でビーチで遊んでいます。実に無邪気な表情です。その視線の先にいたのは、お母さまなのでしょうか?
7歳の頃のノーマ・ジーン・ベイカー
Photograph/Silver Screen Collection(Hulton Archive/Getty Images)
【1933年頃】
7歳の頃のノーマ・ジーン・ベイカー。庭で犬と一緒に遊んでいます。1933年8月に里親から離れ、一度母親にもとに戻ります。その頃の写真でしょうか。しかし、翌年の1934年に母親は入院することに。そして母親の親友であった、グレース・マッキーの世話になります。1935年8月、グレース・マッキーがアーヴィン・シリマン・ゴタードと結婚することにともなって、彼女はロサンゼルスの孤児院に預けられることになるのでした。そんななか週末は、グレースと過ごせる生活をしていたようです。
グレースの家も安定したのでしょうか、1937年6月にはグレースのいるゴタード家に引き取られるのでした。しかし、グレースの夫であるドック・ゴタードから性的虐待を受けることに…。そしてこの年の11月に、実母の義妹の母であるアイダ・マーティンと暮らすようになるのでした。
しかし、ここでも。1938年6月、12歳を迎えた彼女は従兄弟のジャックにより性的暴行を受けたのでした。そして同年8月、グレースの父親の姉であるイーディス・アナ・アッチンソン・ロウワー(通称アナ)と暮らすようになったのでした。
14歳の頃、家族と一緒のノーマ・ジーン
Photograph/Silver Screen Collection(Hulton Archive/Getty Images)
【1938年頃】
12歳の頃のノーマ・ジーン・ベイカーです。彼女の背後に立っているのが、当時の育ての親であるアナおばさん(イーディス・アナ・アッチンソン・ロウワー)。そして、その家族の友人とともに記念撮影です。どことなく、安定した表情ではないでしょうか。彼女にとって、しばし平和は日々が続いたのかもしれません。しかし、その後…。
1940年12月、アナおばさんの心臓病が悪化したのか、再びゴダード家に引き取られることになったのでした。
ノーマ・ジーン、14歳の頃
Photograph/John Rodgers/Redferns
【1940年頃】
苦難など感じさせない、実に爽やかで素直な笑顔を見せている14歳のノーマ・ジーン。この頃は、いくつもの家をたらいまわしに預けられていたにも関わらず…。そして、翌年の1941年9月には高校進学。この頃15歳のノーマ・ジーンは、のちの結婚相手となる当時20歳のジェームス・ドハティに出会うのでした。
16歳でジェームスと最初の結婚
Photograph/Getty Images
【1942年6月】
1941年に進級した高校は、半年で中退。そのうちにゴダード家の引っ越しが決まり、孤児院に戻るか結婚かの選択に悩み彼女。その結果、彼女は当時の育ての親のすすめで知り合った近所に住むジェームス・ドハティと、最初の結婚をすることに。
航空機製造会社の整備工だったジェームスは、のちに海軍に徴兵され輸送船団に乗り組むことに。ふたたび独りになった彼女は、航空機部品工場に就職。自活の道を歩き始めたのでした…。そんな境遇のなかも、彼女の愛は継続します。1943年には、ジェームスの任地であるカタリーナ島に赴くことも。遠距離ながらも二人の絆は、この後もしばらく継続していたのでした。
20歳のときにスクリーンテストし、合格する
Photograph/Apic(Getty Images)
【1946年】
髪の色をご確認ください。この年に彼女は髪をゴールデン・ブロンドにブリーチしています。そして20世紀フォックスのスクリーン・テストに合格し、7月に契約。そして8月、「マリリン・モンロー」という芸名に決定。この年が、マリリン・モンロー誕生の年でもあります。1946年がマリリン・モンローの誕生日でもあるので、生誕70年とも言えるかもしれませんね…。マリリンの名は1920年代のブロードウェイの美貌の舞台女優マリリン・ミラーに由来しているそうです。
なお夫のジェームスは、モデル業に理解することがなかった…、よってこの年、1946年9月に結婚後4年という時間に終止符を打ち、離婚しました。
スクリーンテストまでこじつけた経緯は、1944年の秋から軍の映画班によって宣伝用写真のモデルとなったことに始まります。1945年の19歳の誕生日を迎えて間もなくには、報道部員デビッド・コノバー一等兵に見出されて、陸軍の機関誌『YANAK(ヤンク)』に掲載されることに。その写真がポッター・ヒューズという写真家の目に留まり、カバーガールになるようすすめられ、彼女は工場を辞めてハリウッドのモデルクラブ「ブルーブックス・モデルズ・エージェンシー」の専属モデルに応募。モデルの基礎教程を終えての初仕事は、ロサンゼルス博覧会場でのイベントコンパニオンでした。
