女専と高女部の分離

同志社女学校の名称は明治の草創期とともに古い。高等科(その後、専門科、専門学部、高等学部、再び専門学部と改称)と本科(その後、普通科、高等普通部、普通学部、高等女学部と改称)が併置されてからも、同志社女学校は両者に冠される正式名称であった。校名に関しては1930年両者を分離独立させ、それぞれ同志社女子専門学校(6月認可)と同志社高等女学部(9月認可、高等女学校でないのは1899年の文部省訓令12号が禁じた宗教教育を続けるために、あえて高等女学校令によらない各種学校の適用を選んだからである)とした。文部省への校名変更認可申請には、同一校名による支障を理由としているが、実は女子部の充実発展に由来するものであった。大正中期から昭和初頭にかけて、社会的評価も定まって生徒数は確実に増加していた。
校名変更に先立つ1927年度には、分離独立への布石となる機構改革に着手し、財政もこの年度から分離して共通部は按分負担とした。女専には職制上教授、助教授、講師の3職を設け、専属外については相互に兼任、嘱託の形をとらせた。1929年2月に女専専用の徽章を制定したのも、こうした趨勢を象徴しているであろう。
しかし、両者は依然不可分であって、文部省への年次報告でも、校地は「画然ト区別シ難キヲ以テ」女子部全面積を掲げ、校舎も音楽室、体操室、事務所などを共用としている。事実、両者は役員協議会を設けており、また必要に応じて専門、高女の「両学部連合職員会」(教員会)を開催するなど協調関係を維持している。1932年2月に竣工した栄光館は、同窓会を含め女子部の渾然一体の成果であった。18万円を要した建築費はE.ファウラー(Eldridge Fowler)の寄附をもとにしていたが、同窓会が数年来資金募集の中心となり、女子部を挙げてバザーなどを催して貯えたものであり、ここが共通のヘッドクォーターズとなるのである。両者は教育の精神においても実態においても一体であった。毎日の礼拝は週1回は合同礼拝に充てたのをはじめ、女子部の諸式典・行事の大部分は合同の催しであり、さらに大きくは全同志社の入社式(合同入学式、)卒業式、創立記念式とその周辺の同志社EVE、早天祈禱会などを通してもひとつの学園として連なっていた。
女子部は大正の充実期を経て、昭和とともに、いわば順風の中にあったように見える。松田道は定年で女子専門学校校長在任1年で退き、1933年4月片桐哲が後を継ぐ(高女部長を兼任)。彼はこの時期をつぎのように評している。「昭和十年度は何んと云ふ希望に輝ける学年であらう。正に同志社は創立第六十周年に相当し、しかも湯浅(八郎)新総長のもとに、男女各学部は新に一千数百名の若き学徒を迎え入れて、躍進の鋭気に充ち満ちている。我が女子部を省みれば、高等女学部今年度の入学志願者は嘗て見ざる多数であり、各教室は満員の状況である。更に今年度よりは一ヶ年の補習科を新設し、高等女学部教育の完成を図りこれに三十名の高等女学部新卒業生を収容したのである。また近年女子の専門教育の不況の徴を示しつゝあるも、猶吾が女子専門学校は各科共にそれぞれ相当数の有為なる入学生を迎ふる事ができ、女子部全体に亙りて約三百五十名に近き新入生を加へられし事は、誠に歓喜に堪へないところである」(『学友会同窓会会報』61)。
たしかに高女部は順調に生徒数が増加していた。定員増加の推移は、1923年500名から700名に、1931年700名から750名に、1932年750名から800名に、1933年800名をこの年度より1936年度までの4年間毎年50名ずつ増加して1,000名になっており、実員もほぼそれに見合う増加を見せている。しかし、女専の生徒数は昭和初期から減少し続けた。とくに英文科は著しく、卒業生数も戦前のピークであった1928年の128名が、1941年には19名に激減した。家政科でも75名から2分の1以下の31名に落ち込んでいる。1935年度以降は両科を合わせても卒業生は100名を割り、1941年度には、さらに2分の1の50名にすぎない。財政状況を見ても、女専と高女部分離後、女専は1930年度を除いて1942年まで常に赤字であり、高女部が終戦の年の1945年度に初めて赤字に転じるまで、一貫して黒字であったのとは対蹠的であった。女専の経営上の苦難は深刻であったことを考えると、片桐の評価にはいささかの誇称があった。
実は彼が大学文学部長から転じて女専校長兼高女部長に就任したこと自体が、その苦難に対処する改革の一端であった。

  • 同志社女子専門学校校章 1929年2月制定
    3-1 同志社女子専門学校校章 1929年2月制定
  • 同志社女子専門学校校旗 1929年5月制定
    3-2 同志社女子専門学校校旗 1929年5月制定
  • 同志社女子専門学校生徒手帳
    3-3 同志社女子専門学校生徒手帳
  • あしたの祈り 朝拝は午前7時40分(1時限は8時)、冬期は午前8時(1時限は8時20分)。礼拝堂兼体操場の位置は静和館の北、平安寮の南(現在の希望館の位置)(1930年)
    3-4 あしたの祈り 朝拝は午前7時40分(1時限は8時)、冬期は午前8時(1時限は8時20分)。礼拝堂兼体操場の位置は静和館の北、平安寮の南(現在の希望館の位置)(1930年)
  • 調理 家政科(1935年)
    3-5 調理 家政科(1935年)
  • 洋裁 星名久教授。和服・洋服・チマチョゴリの生徒もいる(1930年)
    3-6 洋裁 星名久教授。和服・洋服・チマチョゴリの生徒もいる(1930年)
  • 園芸 勧修寺經雄教授。圃場は現在のデントン館の位置。背後の建物は大学図書館(現啓明館)(1930年)
    3-7 園芸 勧修寺經雄教授。圃場は現在のデントン館の位置。背後の建物は大学図書館(現啓明館)(1930年)
  • 体操 初鹿野常太郎教授(1931年)
    3-8 体操 初鹿野常太郎教授(1931年)

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留学生

1910年代になると、台湾・朝鮮・中華民国からの留学生が来校するようになる。とくに朝鮮からの留学生が多い。しかしそのほとんどは中途退学をしている。専門学部における最初の卒業生は1924年入学、1927年3月英文科卒業の金末峰(『中外日報』記者、作家、韓国最初の長老派教会女性長老)、次が1928年3月英文科の高凰京(ソウル女子大学初代総長、同志社女子大学名誉文化博士)と王秀生(中華民国)、家政科の韓有順(朝鮮)である。
1945年の終戦時までに、普通学部(高等女学部)、専門学部(英文科予科修了生を含む)合わせて約百名が卒業している。そして中途退学者はそれに倍する数があったとみられる。これらは決して少ない数ではない。ちなみに、1926年末の京都府には、朝鮮からの留学生は男子183名、女子12名が在学した。そのうち同志社女学校には専門学部5名(翌年は6名)、普通学部2名が在学した。他は京都女子高等専門学校(現京都女子大学)、平安女学院に各2名、平安高等女学校に1名である(朝鮮教育会奨学部『昭和元年十二月現在在内地朝鮮学生調』)。
朝鮮出身者がもっとも多かったのは1936年の家政科で、卒業生45名中の7名を占めた。家政科では留学生の中退も4名あった。この年度の家政科で卒業時に就職したのは9名にすぎないが、そのうち4名が留学生であった。その就職先は、いずれも朝鮮の新義州公立女子高等普通学校、平南順安義明女学校、釜山鎮日新女学校、平北寧辺崇徳女学校である。この学年の世古口(米田)まさは三重県の公立女学校から同志社に進学して3年間寮生活をした。ある時は朝鮮と台湾出身者と3人が同室であった。友人が訪問するとそれぞれの母語で語り、国際的な学校だと実感したという。休暇には閉寮になるのでそれぞれ帰省したが、短い時には三重県の世古口の家に一緒に帰省もした。各地方のアクセントなどの差異は、現在の日本と違って大きく、「出身はどこ」と尋ね、「朝鮮よ」と応じて、それは「青森よ」とか「九州よ」と答えるのと同じであった。当時女専には制服はなく、世古口は在学中和服に袴で通し、運動会も和服のままであった。洋服の同級生も少数いて都会を感じた。留学生は教室にも、しばしばチマチョゴリを着用して出席していた。冬には寮にキルティングした衣服を用意してきていて、暖かそうだったし、自宅から当時は珍しかったキムチを送ってきた。内地でも女子が専門学校に進学するのはきわめて限られていた時代、留学生は一般に裕福であり、かつ熱心なクリスチャンが多かった。寮生活そのものがキリスト教的色彩が濃かった。日曜日は同志社チャペルでの礼拝、水曜日夕食後讃美礼拝、木曜日は各寮ごとのお集まり、金曜日には同志社チャペルでの祈禱会があり、それらのすべてに大半の寮生が参加した。それでも寮生活は「家」という籠から出た鳥のように自由で、公立女学校から入学した生徒にとって同志社女専の自由な雰囲気は新鮮であった。そういう空間では留学生たちとの違和感はなかった。
『同志社女学校期報』は朝鮮出身生徒の文章もしばしば掲載した。宋貞姫は英文科予科合格記「母校より同志社女専へ」(61)で喜びをいっぱいに書いている。彼女が英文科を卒業したのは1939年3月だが、同期の家政科では留学生5名が卒業している。その1人韓盆玉は郷里の母校好寿敦女子高等普通学校で教職に就いた報告「初めて教壇に立ちて」(69)で、全力を尽くし努力して「同志社の名精神を発揮しやうと致して居ります」と書いている。これより先、貞明皇后行啓のときには、いずれも普通学部の生徒だが侯玉芝、王淑筠(ともに中華民国生徒、第5学年)、朴徳純(朝鮮生徒、第4学年)、高碧桃(台湾生徒、第4学年)が『行啓記念期報』第50号に行啓について感想文を載せている。
第2次世界大戦中までに入学した生徒の最後の卒業生は、終戦直後の1949年9月英文科卒業の金玉羅(世界メソジスト女性連盟名誉会長、同志社女子大学名誉文化博士)であった。

