澪標

外村繁




 私が生れたところは滋賀県の五個荘である。当時は南、北五個荘村に分れていたが、今は旭村と共に合併して、五個荘町となっている。
 村の西南部には小山脈が連っている。きぬがさ山脈と呼ばれている。その一峰に、往昔、近江守護、六角、佐佐木氏の居城のあった観音寺山がある。その山頂にある観音寺は西国第三十三番の札所である。西方の一峰は明神山と呼ばれ、その中腹に古刹、石馬禅寺がある。観音寺山と明神山との狭間の峠を、俗に「地獄越」と呼んでいる。観音寺山城が織田氏の軍に攻略された際、城中の婦女子の逃げ落ちた、阿鼻叫喚のさまを伝えているという。
 北東部には遥かに田園の風景が開け、北方には伊吹山、東方へかけて、霊仙山、鈴ヶ岳、竜ヶ岳、釈迦ヶ岳、御在所山等、滋賀、三重両県境の山山が望まれる。
 旧北五個荘村の北東部を愛知えち川が流れている。源を県境の山山に発し、琵琶湖に注いでいる。その上流は風光明媚な渓谷であるが、中流から次第に流れは細り、下流では平時は水はなく、石と砂との河原になっている。また、繖山脈の谷水を集めて、小川が村の中を縦横に流れている。川水は量も少くなく、川底の小石が見える程度に澄んでいる。川添の家は門前に多くは花崗岩の橋を掛けている。
 周囲はどこでも見られる平凡な農村の風景であるが、いわゆる近江商人の主な出身地で、村の中には白壁の塀を廻した大きな邸宅も少くない。木立の間から、白壁の格別美しい土蔵も見られる。これらの家の主人は、殆どが大都会に出て、商業に従事してい、妻が子供達と共に留守を守っている。
 新村宗左衛門家は代代百姓であったが、新村家の家乗には、元禄十三年、初めて布を商った記録が残っている。同じく十五年には麻苧あさおを仕入れている。正徳三年には名古屋へ行商に行き、享保十一年には江戸に入っている。同年、文庫蔵を建築、元文二年には本宅を改築、更に延享三年には隠居所を新築している。宝暦三年、名古屋では定宿を取り、その商売形式は完全な問屋卸しとなっている。天明六年、霖雨。米、麦、綿等暴騰し、施米している。寛政九年には弟、孝兵衛に新宅を持たせた。
 新村孝兵衛家は、寛政九年、宗左衛門家から分家したが、共同で商売をしている。文化十年、独立し、京呉服、木綿の卸商を始めている。文政十一年には上州桐生市に糸質店を構え、天保十二年には江戸堀留町に開店している。同十三年、苗字帯刀を許され、文久二年には彦根藩(五個荘は郡山藩である)へ金千両を調達している。安政三年、江戸店が新大坂町へ移転している。慶応二年には京都店を開き、明治六年には横浜に貿易店を開いている。
 私の母は、明治十一年、三代目孝兵衛の長女として生れた。兄弟は五人、母は一人娘である。従って、母は母の父や、祖父の寵愛を受けて育ったという。十八(数え年)の時、母は私の父を婿養子に迎えて、分家した。
 私の父は、明治元年、滋賀県の長浜の早川良平の二男に生れた。長浜は縮緬ちりめんの産地で、早川家も古くから縮緬の地方問屋を営んでいたが、父の父が早世したので、家業を廃した。父は父の祖母に育てられたが、ひどく腕白者であったらしく、小学校でも原級に留められたこともあったという。が、とにかく小学校を終ると、直ぐ新村孝兵衛家へ丁稚奉公に上った。父は新村商店に十数年間勤続し、明治二十八年、母と結婚し、新村姓を名乗った。明治四十年、父は漸く独立を許され、東京新大坂町に開店した。
 明治三十五年十二月、私は父、信太郎の三男に生れた。私は七ヵ月の早生児で、祖母の肌に懐かれて、漸く産声を上げたという。それでも私はどうにか肥立って行ったらしいが、色の白い、女の子のような弱弱しい子であったといわれる。しかしその頃の記憶は全くない。
 私が数え年の四つか、五つの時のことである。私の朦朧とした記憶の中に、より黒い影のような祖父の姿が浮かんで来る。母に手を引かれて(これは後からの想像であるが)、確かに私は本家の内玄関の土間に立っていた。そこへ奥から祖父が出て来たのである。唯それだけの記憶である。更にその記憶には、祖父の顔ははっきりしない。強いてすれば、その顔の輪郭は描き得ないでもないが、それは後年、祖父の写真や、母の顔や、私自身の顔から類推した、記憶の修飾になろう。記憶の限りでは、祖父らしい者という方が正しいかも知れない。
 この私の記憶はかなり信憑性があるように思われる。実際にも本家の内玄関は薄暗い。祖父は奥から逆光線を受けて出て来たものであろう。更に母の話によると、日露の戦捷を祝う草競馬が行われ、本家の桟敷が組まれ、その借用を願いに行った時のことであろうという。すると祖父は既に胃癌に犯されていたはずである。祖父の姿そのものも、俗にいう影が薄かったのではないか。
 それはともかく、これが私の脳裡に残っている唯一の祖父の姿である。同時に、私の最も古い記憶のようである。祖父が亡くなったのは明治三十九年五月であるから。
 祖父の葬儀の時の記憶もある。雨が降っていて、叔父達が木の枝に照る照る坊主を吊っていたのをはっきり覚えている。しかしこんな他愛ない一駒ひとこまだけを残して、私の記憶は断ちきられ、その前後には深い昏迷の世界が拡がっているばかりである。
 祖父の葬儀の当日、私は白張提灯を持って葬列に加わった由であるが、女中の背中で眠ってしまったという。幼い日のことである。このような時にも眠ってしまって、全く記憶を刻まなかった場合もある。しかしまた、幼い脳裡のことである。記憶は刻まれても、直ぐ忘れてしまったことも極めて多かろう。が、私にとって、私の過去は決して空白ではない。記憶は失われたが、幼いながら、数多い日日が埋もれている。空白ではなく、深深とした闇の感じである。そうしてその闇の中には、形は見えないが、さまざまなものが潜んでいるはずである。時には一瞬、ぼんやりその影を映すかと思うと、忽ち底深く沈んでしまう。
 私はお化が恐しかった。鬼も恐しかった。幽霊も、人魂も、死びとも恐しかった。しかしそれ等の恐しいものは、決って暗いところにいたようで、もとより視覚的記憶はない。二丈ぼんや、ろくろっ首の記憶にしても、仮りにその形を描き得たとしても、それは後年の修飾である。しかし幼年期の、形のない、あの漠然とした恐怖の記憶は、今も朦朧と、しかし確かに残っている。
 六つの時、母が大病になった。ある夜、母が私の手を引いて、祖母の夢枕に立ったという。つまりそんな危険な状態がかなりの間続いたらしい。しかし母の大病や、その危機感についての記憶は全くない。その時、私達兄弟は祖母の許に預けられていた由であるが、その記憶もない。しかしその時も、その所も不明であるが、幼年期の、自分一人取り残されたような悲哀の記憶は、今も朦朧と、しかし確かに残っている。
 私の家の宗旨は浄土真宗である。黒暗の闇の中に埋もれてしまった、私の幼い日日にも、読経の声は聞えていたはずである。蝋燭の光も揺れていたことであろう。線香の香も漂うていたことであろう。りんの音もあのきれいな余韻を曳いていたに相違ない。しかし聴覚的な、嗅覚的な、視覚的な、明確な記憶はない。しかしそんな仏教的な雰囲気の記憶は、今も私の脳裡に朦朧と、しかし確かに残っている。
 幼年期の、このような覚束ない記憶の中に、今も極めて鮮明な印象を刻んでいる、一つの記憶がある。地獄絵の中にいる女亡者の姿である。
 あざの中央、観音寺山城の鬼門にあたると伝えられているところに、小堂宇がある。一人の老尼が守っている。春秋の彼岸会に、地獄極楽の絵がその堂内に掛けられる。こんな小堂宇が所蔵しているものであるから、絵画としては勝れたものではなかろう。しかし私は文字通り戦慄した。
 赤と黒の、あくどい色彩を背景にして、女亡者達はいずれも半裸体である。肌はまっ白に塗られ、短い、赤い腰巻をしている。奇怪なことに、私はそんな女亡者の姿に、生れて初めて女を感じた。しかも絵の中の形だけの女ではない。母や、若い女中の体との接触によって、いつともなく感じとっていたらしい女を感じた。しかしそれを性と言えば、言い過ぎであるかも知れない。愛と言ってもよい。しかしその愛は肉体から肉体へのみ通じ得るような、極めて幼く、優しいものである。その優しいものが、酸鼻の極限の下に置かれているのである。私は強烈な恐怖に襲われた。
 或はその逆であるかも知れない。今の記憶によると、地獄絵の中の女達は皆ひどい内股である。しかしそれはこの記憶が何回となく再生されている中に、自ら修飾されたものであろう。が、その時、女亡者の姿に女らしさを感じたのは事実であろう。極度の恐怖が、私に初めて女の女らしさを感じさせたとすれば、私の体内に潜在している性が、マゾヒズム的刺戟によって、一瞬、発現したのではないか。
 以来、突然黒い雲に覆われるように、私は恐しい感情に襲われる。今言えば、絶望に近い感情とも言える。
「悪いことをしませぬように」
 朝夕、仏壇の前に坐って、私は合掌するより他はなかった。


 七つ、八つになると、私の記憶もよほど形を整えて来る。長兄は六つ、姉は五つ、次兄は三つ私より年上である。兄や、姉が学校へ行ってしまうと、私は私附きの女中の春枝に絵本を読んでもらうか、一人で庭に出て遊んだ。私は口喧しい母の側をあまり好まなかったようである。
 庭には梅、桜、桃、椿、山吹、夏蜜柑、紫陽花、柘榴ざくろ、金木犀、枇杷びわ、山茶花等、四季の花が咲く。私はいつもその季節の落花を拾って遊んだ。しかし東の裏は朽ちた木塀に劃されて、未だ空家が残っていた。父がその屋敷跡を買い求め、花園を造ったのは後年のことである。
 また庭には蝶や、蜻蛉とんぼや、蝉や、馬追や、蟋蟀こおろぎ等がいる。蟻が長い行列を作っていることもある。小さい蟻が動いているのを見詰めていると、急に無数の蟻がぼやけ、目全体が霞んでしまう。あわてて、目をこすり、瞬くと、蟻は元のままに一匹、一匹列んで、動いていたりもした。しかし梅の木には毒を持った毛むしもいたし、土蔵の大屋根の軒端には、十年蜂が大きな巣を作っていた。
「一がさした」
 私は相手に無理に右の手を出させる。
「二がさした」
 私は右の手を相手の手の上に重ねる。
「三がさした」
 相手が左の手を私の手の上に乗せる。
「五がさした」
 相手が一番下にある手を引き抜いて、私の左の手に重ねる。
「八がさしたあ」
 私は勢よく左の手を抜き、蜂の真似をして、相手に襲いかかる。相手は春枝の場合が多かっただろう。私はその手の柔かい感触を覚えているようにも思う。が、そう言えば、やはり嘘になろう。以来数十年、この手がそんな幼い時の感触を純粋に残しているはずがない。
 私の家の前にも小川が流れている。その川水を屋敷の中に取り入れ、花崗石で長方形に囲って水を溜め、その水は下手の口から川へ流れ出る。俗に川戸と呼んでいる。私はその川戸の石段にしゃがんで、水が緩く動いているのを見ているのが好きだった。
 水の上を、あめんぼうが器用に渡って行く。突然、白い腹を翻して跳び上ることもある。表面張力の理を知る由もなかった私は、軽業師のような早業の秘密は、総べてあの細長い脚にある、と思いこんだりもした。黒胡麻のような水すましも隅の方に集って、円を描いて廻っている。この虫は驚くと、一斉に水中に潜る習性がある。水上では、小さい体全体が光沢のある黒色であるが、水中では、強い脂肪が水を弾くためか、銀色に光るのも面白かった。
 水中にも、小魚の他にさまざまな小動物が棲んでいることを発見する。水中の石崖には沢山のたにしがくっついている。川えびが脚をかいのように急速に動かして、泳いで行く。蟹が赤いはさみを動かして、何かを喰べている。不意に、異様な形の奴が現れることもある。私はいわば水中の小天地を窺って、飽きることがなかった。
 しかし私の遊び場は屋敷内に限られていて、臆病な私は一人で外に出ることはなかった。最早、恐しいものは暗いところにばかりいるのではない。私は「子捕り」が恐しい。狂犬が恐しい。泥棒も、巡査も恐しい。
 春秋の衛生掃除の日には、巡査が剣を鳴らして家の中まで入って来る。その日になると、朝から私は胸騒ぎがした。手落ちをするような母でないことは信じている。しかし万に一つということもある。また男衆おとこしや、女衆おなごしにどんな不注意があるかも知れない。土蔵の屋根下に、内側を赤く塗った消火ポンプが置いてある。そこの狭い空地は北に面していて、殆ど陽の当ることがない。家人も滅多に行くことはない。表の小門の鳴る音を聞くや、私は足早に逃げて行き、ポンプの下で息を潜めていた記憶がある。
 またある時、私は兵隊の絵本を見ていた。「ホヘイ」や、「キヘイ」は絵によってもよく判った。しかし「ケンペイ」というのはどういう兵隊であるか、私には判らない。私は傍にいた見習の丁稚に聞いた。
「ケンペイて、どういう兵隊さんやのや」
「ほうどすな、まあ、悪いことした兵隊をつかむ、兵隊さんの巡査みたいもんどす」
 忽ち私の顔から血の色が失せたらしい。私にその記憶はない。しかし丁稚がひどく狼狽したのを覚えている。
「晋さん、晋さん、どうかしやしたんか。ほの青い顔」
 一瞬、私は二つの疑問を持った。当時の多くの幼少年達がそうであったように、私は「兵隊さん」というものは強くて、勇しく、正しい人ばかりだと信じていた。そんな「兵隊さん」でも悪いことをするのか。そんな強い人を捕える、より強い人がいるのか。何かが崩壊する感情とともに、疑問は忽ち恐怖に変じた。私は戦慄を覚えた。
 私は医者も恐しかった。外科の器具が恐しかったばかりでない。医者の前ではどんな偉い人も、強い人も等しく弱者の姿でしかないと思われたからである。
 ある日、座敷の隣室で、女中のいさが片肌脱ぎになっている。やすも帯を解いている。春枝もそこへ入って来る。
「寒いことをせんならんのやな」と、やすが言う。
「何するのや」
「チュウシャ」と、いさが口を尖らせて言う。
 突然、得体の知れぬ感情が湧き起った。その時、いさを呼ぶ母の声が座敷から聞えた。座敷には杉谷先生が来ているようだ。せめて春枝だけは座敷へやってはならない。春枝は既に帯を解いている。その肌を脱がせてはならない。
「行ったらいかん」
 私は春枝の手にしがみついた。そこへいさが裸の腕を出したまま帰って来た。私は更に兇暴な感情に煽られる。私は春枝の両手を前掛の紐で縛ってしまおうと焦っていた。
 私の記憶はここで断たれている。多分、母にひどく叱られ、泣き出してしまったことであろう。しかし自分ながら得体の知れぬこの感情は、やはり性欲から発したものではないか。勿論、一時的に突発したものであろう。その頃、私は母と風呂に入った。母が留守の時には、春枝や、いさとも入ったはずである。しかしそんな女の肉体については、何の記憶も結ばれていない。母がきまって前に手拭を当てていた姿は覚えている。が、私は小学校の上級になっても、風呂へは母とともに入ったから、後年の記憶であろう。
 私の恩師、脇村先生は最初は長兄や、姉の担任の先生である。その頃から先生は私の家へよく遊びに来た。母は先生を非常に尊敬していて、夕食を供したりして歓待した。人見知りの強い私も脇村先生は少しも恐しくなかった。むしろ私は先生に馴れ親しんでいて、そのことが内心得意でもあった。
 ある日、脇村先生が来ている。私は座敷へ入ると、まっ直ぐに先生のところへ行き、先生の膝に腰を下した。
「失礼な、ことを、させておる」
 丁度、帰省していて、その席に居合わせていた父が、怒りを含めた声でそう言った。私はびっくりして、先生の膝から腰を上げた。父の怒りは母に向けられているようである。母が言葉を返す。しかし日常起居を共にしていない父の、突然の怒りに私は縮み上ってしまった。そうして例によって、その後の記憶は喪われている。
 何故、父があんなに怒ったのか、私には不思議だった。この出来事は後後まで妙に気にかかった。しかし私にはどうしても理解できなかった。
 その頃、私には奇妙な癖があった。人が――それは道一つ隔てた本家から訪ねて来る祖母であろうと、藪入りに在所へ帰る女中であろうと――帰る時、「お見送り」をしなければ承知できないのである。若しもそれを逸すると、私は地団駄を踏んで悔しがる。幼い感傷というより、むしろ病的なものである。
「ほんなら帰るさかいな、おばあさんのよい後姿を、とっくり見てや」
 祖母などは帰る度に、そんな風に声を掛ける。何が私にそんなことをさせるのか、私は知らない。しかし私の気持はそんな生温いものではない。そうしてそれを理解してくれない大人達が、ひどく歯痒かった。
 次兄に連れられ、日の出を見に行った。門を出ると、幅二メートルばかりの川が流れてい、分厚い花崗岩の橋がかかっている。向かいは悌二郎叔父の家である。空は既に明るかったが、四辺はまだ薄暗く、いかにも夜が残っている感じである。私は次兄の手を確り握り、小走りに歩いて行く。五十メートルばかり行くと、同じく石橋がかかってい、本家の表門がある。その反対に右折し、つまり悌二郎家の白壁の塀に沿って行くと、上畑かんばたけに出る。
 上畑は畠地で、緩く傾斜し、一筋の往還を隔てて、遠く水田が連っている。鎮守の森を除けば、早朝の田園の風景は至って清明である。遥か北方に伊吹山が聳えている。北から東へ、鈴鹿山脈の峰峰が連っている。空は一面淡青色で、その一つの峰を中心にして、東の空が金色に光っている。
「あっこから、お日さん、出やすのや」
 次兄がその山の方向を指した。しかしその山の斜上の空には、灰色の雲が横たわっている。清清しい空に長長と横たわっている雲を見ていると、私は次第に心細くなって来た。しかしそんな幼い感情を、今の私が語れば、どうしても嘘になろう。強いて言えば、「大自然」とでもいったものに対して原始人が抱いたような、感覚的な恐怖感ではなかったか。しかも白雲のある、壮大な風景は一応静止の状態にあると言える。その静止しているということが、却って私を不測の不安にさせたのかも知れない。
 しかしその濃藍色の山頂の一点から、一瞬、真紅の宝玉が強烈な光芒を発したのは、さして時間を要さなかったであろう。そうして真紅の一点は見る見る朱金色の環となり、金色の半円となり、やがて黄金の円盤はゆらゆらと揺れながら、濃藍色の山稜を離れたことだろう。
 私の眼前の風景は一変した。朝の太陽は山野に照り渡り、それぞれの陰影は次第にその色を濃くして行く。見ると、次兄の後にも、私の後にも、影法師が映っている。忽ち先刻までの心細さはすっかり消えた。私は朝日に向かって両手を上げ、万歳を叫びたい気持になった。


 八つの時、小学校に入学した。学校には脇村先生がいる。姉は六年、次兄は四年に在学している。しかし学校には、わが家などとは全く異り、正しい秩序と、厳しい雰囲気とがある。私は敏感にそれを感じ、学校では緊張している。しかしその緊張感は私自身にとっても決して不快なものではない。日頃、柔弱な自分を奮い立たせるようで、むしろ快い。私は胸を張る思いで学校へ行く。私の帰りを待ちかね、春枝が橋の上まで出迎えていることもある。私はそんな春枝に不満の表情を装ったりした。
