思い出のスタジアム広島市民球場…2千人暴徒乱入事件

 瀬戸の夕なぎ-。夏の風物詩だ。昼間に吹いていた海からの風が、陸と海水との温度が同じくらいになる夕刻、ピタリ、とやむ。ちょうど、広島市民球場でのナイターが、プレーボールを迎える時間帯だ。

 これがとんでもなく、暑い。また、レフトポール後方からは、強烈な西日が一塁ベンチを照らす(後に巨大な可動式の日よけを設置)。これまた、暑い。

 しかし今はもうなくなった広島市民球場を懐かしむ人は、必ずこの、景色がぼやけるほどのうだるような暑い夏がセットになっているのではないだろうか。

 1957年盛夏(7月22日)。それまで本拠地としていた広島総合球場(現コカ・コーラウエスト広島総合グランド野球場)にはナイター設備がなく、手狭な上たびたび、警備上の問題も起きていたため、広島市内にナイターができる本格球場を、という機運が生まれたのが、その5年前だった。

 50年、2リーグ分立時に誕生した広島は親会社を持たない市民球団(広島野球倶楽部、55年解散し「広島カープ」に移行)の形をとっていた上、チームも弱かった。創設当初は勝利チームが入場者収入の7割を得るというルールがあり、収入が見込めない広島は、選手への給与も滞り、連盟から再三、解散や大洋(現DeNA)との合併などを求められた。

 しかし、できて間もない球団でありながら地元ファンの支持は、すでに圧倒的だった。「ないのなら、作ろう」。石本秀一初代監督が旗振り役となり、チームの存続を県内各地で訴えて回った。その一環が有名な“樽(たる)募金”であり、その延長線上には、新球場(広島市民球場)建設の夢も描かれていた。

 チームは、創設25シーズンで3位が1回(68年、監督・根本陸夫)、あとは4位以下という弱小だったが、『できの悪い子ほどかわいい』を地でいく愛されようだった。

 それは時として、ファンの暴走行為を呼ぶことにもつながった。総合球場時代には、不利な判定をしたと受け止めたファンが審判員を監禁したこともあった。

 市民球場に移って以降も、たびたび乱入事件があったのだが、クライマックス?はやはり、75年9月10日の中日戦だろう。

 過去1度だけ、3位があった弱小球団は、この年から今にもつながる『赤ヘル』を採用。春先に、その赤ヘルを提言したジョー・ルーツ監督から古葉竹識監督への交代劇などもあった。しかし、26年目を迎えたチームは、快進撃を続けた。

 前年、巨人のV10を阻止した中日と、阪神との三つどもえの首位争いは、広島のうだるような夏を過ぎてもまだ、燃えるような熱気を帯びていた。

 首位広島、2位に1ゲーム差で阪神、そしてさらに2ゲーム差で中日と続く中、迎えた広島対中日(25)戦。両軍の闘志がぶつかった。

 初回から、中日・与那嶺要監督は塁審に猛抗議するなど、中日サイドも必死だ。先発・星野仙一は大下剛史、水谷実雄らに死球を与えても平然、自ら本塁打までかっ飛ばして自軍を鼓舞する。

 しかし悲願の初優勝が現実味を帯びている広島も、黙ってはいない。3点差を追う九回、疲れの見えた星野仙から2点を返しなお、2死ながら走者・三村敏之を二塁に置いて、山本浩二が中前打。三村は本塁を狙うが寸前で憤死、ゲームセットとなった。しかしこのタッチプレーを巡り、三村が激高-、の瞬間、ヒートアップしたファンがグラウンドになだれ込み、中日ナインに襲いかかった。

 9月11日のデイリースポーツでは「広島ファン二千人が暴徒化」という見出しで「大島は左目をボクサーのように腫らし(中略)森下コーチが蹴飛ばされ、星野仙が酒をかけられた」と伝えている。

 中日選手6人が負傷し、翌日の同カードは警備上の問題で中止となった。

 『時代』だろう。同日の甲子園では、阪神に敗れた巨人ファンがビン、缶を、阪神ナインに向けて大量に投げ込んでいる。

 ただこの時の広島ファンについては、25年間ため込んだ愛情のマグマが一気に噴出したもの、と思いたい。

 広島の熱い、熱い季節は終わることなく、10月15日、ついに大願成就の時を迎える。

 郷土愛を受け止め、市民と二人三脚のようにチームを育ててきた広島市民球場は今、右中間スタンドの一部を残して更地となっている。

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