  • 同志社女子専門学校校章 1929年2月制定
    3-9 高凰京と学友 1927年ころ、ジェームズ館前。
    前が高(1928年英文科卒業、ソウル女子大初代総長)
  • 金末峰 作家(1927年英文科卒業)
    3-10 金末峰 作家 (1927年英文科卒業)
  • 運動会 グラウンドは栄光館の位置にあった(1930年ころ)
    3-11 運動会 グラウンドは栄光館の位置にあった(1930年ころ)
  • 英文科3年時間割 (1938年)
    3-12 英文科3年時間割 
    (1938年)
  • 1938年家政科卒業寮生 この年度、家政科37名中に朝鮮から4名、台湾から1名の留学生
    3-13 1938年家政科卒業寮生 この年度、家政科37名中に朝鮮から4名、台湾から1名の留学生
  • 寮のクリスマス会 和服、チマチョゴリ、洋服。長谷場知亀舎監(1927年12月)
    3-14 寮のクリスマス会 和服、チマチョゴリ、洋服。長谷場知亀舎監(1927年12月)

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女子部管理方改革

女専入学者の激減の原因の多くは深刻な昭和恐慌であった。その影響は中等学校以上では、全国的にみて男子よりも、まだ普及していなかった女子の高等教育機関にもっとも大きな打撃を与えた。中途退学者の多いのもそのことを物語る。前節で言及した規模の同志社女専で1928年に64名(英文科29、家政科25、英文科予科19)、さらに多い1931年の72名(英文科22、家政科43、英文科予科7)の中途退学者数はきわめて大きな比率であった。女専は入学志願者激減の原因を(1)一般財界の不況、(2)農漁村の衰微、(3)各地方同種類の学校増設、(4)就職難の4項目を挙げている(昭和7年8月26日付、女専教授瀧山徳三より庶務部長浅野恵二宛「答申書」)。
同志社理事会が「同志社女子部管理方改革」にとりかかったのは1931年秋であり、翌年中に改革の骨子をまとめて、1933年度から実施された。
その骨子は(1)統一管理――1931年度をもって定年となる校長松田道の後任に、大学から片桐哲を迎え、これを機に「名実共ニ統一管理ニ復帰セシムル」べく校長は女専と高女部を兼任する体制をとる(その結果、高女部長末光信三は高女部教頭に降格された)。(2)人員整理――後任のある松田を除いて、専任では教員4名が退職(うち2名は嘱託講師となる)、1名が生徒主事に身分を転じ、職員2名が退職し、嘱託講師の多くは「整理」された。(3)女専生徒定員削減――従来英文科予科が1クラスだったのを除いて英文、家政の各学年ともに2クラス編成であったのを1クラスとする。(4)学費値上げおよび高女部定員増――学費年額85円を90円とし、高女部定員750名を800名とした。「近年入学志願者著シク漸減ノ状況ニアル女専財政ノ逼迫ヲ稍緩和シ女学校両学部ヲ通シテ歳費計不足ヲ約一〇〇〇円ニ止ムルコトヲ得タリ猶来年度以降ノ処置ニ就テハ制度調査会ニテ審議ノ上何分ノ下心ヲ決定スヘシ」(昭和7年7月7日付「五月定時理事会記録」)という経過報告がその実状を物語っている。
管理方改革の過程で企てられたかにみえる女子専門教育界に一新生面を打開するような新教育機関、新課程などの創出は結局なかった。初めからそのための財政的裏づけはなく、逆に財政の緊縮のために出たものであったから、改革のための理事会の制度調査委員会の最終段階では、その用語を「改革」ではなく「変更」にトーンを落として用いたところにこの「改革」の性格が現れていた。入学志願者の激減という緊急かつ絶対的条件に直面してなされた「変更」であったが、その後も入学志願者の逓減は止まらなかった。しかし、1939年度入学者がわずか64名(英文科23,家政科41)で底をついたのを最後に、翌年は反転して倍増に近い121名(英文科39、家政科82)が入学し、それ以後急増を続けた。これは「改革」とは異質な戦時下の条件が生み出したものであった。

  • 同志社女専改善ニ関スル基礎調査資料綴 (1932年8月)
    3-15 同志社女専改善ニ関スル基礎調査資料綴
    (1932年8月)
  • 基礎調査事項 同上綴の一部
    3-16 基礎調査事項 同上綴の一部
  • 同志社創立記念日式典 大学神学館(現クラーク記念館)前(1931年11月29日)
    3-17 同志社創立記念日式典 大学神学館(現クラーク記念館)前(1931年11月29日)
  • 家政科A組 1932年3月卒業(72名)、この組の33人中、洋服は7名
    3-18 家政科A組 1932年3月卒業(72名)、この組の33人中、洋服は7名
  • 家政科北海道卒業旅行 日光にて、付添野村義太郎教授 荒木勝生徒主事、洋服が多数派になる(1932年6月2日~14日)
    3-19 家政科北海道卒業旅行 日光にて、付添野村義太郎教授 荒木勝生徒主事、洋服が多数派になる(1932年6月2日~14日)

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皇后行啓記念碑

1930年代半ば以降、「基督教ヲ以テ徳育ノ基本」(1888年「同志社通則」第3条)とする同志社は、さきの管理方改革を迫られた経済社会条件とは異なる苦難を負うことになる。その最初が「神棚事件」であった。
1935年6月、同志社高等商業学校の武道場に新島襄の肖像が掲げられていたが、生徒の一部がこれにかえて三宅八幡神宮の武神の神符を掲げた。学校当局はこれを非として「本校の教育の精神」を詳しく説くと、生徒は納得して自発的に神棚を取り下げて新島の肖像を元に戻した。しかし、配属将校はわが国の根本精神に反するとして強硬に介入し、配属将校の引き揚げもやむなしと迫った。配属将校の引き揚げは在学生の徴兵猶予の特典のE奪と幹部候補生資格の喪失を意味したから、同志社理事会および湯浅八郎総長は対策に苦慮し、結局軍部の意向を受け入れ、神棚を武道場に設置することを決定した。軍部のキリスト教学校への介入を象徴する事件であったが、これ以後同志社は軍部と右翼の跳梁に翻弄されることになる。
1936年には「国体明徴論文掲載拒否事件」、翌年2月紀元節式典における総長の「勅語誤読」事件などは軍部、学外右翼団体のキリスト教主義学園に対する攻撃の代表的な標的とされ、同志社そのものの存廃さえ危惧される事態に直面させられていた。愛国団体の代表が日本刀を手挟んで総長室に押しかけて湯浅の退陣を迫り、学内では狂信的な配属将校草川靖が「同志社通則」第3条の改正を総長に迫り、学生を前にして同志社のキリスト教主義、自由主義の排撃を公然と叫び始めていた。
「誤読」事件直後の2月の常務理事会に提出された「同志社教育網要」は湯浅自身が草案を書いた第1の対応であった。ここで正式承認されて3月3日に公表された。その内容はつぎの5か条である。

  1. 一、 同志社ハ敬神尊皇愛国愛人ヲ基調トシ之ヲ貫クニ純一至誠ヲ以テスル新島精神ヲ指導原理トス
  2. 一、 同志社ハ教育ニ関スル勅語並詔書ヲ奉戴シ基督ニ拠ル信念ノ力ヲ以テ聖旨ノ実践躬行ヲ期ス
  3. 一、 同志社ハ基督ノ真精神ヲ信奉ス
  4. 一、 同志社ハ敬虔自治日新中正ヲ以テ学風トス
  5. 一、 同志社ハ良心ヲ手腕ニ運用シテ国家社会ニ貢献スル人物ヲ養成スルヲ目的トス

これを、「基督教主義徳育を抹殺して教育勅語の聖旨を奉戴実践」(『京都日日』3月3日)として権力からの屈服と見るのに対して、むしろ「キリスト教主義を堅守しようとする湯浅の苦肉の発想にもとづくもの」であり、「順応の姿勢における防御線の構築であった」。「軍部の目をそらそうとする意図の生んだものである」とする評価もある(「神棚事件と『国体明徴論文』事件」『同志社百年史』)。しかし、それでは終わらなかった。
1937年6月、皇太后が入洛し、デントンは拝謁を仰せつかった。皇后時代の行啓で知遇を得ていたからである。その直後の女専教授会(6月22日)で、片桐校長は警護当直に当たったことを感謝し、湯浅総長は1924年の行啓記念碑の建立を希望した。そして、1年半後の1938年12月8日にその除幕式が挙行された。行啓後14年も経て、それを建立しようとしたのは、湯浅の時局への第2の対応であった。
記念碑かたわらの銅版には「海老名総長以下一同感泣シ永ク陛下ノ鴻恩ニ報ヒ奉ランコトヲ誓ヘリ爾来十五年当日ノ感激今ニ忘ルゝヲ得ズ乃チ染毫ヲ時ノ宮内大臣伯爵牧野伸顕閣下ニ請ヒテ」建立した、と記している。
この日、片桐校長はつぎのように語った。

新島先生が教育報国の念願を起こして基督精神による同志社学園を創立されましてから、幾多の迫害苦難と闘ひ漸く当初の目的を貫徹して、良心を手腕に運用する有為の青年男女を続々社会に送り出すに至った功績が畏くも雲上に達しまして今の皇太后陛下の行啓を忝うする光栄に浴したのでした。爾来本校生徒の胸には陛下の御坤徳を日本女性の鑑と仰ぎ奉る敬虔の念が伝統となつてまいりました。今後も此の記念の御碑を仰ぐ毎に更に感銘を新たにして、教育の任に当り且つ愈々婦徳を磨き行く生徒を祝福する次第であります。
『同志社高等女学部新聞』は、上の記事のほか、牧野虎次総長の献上した当日の記念碑除幕式写真アルバムが陛下に嘉納され「同志社が愈々発展し行くことを満足に思ふ」という言葉を得たこと、および行啓の際の「益々同志社教育の特色を発揮せよ」との言葉を併記して「御聖旨に応へ奉らん事を誓う次第である」と結んで報じている。これを見れば、行啓記念碑建立は軍部、右翼勢力を超えて、同志社教育が高い所から是認されていることを顕示するものであったと言えよう。こうした幾つもの防壁を懸命に構築しながらも、国と時との趨勢に協力せざるを得ない様が、あらゆる記録から読みとれる。しかし、湯浅は、前年7月の草川靖中佐が使嗾して国防研究会の生徒が主導したストライキ「チャペル籠城事件」、11月の大学予科教授新村猛、真下信一の共産主義運動を行った疑いによる検挙などの責を負って辞表を提出、12月末に総長を辞任していた。