 一年の担任は長谷川綾子先生である。長谷川先生は髪を束髪そくはつに結い、紫の袴を着けている。当時、母や、祖母は丸髷、女中達は蝶蝶髷に結っていた。私は丸髷という髪型を好まない。というより、積極的に疏しく思っていた。そのためか、その髪型ばかりにでなく、長谷川先生自身に、私は新味を覚えた。また長谷川先生は私達には優しいが、半面、凜として侵し難いものがある。私は全幅の信頼と尊敬とを持った。
 二年生になった。担任は新任の平井つや子先生である。平井先生は長谷川先生より更に若く、ひさしの突き出た束髪に結い、同じく紫の袴を着けている。平井先生の若若しさは少年達にも解るものか、運動場に出ると、私達は競って先生の手にぶら下った。しかし平井先生の授業はかなり厳格で、私は快い緊張を解くことはなかった。
 その頃の田舎の子供達は猥褻わいせつな言葉をよく口にする。勿論、何の感情も伴うものでないから、却って極めて露骨である。それ等の言葉が禁忌であることは薄薄知っている。しかし何故禁忌であるかは知らない。また少年達にとって、禁を破るということはかなり魅力のあることでもある。
 あちらこちらの壁や、柱に、妙な楽書もしてある。それに気づいた時には、というよりそれが記憶に残ったということは、私もそれが何を意味するかを知っていたことになる。特に人から教えられた覚えはない。少年達の例の無邪気な会話から自然に知ったのであろう。しかし私は言葉としてだけ知っていたのである。もとより何の興味も起きるはずはない。しかし何故そんなものばかり楽書するのか、私は不思議でならなかった。
 春枝が最初に暇をとった。それからいさも、やすもいつの間にか私の家にいなくなった。それに代って、みねと、とよと、かねが女中に来ていた。
 そのかねが大裏の物置小屋で死児を産んだという。母が顔色を変えて立ち上る。私もその後から駆けて行く。が、母が振り返って、私を制した。
「晋は来てはいかん」
 その語気の激しさに、私は足を停める。内心、私はひどく不満である。かねのことが気にかかり、次第に不安になって来る。が、やがて和服に白い上衣を着た杉谷先生の姿を見ると、私はそっと家の中へ引き返した。あんなにうららかな太陽が照っている大裏の片隅で、ひどく不吉をことが起ったのに相違ないと思う。ふと地獄絵の血の池地獄が連想された。
 その夜中、かねは長持に入れられ、親許へ送り返されるという。しかし私は男衆の亥之吉の存在が妙に気になる。先刻から亥之吉は母に叱られてばかりいる。今も、定紋のついた提灯に灯を入れようとして、亥之吉は母から激しく叱責されている。なぜ亥之吉があんなに叱られるのか、私はどうしても腑に落ちない。
 私は何とかしてこの疑問を解きたかった。しかし何か禁忌に触れるようでもあり、躊躇される。ある時、とよが一人でいる。私は思い切ってとよに尋ねた。
「赤ん坊はどうして生れるんや」
 何故私がとよを選んだか、不明である。しかしとよの美貌は私にも判っている。或は何等かの秘密を共有する場合のあることを慮って、子供心にもとよを選んだか、と推測されなくもない。果してとよは当惑の色を示したが、やっと口を開いた。
「赤ん坊はなあし、神さんが授けておくれやすのどす」
「ふうん、誰にでも授けておくれやすのか」
「いんえ、お嫁に行くと、お祝いに、授けておくれやすのどす」
「ほんでも、かねはお嫁になんか、行ってやはらへなんだやないか」
「あれは、悪い神さんどしたんどす」
「ふうん、ほすと、悪い神さんはお嫁に行かんひとにも授けやすんか」
「へえ、うっかりしてると、授けやすのどす」
「悪い神さんやな。とよもうっかりせんといてな」
「ほんなもん、わたしら、大丈夫どす」
 が、とよは何故か顔を赤らめる。その顔に鮮かに血の色がさして行くのを見ながら、私はとよはそれほど安全なのであろうかと、危ぶんだ。
 次兄と私は※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)を飼っていた。雄※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)は体も大きく、見事な※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)冠を戴いている。羽毛も美しく、脚には鋭い蹴爪がある。雌※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)は雄※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)より体も小さい。雄※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)は威風堂堂と胸を張って、時をつくる。雌※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)はあわただしく鳴き立てて、産卵を知らせる。歩き方も、雄※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)は勿体振った風に重重しく交互に脚を上げて、悠然と歩く。が、雌※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)はまるでつんのめりそうな恰好で、尻を上げて小走に走ることもある。雄※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の男らしく、雌※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の女らしい様子が、私にはいかにも面白かった。
 突然、全く何者かにとり憑かれたかのように、雄※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)が胸毛を逆立て、羽を拡げ、二つの脚を摺り寄せるようにして、雌※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)に襲いかかることがある。初めのうちは、雌※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)は素知らぬ顔をして、雄※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)を避ける。が、二度、三度雄※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)が迫ると、雌※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)は雄※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の次ぎの行動を予期するかのように、不意に脚を屈して、尻尾を慄わせる。雄※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)は雌※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の項の毛をくわえ、荒荒しく羽を叩きながら、雌※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の背に乗りかかる。雌※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の中にはそのため項の毛が剥げているのもいる。
 年によって、雌※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)に卵を抱かせることもある。抱き鳥は毎朝一回だけ、箱の外に出る。そうして水を飲み、餌を喰べ、脱糞をする。が、それ以外は、箱の中にうずくまって、卵を抱き続ける。まるで苦行者の姿のようである。私は自分を抱き鳥の身に代えて、その苦痛を想像してみた。
 しかし卵は二十日ばかりで孵化する。かえった雛は直ぐ立ち上ることができ、親※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の羽の下から小さい脚を見せている。また雛には玉子色の産毛が密生していて、可憐である。親※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)は雛を抱いて満足そうである。急に母※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)らしい貫禄もでき、体も一廻り大きくなったように見えるのも不思議である。
 鳩も十数羽飼っていた。鳩は雌雄とも姿が優しく、その別ははっきりしない。突然、喉を脹らませ、だみ声で、荒荒しく鳴きながら、首を上下に振り立て、振り立て、つまり急にすさまじい形相になって、追って行くものがあれば、それが雄である。その先を、首を突っ立て、ひょい、ひょいといった恰好で、逃げて行くのが雌である。が、雄が二度、三度と雌に迫ると、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)と同じく、雌は自分から地上にしゃがみ、雄は羽を慄わせて雌の背に乗る。
 鳩は一夫一妻で、一回に二卵を産み、雌雄交互に卵を温める。孵ったばかりの鳩の雛は赤裸で、目ばかり大きく、かなり醜い。また鳩の雛は※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の雛のように孵って直ぐ餌をついばむことはできない。親鳩は一度噛み下した餌を吐き出し、口移しに与える。やはり雌雄ともに餌を与える。雛が大きくなると、かなり大量の餌を与えるようで、親鳩の嘴のあたりや、胸の羽毛がきたなく汚れている。
 早春の夕暮、奇妙な鳴き声が聞えて来る。好奇心が私を声の方へ誘って行く。鳴き声は雑倉の横の溝の中から聞えて来るようである。上体を屈めて覗いてみると、薄闇の中に、大きな蟇が小さい蟇を背負っている。更によく見ていると、その奥の方にも同じ形のものが見えた。
 春になると、白壁の上に、沢山の脚長とんぼが留る。中には、一匹が上を向き、一匹は逆さまになって、尾を繋いでいるのもいた。蝶も草の上で尾を繋いでいる。とんぼは尾を繋いで飛んでいる。蝉も幹の上で尾を繋いでいる。
 秋もけ、息が白く見えるような一朝、蛾の大群が発生し、朝の空を埋めることがある。俗に「よび蝶」と呼ばれている。翅は透き通り、黒い翅脈がある。触角は櫛型で、漆黒である。いかにも弱弱しいが、少年の私は、魔法使の中から生れ出たような妖気を感じた。
 学校から帰って来る頃には、蛾は夥しい死骸となって、大裏の隅のあたりに散り落ちている。しかし板塀の上などに、尾を繋いで生き残っているのも、幾組かいた。
 鳥や、昆虫のこのような行為が何を意味するか、私はいつともなく知った。しかし生徒達の言うように、また時には大人からも聞かされたが、万物の霊長たる人間(当時、この言葉は私の尊敬する人人の口からもしばしば語られた)の男女の間に、そのような行為が行われるとは、とうてい信じられなかった。例えば父母の間のそのような行為を、心中ひそかに※(「穴かんむり/兪」、第4水準2-83-17)きゆするだけでも、甚しい冒涜であると思った。

 たつという、愉快な女中が来た。初めて私がたつを見たのは、私の家の小便所である。私が便所への戸を開けると、奇怪な姿が目に入った。女がこちら向きに腰を折って、用を足しているのである。女は脚を開き、着物は膝の上まで上げられている。厳格な母は女中達にもそのようなことは絶対に許さなかったので、私は驚倒した。私はあわてて戸をしめた。私が男女の器官に相違があるらしいことを実感した、最初の記憶である。
「おまい、この家のぼんか」
 しかし女は私を見ながら、平気で言う。よく見ると、女というより少女で、稚児髷に結ってい、小学校を卒えたばかりの年頃である。私は少し侮辱されたように思ったが、
「ほうや」と答える。
「女みたい、白い顔してるな。わしおたつや。この家へ女子衆おなごしに来たんや」
「ふうん」
「広い家やな。見せていな」
「おこられやへんか」
「ほやかて、ゆっくり休んでいって、言わはったもん」
 私は先きに立って歩き出した。裏庭には公孫樹の大樹がある。その隣に枇杷の木もあるが、公孫樹の勢に圧せられ、反対側ばかりに枝を伸している。
「いかい木やな」
 たつは公孫樹の側へ走って行き、両手を広げてその幹に抱きついた。
「西光寺さんのよりいかいな」
 私は構わず歩いて行く。たつは直ぐ追いつき、後から言う。
「おまい、何ちゅう名や」
「晋って言うんや」
「ふうん。ほんでも、女みたい顔してるな」
 私は馬鹿にされているようで、少し腹が立つ。が、今度はたつが先きに立って歩いて行く。木戸を開けると、梅林である。
「梅ならうちにもあるわ。けんど、梅は酸いさかい、ほない好かん」
「砂の中へ入ると、おこられるぞ」
 自然石を土で重ね、その上にむべ垣がある。それを廻ると、苔を敷き詰めた前栽である。赤松を主にし、高野槙こうやまき、五葉松、檜、椎、ゆずりは、山茶花等が植え込まれている。楓も目立って多い。私は飛石伝いに歩いて行った。
「苔を下駄で踏むと、おこられるぞ」
「ようおこるやな」
 築山の裾に、幹が六本に分れた松の木がある。
「よし、あれに上ったろ」
 たつがそう言ったかと思うと、突然、跣になり、駆けて行き、その一本の幹を上り始めた。たつは実に巧に上って行く。しかし私はすっかり度胆を抜かれた思いで、声を発することもできない。たつははだけた膝を巧に屈伸して、既に高く上って行く。
 たつは松の一枝に腰かけ、二本の脚を垂れた。それからひどく気取った恰好で、片手を額に当てる。小手にかざしたつもりらしい。たつが何か言っている。しかしその声は聞えない。私は初のうちは呆気にとられたが、次第に愉快になって来た。
「たつ、東京が見えるか」
 しかし私の声も聞えないらしい。たつはやっと下り初める。上る時と同じく脚を屈伸して下りて来る。地上近くになると、たつは脚を伸したまま、滑り下りた。たつは気負立った風に、顎を突き出して言う。
九居瀬くいぜが見えたわ」
「九居瀬てなんや」
「知らんのか、わしの在所やないか。愛知えち川のかみや」
「愛知川やったら、川並山へ登らな見えやへんわ」
 しかしその翌朝から、たつは母に叱られ通しである。まず言葉遣いが悪いといって叱られる。
「目上のお方に、『来やはった』とはなんや。『来なさった』とか、『お出でやした』とか言うもんや」
 また行儀が悪いといって叱られる。
「女のくせに、なんや、ほないに立ちはだかって」
 しかしたつはあまり悲しそうな顔はしない。むしろ何のために叱られているのか、解せない風である。それがまた母の小言の種になる。
「ほんまに横着な、蛙の面に水とは、このことや」
 しかしたつは使い歩きは素晴しく早い。その点だけは、至ってせっかちな母の気に入ったようである。
「たつは、はい帰って来たのかいな。手紙は確かに入れて来たのやろな」
「うん、ちゃんと入れて来たが」
「ほれ、また『うん』、ほれがいかん。『はい』とか、『へえ』とか言うのやほん」
 三年生になった。担任は里内校長先生である。しかし先生は休まれる日が多い。代って、西村先生や、礒田先生から授業を受ける。西村先生は中学校を出たばかりで、和服に小倉袴を着け、威勢のよい先生である。礒田先生は老先生で、女生徒達のお下げ髪を結び合せたりする。私は新学年になった緊張感をあまり感じない。
 母の厳格な躾には、さすがのたつもかなり応えているらしい。母の目を逃れては、私が遊んでいるところへやって来る。
「何してるんや」
 そう言って、暫くは神妙にしているが、たつは直ぐ威勢よくなる。
「晋さん、睨み合いしょ」
 たつは私の方を向き、折り曲げた両腕で勢よく自分の脇腹を叩きながら、大きな声で言う。
「だるまさん、だるまさん……」
 子供のくせに、私は睨みっこは強い。全く別のことを考えていればよい。が、たつは私を笑わせようと、片目をつむったり、口を歪げたりしては、自ら噴き出してしまう。すると、たつはいきなり私の大きな太鼓を引きずり出し、足を男のように踏み開き、ばちを振り上げて、勢よく打ち鳴らす。
「九居瀬の太鼓や」
 九居瀬の祭礼の太鼓の鳴らし方の意で、たつはひどく得意である。
 また木のぼりに限らず、高い所はたつの好む場所のようである。たつは水屋の屋根に上って、母に激しく叱られたこともある。
 ある時、たつが顎を上げ、私の前へ喉を突き出して言う。
「こそぼってみやい。わしらなんともないわ」
 私は一寸ためらったが、そっとたつの喉に指を当てる。たつは平気な顔をしている。
「ほれみ、どうもないやろ。晋さんもこそぼってみたろか」
「ほんなもん、わしらこそばいもん」
「あかんこっちゃな。わしら腋の下かて、こそばいことないわ。ほら、こそぼってもよいわ」
 たつは両腕を上げる。私は誘われるように、たつの両腋に手を入れる。途端に、たつは大きな声を発し、腕をすぼめる。
「わあっ、こそぼ。やっぱりこそばいもんやな。ほうや、晋さん、こそぼり合いしやへんか。じゃんけんで負けた方がこそぼられるんや」
「ほんなこと、かなん」
「晋さんは喉だけやが、なあ、しようまいか」
 自分の手で、自分の喉や腋を擽っても、何の感じもない。若しも、睨みっこの場合のように、全く別のことをでも考えておればどうだろう、と私は考える。すると、妙な好奇心も湧く。
 私は承知する。初めのじゃんけんは私が勝った。
「今度こっさり、こそぼがらんほん」
 たつは自分から腕を上げる。が、私が手を伸すと、たつはいきなり腕を窄め、また大きな声を出した。
「わあっ、こそぼ」
「こそぼいて、手もさわったらへんのに」
「ほやかて、何や知らんが、こそぼかったもん。今度こっさりや」
 たつはまた腕を上げる。私は素早く手を差し入れる。たつは腕を窄め、苦しげに笑いながら、上体をくねらせた。
「わああ、こそぼかった。けんど、これ、おもろいな」
 次ぎは私が負ける。私はたつの前に喉を突き出し、算術の加え算をする。たつの指が喉に触れる。やはりひどくこそばゆい。私は顎を引き、たつの手を外す。
 その次ぎも私が負ける。が、奇妙なことに、この時は私の負けを意識したというか、少くとも予期したような記憶が微かにある。ところが、たつがいきなり私の腋の下に手を差し入れる。私はたつの違約を責めようとするが、あまりにくすぐったく、物も言えない。体をよじって、私はやっとたつの手から逃れる。たつが面白そうに笑いながら、手を振って言う。
「じゃんけん、じゃんけん……」
「もう、わし、せん」
「なんでや。ほんなこといわんと、もっとしようまいか」
 不意に、不思議な感情が湧いた。或はたつが約束を破ったことに対する、闘志のようなものであったかも知れない。
「よし、ほんならやろ」
「やろ、やろ」
 今度は私が勝った。たつは僅かに脇をあけたが、私が手を上げると、直ぐ腕を縮める。たつは二度、三度と同じことを繰り返す。
「なんやい、たつて、わりにとろくさいのやな」
「よし、ほんなら、こうや」
 たつは両手を頭の上に上げ、両手の指を組み合せる。
「もう、どうなっとして」
 私は思い切ってその腋の下に手を当てた。
「わあっ」
 たつはあわてて腕を下し、私の手を締めつける。が、そのため、私の手は却って八つ口からたつの腋の中に入ってしまう。
「こそ……こ、こ、こそ……ぼ……」
 私の指はたつの肌に触れている。私は得体の知れぬ気持になる。報復の快感というより、或はより性欲的なものであったかも知れない。しかし私の両手はたつの両腕に挟みつけられ、引き抜くこともできない。私は逆に私の指を動かす。
「く、く、くるし……」
 たつは体を右に、左に振って苦しむ。その顔は醜くゆがみ、紅潮している。最後に、たつは反りかえる恰好になり、斜め横に倒れる。その膝が割れ、膝小僧が出ている。が、たつは上体を伏せて、動かない。
「ああ、苦しかったわ」
 たつはやっと起き上った。その目には涙が光っている。が、たつは膝の着物を合せてから、意外なことを言う。
「けんど、なんでや知らんが、よい気持やわ。今度は、晋さんやかて腋の下やぞ」
 が、その時、たつを呼ぶ母の声が聞える。たつは舌を出して、出て行った。
 四年生になった。担任は小野先生である。脇村先生が校長になられる。この年、次兄が膳所中学校に入学した。次兄は極めて温和な性質であるが、体格が群を抜いて大きく、太ってもいる。従って次兄の存在は無言のうちに生徒達を圧していたわけである。その次兄がいなくなってみると、学校では私は自然に緊張を感じる。
 弟の明のことが私の記憶に残るようになったのも、この頃からである。私の六つの時の母の大病は、弟を出産した彼の産褥熱さんじょくねつであった。以来、弟は本家の祖母の許で育てられていたからでもあるが。
 私は弟と本家の花園で遊んでいた。本家の花園は別屋敷になってい、上畑へ行く道を挟んで、悌二郎家と対している。その半ばは芝生になってい、ぶらんこもあって、私達の恰好の遊び場になっている。開けっ放しになっていた門から、たつが顔を出した。たつは上畑の帰りらしく、手に提げた竹籠には青い豆が入っている。
「何してやすのや。明さんもおとなしいな」
 たつは言葉遣いもよくなり、行儀も改ったが、依然として快活である。
「あれ、ぶらんこや。ちょいと乗らしてもらお」
 たつはぶらんこに飛び乗り、脚を曲げて繰り初める。私は一寸たつの方へ目をやったが、直ぐ遊びの方へ目を返した。しかしそれがどんな遊びであったか、記憶はない。
 人の来る気配に顔を上げる。本家の男衆の万歳が立っている。たつは威勢よくぶらんこを繰っている。万歳はすっかり私達を無視した態度で、片手を小手にかざして言う。
「これは、これは、絶景なり、絶景なり」
 しかしたつはぶらんこを少しも緩めようともせず、上から言い返す。
「いやらしやの。ほんなところ立ってんと、早う、向こい行き」
「ひゃあっ、胸がだいこだいこ、腹がかっぶらかっぶら」
「阿呆いうてんと、早う行かんと、唾かけるほん」
「おたつどん、あきんどの節季や。もうけが見えたがな。後に未練はあるけんど……」
 万歳は浪花節のような節で歌いながら、花壇の方へ引き返して行く。たつはぶらんこの上で、高く声を上げて笑っている。
 私にも万蔵の言った意味はもう判る。そう思うと、急に好奇心が湧く。私はそっと顔を上げる。途端に、裾を翻した着物の中で、たつの二本の脚が弧を描いて、高く、私の視線を掠め去った。しかし万蔵のいったようなものは何もなかった。
 五年生になった。担任は北村先生である。脇村先生は膳所中学校に転任された。次兄は先生の許に寄宿することになったようである。この年、弟も小学校に入学する。
 宿直室で身体検査を受ける。男生徒と、女生徒とは別である。当時の子供はパンツははいていない。男生徒達は素裸で検査を受ける。しかしこの年齢の男生徒にはまだ羞恥感はない。むしろ解放された喜びから、騒ぎ廻っている。
 女生徒の場合は異る。この年齢の女生徒には既に羞恥心は目覚めている。宿直室の戸をしめ、女生徒達は軽く興奮した声を発している。しかし廊下に面した宿直室の窓は紙障子で、ところどころ破れている。女生徒達の半裸の姿も見える。
 女生徒達は障子の破れに気づくと、大騒ぎをする。しかし男生徒の目が女生徒の羞恥を呼びおこしたのではない。むしろ逆である。女生徒の恥しそうな姿勢が、男生徒の目を障子の穴に誘い寄せたのではないか。
 私だけの記憶によると、この頃の私の性欲はまだ自分自身のものとしては目覚めていない。しかしもう単なる好奇心だけで「女の子」を見ることはできない。女生徒の羞恥に誘われたかのように、そこはかとない感情を伴うようになった。
 そう言えば、今までの身体検査も男女別であったか、どうか、というより、学校の身体検査などというものは全然記憶を刻んでいない。従って、この頃になって、「男の子」と「女の子」との区別をはっきり意識するようになった、と言える。更にその頃の私にはまだ性欲はないが、既に仄かな色情は発芽していた、と言えるのではないか。
 庭には雨が降り頻っている。強い雨である。空は白い雲に覆われているが、かなり明るい。私は中の庭の方へ歩いて行った。中の庭に面して、離れの間がある。女中部屋になっている。ふと見ると、とよが一人で昼寝をしていたが、その着物の前が乱れ、赤い腰巻の闇から膝法師が僅かに覗いている。私は見てはならないものを見たと思い、かなり動揺する。急いで視線をそらし、軒下伝いに歩いて行く。
 竪樋がある。雨が激しいためであろう。ごぼごぼと、いかにも過分の水量を吐き出すような音を立てている。雨水も泡立っている。私は何ということもなく、そこへしゃがみ込む。
 雨の中に柘榴の花が咲いている。朱塗りの小燭台のような、堅いがくの上に、数片の赤い花弁が乱れている。雨は屋根の瓦を打ち、軒廂のきびさしを叩き、木木の葉を鳴らして、かまびすしい。濁音や、半濁音のさまざまな雨音の中に、突然、梅の実の落ちる音がする。意外に大きい音である。
 夏季、七月に入ると、昼食後二時間、女中達は休息の時間を与えられる。その間、彼女達は多く私用を弁じるが、昼寝することも珍しくない。
 しかし、とよの先刻の姿は寸時も私の頭から離れない。何故かといえば、とよが美人だからでもあろう。人もそう言うが、この年頃になると、私にも女の年齢や、その容貌の美醜も何となく判って来る。その上、とよは不断から至って行儀がよい。ひどい恥しがり屋でもある。が、あの時はとよの羞恥もうとうとと眠っていたのかも知れない。
 とよの羞恥が目を覚ました時、とよは果してどんな顔をするか。それともとよはまだ眠っているか。更にとよの姿には何等かの変化が生じているか。ひそかに好奇心が動く。
 しかし私の好奇心は今までのように、単なる探究心だけではない。既に何となく罪悪感を伴わないわけにはいかない。少くとも恥ずべき行為であることを知っている。また実際にも恥しい。が、女の示す羞恥の姿は、ひどく甘美な匂いを放つ。私は心にもなく、いつかその匂いに誘われて行く。
 その頃、東の屋敷は既に家屋は取り払われ、南を受けて物干しが立てられている。しかし厳格な母は女の下穿したばきの類をその物干しに干すことを許さない。裏庭の物置小屋の軒下に、女中達のそれ等のものは干されている。そんな布切さえも、最早、私は何気なく見過すことはできない。しかしそれらの布切に包まれているであろう、女中達の肉体に想像を逞しくするほど、勿論、私の色情は成熟しているわけではない。
 赤いのもある。鴇色ときいろのもある。新しいのもある。洗いざらして、色の褪せたのもある。とよのであるか。たつのであるか。まるで若い女の秘密が曝されているようである。私は女中達のつつましい羞恥を感じる。殊に森閑とした裏庭で、その色に白壁を染めながら、落日の斜陽に照り映えているような時、私はむしろ哀しみにも似た感情に襲われる。しかしそれは虚空に笛の音を聞いているような、遥かに遠い感情のようにも思われる。そうしてそんな感情が何に起因しているのか、もとより私は知る由もない。
 いつともなく、たつもすっかりおとなしくなった。たつはよく働いたが、その立居は見違えるばかりに女らしくなった。何がたつをこんなに変えたか、私は不思議でならない。また、人人もいうように、たつはめっきり美しくもなった。
「来やはった時は、雀の巣みたい髪してやはったが」
 するとたつの髪は稚児髷ではなかったか。確かに、あの時、前屈みになっていたたつの頭は稚児髷であった。しかし最早、羞恥の感情を伴わないで、たつのそんな姿を回想することはできない。私は片手を額にかざし、たつをからかう。
「たつ、たつ、九居瀬が見えるわ」
「もうほれだけは、言わんといておくれやす」
 たつは赤く顔を染めた。
「たつ、またこそぼり合いしようか」
 私がそう言えば、たつは何と答えるか。私は少なからず興味を覚える。しかしたつのふくらかな姿態を見ていると、私はどうしてもそれを口にすることができなかった。
 その頃から、私はテニスに熱中するようになる。学校のコートは六年生が殆ど独占する形になっている。私は母にネットを買ってもらう。ラケットは兄達のが何本かある。私は東の庭の空地をコートにし、友達を誘って来て、球が見えなくなるまでラケットを振る日が多くなった。
 テニスだけではない。私は野球や、相撲にも興味を覚え、新聞の運動記事をまっ先に見るようになる。当時の野球記事は美文調で、ひどく勇ましい文章が多かった。
 私がスポーツを好むようになったのは、勿論、兄達の影響である。しかし私の中の男性的なものが発育して行くにつれ、私はいつともなく自分の容貌や、性格に嫌悪を感じ初め、常により勇しく、より男らしくありたいと、無意識の裡に願い続けていた、その一つの現れであると思われる。
 私はまた私の家の古臭い家風に反感を抱き初める。そうしてその厳格な遵奉者じゅんぽうしゃである母と、よく言い争うようになった。
 六年生になった。担任の先生は堀先生である。私は最上級生になり、緊張感を新しくした。
 が、ある日、私の名前と、同級の女生徒、新村淑子との名前を連ね、例の女のものを描いた楽書を発見する。しかも楽書は私の家の、道路に面した白壁の塀の上に、大きく書かれている。私は自分の顔の上を汚されたようで、ひどく不愉快である。淑子の家と、私の家とは遠縁になるが、二人は学校以外で顔を合わせたことはない。全く無意味というべきである。しかし決して名誉なことではない。私は何となく腹が立つ。
 翌日、私は学校へ行った。奇妙なことに、私はいつものように虚心でいることはできない。それでいて、それとなく淑子の姿を探している。淑子は学業も勝れ、体格も近来急に成育し、女生徒の先頭である。容貌も既に美しい輪郭を整え初めている。そんな淑子を見出すのに、私はさして時間を要するはずはない。
 淑子の視線が私を捕えた。そう思った瞬間、淑子はさっと顔を赤らめ、急いで視線をそらした。すると、私の意志には関係なく、私は私の顔も淑子のそれと同じ色に染っていくのを覚えた。
 とよが嫁入りするので、暇を取るという。とよに限らず、女の人が嫁入りしても、友達が口にするようなことをするとは、私は信じられない。しかしとよのむしろ悲しげな笑顔を見ると、ふと、疑いが湧かなくもない。更に私にそんな疑念を抱かせたことが、とよにとっても、私にとってもひどく恥しいことのように思われる。とよの生家は伊吹山麓の農家である。嫁ぐ家も農家であるという。とよからよく聞いた、ひなびた山家の風景の中にとよの姿をおくことによって、私は私の心を紛すより他はない。
 とよに代って、清子が来る。清子の故郷は山上であるという。たつの話によると、山上も愛知川に沿っているが、九居瀬よりずっと下流で、町のように賑やかな所もあるという。清子はたつより一つ年下であるが、高等科も出ていて、たつの場合のようなことは全く見られなかった。
 六年生になると、かなり忙しい。私は学校の運動場のコートでテニスをする。選手にも推され、対校試合にも出場する。堀先生は授業に熱心であるから、うっかり復習を怠るわけにはいかない。中学校の入学試験の準備もしなければならない。
「お尻まくりやはった」
 誰かが大きな声で言う。二三の生徒がそれに和する。するとこの馬鹿げた遊びが始ったことになる。そうして全校の生徒は否応なしに参加したことに、まるで習慣法のようになっている。その代り、よほどの無法者でない限り、不意打ちは行わないことに、これまた同様決まっている。しかし私は袴を穿いているので、自然に参加しないことになっている。
 こんな馬鹿げた遊びが始っても、何分小学生のことであるから、さして重苦しい変化は生じない。むしろ屋内運動場にはどこかおどけた、はしゃいだ空気さえ漂っている。
 下級の女生徒の中には、着物の裾を股の間から持ち上げて、走り廻っているものもいる。上級の女生徒達も今までの遊戯を中止したりはしない。しかし周囲に注意は怠らない。また、お手玉をつきながら、壁を背にする位置に後退するものもいる。
 男の生徒達もせっかちに追い廻したりはしない。そ知らぬ顔をして、女生徒達の隙を窺っているのである。つまり男生徒達と女生徒達の間には微妙な心理作戦が行われている。そうしてそのいずれもが複数であるところに、複雑な興味が生じる。
「馬鹿げた遊び」と言った。が、小学校も上級になると、女生徒達ははっきり羞恥の色を示すようになり、私の心の中にもそれを反映するものが生じた。最早、私には「馬鹿げた遊び」などと言える資格はない。私は何知らぬ顔をして、一人雑誌を開いているが、私の目は誰よりも強い興味を持って、この「馬鹿げた遊び」に参加していた、と言えなくもない。
「今日こっさり、お淑をやったろまいかい」
「うん、やったろ」
 清九郎と与吉との話声が、私の耳に入る。一瞬、私はぎくりとなる。しかし私は二人の話に驚いたのではない。奇怪なことに、私も窃かにそれを期待していたのではないか、と気づいたからである。
 上級の女生徒達は数人ずつ集ってそれぞれの遊びを続けている。が、勿論、少しの油断もない。最近、背丈も更に伸び、娘らしい恰幅も増した淑子の存在は、既に先刻から私の視線の中に入っている。淑子はお手玉をついている。六つ玉くらいであろう。かなりの数のお手玉を無心に操っている。しかしそんな淑子の姿はいかにも隙だらけのようで、ひどく危い。
 清九郎と与吉とがゴム毬を投げ合っている。与吉がその毬をそらし、それを追っかけて行く。すると淑子はお手玉をつきながら、ゆっくり足を廻して向きを変え、与吉に後を見せない。
 一見、淑子はむしろ男生徒をいざない戯れているかに見える。しかし敏感な淑子は容易に乗ずる隙を与えないのであろう。私は今までに淑子がこの難にあったことを知らない。
 山羊の一群を率いているような、年を経た山羊は、むしろ自ら進んで、その姿を猟師の視野の中におくという。或は淑子も自ら進んで、男生徒達の視線を引きつけておくことによって、逆に相手の行動を窺い、自分の注意力を常に緊張の状態におくのかも知れない。
 淑子がお手玉を落したようである。代ってまき子がつき始める。突然、反対側の女生徒達の間に動揺が起り、専大郎がその間から抜け出して来る。五年生の菊枝である。菊枝は着物を押えたまま、床板の上に坐っている。
 相変らず、生徒達は右に左に駆け廻っている。その間を縫って、またゴム毬がまき子の後方へ転って行く。今度は清九郎が追っかけて行く。
「清やん、ここや」
 与吉は両手を挙げ、毬が投げ返されるのを待っている恰好である。淑子がまき子に注意を与えている。まき子が急いで向きを変えようとしている。その時、寅吉が便所の出入口から顔を出した、と思った次ぎの一瞬、淑子の裾が開き、二本の脚が見えた。が、淑子は素早く裾を押え、激しく体を捻って、背後の手を振り切ったらしい。淑子は両手で顔を覆い、片隅に身を寄せる。寅吉と清九郎は、大物を射止めた猟師のように、小躍りして帰って来る。私は急いで雑誌の上に目を返す。
 私は淑子の悔しさがよく判る。身に染みて判る。私が一人の女生徒にこんな強い気持を抱いたのは初めての経験である。楽書のせいかも知れないが、自分のことのように恥しい。しかし一体、恥しいとはどういうことだろう。どう考えてみても、判らない。しかしとにかく、女でなくとも、あのようなことをされれば、恥しいに相違ない。理由はない。
 それにも関らず、何故、私は先刻あのような恥ずべきことを期待したのか。しかもあの一瞬の、淑子の羞恥の姿は、私に淑子の丸いお尻を幻覚させるに十分であった。つまり私の恥ずべき期待は満されたわけである。しかしこれを逆に言えば、もしも淑子が羞恥の表情を示さないとすれば、女生徒の臀部などに興味があろうはずがない。するとまた、羞恥とは何だろう、ということになる。
 私は教室へ入ってからも、ぼんやり同じことを繰り返して考える。しかしもとより解決のつくはずはなかった。
 私達の村に電灯が点るようになったのは、その年の晩秋のことである。電柱に人が上っていると聞き、私は表へ駆け出した。淑子がいる。淑子だけである。二人は顔を赤らめ合って、会釈をする。電柱には工夫が上っている。私は淑子に何か言葉をかけなければならないように思う。しかし顔を赤らめないではできそうにない。私は思い切って言う。
「今夜から、ともるんどすやろか」
「ほうどすて。けんど、あの方が下りやさんと、ともらんそうどす」
 やがて工夫が電柱から下り始める。私は淑子と別れ、私の家へ駆け帰った。しかし電灯はなかなか点らなかった。


 十四の時、膳所中学に入学し、次兄とともに脇村先生の許に預けられる。脇村先生は淡水魚問屋の離れ家を借り、私達は自炊していた。
 その離れ家のま下は掘り池になっている。鯉や、鮒や、緋鯉や、緋鮒が活けてある。なまずや、鰻や、ぎぎの類は丸い籠に入れて、漬けてある。その池のある庭を隔てて、直ぐ湖の岸である。先生と兄の机は横に向かい合い、私の机は正面むきに並べておくので、私は机に向かいながら、うららかな春の湖の風景が眺められた。
 また、その庭の石段を下りると、石を組んだ突堤が湖水の中に突き出ている。左手には、近く長等山や、比叡山や、比良の山脈が見られる。右手には、三上山のある風景を中心にして、湖東地方の山野が望見される。私はよくこの突堤に立って、故郷の家を思った。小学校も上級になると、勝気な上に封建的な母とは、私は毎日のように衝突した。しかし家を離れてみると、私は無性に母が慕わしい。突然そんな私の耳に、湖上を渡る汽船の上から、女学生達の華やかな合唱が聞えて来たりもした。
