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〈朝鮮新報創刊70年・記者が語る歴史の現場 11〉平壌支局の現地取材

2015年11月26日 13:47 文化・歴史

1980年代半ばから、朝鮮新報の多くの先輩記者たちが祖国と日本を往復しながら、祖国報道の道筋をつけた。平壌に支局が開設されたのは88年12月。常駐体制が整い、祖国関連報道の新境地が開かれた。在日同胞の視点から、現地のニュースを取材し、伝えることで、祖国と読者をつなぎ、日本のマスコミ報道に惑わされない道標の一つを示してきた。

平壌に滞在しながら、朝鮮各地を取材する本紙記者たち(咸鏡北道清津市に向かう途中、09年11月8日)

平壌に滞在しながら、朝鮮各地を取材する本紙記者たち(咸鏡北道清津市に向かう途中、09年11月8日)

平壌特派員は、朝鮮の首都だけでなく、全国各地を訪ね、各階層の人々と会い、取材をする。誰もが、総聯の記者を同胞として迎え、温かく接してくれる。しかし、人々の表情から笑みが消えた時期があった。1990年代後半の「苦難の行軍」。度重なる自然災害と敵対国による経済封鎖強化で、国家は大きな試練に直面した。電力不足により生産活動は止まり、人々は深刻な食糧難に見舞われた。

2000年10月、朝鮮労働党創建55周年を祝う閲兵式で「苦難の行軍」は「勝利的に終結」したと宣言された。翌々年の1月、平壌支局は、試練を乗り越え、笑顔を取り戻した人々の体験談を集める取材を始めた。ペン記者とカメラ記者が四輪駆動の取材車に乗り、約40日かけて全国を巡った。

慈江道江界市では、食糧難の時期、一人で平安北道新義州市に住む親戚の家に身を寄せたという労働者の話を聞いた。彼は、家族を捨てて「逃避生活」を続けていた時の心境を率直に語ってくれた。いつまでも親戚に迷惑をかけられず、江界に戻った。ある光景を見て、懺悔の気持ちでいっぱいになった」。

当時、江界市には親を亡くした子どもたちが大勢いた。慈江道党委員会では、営業を止めて久しい江界駅前の食堂などを「孤児院」として使い、道内にあるわずかな食料を子どもたちに優先的に支給した。「江界では、皆が助け合い、運命を共にしている。自分もその一員にならなければならないと痛烈に思った」。

江界の人々は、300を越える中小型の水力発電所を自力で建設した。都市に希望の明かりを灯し、工場生産を再開した。この自力更生がモデルケースとなり、全国各地で経済的試練を克服するための取り組みがなされた。

江界市以外の取材地でも、同じような証言を聞いた。他の国ならば、あの試練に耐えられず、体制崩壊したであろう。金日成主席の時代に社会主義の恩恵を受けて暮らした人々は、集団生活に慣れ親しんできた。そして、金正日時代の「苦難の行軍」を体験したことで、人々は強くなり、朝鮮の一心団結はさらに揺るぎないものとなった。

 (金志永)

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