やがて、新進の写真家アンドレ・ド・ディーンズと知り合うことで、モデルとしての才能を開花。この年、二人で長い撮影旅行に出かけています。ちなみにアンドレ・ド・ディーンズの作品は09で紹介している『POST』のカバーのそのひとつです。その後に、髪をゴールデン・ブロンドに染めることで、セクシーなピンナップガールへの道が開けます。そうした道のりの末、ハリウッドの扉が開いたのです。そして、このスクリーン・テストで見事合格したのでした…。
さわやかなポートレートもあるんです。
Photograph/Earl Theisen(Getty Images)
【1947年】
20世紀フォックス契約の新人女優として、ロサンゼルスの青空バックに撮影したカットです。カメラマンはアール・ザイゼン。実にフレッシュに、そして屈託のない笑顔を見せてくれるマリリンです。
しかし、彼女の苦難の道は続いていました…。この年、20世紀フォックスの『Scudda Hoo! Scudda Hey!(嵐の園)』という映画で、端役として初出演したのですが…、その演技の結果は将来性が感じられなかったということで契約は打ち切られることに。
『POST』のカバーガールを務める
Photograph/Andre de Dienes(Picture Post/IPC Magazines/Hulton Archive/Getty Images)
【1947年12月13日】
これまた爽やかな表情で、写真誌『POST』のカバーモデルとして登場の女優マリリン・モンロー。このときの特集は、「What Happens to POOL WINNERS」です。ちょっと表紙の状況設定とリンクしているかはわかりません。この翌年に開催されるロンドン五輪の代表を決定する水泳大会でもあったのでしょうか???
カメラマンは彼女のモデルとしての才能を見い出した、前出の新進写真家アンドレ・ド・ディーンズです。ちなみに『PICTURE POST』は、1938年から1957年まで発刊されたイギリスのフォトジャーナリスティックな雑誌です、創刊後2カ月後で発行170万分となった偉大な雑誌。アメリカの『LIFE』誌と並ぶ存在でした。
前ページでも触れているように、この年の2月、映画『Scudda Hoo! Scudda Hay!(嵐の園)』に出演し、スクリーンデュー。さらにすぐの5月には、『Dangerous Years』(日本未公開)にも出演しています。が、しかし、前出のとおりあまり評判はよろしくなく、あえなくフォックス社との契約更新は打ち切りになった次第なのです。やはり、まだまだ彼女の波乱万丈は続くのでした~。
ネイティブ・アメリカンの羽根付きヘッドバンドをつけて
Photograph/John Kobal Foundation(Getty Images)
【1948年】
ネイティブ・アメリカンの羽根ヘッドバンドを装着してのピンナップ撮影を行ったマリリン・モンロー。前年、20世紀フォックスから契約を打ち切られた彼女は女優への夢を諦めきれず、3月にコロムビア映画に移籍します。
ちなみに移籍の条件として、「額の生え際の脱毛と髪の脱色」が提示されました。そして7月、『Ladies of the Chorus』(日本未公開)で準主役に抜擢。しかしながらここでも、彼女の前に壁が立ちはだかるのでした。コロムビア映画とはその一本のみで終了、9月に再契約はなしと告げられたのです。
その後は生活は当然苦しくなり、そのため再びヌードモデルなどをしながら演技の勉強をしながら、エージェントを探し続けたのでした。そんななか10月に写真家トム・ケリーと知り合い、12月大晦日のパーティでウィリアム・モリス・エージェンシーの副社長ジョニー・ハイドと出会います。この二人の登場人物が加わったことで、再びマリリン・モンローという舞台に活気が蘇るのでした。
ちなみに写真家トム・ケリーと翌年1949年5月に撮影したカレンダー用作品「ゴールデン・ドリーム」は、現在もオークションでは高値で売買される貴重なもの。そして、その後にスキャンダルを巻き起こすことにもなる作品なのです。ジョニー・ハイドとの出会いのほうも重要です。成功の階段を登るきっかけは、彼の貢献のほうが大きいかもしれません。2月に 『Love Happy』(日本未公開)に出演し、8月には『A Ticket to Tomahawk(彼女は二挺拳銃)』に、10月にはジョン・ヒューストン監督作品『The Asphalt Jungle(アスファルト・ジャングル)』(公開は1950年)にも出演するというふうに、とんとん拍子に役が増えていったのでした。
『アスファルト・ジャングル』の宣材用ポートレート
Photograph/Transcendental Graphics(Getty Images)
【1950年頃】
1950年5月に全米公開されたジョン・ヒューストン監督作品『The Asphalt Jungle(アスファルト・ジャングル)』に、エージェントであるジョニー・ハイドの尽力によって出演することになった23歳のモンローです。
この写真は、そのときのプロモーション用のポートレート。黒のカクテルドレスを着用し、ポーズは定番の片手をついての斜め女の子座りに。もう一方の手は口元へ…。これぞ美女撮影のトラディショナルであり、そのオリジンはここにあるかのように決まっています。そして彼女の表情を確認してください。マリリン・モンローいまだ24歳前後の頃、セクシーというよりも美形な印象が強いのではないでしょうか。
『イブの総て』のリハーサルにて
Photograph/Hulton Archive(Getty Images)
【1950年頃】
1950年に公開された、20世紀フォックスの映画『All About Eve(イヴの総て)』の撮影に臨むマリリン・モンロー。監督であるジョーゼフ・L・マンキーウィッツによる演技指導ではなく、光の当たり方を照明担当が確認しているリハーサルシーンでした。
この年、映画出演も順調に増えていく兆しを感じながらも、彼女は秋からカリフォルニア大学ロサンジェルス校世界文学夜間クラスに入ります。
『All About Eve(イヴの総て)』の評価もよく、12月にはウィリアム・モリス・エージェンシーと3年契約という初めての複数年契約を結ぶことに。しかしながら同じく12月、これまで映画のキャスティングに尽力していたジョニー・ハイドが、心臓発作後死亡することに…。彼女の生涯は、こうした起伏の繰り返しばかりなのです。
“Stars of Tomorrow Award”を受賞したマリリン
Photograph/Earl Leaf(Michael Ochs Archives/Getty Images)
【1952年】
1月26日、マリリン・モンローはロサンゼルスにて、“Stars of Tomorrow Award”のトロフィーを受賞したときのディナー席でしょうか。ここで自信を得たのかもしれません。ただの美女からセクシーな女性へと進化しているような気がするのです。この頃には、彼女へのファンレターは毎週2~3千を超える数が届くようになっていたそうです。ちなみに前年の1951年の春に、作家アーサー・ミラーと出会っています。そして、ヤンキーズを引退したばかりのジョー・ディマジオには、この年1952年に出会うことに…。
『紳士は金髪がお好き』の名場面です。
Photograph/20th Century-Fox(Getty Images)
【1953年頃】彼女をトップスターへと引き上げた最初の作品と言っていいものが、1953年7月公開となった映画『Gentlemen Prefer Blondes(紳士は金髪がお好き)』ですね。紳士たちが、彼女を囲むという名場面です。この場面にインスパイアされたシーンが、その後映画やミュージックビデオで時折見受けられます。
ジェーン・ラッセルとともにチャイニーズ・シアターにて
Photograph/Hulton Archive(Getty Images)
【1953年6月】
この年、彼女は名実ともにトップスターに輝いたのです。マリリン・モンローが27歳になったばかりの6月26日です。『紳士は金髪がお好き』で共演したジェーン・ラッセルとともに、ロサンゼルスのチャイニーズ・シアターの前庭広場に手形・靴型を押し、サインも綴ったのでした。
Photograph/Murray Garrett(Getty Images)
当日、インタビューを受けているマリリン・モンローとジェーン・ラッセル。ようやく自信を持ち始めたのでしょうか、美しくも凛々しい表情ではないでしょうか。んん~、どうでしょうか。彼女は最初から自信をもっていたようであり、まったくこの後ももっていなかったようであり…。その辺は、本人しかわからないことですね。しかし、美しいルックスではないでしょうか。
では、チャイニーズ・シアターのニュース動画もご覧ください。
『帰らざる河』の一場面
Photograph/J. R. Eyerman(The LIFE Picture Collection/Getty Images)
【1954年】
1954年4月全米公開、オットー・プレミンジャー監督の『River of No Return(帰らざる河)』の名場面です。マリリン・モンローは酒場の歌手ケイ・ウェストンを演じました。その酒場で歌うシーンです。時にギターを弾き、ときにこのようにピアノに横たわり、お色気たっぷりに歌ってくれたのでした。
そしてこの年の12月、マリリン・モンローはプレイメイト第一号として『PLAYBOY』創刊号を飾ったのでした。
ジョー・ディマジオとの新婚旅行は日本へ!
Photograph/Sports Studio Photos(Getty Images)
【1954年】
1月14日に、元ニューヨーク・ヤンキースに所属し、最も知名度の高いプロ野球選手だったジョー・ディマジオと、サンフランシスコ市庁舎で結婚をいました。そして新婚旅行はアジアへ。2月1日には読売ジャイアンツの招きもあって日本に訪れ、東京国際空港で大歓迎を受けました。
二人は約3週間日本に滞在。東京・静岡・福岡・広島・大阪と回りながら、ディマジオは野球指導を行っっていました。そうしているうち、福岡まで二人は仲睦まじかったようですが、広島でディマジオがカープ選手に打撃指導を行っていたところ、球場には来ないように言われてたマリリン・モンローが同球場に訪れることに…。そこに、ディマジオそっちのけでファンが殺到したのでした。
その後二人の関係は悪化し、結婚生活は9カ月しか続きませんでした。その理由に、広島で約束を破って球場に来たことでディマジオに怒られたことをキッカケに離婚へと発展した…ということも語られています。しかし、彼女のこれまでの困難な生活からすれば、どうってことないようにも思えますが…。とはいえ、もはやトップスターであったマリリン・モンローです。プライドも高~く、築き上げられていたのでしょうか。
そんななかディマジオのほうが、結婚時に彼女と取り交わした約束、「もし私が先に死んだら、毎週お墓に花を供えてくれる?」「きっとそうするよ!」の約束を守って、自らが亡くなるまで花を供え続けたという話です。
そのまま戦争中の朝鮮半島へ
Photograph/Interim Archives(Getty Images)
【1954年】
新婚旅行が日本だったからでしょうか、途中、朝鮮戦争のため駐留していた在韓米軍を慰問してほしいという依頼が舞い込んだのです。そこでディマジオばかりスケジュールが詰まっていて、暇を持て余していたマリリン・モンロー。それを断る理由はなかったようです。
しかし、ディマジオは当然反対します、新婚旅行なのですから…。結局、喧嘩するようにして韓国へ向かったマリリン・モンロー。ヘリコプターに乗り、ジープや戦車を乗り継いで10カ所以上の駐屯地を回り、多くの兵士たちを前にして歌ったのでした。
ご存じ!? 『七年目の浮気』の名場面です
Photograph/Rohnert(ullstein bild via Getty Images)
【1954-1955年】
1954年に、時差ボケによる不眠症となり睡眠薬を飲み始めるようになったマリリン・モンロー。この頃から少し、崩れ始めたのかもしれません。20世紀フォックスの仕事をすっぽかすなどの事件も起こしていました。ただ、これは待遇の悪い20世紀フォックスに対してもデモであるとの話もあります。
とはいえ、20世紀フォックス製作の映画、ビリー・ワイルダー監督作品である『The Seven Year Itch(7年目の浮気)』のニューヨークロケが1954年の8月から行われます。そして9月15日のこと、この映画の世紀に残る名場面となった…トラックス劇場前にてスカートの舞い上がるシーン撮影会が行われます。実際の映画用のシーンはスタジオにて撮影したのですが、こちらの撮影会は映画のプロモーションとしての企画だったようです。プロ・アマ含め数百人のカメラマンが集まったそうです。そして、そこに 偶然出くわしたジョー・ディマジオ。その後、この件で激しい喧嘩となる、すぐにマリリン・モンローは離婚申請書を提出したとのことです。そして1954年10月5日には、二人の破局が世界的なニュースとなりました。
このような背景のなか撮影が終了した『The Seven Year Itch(7年目の浮気)』は、1955年6月に全米公開されるのでした。1955年はマリリン・モンローにとって、また激動の年でもあったのです。1月にはマリリン独立宣言を打ち立て、マリリン・モンロー・プロダクションを設立。セックスシンボルを脱したかった彼女は、住まいをニューヨークへ移し、リー・ストラスバーグが主催するアクターズ・スタジオで演技の指導を受けます。その後、舞台で『アンナ・クリスティ』、『欲望という名の電車』を演じて好評を博したことに対し、彼女に自信を取り戻したようでした。
精神的な不安定は続いていたようです。この頃から自分のことを三人称で呼び始め、睡眠薬と酒類を一緒に飲むようになったとも言われています。
3回目の結婚相手、アーサー・ミラーとともに
Photograph/Mondadori Portfolio via Getty Images
【1956年頃】
独立後の1955年春、マリリン・モンローは作家アーサー・ミラーと再会。しかし、その頃のアーサー・ミラーは妻帯者でした。そして1956年『Bus Stop(バス停留所)』の撮影を終え、ニューヨークに帰ってきたマリリン・モンローを待っていたかのように、アーサー・ミラーは6月11日に妻と離婚、6月29日にマリリン・モンローとアーサー・ミラーは結婚したのでした。この写真が結婚前か、結婚後かは定かではありませんが、二人の仲が好調であったことは表情から理解できると思います。
1956年9月には身ごもるも流産することに。そのことも要因のひとつだったかもしれません。1957年頃から精神的不安定は深刻なものとなり、睡眠薬を飲み過ぎたり精神病院に入ったりもしたのでした。
『バス停留所』の宣材用ポートレート
Photograph/Donaldson Collection(Michael Ochs Archives/Getty Images)
【1956年】
1956年8月公開の20世紀フォックス製作、ジョシュア・ローガン監督作品『Bus Stop(バス停)』のプロモーション用のポートレートです。網タイツがセクシーな30歳のマリリン・モンローです。
『お熱いのがお好き』の一場面
Photograph/Keystone Features(Getty Images)
【1958-1959年頃】
飲酒量が増し始めた1958年に撮影した、ユナイテッド・アーティスト製作の巨匠ビリー・ワイルダー監督作品『Some Like It Hot(お熱いのがお好き)』のワンシーンです。全米公開は1959年3月になります。トニー・カーティス、ジャック・レモンとの絶妙な競演が光る名作のコメディ映画です。この映画の出演によりマリリン・モンローは、ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞することに。
しかしながら、私生活は困難な状態だったのです。1959年は鬱(うつ)状態も激しくなって薬量が増加。その副作用の慢性便秘にもなります。夫アーサーは、いい作品が書けないスランプ状態が続くのでした。そうしているうちに今度は慢性子宮内膜症に。そして不妊症等の治療のため手術を受ける、そんな33歳のマリリン・モンローでした。
『荒馬と女』の主演キャストとともにオフショット
Photograph/Ernst Haas(Getty Images)
【1960年】
1960年7月より、マリリン・モンローにとって憧れの存在でったクラーク・ゲーブルすることとなった映画『The Misfits(荒馬と女)』の撮影が始まります。この映画は1961年2月に全米公開されました。写真はプロモーション用のため、共演者であるモンゴメリー・クリフトも加えての撮影になりました。そして、11月4日にこの映画は完成したのですが、11月5日にはクラーク・ゲーブル心臓発作で倒れることに。その後、11月16日にクラーク・ゲーブルは二度目の心臓発作で帰らぬ人に。クラーク・ゲーブルにとってこの映画が、マリリン・モンロー同様に最後の作品となったのでした。
この寸前までマリリン・モンローは、この映画の前の作品『Let's Make Love(恋をしましょう)』で共演していたイブ・モンタンと不倫関係にありました。しかし、撮影終了と同時にその関係にもカット(終止符)が打たれたようです。
そしてマリリン・モンローは、11月11日にアーサー・ミラーとの離婚を発表。翌1961年1月24日に正式離婚したのでした。そんな起伏の激しい日々が続いたからでしょう。1961年2月5日には、精神病院に入院することに。すると、同年2月10日には、ジョー・ディマジオはマリリンを助け出すように、精神病院から転院させます。そして3月5日には退院し、しばらくジョー・ディマジオの元で暮らすことに。しかし4月にはロサンゼルスに戻ったマリリン・モンローでした。その後も体調は悪化し、慢性子宮内膜症治療の手術を受けたり、胆嚢炎の手術も受けたりしたのでした。
ケネディの45歳の誕生日祝賀会にて
Photograph/Yale Joel(The LIFE Picture Collection/Getty Images)
【1962年】
2月に自宅を購入し、4月からは新作の『Something's Got to Give(女房は生きていた)』の撮影を開始した彼女。そして5月19日には、ニューヨーク・マディソン・スクエア・ガーデンで開かれたジョン・F・ケネディの民主党の集会で行われた誕生パーティにて、『HAPPY BIRTHDAY』を歌います。そのときの登壇風景がこの写真です。
すでに、その関係が終焉を迎えた直後と言われている1962年5月19日、ジョン・F・ケネディの45歳の誕生日パーティに、この日のために誂えたスワロフスキーが輝くカーヴィなドレス姿で、「ハッピー・バースデー・トゥー・ユー」を歌ったのでした。ちなみにこのとき、ジャクリーン夫人はマリリン・モンローが来ると知って、あえて欠席したそうです。
そして1962年8月5日です。ロサンゼルス郊外のブレントウッドにある自宅の寝室にて、全裸で死亡しているマリリン・モンローをメイドが発見したのでした。享年36歳。死の直後、マスコミでは「死因は睡眠薬の大量服用による急性バルビツール中毒で、自殺の模様」と大々的に報道され、世界に多大な衝撃・悲嘆が駆け巡ったのでした。なお、ジョン・F・ケネディはこのマリリン・モンローの命日から1年と3カ月後の、1963年11月に凶弾に倒れています。
結びとして…
Photograph/Yale Joel(The LIFE Picture Collection/Getty Images)
マリリン・モンローは恋多き女性としても有名でした。それは彼女の幼少時代からの、環境によるものかと思います。
彼女は本当の愛、普通の愛の絆とはなんなのかがわからなかったのではないでしょうか。でも、愛されたい。愛し愛されることの正解は見えないけど、いままで満足な愛に触れていなかった自分の穴埋めをしたかったのではないでしょうか。
“自分は誰にも求められていないのでは?”という不安感 に常に苛まれていたと書かれた本もあります。ものすごく寂しがり屋で、「常に自分を必要としてくれる人を求めていた」と分析している人も多いのです。
そして、男性を喜ばせてあげられる一番の方法が「セックス」だったのです。大人になってからの彼女は、常に“誰かから求められる自分”でいたかったのです。そうすることで、彼女の精神は安定していったのでした。しかし、付き合う相手のほうもそう簡単に安定させてくれるような方々ではなかった…。彼女の心は満たされないままだったことでしょう。この25枚の写真を改めて見ると、そんな彼女が愛おしくてたまらなくなるでしょう。そんな皆さんはどうぞ、彼女の90歳を心から祝ってあげてはいかがでしょうか。
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>>> マリリン・モンローの滅多に見られない写真13枚「ESQUIRE US」
参考文献:Wikipedia(日本語版) : Wikipedia(英語版) : http://marilyn.jp/ : 『マリリン・モンロー』(岩波新書) : “Goddess: The Secret Lives Of Marilyn Monroe” (Weidenfeld & Nicolson) : 『マリリン・モンロー魂のかけら』(青幻舎)