 中学校では、小学生のような露骨な言葉は口にされない。私は少なからず誇らしい気持になる。が、それに代って、「稚児さん」とか、「少年」とか呼ばれる、妙な風習のあることを知る。
 小学校の六年生の時、私は京都の女学校に行っている姉から、「カチューシャの歌」を教えられ、男女の間に恋愛の関係があることを解した。というより、ひどく哀切なことのように思われ、むしろ私は憧憬に似た感情を抱いた。男と男との間にも、それに似た関係があるのかと、不審に思う。しかし上級生の間で、私も「少年」の一人にされていることを知り、中学生になった誇りを、すっかり傷つけられてしまう。
 私は男らしくありたい、勇しくありたいと虚勢を張ろうとする。が、旧制中学校の上級生達は既に一人前の男である。声も太く、髭も生えている。私はまず肉体的に圧倒されてしまう。そんな上級生達に遠巻きにされ囃し立てられたりすると、私は最早収拾がつかなくなる。私は心にもなく顔を赤らめ、校庭の隅の方へでも逃げて行くより他はなかった。
 七月に入り、梅雨が明けると、私等の中学校では必修科目としての水泳が始まる。しかし私は全然泳ぐことができない。赤帽組である。泳ぐことのできる距離によって、赤、赤白、青の帽子に別けられている。水泳の教師は黒帽である。が、一年生の中にも、既に青帽の生徒もいる。全く羨しい。漸く終り近く、私は浮き上ることができたばかりである。来年を期すより他はない。
 そんなある夕方、私は食器を洗いに突堤へ出た。殆ど同年配と思われる娘が三人、少し離れた汀にいる。娘達はいずれも浴衣に兵児帯を締め、その素足を小さい波に洗わせている。魚問屋の娘の加代もその中にいる。加代は私と同年で、高等科へ行っている。笑うと、白い八重歯が印象に残る。娘達は僅かに着物をからげ、笑いながら、少しずつ深みへ進んで行く。
 隣家の崕の上に、若い男の姿が現れる。男は無言のまま、いきなり娘達の方へ石を投げる。娘達は一斉に振り返ったが、やはり無言で笑いながら水中を逃げて来る。その娘達の背後に、石は続けざまに飛沫を上げて落ちる。娘達は勢よく水を飛ばして、私のいる突堤に向かって進んで来る。着物の裾は膝のあたりまで捲くられている。しかし娘達はまるで水遊びを楽しんでいるかのように、始終笑いを浮べている。が、突然、娘達は足を停め、少し迂回して方向を転じ、反対側の突堤の方へ進んで行く。
 まだ少女のようなしなやかな脚が、活溌に水を蹴って動く度に、水は飛沫を上げて乱れ騒ぐ。その娘達の後姿を明るい斜陽が照している。石を投げる男達の目的は、娘達をもっと深みへ追いやることにあったらしい。しかし彼女達の快活な行動が、私にそんな興味を抱かせなかった。私はむしろ三人の娘のいる、極めて明るい色彩の風景画を見ているような、清潔な印象を残した。
 一学期の試験を終った。私は間に合う汽車で母の許へ帰ることにしている。無性に嬉しく、全く心もここにない思いである。が、そんな時、一人の同級の生徒から一通の手紙を渡される。
「えんしょ(艶書)や」と言って、その同級生は逃げて行ってしまう。私は何事か、了解に苦しむ。急いで寄宿先に帰り、とにかく封筒を開く。差出人は五年生の庭球部の選手で、石鹿公園で会いたいという。が、私はそれどころではない。帰心で、胸が一杯である。
 しかし私はその手紙に――或はそんな男と男との関係に――朧げながら罪悪的なものを感じたのは事実である。私はマッチの火でその手紙を焼いた。しかし紙の焼けた残滓は始末の悪いものである。やっと新聞紙にくるみ、湖水に投げ捨てる。そうして私は停車場に駆けつけた。
 汽車が瀬田川の鉄橋を渡る時、私達の間で「グリーンランド」と呼びならされている、石鹿公園の緑の突端が見える。その時、ふとあの五年生のことが私の頭を掠めないでもなかったが、初めて帰省する喜びがあまりに大きく、それ以外のことは、私の頭に長くは留らなかった。
 翌朝、故郷の懐しさの、まるで余韻を楽しむかのように、私は散歩に出る。
 太陽は東の空に上っているが、その陽ざしはまだそれほど烈しくはない。幼い時から見馴れた風景の中には、伊吹山も、県境の山山もある。首を返すと、観音寺山や、明神山の懐しい姿も見える。朝風は清清しく、草叢の露は私の素足を濡らす。上畑かんばたけの緩い傾斜を下ると、見渡す限り青田である。稲は絶えず緑の波を立て、その中に降り立っている鷺の姿が目に染みて白い。
 私は街道に出、更に左に折れて、村の中に入る。私は膳所中学の徽章のついた麦藁帽子をかぶっている。かなり得意である。少し行くと、庄右衛門の藪である。私の家の前を流れている川はこの藪に突き当り、急に左折して流れている。ここの淀みで、二十センチばかりの鯉を捕ったこともある。
 川に沿って進み、石橋を渡って右に折れ、本家と私の家との間の道を歩いて行く。私の家の塀に書かれている例の楽書を思い出す。路上には人はいない。私はそっと白壁の方へ目を向けた。
 思わず、私は息を詰めた。「晋」と「およし」と、名前は以前のままである。しかし例の女のものには、その周囲に数本の線が引いてある。陰毛のつもりらしい。確かに新しく書き加えられたものに相違ない。少しあくど過ぎる。或は同一人でないかも知れぬ。別人が意味もなく、筆を加えたのかも知れない。初めから陰毛のある楽書はどこにもある。別に何の感じも与えはしない。しかしこの楽書が変化したということが、私に妙に実感を起させる。淑子は隣村の高等小学校に通っている。いかにも惨酷に過ぎる。私は淑子の羞恥を思い、不意に、私は強い性欲的刺戟を受ける。
 夏休みが終り、私は膳所の寄宿先へ戻った。毎朝、この淡水魚問屋の突堤を目ざして、漁船が多く集って来る。そうして問屋の庭で魚市が立つ。売手は袖の中に手を隠し、買手はその中に手を入れ、指と指とで、取引が行われるらしい。もろこ、ひがい、はす、ぎぎ、いさざ、かまつか、小えび等、淡水魚の種類は少くない。
 買手の中には、女の棒手振ぼてふりも二三人いる。殆ど同じ装束で、短い着物の下に、あわせの腰巻をはき、紺の脚絆をつけている。市を待つ間などには、かなり卑猥な会話も交されているらしい。私達の部屋では話し声は聞きとれない。しかし変な笑顔と、表情で、私にもそれと察しられる。
 ある日、牀机しょうぎに腰かけている男が、突然、その前に立っている女に、両手を拡げる。すると女は尻を突き出して、男の膝に乗る。男は後から両手で女の胴を抱いている。女は盛んに腰を揺っている。例の笑顔が起る。女の前は割れ、膝頭の奥まで、その内側を覗かせている。しかし女には少しも羞恥の表情はない。大口を開いて笑っている。
 勿論、二人がふざけていることは、私にも判る。しかし私は今までにそんな女の姿を見たことがない。その頃、私は人間の性の行為を疑うことはできなくなっていた。しかし強い羞恥の感情を伴わないで、それを考えることはできない。従って、私は女の振舞を全く唖然とした気持で見ているより他はなかった。
 二年生になった。脇村先生が京都大学の国文科に学ばれることになり、私達は大津市の関寺町に移った。関寺町は大津市の西南端にあり、学校までは四キロ近くある。しかし乗物を用いることは校則が許さない。毎日、私は往復の道を歩いた。
 私の胯間に、薄く発毛しているのに気づいたのは、その夏休み、風呂場でのことである。その夏、私の水泳は大いに進歩した。十町の試験を通過して、赤白の帽子になり、次いで青帽になり、最後に石場、石山間の三里の遠泳にも合格した。しかしそんな日日の脱衣、着衣の際にも、その徴候は見えなかったのである。
 初め、私は驚きとともに、羞恥を覚える。しかしその恥しさの中には、自分もどうにか大人になるのかと、妙に得意な気持も交っていた。が、私は次第に不安になって来る。自分の意志には関係なく、自分の体が変化するのである。全くの無断であり、無理強いである。しかも拒むことができない。ひどく惨酷なことのように思われる。更にこれからもどのような変化が起るか、判ったものではない。自分の体が無気味である。
 自分の体の変化につけても、私はいよいよ男らしくありたいと願う。この四月、私は庭球部から野球部に転じた。野球の方がより男性的であると思ったからである。が、直ぐ投手である五年生の「少年」にされる。
 次兄はその性質は温和であったが、体格はひどく肥満している。ボートの選手で、四番を漕ぎ、柔道は初段である。そんな関係もあって、柔道の時間には、上級生の選手達によく引張り出される。私は勇敢に立ち向かうが、直ぐ寝業に押えこまれる。私の皮膚は他人の皮膚にじかに接触されるのをあまり好まない。その上、上級生のこわい髭が、私の頬を刺して痛い。私は相手の体を叩いて、直ぐ「まいった」をする。
「新村、もっと頑張って」と、私は柔道の教師に叱られる。
 私が「よくない行為」を覚えたのも、その頃のことである。私の場合、誰かに教わった覚えはない。しかし最初は意識して行ったわけでもない。気がついた時には、私は既に自暴自棄のような昂奮に襲われていた。どうしてそんな成行になったか、全く判らない。しかしひどく恥ずべき行為であることは判る。何かの罪を犯したようでもある。得体の知れぬ恐怖を感じる。
 しかし次回からは、私は意識して行ったと言わなければならない。勿論、初のうちは強く自戒している。例えば、ファーストバッターとなって、バッターボックスに立っているような、極めて勇しい自分の姿を頭に描いてみたりする。無念無想、というようなことも考えてみる。しかしこの時ほど、自分というものが完全に二つに分裂していることを自覚させる場合は少い。そうして一方の自分が次第にもう一方の自分に征服されて行くのを意識する。それでも強い罪悪感を伴った羞恥が、一方の私に懸命の抵抗を試みさせる。しかし一定の限界を越えると、奇怪なことに、蓋恥までが私を裏切ってしまうようである。つまり何ものかが私の手で私の羞恥を裸にすることを命じる。私の羞恥は狼狽する。が、命令者は極めて執拗である。私は被虐的な快感を伴って、遂にその命令に服するより他はない。


 三年生になった。その三月、次兄は卒業した。野球部の投手も卒業した。私はやっと独立ちした感じで、大いに男性的行動を取ろうとする。が、私はいつの間にか四年生の柔道部の選手の「少年」にされてしまう。彼は六尺近い肥大漢である。私の次兄の後継者というよりは、より有望視されている生徒である。私などの適うものではない。
 生徒ばかりではない。更に若い教師達からも妙な目で見られたり、変なことを言われたりする。生徒達は囃し立てる。すると私の顔は、私の意志に反し、直ぐ真赤になる。表情だけではない。私の物腰にも受身の形が現れるらしい。私はそんな自分を嫌悪する。しかしどうなるものでもない。
 次兄がいなくなったので、私は脇村先生と床を並べて寝る。ある日曜日の朝のことである。私が起きようとすると、先生の手が伸び、私を先生の蒲団の中に引き入れようとする。私は少しく驚く。しかし私は先生を誰よりも尊敬している。幼い時、先生の膝の上に腰をかけて、父に叱られた記憶もある。肉親的な近親感も持っている。私は先生の手を拒むことはできない。私は先生の蒲団の中に入れられる。先生は私を強く抱き締める。日頃は、先生は絶対にといってもよいほど、感情を表さない。私は先生の腕の中で、自分はこんなに愛されていたのかと、そんな自分を幸福に思った。
 以来、日曜日の朝の一刻を、私は先生のごつい木綿の蒲団の中で過すようになる。先生の腕の中で、私は極めて快活に甘ったれることも覚える。しかし、もとよりそれだけのことに過ぎなかったことは言うまでもない。
 四年生になった。あの柔道部の選手が原級に止ったので、私と同級になる。つまり私は中学校を卒業するまで、「少年」であることを免れないことになる。がっかりする。
 その五月、次兄が亡くなった。粟粒性ぞくりゅうせい結核であった。次兄は極めて頑健で、今まで病気らしい病気をしたことがない。私は愕然とした。そうして悲歎した。しかし弱年の故であろう。私は死そのものについては深く考えることはなかった。
 本家の伯父には子供がなく、私の長兄が本家を継ぐことになっている。従って次兄の死によって、私が私の家の後嗣になる。しかしそれについても、私は何も考えない。やはり年齢の故であろう。
 五年生になった。弟が膳所中学に入学した。脇村先生の許で共に起居することになる。弟は祖母育ちで、私に随分世話を焼かせる。
 私は野球部の委員になる。来年からA新聞の全国的な大会に出場できることになり、チームは下級生中心に編成する。従って他校へ遠征する場合、私がチームを引率する恰好になる。しかし相手校の運動場に入ると、私は私に注がれている、特殊な視線を敏感に感じとる。
「ええ子やないか」
「どうや、一晩、抱いて寝たろか」
 そんなことを言われたりする。忽ち私は面目を失してしまう。
 私はまた弁論部にも加わり、正義派的な言動をするようになる。下級生のために、教師に喰ってかかったことも度度ある。休暇中女中を庇って、母と衝突したことも数えきれない。しかし修学旅行で旅館に泊ると、女中達が交る交る私の部屋を覗きに来たりして、私の男らしい矜持は一ぺんに吹き飛んでしまう。
 いつか、私の腋窩にも毛が生え、胯間には、臍下から会陰部へかけ、陰毛が生え揃った。亀頭は包皮で包まれているが、陰茎も、睾丸も大きくなった。かなり醜悪である。勿論、性欲を催すと、私の意志とは全く関係なく、私の陰茎はその現象を呈する。私は恥しく、情なく、苦苦しいが、どうなるものでもない。つまり好むと好まないとにかかわらず、否応なく、私は一人前の男になってしまったのである。
 小学生の頃はその覚えはないが、中学生になってから、私はよく脳貧血を起した。頭がふらつく程度で、やがて治る場合もある。が、突然、その場に倒れ、教師達を驚かすこともある。そんな時は、一時は意識もなくなり、顔面は蒼白で、唇の色も失われてしまう。
 また始終頭痛がした。殊に午後になると、※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみに動悸を打って痛んで来る。或は「よくない行為」のせいではないか、とも疑う。私は更に不愉快になる。とにかく、その頃の私は感情が変り易い。事実以上に憂鬱を装いたくなるかと思うと、急にひどく快活に振舞ってみたりした。
 勿論、学校では性は厳しく禁忌されている。恋愛も禁じられている。異性との交際も不可能である。しかし上級の生徒達は、彼等が好むと好まないとにかかわらず、既に一人前の男であることは、私に限ったことではあるまい。しかし彼等(勿論、私を含めて)の性はどこにもはけ口がない。言ってみれば、性の中に密閉されている、俘囚のようなものである。従って彼等はどんな些細なはけ口でも、見逃すようなことはない。例えば漢文の教科書に「蛟竜得雲雨、云云」とある。するとそれだけで彼等の間にはただならぬ動揺が伝わる。「蛟竜」の解釈が問題なのである。そう言えば「少年」などというのも、彼等にとっては、禁じられた恋愛感情の、はかない発散なのであろう。
 しかし彼等は極めて健康ではあるが、まだ分別も定らぬ年齢である。ラブレターを送って、停学になった友人も幾人かいる。鬱屈した性欲に操られたかのように、寄宿舎を抜け出し、娼家に上って、退校処分に附された同級生も一人いる。また一人の親しい友人が私に言う。
「君のような人に、こんなこと言うて、悪いけんど、僕は、あの人の胸の中に手を入れたんや。柔かいお乳の下で、あの人の心臓が鳴ってるやないか。うちらもう富もいらん、名誉もいらん、と思うたんや。阿呆な奴やと、笑うてくれやはるか知らんけんどね」
 二人は大津の県庁裏の堤に腰を下していた。月見草が咲いている。空には、星が光っている。私も恋愛に対しては感傷的な憧憬を抱いている。彼を笑うことはできない。が、私には、若い女の胸に手を入れるほどの勇気はありそうもない。
 しかし私の男性の肉体と女性的な感情とは互に倒錯し、鬱屈して、かなり異常な性欲癖を作ったようである。強い羞恥を感じる時、ひどく無念な時、私の性欲は昂進する。ある時、暴力が弱者を凌辱する記事を読んでいて、突然、私は下着を汚した。
 翌年、膳所中学を卒業し、京都の第三高等学校を受験する。身体検査の時、私は初めて性器の検査を受ける。私はカーテンの中に入り、医者の前に立つと、予め命じられた通り、ズボンを下げ、性器を出す。腹の皮まで赤くなる思いがする。
 医者は私の陰茎をつまみ、包皮をむく。強い痛みを覚える。が、医者は直ぐ包皮を返し私の顔を見て言う。
「マスをやるな」
 私は蒼白な感情になる。しかし私は弁解のしようがない。またその暇もない。私は急いでズボンを引き上げる。そうして私はひどく屈辱的な気持を抱いて、カーテンの外に出るより他はなかった。
 前日の数学の試験の時である。どうしても解けない問題がある。時間は次第に迫って来る。他に自信のないのが二題もある。私はますます焦って来る。頭はかっと上せてしまい、思考力をどうしても集中することができない。遂に鐘が鳴り出した。突然、私の性欲が昂奮し、一瞬のうちに下着を汚してしまったのである。
 三高の試験に失敗する。以来、一年間、私は憂鬱な日日を送った。


 翌年、私は第三高等学校に入学した。初め私は脇村先生の許から通学する。先生の許には、弟が引続き厄介になっている。昨年、先生は結婚された。が、私は依然として先生に心服している。むしろ先生の新家庭を祝福している。弟と違って、私は新夫人にも好感を持たれている。が、私は電車という乗物をあまり好まない。殊に京津電車の揺れ方はひどい。また内心にはやはり独立してみたい好奇心もなくはない。
 ある日、友人と素人下宿の部屋を見に行く。中年婦人が狭い三和土たたきの小路を通って案内してくれる。部屋は都合よく離れ風に独立している。が、ふと見ると、狭い庭に腰巻が干してある。赤や、鴇色や、模様のあるのや、色とりどりの腰巻が確かに五六枚は干してある。娘が多いのかも知れぬ。が、私は少なからず辟易する。
「さあさあ、お茶いれまっさかい、一服しとくれやす」
 私が田舎風に菓子箱など持参したためか、至って愛想がよい。
「新村はんて、江州の新村はんどすか」
「そうですが」
「ほんなとこのおぼんはんに下宿してもろうて、ほんまに光栄や思いまっせ」
 私はすっかり当惑顔で外に出る。
「新村、惚れられるぞ」と、いきなりその友人が言う。
「娘がいるらしいね」
「うん、娘だけじゃない。あのおかみだって、嫌な感じだったじゃないか」
 私は気味悪くなる。そう言えば、狭い露地に干してあった腰巻の色にも、私は何か不吉なものを感じた。女に対して、そんな感情を抱いた最初の経験である。勿論、私はその素人下宿は破談にした。そうして今まで気の進まなかった、父の店の旧番頭の貸家を借りることに決める。
 その私の仮寓は三条大宮を東へ入ったところにある。京の三条通も堀川を西へ渡ると、あのしっとりと落着いた気品は失われる。小さい小売屋が軒を並べ、客を呼ぶ声もかまびすしく、かなり猥雑な街になる。
 通りに面した商店と商店との間には、極めて狭い露地が幾筋も通じてい、それを通り抜けると、決って二軒、三軒と仕舞屋が建っている。私もそんな一軒を借りていたが、階下は畳も薄暗いので、二階を書斎に当てていた。
 その二階の窓の下にも狭い露地が通ってい、その奥の家には若い、琵琶の女師匠がその妹と住んでいた。夜になると、近所の若者達が習いに来て、賑やかな話声が止むと、琵琶の音が聞えて来る。時には、女師匠が練習しているのか、昼間も琵琶の低い音が鳴っていることもあった。
 当時の京の町家の小便所は、朝顔がなく、壺がむき出しになっていて、僅かに板で仕切られているに過ぎないものが多かった。その上、京の女は後向きになって、立ったまま用を足すので、その音はひどく庶民的な音を立てる。
 私の書斎の窓下からもその音は聞えて来る。隣家には一人娘のいる初老の夫婦が住んでいるので、露地の奥からも聞えて来る。京都に住んで、ひどく不粋な話である。が、いつの時代にも、権力者の華やかな文化の底で、京都の庶民はこのようにして生き堪えて来たのではないか。彼等は消極的に見えるが、その生活力はかなり執拗である。
 しかし私の下宿からは神泉苑も近かった。神泉苑は当時既に池には水もなく、埃っぽい小庭園に過ぎなかったが、私の好む休みの場所となった。二条城も私の散歩の範囲にあったし、二条駅も私の好きな場所であった。散歩の途次、私は二条駅の木柵に凭り、単線のレールが鈍く光っているのを眺めながら、花園、嵯峨、保津峡、更に胡麻、和知、安栖里、山家などと、頻りに旅が思われたりした。またある日、春風の中に笛や、鉦の音が聞えているのに誘われ、その音を頼りに行ってみると、壬生狂言が行われていたりもした。
 三高在校生の膳中会に出席する。初めて芸者のいる席に連ったわけである。美しいとは思うが、精神的には何の感銘も受けない。酒は飲まないつもりでいた。が、尊敬する先輩に盃を進められ、生れて初めて酒を口にする。最初、酒が私の舌端に触れた時は、少し異様なものを感じたが、喉を過ぎる頃には、私の舌に魅惑的な後味を残した。一人の盃を受けて、他の人のを受けないわけにはいかない。私は次ぎ次ぎに盃を受ける。軽い酔いを発する。ひどく快い。
 ある日のことである。私は私の下宿へ二人の友人を伴って来た。その一人が座に着くなり、壁の横木の釘に白線の帽子を投げる。が、帽子は的を外れ、窓の下に落ちる。私達は顔を並べて窓の外に出す。が、次ぎの瞬間、あわてて顔を引込める。既に薄暗くなった露地の隅で、琵琶の師匠が行水を使っていたのである。
「お帽子、じきに久子に持たしてやりますえ」
 窓の下から女師匠の声が聞えて来る。甘ったるい声である。
「醜態」
 若い私達はいつもそんな風にして、互に運動神経を競い合っていたのである。決して他意はない。しかしどんな弁解も役立たない。私達は自尊心を傷つけられ、苦苦しい沈黙を続けているより他はなかった。
「久子はん、お湯わいたか」
 それ以来、夏の日が西の空に傾く頃になると、決って女師匠の声が聞えて来る。続いて、盥を据える音、湯を注ぐ音。やがて手拭を使う湯の音まで聞える。
「久子はん、すまんけんど、さし湯持って来てんか」
 例のひどく甘ったるい声である。
「ああ、ええ気持やわ」
 独言としては少し大き過ぎる。それにひどく浮き浮きともしている。確かにその声は何者かの耳を意識しているとも取れなくない。すると更にその声は人の目を厭うというより、頻りに誘っているようにも思われて来る。が、私にはそんな女の気持はまだ全然理解できない。
 しかし私の目前に開かれている窓の空間が、ひどく気になっているのは事実である。私は机の前に坐っている。が、私はどうしても心が落ちつかない。先刻から、盥の中に中腰になって、窓を見上げていた女の体を、私は繰り返し思い浮かべている。自尊心などというものが全く当てにならないことを、私は知った。


 いつからともなく、私は私の日日に満ち足りないものを感じ初めていた。友人達と寮歌を歌い、乱舞していても、以前のような感激は湧かない。むしろそんな時、私は激しい「虚」を感じる。寂寥感といってもよい。最早、自分の感情を誇張することができなくなった自分に気づいた隙に乗じ、その感情は突如として突き上げて来る。例えば、こんな大勢の友人に取囲まれていながら、私には一人の友人もない、といった感じである。或は単に恋愛がない淋しさかも知れない。しかし私はそうは思っていない。むしろ人を愛するほどには、私自身が充実していない淋しさである。つまり「虚」は私の外にあるのではなく、私の中にあるようである。
 一見、私は善良で、幸福そうに見える。しかし善良とは何か。真の幸福とは何か。少くとも私のそれは、いずれも私の外側にしかない。かなり美しく見えるかも知れないが、所詮、修飾品に過ぎない。しかも、それは修身的、習俗的で、更にそれが形式化し、惰性化した模造品で、私自身のものは一つもない。私の中身はからっぽである。私自身が自分の飾りものに騙されていたのである。まず私の贋の飾りものを打ち毀さなければならない。
 ある夜、私は殊更に近所の、あまり上品そうでないカッフエに入る。第一に三高の生徒を避けるためである。更に学生風な雰囲気に巻き入れられてはならないからである。私は不断着を着流したままである。
「おいでやす」
 女給が迎える。私は酒を注文する。女給は私と同年配である。丸ぽちゃの顔に濃く白粉を塗り、唇がまっ赤である。そう言えば、このカッフエ全体が、色彩の強い泥絵の感じである。
「君も、一つ」
「おおきに」
 私は女給に台つきカップを差し、それに酒を注ぐ。しかしそれだけが、私にとっては精一杯である。後が続かない。女給の返したカップを、私は私の口に運ぶだけである。
 先客が一人いる。ジャケツにズボン、板草履をはいている。三十くらいの女給が相手をしている。男はかなり険相な容貌をしている。しかし存外静かに酒を飲んでいる。
「お客はんどこどすの」
「近くだ」
 この女給は決して利口そうではない。上品などというものとは、更に縁遠い。しかし幸にもそれほど饒舌ではないらしい。
 中年の商人風の男が入って来る。私の隣の席に坐るなり、相手の女給を笑わしている。よほど猥褻なことを言っているらしい。「知らん、ほんまにいけずやわ」とか、「よう言わんわ。いやらしやの」とか言っては、相手の女給は声を上げて笑っている。
 しかし私は殆ど気にならない。むしろこんなカッフエの片隅で、自分を失いながら、泥酔の底に沈んで行けるなら、どんなに気楽だろう、と思ったりする。が、意識は却って妙に冴え、少しも酔いを発しない。やはりこの場違いの雰囲気に、小心な私はより厳重に自分を自分の中に密閉してしまったからであろう。すると、今夜の行動も至って馬鹿らしく思われて来る。急に激しい「虚」を感じる。
 不意に、ジャケツの男が声を発した。見ると、男はカップを口にくわえ、歯をむいて、噛み砕いた。私は恐しくなり、急いで席を立った。
 ある日、二人の生徒が「三高劇研究会」のビラを貼っている。その一人は色の浅黒い、いかつい顔をしていて、見るから不興気な表情である。こんな下らない仕事から一刻も早く離れたい、というような態度である。実に厭そうである。
 私は劇研究会にも、ビラを貼っていた生徒にも妙に興味を覚え、当日、会の催される、円山公園の「あけぼの」へ行ってみる。その席に今一人、より魁偉かいいな、極めて彫りの深い容貌の生徒がいる。脚本が朗読されている間、彼は厳然と腕を組み、その態度を崩さない。やはり興味を覚える。前者が中谷孝雄であり、後者が梶井基次郎である。
 研究会では、著名の戯曲を選び、それぞれの役割を決め、台詞風せりふふうに朗読するのである。中には台詞廻しの上手な生徒もいる。有名な役者の声色を巧みに使い分ける生徒もいて、私は驚かされる。しかし中谷も、梶井も台詞廻しはあまり得意ではなかったし、また重視してもいないようでもあった。中谷は梶井のように熱の入った態度は示さないが、並並ならぬ関心を抱いていることは判る。彼等にこれほどまでに興味を持たせるものは何か。私は次第に劇研究会のグループに近づいて行った。
「あけぼの」の例会には、私は毎回出席した。トルストイの「闇の力」、チエホフの「熊」、「桜の園」、シングの「鋳掛屋の婚礼」、シュニツラーの「臨終の仮面」、それに武者小路氏の作品等を朗読したことを覚えている。
 倉田百三の「出家とその弟子」を朗読することになる。私は私の書斎で下読みをした。
 私は感動した。読みながら、私は何回となく落涙した。涙は全く突然に溢れ出た。悲しかったからではない。悔しかったからでもない。私はただ感動しただけである。俗に「涙を催す」という言葉がある。いかにもそのような涙の溢れ方である。
 この「出家とその弟子」に対しては、中谷も、梶井も文学的にはそれほど高い評価を与えていないようである。しかしそんなことは問題でない。私にとっては、最早、文学に限られたことではなかったからである。
 私を泣かせたものは何か。私にこんな清らかなバイブレーションを起させたものは何か。私はこの極めて不思議なものについて考えないわけにはいかない。勿論、この年齢の私には、仏や、神の存在を信じることは無理であろう。しかし私に生に対する希望を抱かせたものは何か。そうしてこのような喜びにも似た感情を私に与えてくれたものは何か。「出家とその弟子」が私を「歎異鈔」に導いたのは、極めて当然のことであろう。ある夜、あのひどく庶民的な小便壺の音の聞えて来る書斎で、私は胸をときめかしつつ、「歎異鈔」を開いた。
 果して、私には総べて驚異である。親鸞は「法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」と言っている。また親鸞は「父母の孝養のためとて、一遍にても念仏まふしたること、いまださふらはず」とも、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」とも言っている。宗教家に対する私の既成概念とは、凡そ甚しい違いである。私は脳細胞を逆撫でされるような違和を感じながらも、大きい力に引き寄せられて行く自分を感じる。
 しかし「悪人成仏」とか、「絶対他力」などという親鸞の思想は、私の常識的倫理感では、なかなか納得できない。
「出家とその弟子」の親鸞は、偽善を殺人よりも罪深いものと言っている。そうして赤裸裸な人間の姿そのままで赦されているとも言っている。親鸞の思想は強い否定の上に立った、より強い肯定であろう。そうして親鸞の徹底的な人間肯定に対して、私は涙を流して喜んだはずである。が、私の正義派的なもの、清教派的なものが、未練がましく抵抗を試みて止まないのである。卑近な例で言えば、自分が自涜を行いながら、童貞を誇っているようなものである。が、弱年の私には気がつかない。
 三年生になった。文芸部の委員になる。私の軽薄な性質に因るが、中谷孝雄の好意的な策謀と、煽動に因るところもあった。が、梶井と中谷の作品を得て、三高の文芸部の雑誌「嶽水」誌に掲載することができた。
 徴兵検査の予備検査を受けるため、私は和服に袴を着け、別に医者の当てもなく、下宿を出る。京都の町医院には、門構もなく、仕舞屋しもたや風なのが多い。街路に直接面している扉の梨地ガラスの上に書かれている医院名と、電灯の赤い笠とが僅かに医院であることを示している。私は行きずりに、姉小路のそんな医院の扉を押した。
「御診察どすか」
 看護婦が出て来て言った。
「徴兵検査の予備検査を受けたいのです」
「ほんならお上りやす」
 待合室に他の患者はなく、直ぐ診察室に通される。机に向かっていた中年の医者が、私の方へ振り返る。生白い顔である。が、いかにも生気の抜けたような表情である。見ると、診察台の上には、男枕の横に女の箱枕も置いてある。京都の、猥雑な場末町に住みついた町医者の感じでもある。
 看護婦が乱れ籠を私の前に置く。私は袴を取り、帯を解き、その中に入れる。
「シャツも脱いで」
 私はシャツを頭にかぶって脱ぐ。しかしズボン下だけの恰好はあまり見よいものではない。私は素肌に着物をかける。
「ここへかけやはって」
 私は医者の斜め後の丸椅子に掛ける。
「あんたはんて、恥しがりやな。学生はんのくせに」
 看護婦は私の耳許にささやきながら、私の肩から着物を脱がせる。看護婦が小うるさく、少し不愉快になる。
 医者は尻を据えたまま、廻転椅子を廻して、私の前に向き、私の胸に聴診器をあてる。私は努めて毅然とした態度をとろうとする。しかし私の皮膚は外気に極めて敏感である。夏の暑い日、私は自分の部屋にいても、肌を出すことを好まない。女性的な、青白い皮膚を恥じるからでもある。背後に看護婦の視線を感じる。
「後を向いて」
 私は着物を押え、医者の方へ背を向ける。看護婦と視線が合う。熱っぽく濡れているような黒目である。清潔な視線とは言い難い。しかし私は殊更その視線を避けようとはしない。漸く看護婦の方が視線を外す。
 看護婦はかなり美人である。しかし瓜実顔式の容貌は、何故か看護婦の制服と似合わない。その不調和感が却って妙に好色的な気持を懐かせる。
 医者に命ぜられ、私は診察台の上に仰臥する。その目に看護婦の白衣の肩が映り、看護婦が私の着物を開き、猿股の紐を解くらしい。私は今までに性器の検査を受けた経験はある。しかし仰臥しては初めてである。看護婦と言っても、私にとっては若い異性であることには変りはない。私は少なからず動揺する。
「ちょいと、腰を上げて」
 仕方なく、私が腰を浮かすと、看護婦がズボン下とともに股の下に押し下げる。代って、医者が私の腹部を触診し、例の通り包皮を剥く。やはりかなりの痛みを覚える。
「ひどい包茎だね」
 私はズボン下を引き上げ、診察台の上に起き上って、聞き返す。
「ええ?」
「つまり皮かむりやね。ちょいとした手術ですむが、まあ、嫁はんでももろたら直るやろ」
 看護婦が笑いを殺して、顔を背ける。医者や看護婦の態度を、私は非礼だと思う。しかし私は彼等の前に自分の性器を曝したばかりでない。自分の性器の異常まで知られてしまったのである。むしろ私は強い屈辱感を抱いて、この医院を去るより他はなかった。
 私は十二月生れであるから、数え年二十二で徴兵検査を受ける。前に小布を当てただけの、全裸に近い恰好で全身を検査される。性器の検査の次ぎは、肛門の検査である。床板の上に、手足を置く位置が示されている。それに従って、甚しく屈辱的な姿勢を取らなければならない。しかし相手は国家権力である。拒むことはできない。私は思い切り脚を開いて、四つ這いになる。
「もっとけつを上げる」
 途端に、私の性欲は昂奮する。私は狼狽する。が、自分の力でどうすることもできない。しかし私の胯間には睾丸が垂れているので、辛うじて検査官に見つかることはなかった。
 後日、私はあの無惨な自分の姿を思い出すだけで、私の性欲は昂奮することを知った。私の性欲が少しく変っているのではないかと私は疑い始める。
 二年前から、母は祖母の方の親戚の娘を預っている。美保子といい、私より四つ年下である。ひどく内気な娘で、無口で、殆ど感情を外に表さない。しかし私が休暇で帰省する度に、背丈も伸び、姿態にも女らしさが加わり、初心に、直ぐ顔を染めるようにもなった。
 美保子は新村淑子も行っている、村の裁縫の師匠の許へ通っている。しかし朝夕は女中とともに忙しく立ち働く。
 私はそんな美保子に好意を感じないわけではない。或は既に愛情といってもよいかも知れぬ。しかしそれに類する如何なる感情も、二人の間には禁忌されねばならないことを、私は知らされていた。
 私達の一族には忌むべき遺伝がある。劣性遺伝であるから、血族結婚は避けなければならないのである。が、ともすると私の目は美保子の体を追いたがる。私の目は既に美保子が縁側に上る時、その脹脛に白い力瘤が入るのを知っている。また美保子は風呂場に入る時、必ずガラス窓を締める。が、私の目は既に消しガラスに映る、美保子の肩の丸さを覚えている。
 ある日、私が門を出て、石橋の上に立った時、向こうから連れ立って帰って来る淑子と、美保子の姿を認める。淑子の大柄な肢体に、私はあの楽書を思い出し、思わず顔が真赤になる。淑子の顔も、美保子の顔も同じく赤くなったかも知れぬ。私は色欲の厭らしさを痛感する。
 八月、私は旅行に出た。「藤村詩集」などの影響から、私は長野県の風物に憧憬を抱いていた。長野県の伊那にいる、三高の友人を訪ねる。友人の母は早速茄子を刻んで、茶を進めてくれる。そんな鄙びた振舞いがすっかり私を愉しくさせた。
 友人は私を更に高原の別宅に伴い、そこで起居することになる。朝露、散歩、夕立、涼風、夕映。私は心身ともに爽快な数日を過すことができた。
 友人と別れ、茅野に出、蓼科行きの馬車に乗る。今度の旅行には全く計画はなかった。地図も持っていない。馬車がどこをどちらへ走っているのか、全然見当がつかない。しかしそれが今度の旅行の目的であるかのように、私は放心状態のまま、馬車の固い腰掛けにかけている。馬車には窓もなく、外の風景を楽しむこともできない。馬の蹄の音と、わだちの響きとが単調に繰り返されている。
 馬車が停った。客が馬車から下りる。馭者も下りるらしい。私も下りる。しかし終点に着いたのではない様子である。林の中に茶店がある。皆はその中へ入って行く。私も大きく腰を伸してから、茶店の椅子に腰を下す。馭者も昼の弁当を使うらしい。私も友人の家で作ってもらった、握り飯の竹の皮を開いた。
 高原の日光は意外に強烈である。しかし木蔭には湿度の少い涼風が吹いている。暫くその中にいると、再び陽に当りたくなるほど涼しい。馭者達はなかなか腰を上げそうにない。私はあたりを歩いてみる。草叢には秋草の花が咲き乱れている。
 漸く馬車は走り出した。再び極めて退屈な時間が続く。前方に開いている長方形の空間には、馭者の背中がある。その上に、真白い積乱雲が紺碧の空に躍り上っているのが見える。時には真正面に見える。時には半分以上も欠けてしまうこともある。また時には緑の疎林越しに見えることもある。
 いつか積乱雲は見えなくなる。しかし馬車は一向に終着駅に着く様子もない。尻も痛くなる。私は別に宿泊を決めているわけではない。馬車が滝湯という停留所で停った時、私は何となく馬車を降りた。
 私は宿を取った。仮にも上等の旅館とは言い難い。しかし今度の旅行にはその方がふさわしいとも思う。部屋に通される。二人の相部屋であった。
 浴場へ行く。思いがけず混浴である。私が色情を懐かないでは女を見ることができなくなって以来、初めて女性の全裸を見るわけである。勿論、私は虚心で見ることはできない。単なる好奇心でもない。やはり色情というべきだろう。しかし性欲的刺戟を受けるほどのことではない。
 若い娘達も滝湯に打たれている。腰には手拭をまとっているが、その肢体には、肩のあたりといわず、腰のあたりといわず、柔かい曲線を描いている。殊に二つの乳房は形よく均斉美を保って隆起している。美しい、と思う。白膩はくじを盛る――そんな言葉も浮かぶ。初心な私には、世にも貴重なものに思われ、色情的な視線は向け難い。
 しかし娘達の乳嘴の色はいかにも可憐である。豊麗なボリュームに、まるで睛を点じているようで、流石に好色の想いをそそる。が、私のそんな淫らを視覚にも、不思議に悔いを残さない。むしろ私はほのぼのとした幸福感に浸っているようであった。
 翌日、私は蓼科山に上り、夜行で上京した。数日滞在して、帰省した。
 九月、関東大震災が起り、再び上京した。父の日本橋の店と、深川の工場は全焼したが、一人の負傷者もなく、高田町の工場は残った。
 叔父一家を滝野川の避難先に見舞い、叔父の家の女中、八重と再会する。再会というのは、私が中学生の頃、叔母や、従兄弟達の伴をして来た八重と、郷里の家で一夏を過したことがあったからである。八重の故郷は愛知川の上流の君ヶ畑で、紺絣姿は私の頭に初初しい印象を刻んでいる。が、再び見る八重は見違えるばかりの美貌で、その肢体はむしろ豊満であった。
 その頃、私は梶井や中谷と常に行動を共にするようになっていた。梶井は大酒家であり、愛酒家でもある。小料理屋で飲む酒の味も、私は梶井から教えられる。中谷は全く酒を嗜まない。が、私達の酒がどんなに長引いても、中谷がいなくなるようなことはない。電車のなくなった、京都の深夜の街を、私は中谷と歩いて帰ったことも幾度かある。
 中谷も、梶井も私より二年前に三高に入学している。しかし二人とも二度原級に停められている。いずれも出席日数の不足に因る。殊に中谷には既に愛人(現夫人)もあり、同棲していたこともある。が、今は彼女とも別れている。そんな人の心と心との葛藤もあろう。自分自身の心の悔恨もあろう。中谷はいつも不機嫌であったし、その表情には暗鬱な翳が消えることがなかった。
 しかし中谷の不機嫌と、憂鬱とは、最早、彼の皮膚に染みついたものかも知れない。中谷にとっては、むしろこの時代は小康を保っていた時期と言える。彼は親戚の家に下宿し、学校へも比較的よく出席している。性欲に対しても、一応、苦悩期を脱皮し得たのであろう。時には遊廓へ行くこともあるらしいが、最早、感情を乱すようなことはない。童貞の私達とは段が違う。性の醜悪さを知りつくしている。私達が、盲が蛇に怖じない風の、露骨な――本当は至って無邪気なものであるが――猥談に打ち興じていると、中谷は言う。
「童貞みたいな穢いもん、早う捨ててしまえよ」
 梶井は、中谷に反し、友人達にも愛想がよく、快活な面もあって、よくユーモラスな冗談も口にする。また酔えば威勢のよい狂態を演じた。
 しかし梶井の笑顔と、快活とは、友人に対するサービス精神からのものでもあろうが、自分の精神は少しでも明るく保とうとする、自己偽装ではなかったか。梶井にとっては、この時代は決して平安な時期とは言えない。欠席日数も少くない。乱費による借金もあろう。彼の苦悩はそんな日常生活の乱れにも因るだろう。しかしその根源は彼の精神のもっと深奥部から発しているに相違ない。が、彼は「神」を呼ぼうとして、いつも「悪魔」を呼んでしまう。ある夜泥酔した彼は、
「おれに童貞を捨てさせろ」と、中谷にだだをこねて、聞かない。遂に中谷はむかっ腹を立て、彼を遊廓に伴ったという。
「梶井の奴、おれを恨んでやがるんや。ほんなこと知らんが」と中谷は言う。中谷のいう通りである。が、梶井の暗澹たる気持は理解できなくない。相変らず、露骨な猥談に耽っている私達に、あの彫りの深い顔をしかめて、梶井は言う。
「知らん奴にはかなわん。実感がないもんやで、平気で言いよる」
 梶井と中谷との友情を、私は少しも疑うものではない。二人の友情はむしろ濃度のかなり濃いものであったろう。それだけに、私には却って複雑怪奇にも見えた。が、そのようなことは、第三者が語るべきことではないようである。
 高等学校へ入り、私は一応性の緊縛から解放されたわけである。勿論、売淫制度のあることは知っている。しかし私はそんなものを利用しよう、或は利用したい、と思ったことは一度もない。性病を恐れたからでもない。童貞を惜しんだからでもない。梶井のような惨澹たる気持になるであろうことを恐れたからでもない。私はそんな制度が存在していることを意識したことがなかったからである。
 しかし私は自涜行為を全く行わなくなったわけでもない。夢精もする。その夢の中には、今ははっきりとした記憶はないが、多分女の姿もあっただろう。
 すると、潜在的には、私は常に女の体を求めていることになる。更に要約すれば、私の性欲は女の性器をより強く求めていることにもなる。女の性器ならば、娼婦達も逞しいものを持っているだろう。私がその存在を意識さえしなかったのは何故か。
 この矛盾は、私という全体と、私の性欲という一部とを、別別に切りはなして考えたところから生じたものであろう。彼女等のそれは、その制度の中にある時は、女の性器というよりは、商売道具であるのかも知れない。そんなものに睨まれたら、私のような者の性欲は縮み上ってしまうより他はなかろう。つまり男の性欲を持っている私は、性器を持っている女というものの神秘を、ひたすらに求めていたというのが、比較的正確な事実ではないか。
 未経験者である私が、梶井の気持が理解できると、生意気なことを言ったが、以上のことを考えた上のことであることを、附記しておきたい。逆に言えば、梶井の苦悩の暗さ、深さが、以上のことを私に考えさせたのではあるが。
 祇園石段下の「レーヴン」というカッフエに、梶井や、中谷や、私達が毎晩のように集ったのは、もう三高の生活も終りに近い頃である。中谷のその一学年の出席数は悪くなく、卒業は確実である。梶井の卒業はかなり危ぶまれたが、理科である梶井が大学は英文科に転じる決心もつき、教授達の間を運動中である。卒業後、私達は東京の大学へ行き、時期を見て、同人雑誌を出す計画である。その頃の私達の雰囲気はかなり明るかったと言わなければならない。
 梶井も、中谷も、私も卒業した。その夜、私達は例によって「レーヴン」に集り、京都に残る人達と酒を汲み交わす。私は前後不覚に酔ってしまったらしい。
 翌朝、私が目を覚ますと、汽車は浜松駅に停車するところである。私と、梶井と、中谷とはプラットホームに降りて、水を飲んだ。
 梶井は文学部英文学科、中谷は独文学科、私は経済学部経済学科に入学することができる。私達三人は銀座や、神楽坂を飲み歩く。酒を飲まぬ中谷は相変らず不興げであるが、梶井は関西弁丸出しで、ユーモラスな諧謔を飛ばしたりして、かなり機嫌がよい。私は中谷とともに東京を発ち、それぞれの故郷へ帰った。
 私はまた京都へやって来た。円山公園を通り抜け、高台寺の方へ一人で歩いて行く。私は先刻から薄い霧のように私の頭に纏り、離れて行く奇妙な感情について考えながら歩いている。少くとも今までにこの路を歩いていた時の感情とは異る。私は目的を持って歩いているのではない。しかし今までのように散歩しているのでもない。もう私は京都には住んでいないのであるから。強いて言えば、明日までの時間つぶしに、過ぎた日を散歩している、とでも言えるか。
 この奇妙な感情は、京極を歩いていても、既に灯火の入った四条通りを歩いていても、少しも変ることはなかった。しかしいずれもつい先日まで歩いていた道である。感傷とも言い難いのも当然であろう。むしろ小休止の中にある、至って気楽な感情のようでもある。或は若い私は東京の新しい生活に、新しい意欲を燃していたのかも知れない。
 遅く「レーヴン」に入る。良子もいる。妙子もいる。玲子もいる。菊枝等もいる。常連客の顔も見える。しかしこうして一人でコップを口に運んでいると、やはり先日からの奇妙な感情が湧いて来る。まるで先日までの私や、梶井や、友人達の姿を見返しているような、傍観者の感情である。つまり舞台は廻ってしまったのである。ひどく懐しいが、最早、私の出るところではない。私は「レーヴン」を出る。
 深夜の京の街には、春の細雨が降っている。私は電車の絶えた四条通りを歩いて行く。背後から駆けよってくる下駄の音が聞える。玲子である。
「どうしたんだ」
「マスターと喧嘩して、飛び出して来ちゃったの」
 玲子は東京で育ったと言っている。私が歩き出すと、玲子も黙って従いて来る。
「そんなことして、どこか、行くところあるの」
「そんなとこないわ」
 十七の娘を細雨の降っている深夜の街に捨て去るわけにはいかない。私は玲子を私の下宿に伴うより他はなかった。
 床を二つ並べて敷き、私はその一つに寝る。やがて床の中から玲子が言う。
「新村さん、私、処女よ」
「それは偉い。大切にするんだよ」
 暫くして、また玲子が言う。
「ね、ここへ手あててみてよ。ほら、こんなに動悸がしてるのよ」
 少し好奇心は動く。中学生の時の友人の話を思い出す。滝湯の娘達の乳房の形も目に浮かぶ。しかしそれだけのことも私にはできない。まして十七の娘の据膳を喰らうような欲望は、私には全くない。男の恥かも知れないが、そんな性の機微には、私は無知に等しい。が、その時、私に一番強く作用したのは、京都の生活はもう終ったのだ、という、先刻からの奇妙な感情のようである。
 私は黙っている。また、玲子が言う。
「新村さん、もう眠ったの。私、なんだか、頼りないわ」
「じゃ、こうして眠ろう」
 私は手を伸ばし、玲子の手を取って、目を閉じる。さすがになかなか眠れるものではない。しかし私は性欲的刺戟は少しも感じることはなかった。
 翌朝、玲子に見送られて、私は東京へ発った。


 その五月、六本木のカッフエで、先妻、とく子に出会う。一見して、ここに私の妻がいる、と直感する。誠に笑止な話であるが、私は真剣である――
 しかしとく子とのことは、今までにも度度書いた。と言って、とく子との性生活を除けば、そうでなくとも貧弱な、私の性欲史は殆ど成立しないだろう。出来る限り簡潔に書いてみることにする。
 とく子はそのカッフエに勤めている。つまり女給であるから、私達の恋愛は、私の家から許されない。しかし私は私達の恋愛を運命的なものと、青年らしく誇張して考えている。父母の歎きも私の耳に入らない。
 しかしこの期間は、至って未熟なものであったろうが、私の精神が最も緊張した状態を持続した一時期であったと言える。最早、私は色情を懐いて、女を見るようなことはなかった。ひたすらに恋愛の純化を願って、色情そのものを忘れていた、とも言えなくない。私はとく子に対しても極めて正確にいって、性的欲望を感じたことはなかった。
 私の感傷に過ぎない、と友人は言う。不自然である、とも言う。また女性に対して、むしろ惨酷である、とも言う。しかしそのような女性の機微を私は知る由もない。私は経済的に独立できない者に結婚する資格はない、と簡単に割切っている。そのままの状態で一年経った。
 私は自分の優柔不断な態度が嫌になって来た。文学青年的な志が私に冒険を催す。とく子に対する信頼は変らないが、彼女の身辺にも暴力的な危険が感じられる。私は思い切って、とく子と旅行に出た。
 私ととく子は磯部温泉へ行った。勿論、新婚旅行の覚悟である。私は私の性欲を抑圧するつもりは少しもない。が、或は未知のものに対する恐怖感はあったかも知れない。二つの床を並べていても、私は一向に性的欲望を感じない。事実、碓氷川の川瀬の音や、河鹿の声や、妙義山の新緑や、その山霧等、私は今もはっきり覚えているが、とく子の肉体のどの部分についても、何の記憶も残していない。
 妙義山の山中で、突然、深い霧に包まれ、私は衝動的にとく子と初めて接吻した。自然と性欲とは、何か神秘な関係があるのかも知れない。しかしとく子のその唇も肉体の一部分としての記憶はない。
 私ととく子は上野に着いた。しかし私は別れることはできない。私はとく子をその下宿まで送り、そのまま泊ることになってしまう。しかしとく子は薄い一組の蒲団より持っていない。一つ床に二人は寝る。
 私の膝がとく子の膝に触れる。流石に強い性欲的刺戟を受ける。最早、私の思考力は失われてしまう。夢中で、私はとく子の体にしがみつく。
 生れて最初の行為は意外に他愛なく終った。勿論、ひどく恥しい。が、それよりも、とく子に対してひどい無礼を働いた、と思い、そんな自分に呆れる。同時に、そんな侮辱に堪えなければならない女というものを、不思議にさえ思う。
 私は眠れない。とく子も眠っていない。私はとく子の手を握っている。さまざまな感情が起伏する。そんな感情の波を押し倒すように、今まで経験したことのない、強烈な信愛感が湧いた。
 明け方、私は再びとく子の体を求める。とく子は拒まない。人間が人間に対して言語道断の行為を働いていることを、私は意識する。しかし直ぐ激しい感覚が私に総てを失わせてしまう。
 翌朝、血がシーツを汚している。とく子は顔を染めて、シーツをまるめた。
 私ととく子との関係は、勿論、結婚とは言えない。私は父の家に居るのであるから、同棲とも言えない。しかし一度女の体を知った男というものは、こうまで図図しくなるものか。私は家人の思惑など考える余地がない。私は鎖を引きちぎった雄犬のように、とく子の下宿へ通った。
 珍しく家にいた私は、風呂に入った。何気なく胯間を見ると、いつの間にか包皮は剥け、亀頭は露出している。まるでぎょろ目をむいているようで極めて醜い。しかし自業自得である。私は京都の町医者の言葉を思い出し、苦笑するより他はなかった。
 とく子の下宿の二階六畳間に私は坐っている。とく子がカッフエから帰って来るのを待っているのである。夜はかなり更けている。電車の車輪の軋む音も今は絶えた。
 私がとく子の体を求めると、とく子は決して拒みはしない。しかしひどく羞恥の表情をする。表情だけではない。体全体が恥しがっているようである。するとそれが更に強く私を刺戟する。私は惨酷に、まるでとく子の羞恥をあばこうとするかのように、とく子の着物を開く。すると却って強い羞恥が私の方へ跳ねかえって来る。最早、私は激情の跳梁に任せるより他はない。
 しかしとく子は行為中も私のような激情を現さない。女のつつしみからであろうか。それとも女性の性欲は男性のそれのように激しくは発しないのか。
 ある時、私はそれについて友人に尋ねた。
「それはいかんよ」と言い、図解して、教えてくれた。
 その後のある夜、とく子が急に乱れ初める。日頃の羞恥も、つつしみも、自らかなぐり捨てたような激情を発した。そうして友人に教えられた、オルガスムに達したらしい。私も今までに経験したことのない快感を伴って、頂点に達した。
 とく子に対する私の感情は一変した。最早、そんなとく子に献身者の姿はない。むしろ共犯者の、等しく浅ましい姿である。が、奇妙なことに、とく子に対する親愛感は急に一段と増した。二人は互に肉体の深奥の秘密を知りつくしたわけである。直接、肉体に繋がる、夫婦だけが抱き得る感情であろう。
 とく子は終ってからも、その顔を私の頬に押し当て、私の体を離そうとしない。再び私の性欲は昂奮する。とく子も同様らしい。遠慮勝ちに腰を動かしている。哀れも極れり、と私は窃かに思う。猛烈な愛情を感じる。
 秋の空の青い朝、私はとく子から体の異状を告げられる。先月から月経を見ないという。勿論、私はそれが何を意味するかは知っている。しかしまだ全然実感は湧かない。
 午後、私達の雑誌の同人会がある。本郷三丁目の青木堂という喫茶店へ行く。とく子から、先に打ち合せておいたように電話がかかって乗る。受話器をあてた耳に、とく子の声が聞えて来た。
「やはりそうなんですって」
「そうか。それじゃ、とにかく体に気をつけるんだよ」
 私は少しも困ったとは思わない。依然として実感が湧かないからでもある。むしろ柄にもないことを言ってしまったと、私は恥しく思う。
 その夜、私はとく子の下宿へ引き返した。妊娠したとく子の体が案じられたからではない。私は診察の模様が気にかかってならないのである。床に入ってから、私はとく子に聞いた。
「ええ。そりゃ、もう恥しいって、無茶苦茶でしたわ」
 しかしとく子はあまり語りたがらない。私は執拗に聞き出そうとする。とく子はどうしても自分から足を開くことはできなかったと言う。
 しかし私はとく子を辱めて、嗜虐的な快感を昧おうとするのではない。医者といっても男である。とく子は男の前に女の肉体を曝したばかりではない。その肉体の、極秘の行為まで窺われたわけである。とく子の羞恥を思うと、私は異常なほどの恥しさを感じる。そうして私は妊娠という女の運命を思い、とく子に贖罪的な、激しい愛を覚えた。
 翌年になると、とく子は初めて胎動を感じたと言う。とく子は晒を買って来て、腹帯を締めた。
「ほれ、ほれ、こないに動いているわ」
 とく子はそう言って、自分の腹に私の手を当てさせたこともある。しかし幾重にも巻いた腹帯の上からは、私の掌に何の感覚も伝えなかったのも当然であろう。が、とく子はいかにも満足そうである。胎動が既に母であることを知覚させたのか。そうしてその肉体の自覚が、自然に母としての感情も育てつつあるのか、と私は思う。しかし私の父としての感情は空白に等しい。男というものがひどく無責任なようでもある。しかしまたおいてけぼりを喰わされたようでもある。
 ある夜、遅く帰って来たとく子が、部屋へ入るなり言った。
「今日はひどい目に会いましたわ」
 同僚の財布が無くなり、警察署に連行され、取調を受けたという。
「休も調べられたの」
「ううん、帯を取っただけ」
 しかしとく子の様子は少し普通でない。とく子は帯を解くと、いつになく荒荒しく押入の襖を開き、蒲団を敷き始める。私はそんなとく子を見上げて言う。
「どうしたんだ」
「寒いわ。寝ましょうよ」
 いきなりとく子が電灯を消した。
 床に入ると、とく子は体を私にすりよせて来る。
「どうしたんだい。裸にでもされたんじゃないの」
「そんなこと、どうでもよい。早う」
 とく子は自分から腹帯を取り、ひどく昂奮している。こんなことは初めての経験である。とく子はしどろもどろに乱れながら自分から言い出した。
「腹帯がいけなかったの」
 とく子は腹部の脹らみを怪しまれ、別室に連れて行かれて、腹帯を解かされ、更に匍匐して調べられたという。そうしてこの自虐的な告白が、更にとく子の性欲を刺戟したらしい。とく子は明らかに再三、オルガスムに達した。
 しかし昂奮が鎮まると、私は急に腹が立って来た。そうして惨酷な感情が湧いた。私は電灯を点じ、とく子に同じ姿勢を取ることを強いる。とく子は肯じない。しかし私は承知しない。仕方なく、とく子は四つ這いになる。徴兵検査の時の屈辱感を思い出すまでもなく、再び私の性欲は猛烈に昂進する。私はとく子の着物を剥ぎ取り、仰向けにして、その体にしがみつき、自分の着物も捨てた。一瞬不思議なことに、ひどく神妙な気持が起った。静かな喜びを伴った幸福感とさえ言えなくもない。が、次ぎの瞬間、私は完全に自分を失ってしまう。従って、二人がどんな狂態を演じたか、私にはそれを省る余裕は全くない。
 私はとく子を愛しただけである。それ以外には何の覚えもない。とく子も私の愛を許し、私を愛した以外には何の覚えもなかろう。しかし私達の結婚は許されない。私達は情夫であり、情婦であるより他はない。私は女給を情婦にしている学生である。とく子は学生を情夫に持っている女給である。その上、とく子は私生児を孕んでいる。全く条件は揃っている。警官から疑いを受けるのも当然のことかも知れない。
 警官はとく子の腹部をさして言ったという。
「変なことをしてみろ。承知しないから」
 情夫、情婦、私生児、窃盗嫌疑、堕胎疑懼ぎく等、凡そ善良な人間に関係のある言葉ではない。私がとく子を愛したばかりに、このように彼女を傷つけたことになる。とく子が私を愛したばかりに、このように彼女を辱めたことになる。しかも性懲りもなく、痴態の限りをつくしている。人間の愛とは、所詮、こんなものか。人に嘲られ、人に罵られるのも当然である。人が人を愛するということは、少くとも「出家とその弟子」のような甘美な世界のことではないことを知った。
 後日、私は「歎異鈔」を再読した。が、最早、最初の時のような抵抗を感じない。むしろしみじみとした感情が湧いた。現実を直視する、厳しい言葉の背後に、例えば慈悲光とでもいったものが満ち溢れているのを感じた。そうして私はあの夜の、あの一瞬の不思議な感情を思い出した。
 あの時、私は自分の醜行に呆れはてた。私はそんな自分の正体を自分の手であばこうと、自分の着物を脱ぎ捨てたのではないか。そうして人間の愛の愚かさを直視し、更にそれに徹することによって、あの不思議な幸福感が湧いたのではなかったか。勿論、あの時、そんなことを意識したわけではない。
「歎異鈔」を読み返して、初めてこんな風に解釈できなくもないかと思ったまでである。逆にいえば、自分の愚かさを思い知ったことによって、今まで「歎異鈔」に抵抗を感じさせていたものが、無力化したことは確かである。


 五月、とく子の腹部は着物の上からも既にそれと判る。これ以上、カッフエに勤めさせておくわけには行かない。と言って、そんな腹をして、とく子の郷里へ帰せる義理のものではない。とく子は養女である。が、とく子は養家を嫌い、家出同様にして、東京へ出て来たのであるからである。
 しかしとく子は郷里へ帰るという。それより他に方法がないからである。私は自分をいかにも卑怯だと思う。しかしやはり同意するより他はなかった。
 五月の、風の強い日、とく子は帰郷することになった。私は途中まで送って行く。遠足に行く小学生のように、かなり愉しい。全くよい気なものである。
 二子玉川で電車を降り、多摩川の長いコンクリートの橋を渡る。数年前までは舟で渡った、ととく子がいう。風が強いので、とく子は度度背を向けて、着物の乱れを直さねばならない。その度に、私の好色的な視線は、そんなとく子の姿を捉えることを忘れない。
 多摩川の橋を渡ると、神奈川県の溝ノ口である。急に鄙びた風景が展けている。堤を下りると、一軒の茶店があり、その前の桑畑の横に、一台の馬車がながえを下して置いてある。とく子は一人で茶店の中へ入って行く。
「馬車は何時に出るの」
 帰って来たとく子に、そう言った。とく子は微笑を浮かべて言う。
「それが、時間表もありませんのよ。田舎の人って暢気ですから、そんなもの、要らないのかも知れませんわ」
「すると、馬車はいつ出るか判らないんだね。呆れたね」
「まあ、そういうことになりますが、あそこで待っている人も、『そのうちに出るべ』って、平気なものですわ」
 そう言えば、とく子も何を急ぐ身でもない。私はいかにも穏かな人の心に接したようで、私の心も自ら安らいで行く。が、とく子の故郷に近く、頻りに感慨の動くのを覚えた。
 風を避け、堤下の草叢に足を投げ出していた私の耳に、ラッパの音が聞えて来たのは、それほど長い時間は経たなかったようである。
「あら、馬車のラッパですわ」
 とく子はそう言って、立ち上った。私もその後に従った。既に馬車の轅には馬が入り、数人の乗客がそれぞれの荷物を提げて、立ち並んでいる。しかしその中には、とく子の顔見知りの人もいるかも知れない。私は足を停めて言った。
「それじゃ、体に気をつけて」
「あなたこそ、お大事にね」
 とく子は一人で歩いて行き、乗客達の後に列んだ。やがて乗客達は順順に馬車に乗る。馬車の中は薄暗く、人の顔はよく見えない。最後に、とく子は私の方へ顔を向け、一揖いちゆうしてから馬車の中に消えた。
 馭者が高くラッパを鳴らし、馬の背に一鞭当てた。馬車は極めて緩い速度で走り出した。一条の街道が通っている視野の中で、馬車が次第に小さくなって行くのを、私はぼんやりと見ていた。
 七月末、男子出生の通知を受ける。それでもまだ父となった実感は湧かない。
 八月、葉山海岸に叔母を訪ね、叔父が美貌の女中、八重と不義を犯したことを知らされる。全く意外に思う。八重の気持を解することができない。私は女というものの不思議さについて考える。
 九月、とく子の郷里へ、とく子と嬰児を迎えに行った。とく子の腕に抱かれていた、色の白い赤ん坊を私の手に渡された瞬間、私は全身が真赤になるほどの羞恥を覚えた。赤ん坊の柔かい肉の感触が、夫と妻との、親と子との、肉と肉との繋りを実感させたからかも知れない。
 しかし不思議である。こんなものがどうして生れて来たか。勿論、私達の性の行為の結果であることは知っている。しかし一回に射精する精子の数は約三億に達するという。その中の一つの私の精子が子宮に入り、一方卵巣より出て来たとく子の卵子と、卵巣膨大部で結合したのである。しかしそんなことを私もとく子もどうして知り得よう。私達はただ性の快楽に酔い痴れていただけである。実に無責任極まる話である。幸にも赤ん坊は不具者ではなかった。が、その将来にどんな運命が待っているか。
 翌日、とく子はわが子を負い、私は襁褓の入った風呂敷包を提げ、とく子の郷里を去った。中谷孝雄のいる府下長崎に一戸を借り、私は妻と子を匿った。家賃は十二円五十銭である。出発の時、とく子の母がそっと私の手に握らせた封物の中の金で、私はそれを支払った。
 十月、美保子が、あまり評判のよくない青年と、家出した報を受ける。母が名古屋の姉の許へ行っていた、留守中の出来事であったという。
 八重に対しても、美保子に対しても、私は倫理的には少しもやましさを感じない。私はいつも清潔な態度を持していたつもりである。しかし仏とか、神とかいう絶対者の前に立っても、果して同じことが言い切れるか。私は彼女等に好意を持っていたばかりではない。私は色情を懐かないで彼女等を見ることはできなかったのである。
 しかし八重や、美保子に自暴的とも思われる行動を取らせたのは、必ずしも私の故だとは思っていない。とく子との経験からも察しられるように、女性の性欲は多くは受動的である。その代りというより、当然の結果として、男性に能動的に働きかけられた場合、その意志には関係なく、女性の性欲は受動的に昂進するのではないか。更に女性は屈辱的な立場におかれてさえ、却ってマゾヒズム的な快感に陥るもののようである。従って、女性の性欲には多少とも自暴的な要素を伴わないわけにはいかないのではないか。
 男性の性欲は多くは能動的である。いかにも積極で、荒荒しいが、等しく自分の意志で左右できるものではない。つまり男にとっても、女にとっても、性欲は人倫の世界を超越して存在する。人間の分別の及ぶところではない。
 ここまで考えて来ると、先に八重の気持が解せない、と私は思ったが、誰も判るものでないことが、やっと判った。勿論、八重や、美保子を責め得る者は一人もいない。無分別といえば、とく子もその例外とは言い得ない。私ととく子とは今も内縁関係を続けているのだから。
 翌年、三月、私は卒業した。が、生活できる当は全くない。家業に従う決心をする。しかし私に文学を断念させた直接の原因は他にある。その頃はプロレタリヤ文学が漸く盛んになり、左傾する友人も少くなかった。その一月、「不同調」という雑誌に私は作品を発表したが、その流行におもねるような作品で、醜を曝したからである。
 父の手前、私は店員達の寄宿舎の二階に起居していた。そうして時時、とく子の許へ帰った。従って、とく子に対しても、とく子の体に対しても、常に新鮮な感情と、感覚とを持ち続けることができた。
 十一月、父が郷里の家で死去した。腎臓結石である。享年、数え年六十であった。私の二十六の時のことである。
 翌年、一月、私は上京して、父業を継ぐ。日本橋の店の父の部屋に起居する。十月、二男が生れる。十二月、大川端に寓居を移し、初めて妻子と生活を共にする。平安な日日が続いた。
 得意先が代理店をしている生命保険にとく子を入れることになり、医者と勧誘員を伴って、寓居へ帰った。とく子にその旨を告げると、一寸困った表情を浮かべたが、仕方なく医者の前に坐る。問診を終り、とく子は帯を解く。医者がその胸を開き、聴診器を当てる。とく子は背が低く、小柄であるが、その乳房は白く、豊かである。しかし既に二児を哺育した乳嘴は黒い。
 とく子は着物を合わせ、医者の方に背を向ける。医者がその背中を裸にする。とく子は胸を着物で押え、目を伏せた。とく子はさして羞恥の表情を浮かべていない。むしろそんな表情を浮かべまいと、強いて堪えている感じである。私は却ってかなり好色的な興味を覚える。しかし私はとく子の肌を男達の視線に曝さして、嗜虐的な快感を感じたのではない。とく子のそんな姿に私自身が強い羞恥を覚えたのである。そうして私の性欲が女性的であることを、その時はっきり意識した。つまり私自身を女性の位置に転置することによって、私の性欲はより強い刺戟を受けるようである。
「はい、こちらをお向きになって」
 とく子は着物を直し、医者の方を向く。医者は巻尺を持った手をとく子の背中に廻して、胸囲を計る。
「こう、踵を立てて下さい」
 医者はそのとく子の腹部を開き、巻尺を当てた。更にとく子を仰臥させ、医者はその胸部を繰り返し打診した。
 しかしこの診察の結果、とく子は心臓弁膜症であることが判り、保険に加入することはできなかった。
 その頃、私は毎夜酒を飲み歩いた。カッフエも行ったし、芸者遊びもした。時には私娼を買ったこともある。しかし強く感情を動かされるような女性にも出会わなかったし、肉体的関係を持つこともなかった。しかし妻に対して貞潔であろうと、強いて努めたわけではない。前述したように、私は女性に対して嗜虐的な興味を持つことは少いし、愛情を感じない女性の位置に自分を転置することは、或は困難なことかも知れない。
 私が三十一、とく子が三十の時、とく子は三度目の妊娠をした模様である。心臓弁膜症のこともあり、私は店の嘱託医である杉本医院にとく子を伴った。杉本医師は五十ばかりの温厚な人である。私の話を聞き終ると、杉本医師はとく子の方を向いて言った。
「では、内診してみましょうか」
 町の医院らしく、カーテンに囲われた産婦人科の診察台もある。一瞬、とく子は羞恥の表情を浮かべたが、意外にはっきりした声で言った。
「はい、診ていただきます」
「では、帯だけおとりなさい」
 とく子は帯を取る。杉本医師がカーテンを開く。踏み台のある診察台が見える。鴇色の細紐を締めたとく子がその中へ入る。カーテンが閉じた。
 とく子は踏み台を上り、診察台に仰臥する。しかし今度は両脚をぶら下げているわけにもいくまい。両脚を拡げて台の上に乗せる。着物が開く。その着物を捲り上げる。膝頭が自然に寄って来る。杉本医師がその膝頭を押し拡げる――私は完全に倒錯した羞恥に、動悸は激しくなり、皮膚は熱を帯び、私の性欲は昂進した。
 とく子は蒼白な顔をして、カーテンの中から出て来た。杉本医師はそのとく子を内科の診察台に仰臥させ、丁寧に胸部を診察した。
「やはり弁膜症ですね。しかし弁膜症には治療の方法もありませんが、別にどうということもないでしょう。まあ、無理をしないことですね」
 その夜、床に入ってから、私はとく子に聞いた。
「今度は脚をぶら下げていなかった」
「ええ、だって二人も産んでいるんですもの。却っておかしいわ」
「すると、診察台に乗ってから、捲るの。それとも着物を捲って……」
「知らん」
 とく子はそう言って、いきなり体をすり寄せて来た。近来、とく子は妊娠を恐れることもあって、床の中で積極的な態度を示さなくなっていた。が、その夜のとく子はすっかり違った。強い羞恥を感じると、少くともとく子の性欲は昂進することを、私は実証する。同時に、私は自分の性欲が女性的であることを確認する。
 十月、三男が生れる。
 十二月二十三日、私は満三十歳になる。私はこの日を待っていたのである。早速、とく子と三児の籍を入れ、郷里の人人に嘲笑される。
 翌年二月、文学再出発を志し、杉並区阿佐ヶ谷に移る。窮乏の生活が始まる。
「もう子供は産まない」と、とく子は繰り返して言う。私も同意しないわけではない。とく子は避妊器を買って来る。しかし避妊に関するとく子の知識はあまり信用できない。翌年、とく子は妊娠し、十月、長女を出産した。かなりの難産で、医者を迎えたりした。しかし私は初めて女の子を得て、他愛もなく満悦する。
 既にとく子の体は欠落状態を呈し始めている。私も妻の妊娠を恐れる。しかし私はやはり妻の体を求めないわけにはいかない。妻も拒むことはできない。しかし以前のように素朴な感慨は起きない。肉体だけの快楽である。が、事後はとく子も目立って機嫌がよい。
 肉体だけの快楽も軽蔑できないものか、と私は恐しく思う。
 長女が生れた翌翌年、とく子は五度目の妊娠をする。とく子はペッサリーも使っていたが、使用法を誤ったものであろう。翌年、二月、四男が出生した。私が三十六、とく子が三十五であった。
 その頃、性生活に限らず、私の精神状態は平穏ではあるが、少からず緊張を欠いていたようである。例えば子女の出生に対しても、凡凡と喜んでいるばかりで、長子の時のような切実な感情が湧かない。総てが惰性的になり、さして多くもない経験に甘えて、私は高をくくっているのである。まるで凡愚の上にあぐらをかいているようで、これでは精神が昂揚するはずがない。しかし実際上から言えば、平穏どころではない。私は日日の生活に追われ、妻は五人の子の養育にかまけ、他を省る暇がなかったのである。
 しかしそんな私を一寸緊張させたことが起った。妻の体にまたまた異常を来したのである。今度は悪阻つわりも殊の他に強い。私は医者に行くことを進める。とく子は頑として聞き入れない。
「しかしもう恥しがる年でもないだろう」
「女というものは、年によって恥しさが違うだけです。こんなしわだらけの肌を見られるの、いやです」
「しかしそんなことを言ってる場合じゃないよ」
「産むのだったら、診てもらっても、診てもらわなくっても、同じです」
「産むのだったら……」
 そう言って、私は言葉を切った。とく子が半面にはこんな恐しいことを考えていたのか。そう言えば、この悪阻とは何だろう。まるでとく子の母体が、妊娠させられたことに、激しい抵抗を続けているようである。或は女の体の深奥には、自分の胎内に宿った新しい生命を嫌悪する生理が潜んでいるのか。そうしてそれが自分の体の危険を感じると、母に母であることをさえ忘れさせるのか。私はこの生命の発生の不条理に呆然となる。しかし私が母体の危険を冒しても、「産めよ」ととく子に命じるのは、等しく恐しいことに相違ない。
「どちらにしても、お医者さんに診てもらうより他はないじゃないか」
 翌日、とく子は配給のキャラコを取り出し、尺を計って、裁断している。医者に行くつもりらしい。そんな私に、とく子は顔を上げて、
「おしいけれど、こんな汚いのして行けやしません。女というものは、苦労するんですよ」と言った。
 医者の言葉は殆ど絶対的である。考慮の余地がないという。とく子は近くの産科の医院に入院する。翌日、私は麻酔を打たれたとく子を抱えて、手術台に運んだ。看護婦が忽ちとく子の着物の裾を開き、両脚を台に載せ、革のバンドで縛った。手術用の足を載せる台は特に高い。とく子は無惨な姿になる。しかしとく子には意識はない。私も羞恥を感じるにはその姿態はあまりにも非情に過ぎた。
 戦争が漸く激しくなり、性生活どころではない。以来、数年間、生活全体が空白に等しい。
 昭和二十三年、私が四十七の時のことである。突然、とく子が倒れた。心臓弁膜症に因る脳軟化症である。私の精神状態は急に緊張する。とく子に対して、青春時代のような瑞瑞しい愛情が湧く。静かではあるが、ずっと深いところから滾滾こんこんと湧いて来る感じである。或はとく子一人に対するものではないかも知れない。
 しかし十二月、とく子は病気が再発し、死去した。享年、四十六である。
「今生に、いかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければこの慈悲始終なし」という「歎異鈔」の文意を、私は初めて感得した。


 翌年、私は今の妻、貞子を知り、結婚した。私は四十八、貞子は三十九である。
 私は先妻を亡くして慟哭した。その反動のように、私は今の妻を熱愛する。世間の人はそんな私を嘲笑する。というより、むしろ滑稽視する。全く当然である。阿呆なのである。阿呆と言われるのは当然のことである。
 私はこの慈悲の始終ないことは、徹底的に知らされている。泣くことの空しいと同様、愛することも至って空しい。しかし私は、私の妻への愛は、人間の愛そのものの否定の上に立っている、などと、ゆゆしげな理窟は言わない。愛などというものは悟りの中から生れるものではなく、むしろ迷いの中から自然に湧き出るようなものなのだから。
 言うならば、私の愛は、私という人間の無力さを痛感した、その低圧力の中へ、自然に、物理学的に滲透したのである。等しく私の力ではどうなるものでもない。唯異るところは、青年期のように無我夢中ではなく、年齢がそんな自分を客観視できることである。そうして結果的には、私の今の妻に対する愛は、常に無常の中にあるということである。