  • 皇后陛下行啓記念碑
    3-20 皇后陛下行啓記念碑
  • 行啓記念碑銘板
    3-21 行啓記念碑銘板
  • 卒業試験時間表 (1939年3月)
    3-22 卒業試験時間表 (1939年3月)
  • 行啓記念碑除幕式 式辞・牧野虎次総長(1938年12月8日)
    3-23 行啓記念碑除幕式 式辞・牧野虎次総長(1938年12月8日)
  • 学園のひとこま ロッカー室
    3-24 学園のひとこま ロッカー室(1937年)
  • 教室掃除 (1937年)
    3-25 教室掃除 (1937年)
  • M. F. デントン勲六等瑞宝章 1933年1月16日、この日1931年6月16日に米国ウィリアムズ大学より教育学博士の名誉学位を得たときの盛装で記念撮影(死後勲三等瑞宝章)
    3-26 M. F. デントン勲六等瑞宝章 1933年1月16日、この日1931年6月16日に米国ウィリアムズ大学より教育学博士の名誉学位を得たときの盛装で記念撮影(死後勲三等瑞宝章)
  • デイヴィス博士歓迎茶話会 アーモスト館にて、左から中村栄助理事、デイヴィス、湯浅八郎総長。同志社創立50周年記念特別連続講演のため来日。J. D. デイヴィスの令息、イエール大学社会事業教授(1935年6月)
    3-27 デイヴィス博士歓迎茶話会 アーモスト館にて、左から中村栄助理事、デイヴィス、湯浅八郎総長。同志社創立50周年記念特別連続講演のため来日。J. D. デイヴィスの令息、イエール大学社会事業教授(1935年6月)
  • 行啓記念碑除幕式アルバム
    3-28 行啓記念碑除幕式アルバム
  • 栄光館ファウラー講堂
    3-29 栄光館ファウラー講堂
  • 栄光館 1932年2月11日竣工式
    3-30 栄光館 1932年2月11日竣工式
  • 同志社EVE 恒例の同志社創立57回記念大音楽会はファウラー講堂で開催、昼夜2回、29日創立記念式(1932年11月28日)
    3-31 同志社EVE 恒例の同志社創立57回記念大音楽会はファウラー講堂で開催、昼夜2回、29日創立記念式(1932年11月28日)
  • 栄光館ファウラー講堂における礼拝 (1933年)
    3-32 栄光館ファウラー講堂における礼拝 (1933年)

