いのち込めた北條民雄作品、後世へ 遺族も誇り

雨宮徹
[PR]

 ハンセン病を生き、そして書いた作家の北條民雄(1914~37)。死後も作品が刊行される一方、出身地などその生涯が公に知られることはなかった。

 北條の遺族や親族らへ差別が及ばないよう、作品が世に出るのを支えた作家の川端康成による「配慮」で伏せられたとされる。

 最大の庇護者(ひごしゃ)でもあった川端が自死した翌年の73年、「近代文学研究家」を名乗る人物の手で、文芸誌に故郷の徳島・阿南にある北條の墓の写真が掲載される。尋常小学校時代の写真も出た。一部の遺族や幼なじみにも取材したというこの人物は動機を記した。

 「いつまでも『幻』では、地下の北條は浮かばれはしないだろう」

 のちに、作家で評論家の高山文彦さんは著書「火花 北条民雄の生涯」で「そうしたことが親族のこころをひどく傷つけ、墓石から(北條の)実名の部分を削り取らせた」と指摘した。

 治療薬が普及した戦後も国は患者の隔離を続け、差別や偏見が社会に満ちていた。「らい予防法」の廃止は戦後半世紀以上が過ぎた1996年のことだ。

 2001年、元患者らが起こした国家賠償請求訴訟で、国の隔離政策を熊本地裁判決は憲法違反と指摘し、原告が勝訴した。小泉純一郎首相(当時)は控訴を断念し、坂口力・厚生労働相らが各地の療養所を訪ねて元患者に謝罪した。19年には遺族らを救済する法律ができた。

 過ちがただされる中、北條の生誕百年の14年、故郷でも大きな変化があった。

 阿南市教育長も務めた故・浮橋克巳氏らが冊子「阿南市の先覚者たち」(市文化協会)をまとめ、北條の本名と出身の地区名を初めて公表した。浮橋氏は当時、北條の遺族と何年も交渉し、許可を得たという。

 北條のめいにあたる女性は「浮橋さんは何度も来て『北條は阿南市の宝』『公表した方がいい』と話していかれました」と振り返る。公表を望まない遺族もおり、控えて欲しいと伝えていた。冊子が出る直前、浮橋氏は繰り返し呼びかけた。女性は「あまりに熱心なので、そろそろいいかなと思いました」と話す。

 以降、北條の本名の「七條晃司(てるじ)」が知られるようになった。

 同じ年、徳島県立文学書道館(徳島市)は特別展「北條民雄―いのちを見つめた作家」を開いた。担当した阿南市出身の計盛達也(かずもりたつや)さん(37)は当時を文芸雑誌「三田文学」に記した。

 「北條の妹とその娘と孫、さらに生まれたばかりのひ孫、4世代が北條直筆の書簡を見ている姿は、とても印象的だった。(中略)孫が妹さんに問いかけると『小さかったけん覚えとらんけど、みんなから“てるじさん”って呼ばれとった』と答えた」

 19年から命日の12月5日に合わせ、徳島文芸協会(佐々木義登(ささきよしと)会長=四国大教授)を中心に遺族も参加し「民雄忌」という追悼の会が営まれている。20年1月には地元公民館の図書室に「北條民雄コーナー」ができ、11月に作品集「いのちの初夜」が半世紀ぶりに角川文庫から復刊された。

 新型コロナウイルスの感染者らに対する差別的言動がネット空間などで飛び交うなか、北條の作品は再び注目を集めている。

 めいの女性は「高校のころ母から『本を出した人が親族にいる』『ハンセン病だった』とちらっと聞いたぐらいです」と話す。差別を受けた記憶はなく、おじを誇りに思うという。

 「私はただ人間を書きたいと思っているのだ。癩(らい)など、単に、人間を書く上に於(お)ける一つの『場合』に過ぎぬ」(随筆「頃日(けいじつ)雑記」より)

 「私の眼には二千年の癩者の苦痛が映っているのだ。この長い間の歴史的存在を、僅(わず)か三つや四つのヘッポコ小説でけりにしてしまって、それでいいのか」(随筆「柊(ひいらぎ)の垣のうちから」より)

 異なる地平に一人立ったまま世を去った北條。今は幼少期を過ごした田園地帯の小高い丘にある一家の新しい墓で眠る。

 ハンセン病を生きた作家として、日本の近代文学史に輝く一つの星として、いのちを込めた作品は読み継がれていく。(雨宮徹)

有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。

【お得なキャンペーン中】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら