初期の成功、次なる野望、混乱、追放劇、さらなる混乱、驚きの復活劇……時価総額1兆ドル、アップルの波乱万丈

スティーブ・ジョブズ

https://www.flickr.com/photos/sigalakos/839742222

アップルはアメリカの企業として初の「1兆ドル(約110兆円)企業」となった

かつてほとんどの人は、アップルがここまで成功するとは思っていなかった。それだけにこの偉業は意義深い。

1997年、スティーブ・ジョブズが暫定CEOに復帰した時、アップルはマーケットで存在感を示すことに苦心していた。当時、マーケットではマイクロソフトとそのパートナー企業の影響力がますます大きくなっていた。

実際、デルの創業者マイケル・デルは当時、もし自分がジョブズなら、アップルをたたんで株主に金を返す」と発言した。

創業から苦難の時代、そしてジョブズ復帰後の成功まで、アップルの歴史を振り返ってみよう。

1976年4月1日、スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックがカリフォルニア州ロスアルトスで創業。

スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアック

Kimberly White / REUTERS


ロナルド・ウェイン(Ronald Wayne)という3人目の共同創業者もいた。若い自分たちにビジネスの指導をしてもらおうと、ジョブズがウェインを引き入れたが正式な法人化前に退社。ウェインは持ち株を800ドルで会社に売却した。

ロナルド・ウェイン

Ronald Wayne


ウェインが手書きしたアップルの最初のロゴ。

アップルの最初のロゴ

Wikimedia Commons


最初のオフィスはジョブズの両親の家のガレージ。

ジョブズの両親の家

アップルの最初のオフィスがあったジョブズの両親の家とガレージ。カリフォルニア州ロスアルトス、2011年10月5日。

Dino Vournas/AP


アップル初の製品「Apple I」。プロセッサーとメモリを搭載しただけのマザーボードで、主に愛好家向け。客は自分でケースに入れ、キーボードとディスプレイを別に用意する必要があった。価格は666ドル(約7万4000円)。

Apple I

Wikimedia Commons


Apple Iはウォズニアックが開発、すべて手作りだった。マニュアルに載せた回路図もウォズニアックが手書きした。

Apple Iのマニュアル

Wikimedia Commons


一方、ジョブズはビジネス面を担当し、出資を求めて投資家たちを説得していた。ジョブズはパーソナル・コンピューター市場の大きな可能性を説いた。最終的にジョブズは、個人投資家のマイク・マークラ(Mike Markkula)から25万ドルの投資を受けることに成功、マークラは3人目の社員としてアップルに加わり、株式の3分の1を取得した。

ジョブズとマークラ。

ジョブズとマークラ。

Digibarn


1977年、アップルは正式に法人化。マークラの提案でマイケル・スコット(Michael Scott)を初代社長兼CEOとして迎えた。ジョブスがCEOになるには、若く奔放すぎるとの考えだ。

マイケル・スコット

Michael Scott


1977年、ウォズニアックが設計した「Apple II」を発表。大ヒットとなった。

Apple II

Flickr/gmahender


Apple IIのキラーアプリは「ビジカルク(VisiCalc)」。この画期的な表計算ソフトがApple IIを普及させ、市場のリーダーだったタンディ(Tandy)とコモドール(Commodore)を抜いた。VisiCalcによって、アップルはApple IIを法人顧客に販売できた。

ビジカルクの画面

Wikimedia Commons


1978年、同社はApple IIの生産ラインを持つオフィスを構えた。初期の社員の一部が、気難しいことで知られるジョブズと長い時間一緒にいることにうんざりしていた頃だ。

初期のアップルのオフィス

右から4人目がスティーブ・ジョブズ。出荷を待つApple IIが並んでいる。

Mark Johnson


ゼロックス・パロアルト研究所(PARC)は、レーザープリンター、マウス、イーサネットなどの開発で世界的に知られている。1979年、ジョブズらは10万株のアップル株を100万ドル(1株あたり10ドル)で売却することを条件に、PARCを3日間見学することを許された。