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暗い谷間の中の陽光

今出川通から校庭を眺めると、緑の芝生の奥に赤い煉瓦のジェームズ館と静和館が、1932年に献堂の栄光館を中心にシンメトリーに並ぶ。古都の中の、その整ったエキゾチックな雰囲気は、御所の静かさとともに、女生徒の春秋にふさわしい教育環境をつくっていた。明治大正期の蓄積の上に、ようやく咲き出ずる趣は花園であり、さきの片桐校長の希望の言葉に頷かされる。
外国人教師との日常的な交流、春秋の近郊への遠足や陸上運動会。津の御殿場や淡路島などへの十日を超える臨海学舎。高野山、比叡山や信州木曽などでの修養会。東北・北海道(家政科)、満州・朝鮮(英文科)への修学旅行。1903年デントンが創始し、以来不定期に催された女子部バザー。文芸会やレシテーション(暗唱会)。EVEの全同志社大音楽会。クラップが最初に構成して1936年以後栄光館で催されたクリスマス・ページェント、スキー旅行などが暗い谷間の前の良き時代の鮮やかなカレッジ・ライフを彩っていた。
1936年度の第3回日米学生会議には、英文科の小野寺久子が参加した。翌年のスタンフォード大学での会議には望月満子が代表に選ばれている。さらに第5回には平田澄子、石田とし子が出席、この年の日比学生会議には川島フサ、伏見令子をフィリピンに送っている。1941年に中止されるまで、日米、日比両学生会議には毎年数名が参加している。
昭和初期の不況期でさえも、高女部の上級学校進学者は同志社女専を中心に3~4割に達しており、女専からは数名ずつ同志社大学に進学している。他方、1936年7月、女専卒業生に「時代の要求と就職戦線伸展のため申請中」であった尋常小学校本科正教員の無試験検定による免許状下附が認可されている。
この時期に注目すべきことは、学術の面において研鑽する組織を企てていることである。すでに大正期に外国留学規定をもち、それ以前から歴代校長をはじめ多くの留学体験をもつ学術的に高い水準のスタッフを擁していた。同志社女子部の従来の役割は、研究機関であるよりは教育に重点を置くものであったが、1936年に教授研究発表会を発足させ、生徒にも聴講させている。第1回は6月11日、小崎千代教授(「最近の栄養学に関する二三事項について」)と瀧山徳三教授(「英国小説の発生まで」)が発表している。さらに、それとは別に生徒、卒業生をも正会員とする学術に関する会設立の検討を重ね、ついに1938年10月24日女専英文学会の発会式に結実した。この日の発表者は舟橋雄同大教授(「英語聖書の文体、その発達と影響」)であった。以後11月28日女専瀧山教授(「デッキンズがデビド・カパーフィールドを作るまで」)、翌年2月19日京大石田憲次教授(「ヴィクトリア朝の社会情勢」)、彦根高商高橋源次教授(「ゴルズワージ『正義』を中心として」)らが続く。発足の遅れた家政学会も、1939年5月16日に創立され、活動を開始している。これらが将来の女子大学の学統につながっていくのであろう。
1937年7月の日華事変勃発後の文部省通牒は国威宣楊武運長久祈禱式、防空演習、神社参拝、勤労奉仕などにまで及んだが、同年9月10日の教授会では4日に初会合した協議会を、同志社女子専門学校対時局委員会と定め、常置の委員会として取り組みを始めた。当時の「職員会誌」には「文部省宗教局より千葉氏招かれ、反戦・祈願に反対する由誤解なき様にとの事有りし由慰問袋に反対の同志社職員も有る由注意有る様」(「職員会誌六」1937年10月5日)、「時局に関し言動を慎しむ、造言蜚語無き様、反軍的なき様、同志社に注目する由なり注意する事」(同、12日)などと記録されており、時局下の状況を物語っている。
この年の創立記念週間は中止され、伝統の同志社EVEに代わって10月30日に、愛国音楽会と銘打った学内14団体の出演する音楽会が栄光館で催された(主催・創立六〇周年記念事業部、大学、高商学友会、同窓会京都支部、後援・大阪毎日京都支局)。純益金516円55銭は「在支満皇軍慰問並ニ出征兵士遺家族救援資金」として毎日新聞社に寄託された(『同志社社報』117、1937年11月29日)。
1939年9月には生徒27名が申し出て島田勝吉教授が引率して、橿原神宮建国奉仕隊に参加した。さらに11月には奈良電鉄(現近鉄)に団体乗車を交渉し、女専・高女部全員1,200名が翌年1月24日に橿原神宮参拝を実施した。
1941年には文部省の指示により学友会を解散し、4月14日報国団を結成した。「国体の本義に透徹し、立学の精神に則り、国民の先覚模範たるべき皇国女性の錬成を以て目的とし、総務、教養、錬成の三部を置く」とうたっており、早々に担架、繃帯、防空などの訓練が開始された(「旧都の学徒錬成・同志社女子専門学校」『婦人公論』1943年11月号)。しかし、一方で教養部主催の早朝祈禱会、聖書研究会、基督教講演会(同部修養班)などが行われている(『期報』71)。
1941年10月には同志社防護団女子部分団規定を制定し、翌年2月同志社女子部防護団規定に改め、さらに1943年5月にはいっそう実際的なものに改めている。そしてこの年には、総務部主催の教練が陸軍歩兵准尉今井忠を教練教師として行われた(「職員会誌九」1943年10月5日)。
さて、1940年、この暗い中にあって、二条の陽光が差す。春の同窓会館の竣工と、デントンを派遣している米国婦人伝道会から52年にわたる教育献身の功績に対するパイプオルガン贈呈である。これは翌41年2月栄光館講堂に組み立てを完了する。2月早々久邇宮家彦王はデントン邸に「御微行ニテ台臨」、栄光館のパイプオルガンを視察している。すでに日米関係は険悪化し、クラップ、ヒバード、カーブ、トマスら同志社の外国人教師の帰米をみる中で、6月6日「デントン先生功績表彰パイプオルガン贈呈式」が挙げられ、翌7日夜パイプオルガン演奏会が開催された。勝俣敏子(高女部教諭、女専講師)が演奏し、また女専と高女部生徒が合唱をした(聴衆約2,600名)。
この年の秋には、大学高等専門学校の修業年限短縮の勅令が公布され、12月に卒業式が繰り上げられた。同志社は、暮れの押しつまった27日に専門学校以上のみの同志社第64回卒業式を挙行した。元文相・陸軍大将・男爵の肩書の荒木貞夫が来賓代表として祝辞を述べた。女専の庶務日誌は「式後の午餐会本年は無し。同窓会入会式も無し。単に記念品を卒業生に配布するのみ」と記している。翌年からはさらに短縮されて卒業式は9月に行われるようになる。
12月1日付官報は、デントンを「指定外国人ヨリ除外ス」と載せ、在留を認めていたが、8日の日米開戦とともに特高警察の監視下に置かれた。16日以降、デントン邸の集会は禁じられた。

  • ヘレン・ケラーの来校 講演「愛と教育の勝利」通訳トムスン女史、岩橋武夫大阪燈影女子学園園長(1937年5月10日)
    3-33 ヘレン・ケラーの来校 講演「愛と教育の勝利」通訳トムスン女史、岩橋武夫大阪燈影女子学園園長(1937年5月10日)
  • 米駐日大使グルーとデントン 於デントン・ハウス(1939年11月24日)
    3-34 米駐日大使グルーとデントン 於デントン・ハウス(1939年11月24日)
  • 1940年6月30日デントン・ハウス 左から外村吉之介、デントン、柳宗悦、濱田庄司
    3-35 1940年6月30日デントン・ハウス 左から外村吉之介、デントン、柳宗悦、濱田庄司
  • 創立記念早天祈禱会 若王子山頂新島襄の墓前(1931年11月29日)
    3-36 創立記念早天祈禱会 若王子山頂新島襄の墓前(1931年11月29日)
  • 同志社女子専門学校、高等女学部連合陸上競技会 植物園グラウンド。「極めて有意義に終始す」(『同窓会報』65号)(1938年10月20日)
    3-37 同志社女子専門学校、高等女学部連合陸上競技会 植物園グラウンド。「極めて有意義に終始す」(『同窓会報』65号)(1938年10月20日)
  • 太平洋婦人伝道会よりパイプオルガンに添えてデントンに贈った銘板 (1940年)
    3-38 太平洋婦人伝道会よりパイプオルガンに添えてデントンに贈った銘板 (1940年)
  • 創立60周年記念式典 大学グラウンド(1935年11月)
    3-39 創立60周年記念式典 大学グラウンド(1935年11月)
  • オルガン・パイプ 最大の柱状のパイプとエルマー・ゾゥグ博士の持つペン状の最小のパイプ。右から森川正雄(建造総主任)、クラップ、森本芳雄(組立助手)、デントン、ゾゥグ(組立主任)(1941年1月)
    3-40 オルガン・パイプ 最大の柱状のパイプとエルマー・ゾゥグ博士の持つペン状の最小のパイプ。右から森川正雄(建造総主任)、クラップ、森本芳雄(組立助手)、デントン、ゾゥグ(組立主任)(1941年1月)
  • パイプオルガンとデントン 関西における最初のパイプオルガン(1941年2月)
    3-41 パイプオルガンとデントン 関西における最初のパイプオルガン(1941年2月)
  • 遊動木 (1935年夏)
    3-42 遊動木 (1935年夏)
  • ジェームズ館西入口 (1935年)
    3-43 ジェームズ館西入口 (1935年)
  • 1935年英文科卒業生 ジェームズ館前の芝生からアーモスト館が背景に見える
    3-44 1935年英文科卒業生 ジェームズ館前の芝生からアーモスト館が背景に見える
  • 市電同志社前 (1935年)
    3-45 市電同志社前 (1935年)
  • 寮室 (1936年ころ)
    3-46 寮室 (1936年ころ)
  • 常盤寮 (1936年)
    3-47 常盤寮 (1936年)
  • 雪のキャンパス 栄光館建築当初は前面は芝生で、大学図書館までのいわゆるデントン・ラインが美しい(1934年1月)
    3-48 雪のキャンパス 栄光館建築当初は前面は芝生で、大学図書館までのいわゆるデントン・ラインが美しい(1934年1月)
  • 同志社女子専門学校校門 (1935年)
    3-49 同志社女子専門学校校門 (1935年)
  • スケート・リンク 1937年度英文科卒業生
    3-50 スケート・リンク 1937年度英文科卒業生
  • 大学からの通路 (1935年)
    3-51 大学からの通路 (1935年)



記念写真誌 同志社女子大学125年