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「もう二度と心から笑える日はなくなりました」NHK記者過労死、両親が語った喪失感【会見詳報】
佐戸さん

「もう二度と心から笑える日はなくなりました」NHK記者過労死、両親が語った喪失感【会見詳報】

NHK首都圏放送センターの記者で2013年に過労死した佐戸未和さん(当時31)の両親が10月13日、東京・霞が関の厚労省記者クラブで会見を開いた。

会見では、これまでのNHKの発表内容や、10月4日に行われた公表の経緯などについて両親が自らの口で説明。さらに、亡くなった未和さんへの思いを涙ながらに語った。

生前の未和さんについて両親が語った内容の全文は以下の通り。

●「後日NHKから提示された勤務表をみたときに、私は泣きました」

(未和さん父)労災申請した当時の私たち夫婦の心情です。2013年の10月に正式に渋谷労基署に未和の労災申請をしましたが、陳述書があり、最後のページに当時の思いを書いています。それをそのまま読ませていただきます。

未和が生まれたのは私が31歳の時でした。結婚し、最初の子どもである未和が生まれ、人生これからと高揚感に溢れていた。その同じ31歳で、未和は突然この世から去ってしまいました。道半ばに達することもなく、人生を絶たれた未和の無念さ、悔しさを思うと、哀れでなりません。

親として我が子を守ることができなかったという深い後悔の念に苛まれながら、なぜ未和が突然死んだのか、何か予兆はなかったのか、助ける手立てはなかったのかと未和の遺影と遺骨に問いかける毎日です。

私は未和から、NHK入社後の最初の赴任地である鹿児島、その後異動した首都圏放送センターでの記者としての勤務がどういうものかよく聞かされていました。機械メーカーで長年営業に携わって来た私のような一般の会社員の感覚からすると、24時間臨戦態勢のような記者の勤務は、肉体的にも精神的にも過酷の一語につき、生活も不規則で、あの小さな体でいつもよく頑張っていると感心していました。未和はハードな生活にほとんど弱音を吐かず、周囲にも優しく接しながら、自分で選んだ仕事に誇りを持って、記者としてのキャリアを一歩一歩積み上げていました。

私は未和にエールを送りながらも、一方で、未和が記者という仕事に必然的に伴う不規則な生活を長い間続けることで、身体や健康が蝕まれることを親として非常に心配していました。未和には会う度に「我が身の健康第一、命より大事な仕事などこの世にはない」ということを伝えて来たつもりです。そのため未和も自分の身体や健康には留意していましたが、これまで酷使して来た体には鬼のように疲労が蓄積していたのだと思います。

NHKが総力をあげた平成25年の夏の都議選、参議院選の選挙取材では、未和は都庁クラブで一番の若手であり、独身で身軽なため、寝る間も惜しんで駆け回っていたようです。後日NHKから提示された勤務表をみたときに私は泣きました。待った無しの選挙取材で時間に歯止めはなく、土曜日曜もなく、ほとんど平日深夜まで働いており、異常な勤務状況でした。

疲労困憊していようが、体調が悪かろうが、途中で戦線離脱などできるはずもなく、自分の体に鞭打ちながら、とにかく選挙が終わるまで突っ走るしかなかったのかもしれません。これまで無理を重ねて来た体に、夏の選挙取材中の過剰勤務が徹底的なダメージを与えたのではないかとの思いをぬぐいきれません。未和は短い人生を駆け抜けるようにして逝ってしまいましたが、親として未和の急死をもたらしたものはなんであったかを知りたい。異常な勤務期間との因果関係を明らかにしたい。そういう思いで今回労災申請をしました。

●「喪失感と悲しみと苦しみに毎日のたうちまわるような日々が続いた」

(未和さん父)急死の連絡を受けた当時の私たちの状況です。未和が亡くなった2013年7月24日当時、私はブラジルのサンパウロに駐在していましたが、9月の早々には正式に帰任が決まっていたために、後任への引き継ぎや挨拶回りに追われていました。現地時間の7月25日の午後2時半ごろ、日本時間の7月24日の深夜2時半ですが、首都圏放送センター都庁クラブのキャップの方から私の携帯に直接電話があり、未和死亡の連絡が入りました。

原因も死因も不明で、状況もわからず、錯乱状態になっている妻を引きずるようにして、最短便で、現地をたって、2日後の7月27日にようやく日本に戻り、変わり果てた未和に対面しました。夏場で遺体の損傷も激しいために、翌々日に葬儀を済ませ、後始末をした上で、放心状態が続いている妻は長男と次女に託して、一旦私はサンパウロに戻り、9月4日に正式に帰国をしました。

12年にわたる長いブラジル駐在を終えて、帰国する直前にかけがえのない娘を突然奪われた自分の運命と天を呪いました。さらには、私と私の会社を恨み、夫婦共々未和を失った喪失感と悲しみと苦しみに毎日のたうちまわるような日々が続きました。

現地にいた私と未和とは、メールや電話でよく近況を連絡し合っていましたが、6月26日の未和の誕生日に私が打ったメールに対して、今まで滅多に泣き言を言わなかった未和が初めて弱気になっているメールを送って来ました。内容を紹介します。未和の勤務記録に記載されている当時の勤務時間と照らし合わせると、ヘトヘトになっていたのだなと後日わかりました。

未和のメールです。「パパへ。メールありがとう。なかなか悲惨な誕生日だったけど、なんとか体調も戻って来たよ。都議選は終わったけど、もう1か月もしないうちに参議院選。それが終わったらすぐ異動だよ。忙しいし、ストレスもたまるし、1日に1回は仕事をやめたいと思うけど、ここは踏ん張りどころだね。この歳になって、辞めて家事手伝いになると、結婚もできないわ。7月には一時帰国するのかね? 忙しい人は仕事をやめるとこけたりするっていうから、楽しみをたくさん見つけとくといいね。それじゃあまたね。未和」。

●「一番の親孝行者が、一番の親不孝者になった」

(未和さんの母)娘はかけがえのない宝、生きる希望、夢、そして支えでした。娘亡き後、私の人生は180度変わり、もう二度と心から笑える日はなくなりました。

未和という名前は、未来に平和をということで「未と和」を繋げて考え抜いてつけました。生まれた当初は私の実家のある長崎県長崎市におりました。つわりがひどく、難産だっただけに、玉のような女の赤ちゃんと出会えた時は、本当に奇跡だと幸せを噛み締めていました。すくすくと順調に育った未和は親バカと思われるかもしれませんが、才気煥発で他の子にない光るものを持っているような感じがしました。未和が1歳半になった頃、コロンビアに単身赴任中だった夫が帰国。最初こそ怖がりましたが、すぐに慣れました。ちょうどその頃、テレビの子供番組「おかあさんといっしょ」が長崎で収録、出演させていただいたのがNHKでの最初のご縁でした。

未和5歳、次女3歳、長男1歳。東京都に転居。東京には知り合いもなく、夫は海外出張が多く、1人で3人を育てる日々は無我夢中でした。未和は幼稚園、小学校を豊島区で過ごしました。私の長崎の父が倒れた時は、当時3歳の長男だけを連れて東京と長崎を何度も往復。その頃から未和はお姉ちゃんとして下の子の面倒を見るようになったと思います。私も次第に精神的に未和に頼るようになっていました。

中学は文京区、高校は世田谷区駒沢から通い、一橋大学法学部へと進んだ未和は、私の勧めでTBSラジオで大学生がやっていた「BSアカデミア」に関わり、本格的に報道の世界に興味を持ち始めました。3人の子の受験、就職など節目節目には必ず私も伴走という形をとったのですが、一番手応えがあり、充実し満足のいく結果になったのは未和でした。まさに我が家のエースでした。が、一番の親孝行者が、一番の親不孝者になりました。

●「以上選挙報道でした」という最後の声が今でも残っている

(未和さんの母)NHK入局後の最初の赴任地は鹿児島。母娘ともに有頂天になりながら、電化製品、必要な家具を買い揃え、赴任地に送りました。長崎の親たちの介護の帰りにワクワクしながら4回ほど鹿児島に行きましたが、未和は仕事で時間が取れず一緒の思い出は残念ながら皆無でした。

亡くなったあとわかったことですが、彼女は持ち前の頑張りで取材特賞を2回いただいたり、拉致問題でも随分活躍したそうです。平成22年、念願の東京勤務が決まり、我が家も引っ越しました。一度未和が都庁近くのホテルで、昼食をご馳走してくれたことがありました。ばたばたばたっときてサーっと戻る姿は、今でも目に焼き付いています。そこで珍しく未和がぼやいてきたことは、都庁クラブの人間関係が鹿児島時代とは全く違って希薄だということでした。それでももう少し頑張ってみるということで、口出しは控えました。

その後、未和の引越しに次女と手伝いにいった時には驚きました。暑い夏の盛りです。私たちはぼーっとテレビを見ている間に、未和は一人でチャチャッと家事働き、ハヤシライスときゅうりトマトのサラダを作ってくれたのです。学生自体の未和からは考えられない手早さで「仕事が人間を作るってこういうことなんだなあ」と感心しました。

また、後にも先にもたった1回だけ実家に泊まりに来てくれたことがありました。私が色々と作った夕食を、まるで飲むように平らげ、ささっとカラスの行水、自分でヨガを済ませるとすぐお布団へ。あまりのスピードにぽかんとしていると未和は、「記者は早飯、早なんとかで、食べられる時に食べ、寝られるときに眠るんだ。ママも早く寝てよ」と言いました。

彼女は眠った後、私は天にも登る気持ちで、未和が愛おしくて愛おしくて、眠るのが勿体無く、いつまでもおでこを撫ででおりました。

未和の匂い、未和の体の暖かさ、私はこれからも忘れることはありません。NHKの朝の連続ドラマ、おひさまの主題歌が、まさに未和のイメージにぴったりで、当時はこの歌をイヤホンで聞きながら未和を感じていました。

もう少し、もう少しで夫が帰ってくる。普通の生活ができる。結婚が決まっていた未和の手伝いができる。と、黙々と家事に励んでいた日々。しかしながらもうこの曲を聞ける日はなくなりました。

平成23年5月1日、夫の完全帰国準備のため、サンパウロ行きになり、未和との連絡はLINEとなりました。7月17日、未和から「横浜局の県庁キャップになりました。また忙しくなりそう。涙スタンプ」。「おめでとう」というと、「めでたいかどうかは謎だね。泣き顔スタンプ」。日本の夜7時のニュースがサンパウロの朝7時のニュース。別の部屋にいたので途中から、「以上選挙報道でした」という未和の最後の声が今でも残っています。

未和の死後、私は私でなくなりました。家中のあらゆる刃物、ロープ類は隠され、夫と下の子たちが順番に私を見張っておりました。入退院を繰り返し、強い薬を5錠服用し、どうぞこのまま心臓が止まりますように、息が止まりますようにと眠りにつく。だけど、朝は来る。目覚める。辛いです。

親たちの看取りは最後まで完璧にやったのに、なぜ最愛の娘をみてやれなかったのか。自分を責め続けています。私は子育てのみに夢中でした。他にこれといった趣味や特技もなく、子供が成長した暁にはお手伝いをすることだけが私のたった一つの望みでした。もうその望みが叶うこともありません。この苦しみを背負う人が、今後決して二度と現れないことを切に願っております。

(弁護士ドットコムニュース)

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