パロアルト研究所(PARC)

Wikimedia Commons


1980年、Apple IIIを発表。当時拡大していたIBMとマイクロソフトの脅威に対抗する製品だった。だが、Apple IIIは一時しのぎの製品でしかなかった。パロアルト研究所への訪問が若いジョブズの考え方を変えた。

Apple III

Flickr/stiefkind


ジョブズはパロアルト研究所を見学して、コンピューターの未来はGUI(グラフィカル・ユーザーインターフェイス)にあると確信した。現在、我々が使っているようなインターフェイスだ。

GUI

Apple

ジョブズは新機種「Lisa」で先進的なGUIを実現しようとしたが、プロジェクトを混乱させていると見なされLisaから外された。1983年、Lisaは大々的に発売されたが売り上げは散々だった。価格が高すぎ、対応するソフトウエアも十分でなかった。

ジョブズは結局、2つ目のプロジェクトを主導することになった。そう、史上最もユーザーフレンドリーなコンピューターと言われるApple Macintosh。グラフィック性能で(白黒にもかかわらず)プロのデザイナーたちの人気を集めた。だが、まだとても高価だった。

ジョブズとマッキントッシュ。

ジョブズがApple Macintosh。1984年、株主総会の後で。

AP Photo/Paul Sakuma


Macintoshの発表を控えた1983年、アップルはジョン・スカリー(John Sculley)を新たなCEOに迎えた。

ジョブズとスカリー。

Macintosh発売時のジョブズとスカリー。

Fanboy.com

スカリーはペプシコーラの社長だったが、ジョブズが今や伝説となっている台詞でアップルに引き抜いた。「このまま砂糖水を売って過ごしたいのか、それとも私と一緒に世界を変えたいのか」

1984年、アップルは伝説的なテレビCMを流した。このCMは「1984」と呼ばれ、リドリー・スコット監督を起用、制作に150万ドルをかけた。第18回スーパーボウルの第3クォーターに1度だけ放映された。


この頃、ジョブズとビル・ゲイツの間に緊張が走り始めた。もともと、マイクロソフトはMacintosh用ソフトウエアを開発していた。だがこの計画は1983年に打ち切られた。マイクロソフトがWindowsという名のGUI開発にも取り組んでいることが明らかになったためだ。

ジョブズとゲイツ。

Business Insider


Macintoshの売り上げは好調だったが、IBMのシェアを打ち破るほどではなかった。このことが、Macintoshの責任者であり、自分のやり方を貫くジョブズと、Lisaの大きな失敗とMacintoshへ失望から、今後の商品開発により強い権限を望んでいたスカリーとの間に大きな摩擦を生み出した。

ジョブズ、スカリー、ウォズニアック。

ジョブズ、スカリー、ウォズニアック。

Sal Veder / AP Images

アップルの取締役会がスカリーにジョブズを「抑えるよう」指示するまでに悪化していた。

1985年、事態はピークに達した。ジョブズはスカリーを追い出そうとしたが、逆に取締役会はスカリー側につき、ジョブズを会長職以外のすべての業務から外した。激怒したジョブズはアップルを辞めて、NeXTを起業。先進的なワークステーションを自分の思い通りに開発した。

スティーブ・ジョブズ

1991年4月4日、NeXTstationの前でポーズを取るジョブズ。レッドウッドシティのNeXT Computer社内にて。

AP Images


1985年、ウォズニアックもジョブズと同じ時期にアップルを去った。アップルは間違った方向に進んでいるという言葉を残して。ウォズニアックは所有していたアップル株のほとんどを売却した。

ウォズニアック

ウォズニアック(中央)、音楽プロモーターのビル・グラハム(左)、グレイトフル・デッドのミッキー・ハート(右)。

LENNOX MCLENDON / AP Images


ジョブズが去った後、スカリーはアップルの全権を掌握。最初は順調に思えた。アップルは1991年、ノートPCのPowerBookとSystem 7を発表。System 7によって、Mac OSはカラー化を実現した。

スカリーとSystem 7

Associated Press


1990年代、アップルは多くの新しい市場に参入したが、どれも成功しなかった。おそらく90年代のアップルの最も有名な商品は、93年に発売されたNewton MessagePad(ニュートン・メッセージパッド)。これはスカリーの発案だった。Newton MessagePadは文字通り「パーソナル・デジタル・アシスタント」市場を生み出した。だが価格が700ドルにもかかわらず、メモを取り、連絡先を登録できるだけだった。

ニュートン・メッセージパッド

Flickr/moparx


だがスカリーの最大の過ちは、System 7のPowerPC(IBM/モトローラの新しいマイクロプロセッサー)への移行に多くの時間と資金を費やしたこと。当時、ほとんどのソフトウエアはインテルのプロセッサー向けに作られており、しかもインテルのプロセッサーは年ごとに価格も低下していた。

アップルのSystem 7

アップルのSystem 7。

GUI Guidebook


またマイクロソフトの影響力も大きくなっていた。マックは素晴らしかったが、ソフトウエアの種類が限られ、本体は高価だった。一方、マイクロソフトは安価なコンピューターで動くOSとして、Windows 3.0を販売していた。

ビル・ゲイツ

Microsoft Archive


ニュートンの派手な失敗と、Power PCへの移行を選んだことによる大きな損失に、取締役会は我慢の限界を迎えた。1993年、アップルは第1四半期の業績不振の後、スカリーを解任。1980年からアップルで働いていたマイケル・スピンドラー(Michael Spindler)がCEOに就任した。

マイケル・スピンドラー

YouTube


スピンドラーは、PowerPCへの移行というスカリーの大きな失敗をカバーするという損な役回りだった。1994年、PowerPCで動作する最初のMacintoshが発売された。だがアップルの命運は、Windowsの興隆とともに衰退の一途をたどった。IBM、サン・マイクロシステムズ、フィリップスとの買収交渉に失敗した後、1996年にはギル・アメリオ(Gil Amelio)がCEOに就任した。

ギル・アメリオ

Youtube screenshot


アメリオの在任期間もスピンドラーと同様に災難続き。アメリオのもと、アップルの株価は12年来の低迷を記録した(主な原因は、ジョブズが150万株のアップル株を一度に売却したこと)。 1997年2月、アメリオはジョブズのNeXT Computerを4億2900万ドルで買収、ジョブズをアップルに呼び戻した。

ジョブズ

AP


同年7月4日、ジョブズは暫定CEOに就任。アメリオはその1週間後に辞職した。

アップルに復帰したジョブズ

Lou Dematteis / Reuters


またこの1997年には、有名な「Think Different」のCMを放映。著名なアーティストや科学者、ミュージシャンをテーマにしたCMは大きな話題となった。

「Think Different」のCM


ジョブズのリーダーシップの新時代が訪れた。マイクロソフトとの関係も良好になり、1997年、マイクロソフトはアップルに1億5000万ドルを出資した。

iMacを発表したジョブズ

1998年、ジョブズはiMacを発表、大ヒットとなった。ジョブズはiMacのデザインをジョニー・アイブ(Jony Ive)に任せた。

2001年、ジョブズはNeXT ComputersのOSをベースにしたMac OS Xを発表。そして2006年、アップルはついにインテルのマイクロプロセッサーへの移行に成功した。

だがアップルにとって最大の成功 ── そして、間違いなくテクノロジーの世界を一新したのは、2007年に登場したiPhone。その後は、誰もが知っているとおり。

iPhoneを手にするジョブズ

Alessia Pierdomenico / Reuters


※敬称略

[原文:Apple is officially a $1 trillion company — here are 32 photos of how it came to rule the world (AAPL)

(翻訳:Hughes、編集:増田隆幸)

編集部より:初出時、アップルは世界初の「1兆ドル(約110兆円)企業」となった。としておりましたが、正しくは、アメリカの企業として初の、です。お詫びして訂正致します。 2018年8月11日 21:00

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