 私は貞子と結婚して、亡くなった妻以外の、女の体を知ったわけである。私はつくづく不思議に思う。総ての人間と同じく、貞子の体にも、同じものが、同じところに、同じ数だけある。しかしその形態も、機能も決して同じものではない。不具でない限り、決り切った話である。不思議に思う方が笑止であるかも知れぬ。しかし私はそれを私の体で初めて実証し得たのである。「私」の顔、「私」の体。「私」というものが、哀れ極まる。同時に、私は自然の中に存在するものの不思議を痛感する。
 亡妻とは反対に、貞子は背も高い。体格も立派である。二十代には八十キロを越えたという。そんな昔の写真もある。また亡妻のように欠落状態などを呈していないから、皮膚も白く、肌理きめも細かい。貞子は今まで独身を通して来たように、性格もどちらかと言えば勝気で、教育もある。しかし床の中では、その姿勢も、動作も少しも変りはしない。却って瑞瑞しい羞恥が湧く。
 貞子の体を知って、私の性欲は急に蘇生した。むしろ私の性生活は非常に充実したと言える。勿論、青年期のような盲目的な激しさはない。しかし中年期のような惰性的なものでもない。その度度が新鮮で、私が最も好色的であった時期と言えるかも知れない。つまり私に性欲を楽しむだけの余裕が生じたわけである。私の技巧も幾分は年の功が積んだ。互の状態を判断し、それに順応する冷静さもできた。妻がオルガスムに達するようになるまでには、それほどの日数を要さなかったし、妻が二回、稀には三回と、オルガスムに達するようにもなった。私はそんな大柄な妻の体を抱えて、他愛もなく歓んでいる恰好である。
 人間というものは、私も妻も、何故このようなことをするのか、或はしなければならないのか。私は今までにも何回となく繰り返したことを考える。性欲があるからである。何故性欲があるのか。種を保つためである。が、人間自身にとってそれは結果であって、その原因を意識した者は誰一人もなかろう。私も、妻も知らぬ中にそんなものを持たされていたのである。種を保つために、人間に性欲を持たせた者は誰か。
 近来、私はこの不思議なものを頻りに想うようになる。「賜りたる性」かとも、思ってみる。そうして妻とのあまり恰好のよくない姿を、その不思議なものの中におくことによって、私は浅ましい姿のまま、つつましい歓びを感じるようになった。親鸞のいう「自然法爾」の歓びといってもさしつかえないのではなかろうか。
 人間の愛がいかに愚かで、利己的で、無力であるかということも、私は既に知った。しかしその不思議なものの中に人間をおくことによって、人間の存在の無常性は一層はっきりする。更にその無常の中に人間の愛をおくことによって、私の妻への愛を、愚かなまま新鮮にすることができた。
 しかし貞子が何故私と結婚する気持になったか、不思議でならない。私には四男一女がある。故郷の家には老齢の母もいる。私は才能もあまり豊かでない小説家である。収入も少ない。その上大酒家である。長い飲酒のため、酒気が切れると、手が慄える。貞子に初めて会った夜も、私はわかめのような帯を締め、泥酔の状態で、いきなり貞子にプロポーズしたという。
 貞子は確実な職場に勤めている。生活も安定している。自分の仕事に対する興味も次第に増して来る年齢でもある。性欲のためとも思われない。職場では、彼女は木石女史とも呼ばれていた由である。またいくつかの縁談も断っている。理性の強い性格でもあるから、私の境遇に同情したわけではなかろう。何が彼女をそんな気持にさせたか。不思議というより他はない。
 その二月、私は貞子と山形の妻の故郷を訪れた。戦後のまだ交通の不便な時である。妻の妹の夫が荷馬車で送ってくれることになる。私と妻は荷馬車に乗り、毛布を敷いた上に向き合って坐る。妻は頭にマフラーをかぶっている。
「山形ジープで行ってけらっしゃい」
 孫を負った義弟の父がそう言って笑う。義弟の母も、妻の妹も見送っている。義弟に綱を引かれ、やがて荷馬車は動き出した。
 妻の故郷は蔵王山の一峰、竜山の山腹にある。道はいつか緩い勾配の坂道になり、荷馬車は緩くり登って行く。その年も暖冬で、地上に雪はなかったが、時時、大きな牡丹雪が、一頻ひとしきり降り続く。やがて前方に、意外にも広大なスロープを持った、蔵王山麓の風景が展けて来る。貞子はその一点を指さして言う。
「ほら、あの木立の中に屋根が見えるでしょう。あれが私達の小学校、その左の上の方に森があるでしょう。あの中に私達の部落がありますのよ」
「そうか」
 坂道は緩い傾斜で、道幅もかなり広い。義弟は黙黙と馬を引いて行く。単調な車輪の音が私の耳に響き続ける。しかし徐徐に、小学校の屋根の見える風景はその距離を縮めて行く。また牡丹雪が降って来る。私は振り返り、思わず「わあっ」と、声を発した。
 一望の下、いかにも雄大な風景が展開している。稲の切株だけが残っている。小区劃にくぎられた段段田が、幾層にも重なり、所どころ、森や疎林に遮られてはいるが、自ら立体感のある、広闊な傾斜となって、村山平野に連っている。更に大地は、或は急に、或は援く、再び起伏し、丘陵となり、端山となり、高原となり、遥かに遠く、雪に覆われた出羽山脈の山山が聳えている。そうしてその空間を埋めて、無数の雪片が落ち続けている。
 私達はいつか二人とも後を向いてしまっている。
「いやいや、これは素晴しい」
 茫漠とした感情の中から、歎声だけが頻りに洩れる。妻も満足な様子である。
 雪が止んだ。
「あれが月山、真中が小朝日、こちらが大朝日です」
 私は改めて出羽山脈の山山の方へ目を遣る。僅かに青空を残している、その寒冷な色の空に、白銀色の山山が鋭い稜線を描いていた。
 漸く、小学校の前まで来ると、荷馬車は停った。義弟が言う。
「こっから先あ、歩いて貰わんなねっす。登りが急で、道も悪くてっすは」
 私達は荷馬車から下り、義弟に礼を述べる。義弟はそれに口少く答え、馬を曳いて、帰って行く。
 私は妻と並んで、爪先あがりの坂道を歩き出した。四辺には殆ど人家は見られない。激しい風雪を避けるため、人家は多く崖添いの場所を選び、木立に囲われて、建てられているという。
 坂道の両側は段段田である。極めて小さくくぎられているのもある。人間が二人、下り立てば、尻をぶっつけ合うに相違ない。桑畑もある。頬白が低く飛び抜けて行く。小川も勢よく流れている。その水音が妙に快く、甘美にさえ聞える。
 こんな雄渾な風景の中にこんなつつましい生活があったのか。商家に育った私は、少年の頃から、こんな風景と生活とに憧憬に近いものを抱いている。今、私はその風景の中を歩いている。不思議である。が、こんなところで生れ育った貞子を、あの夏の夜、私の家の近くの屋台店まで運ばせたものは何か。私はやはり不思議なものの力を想うより他はなかった。
 かなり急な小径を登ると、杉の大樹を主にして、桂、柏、槙、欅、椋、檜、楓、伽羅、山梨、漆、樫等の木立に囲われて、妻の生家はあった。
 貞子は自分の子を世に残したいとは思わぬと言う。女性としては比較的合理的な妻は、私達の年齢を考えた上のことでもあろう。しかし私は賛成できない。不満でもある。私は妻を人生の傍観者で終らせたくないからである。更に何より不自然である。結婚した以上、妊娠するか、しないかは人為のことではないが、自然に任せるべきではないか。しかしそんな理窟からではない。私には先妻との間に五人の子がある。が、私は性懲りもなく、貞子との間に子が欲しいのである。幸、不幸は私の知ったことではない。それが人間の愚かな愛の本能ではないか。
 少女の頃(こう書いただけで、私は蔵王山麓のあの雄大な風景を思い浮かべないわけにはいかないのであるが)、貞子は父を尊敬していた。が、母に対する父の横暴には強い不満を持っていた。ところが、その母が末子を妊娠したのである。貞子は母にすっかり裏切られたように思ったという。
 懐妊した女の姿はいかにも醜い。殊に敬愛している母の場合、その感じは一段と深かろう。貞子が女学校に入学したばかりのことである。感じ易い年齢でもある。母といっても妊娠するのである。その母と性を同じくしているのである。少女にとって、問題は深刻であったとしても当然であろう。
 しかし今の妻が自分の醜を曝すのを避けようとするのは卑怯である。少くとも妻だけの子ではない。しかし妻だけの計いが許されないと同様に私だけの計いも許されまい。
 妻はペッサリーと、ジェリー剤とを併用している。しかし妻の知人の著した避妊の書物には、ペッサリーを使用する場合には、サイズの適否、挿入の巧拙によって効果が異るから、専門医の指導を受けなければならないと記してある。私は少し意地悪く、そのことを妻に言う。
「だって、そんなこと厭だわ」
「しかし厭だ、好きだという問題じゃないと思うがね」
「大丈夫よ、私、うまくやってる」
「しかし、自分で自分のサイズは計れまい」
「だって、そんなこと厭だわ。私、金属で触られるの大嫌い」
「やはり女史でも恥しいか。いや、これで安心したよ」
「このお馬鹿さん」
 妻は私の思う壺にはめられたことを覚ったらしく、そんなことを言って、ごまかしてしまった。
 滋賀の家へ帰った時、山形の家へ行った時、また共に旅行に出た時には、妻は流石に避妊具は携帯しなかったようである。しかし幸か、不幸か妻には妊娠の様子は現れない。その中に、妻も安心したのであろう。妻はいつともなく避妊具を使用しなくなった。私は自然な気持になって、妻を愛することができた。しかし妻は依然として妊娠する様子はなかった。
 既に妻の年齢は、最早、妊娠に堪え得ないのかも知れない。そうして妻の体は自然にその危険から護られているのであろう。妊娠できないものが、避妊具を使っていたのは、些か滑稽であろう。しかし妊、不妊がいかに人為のことでないかを示すようで、一入ひとしお、哀れ深い、とも言えなくない。
 妊娠できない妻との行為は無意味であろう。しかし無意味だといって、直ぐ中止できる質のものではない。そんな生優しいものではないのである。しかし最早、妻が妊娠できないとなると、少し淋しい。何かの隊列から離れたようである。が、私は内心、急に気楽にもなる。妻の献身を求める必要もない。共犯者などという感じもなくなる。私は妻と肉体的快楽を共にすればよい。適度の羞恥もあって、ひどく愉しい。しかし私の妻との愛は常に無常の中にある。精神的にも、互に傷つけることはない。むしろ親愛感を新しくする。
 私は私の妻との愛は常に無常の中にあると言った。或は大袈裟で、きざっぽく聞えるかも知れない。しかし私にとっては、少しの誇張もない。観念論でもない。先妻の死がよほど応えているのである。骨の髄まで思い知らされたのである。
 毎朝、勤務に出る妻の乗った電車が、私の視野の中で刻刻小さくなって行くのを見送っていると、妻はこのまま帰って来ないのではないかと、ひどく不安になる。それだけに、夕方、薄闇の中から妻の靴音が聞えて来ると、私は私の体の中に新しい歓びが蘇って来るのを覚える。
 妻が出張などに出ると、私は酒気が切れたアルコール患者のようにだらしなくなる。しかしこれが最も適切な身の処し方であることを、私は既に知っている。私の精神が緊張すると、私の不安も緊張するからである。勿論、この愛が始終ないことは知っている。しかしこの事実を冷静に凝視し続けるには私は愚かに過ぎる。
 が、妻が帰りの汽車に乗る時刻になると、私はそっと汽車の時間表を取り出す。時間表の無味乾燥な数字の羅列を目で追っていると、それだけで私は次第に愉しくなって来る。一駅、一駅、私の方へ近づいて来る汽車の響きも聞えて来るようである。
 そんな時、私は茶の間へ行き酒を飲み始める。妻が汽車に乗る時刻が、丁度その時刻に当っている場合が多いからでもある。酔いが発するにつれ、汽車の車輪の響きはますます高くなって来る。私はその事輪の響きに合わせ、いつか鉄道唱歌などを口遊んでいる。しかし子供等の手前もある。声を発してはならない。私は口を噤み、鼻で呼吸しているのであるから、口と鼻との間で、声にならない声で唱っているのである。
 不意に、私の頭の中に、一つの空席が浮かび上る。現に、この茶の間の妻の座は空いている。勿論、勤務先の妻の椅子も空である。妻が乗っているはずの汽車の、妻の席はどうなっているか。私の酔いに乱れたスポットライトに照し出された妻の席には、妻の姿はない。そうしてその車窓の下の空席は、空席のまま私の方に向かって走り続けている。
 翌朝、しかし妻は土産物の包みを両手に提げて、勢よく帰って来た。
 その頃の私達の生活は尋常のものではなかった。長男は北海道の大学へ行っている。毎月の送金を欠かすことはできない。二男は都大生である。三男と長女は高校生である。四男は中学生である。更に郷里の母の許へも送金しなければならない。広い郷里の家の維持費だけでも容易でない。私は母に度度上京を進めるが、母は頑として聞き入れない。
 春になると、東の裏にはうどが柔かい芽を出す。三つ葉も庭一面にはびこる。夏になると、枇杷も熟する。梅が漬け頃になる。鮒酢も漬けなければならない。秋になると、茗荷の芽も出る。栗も弾ける。柿も色づく。やがて公孫樹が夥しい銀杏を落し初める。その頃になると、屋敷の中は落葉で埋められてしまう。母は言う。
「わしがいなんだら、誰が、一体、これを始末してくれるのやいな」
 私は初め実子を持たぬ妻のために、妻の職業を認めているような口吻を洩したこともある。しかし妻の収入がなかったら、私達の生活は忽ち破壊されてしまう。が、こういう場合、妻のてきぱきした性格が、大いに役立つ。妻は自ら一手に引き受け、辛うじて遣り繰っているらしい。
 しかし、私達の家は全く言語道断である。門は破れ、屋根は傾き、雨は容赦なく漏れ、文字通りの荒屋あばらやである。しかし私はそういうことには割合平気な性格である。人倫の嘲笑には馴れ過ぎているからかも知れない。しかし妻は私のような横着者ではない。口には言わないが、かなり辛いことであるだろう。
 長男が卒業する。助手として、研究室に残ることになる。三男はあまり学業を好まない。放送関係の仕事をすることになる。私は妻を誘って、蔵王山麓の妻の生家を度度訪れる。
 五月雨の水を湛えた段段田は、それぞれの水面に早苗の緑を映している。しかし段段田が遠く傾いて行くにつれ、早苗の緑は次第にその間隔を失い、山裾の方は緑一色で、つまり緑裾濃みどりすそごの大景観が展けている時もある。そんな季節の時には、空にはかっこうが鳴いている。ででっぽっぽうも鳴いている。畠の隅には、こぼれ生えの大根の花が咲き、紋白蝶が群り飛んでいる。庭隅には、紫のかっこう花も咲いている。
 晩夏の季節の時もある。蔵王山峰から吹き渡って来る風は、既に極めて冷ややかである。風の中に、素肌に浴衣を着た邦子が笑っている。邦子は六つ、パンツもはいていない。大きなふぐりを垂れた、種山羊を引いた男が通りかかる。綱を引く山羊の力が強いためか、反り返っている。少し誇張しているようなところもある。男は足を停めて、妻に話しかける。種山羊の自慢話のようであるが、言葉は殆ど解らない。山風に山羊の毛が翻っている。天神山の芒原で、私は初めて野生の鈴虫の鳴くのを聞いた。
 晩秋の季節の時もある。妻は村の青年会に招かれている。私は囲炉裏端で、郁子と絵本を見ている。郁子は三つ、綿入れの絆纏を着て、色は白く、こけし人形のようである。すっかり私に馴染んでいる。庭には閑閑と秋の日が当っている。軒端一面に干柿が干してある。
「東京おんちゃん、しょんべん」
 私は一寸、あわてる。しかし妻の母は背戸の方で、先刻から休みなく立働いているらしい。私は庭に出て、郁子の脚を抱えて、腰をおとす。小便が勢よく走り出る。出羽山脈の峰峰の頂は既に白く、濃藍色の山肌には、新雪が稲妻型の鋭い線を描いていた。
 私達は妻の生家を訪れる、その行き、帰りに、方方の温泉に立寄った。鷹の湯、瀬見、小野川、川の湯、峨峨、青根、岳、那須等へ行った。作並へはその時の都合で二度行った。後の宿は浴槽の直ぐ側を、川瀬が流れていて、かなり気に入った方である。
 温泉の家族風呂では、妻は前に手拭を当てない。羞恥を感じないからではない。夫の前では、羞恥を感じる方がより愉しいからかも知れない。私も幾分恥しいが、手拭を当てるわけにはいかない。が、大柄で、豊満な妻の裸体を見ていると、私の意志には全く関係なく、胯間が怪しくなって来ることもある。そんな時には、私はやはりそっと手拭を当てるより他はない。
 しかし私は一般の大浴場も、晴晴としていて、好きである。妻も同感であるらしい。大浴場からは外の風景の見える場合が多い。勿論、男も、女も裸体である。互にいかにも自然であるようで、言わば「お互さま」といった感じである。妻の裸を見ていても、変な気持になるようなことはない。却って女の脱衣する姿の方が、好色的と言えば、言えなくもない。
 夕の食卓には、私は特に土地で採れるものを所望する。例えば山菜とか、茸とか、川魚とかである。私は初めはビールで、それから日本酒を飲む。私は妻と酒を注ぎ交しながら、いろいろの話をする。しかし結局は私達の子供の話になる。子供達の性格について論じ合ったり、その将来を語り合ったりする。子供のために、私が弁護する場合もある。全く同感の場合もある。こういう時の妻はひどく素直である。私は幸福感が込み上げて来る。
 私の家は全くのあばら屋で、戸障子の開けしめも自由でない。従って、妻は閨中頂点に達することがあっても、決して甚しく取り乱したことはない。が、このように隔絶された、旅館の床の中では、強烈な感覚のあまり、思わず声を発するようなこともある。私は深深とした幸福感の中で、至って神妙な気持になった。
 山つつじの花が満開だった時もある。雨雲の下で、桜桃が真赤に熟していた時もある。澄んだ月が山野を照していた時もある。夕風に川原楊がその枝を吹き乱されていた時もある。一夜の間に降り積った雪に驚きながら、吹雪の止まない坂道を下って行った時もある。斑雪まだらゆきの残っている山肌を背景にして、赤松の幹に斜陽が当っている時もあった。
 長男がアメリカへ留学することになる。こうなると、妻の独壇場である。長男を伴った妻の目まぐるしい動きを、私は手を拱いて見ているより他はない。秋のよく晴れた日、私は妻や子供達と、横浜の桟橋まで長男を見送った。長男の乗った船が岸壁を離れ、徐徐に速度を増して、沖の方へ進んで行くのを、私は妻と並んで眺めていた。
 二男も学校を卒業し、高校の教師になる。長女も司書の資格を得て、ある会社の研究室に勤務する。幾分、生計にも余裕が生じたらしい。そこへ印税の臨時収入がある。私は思い切って、やっとのことで家屋を改築する。しかし私はこういうことにあまり興味がない。妻の都合のよいように一任する。妻はかなり満足そうである。私はその妻の様子を見て、至って満足である。しかしたまたま上京した、私の老母は言う。
「かわいそうにな。こんな節だらけの柱でも、こない喜んでくれるのやでな」
 私と妻は近くの羽田医院へ行く。二人とも血圧がやや高いからである。血圧の測定を終った時、突然、私は言う。
「この間、家内が左の乳が少し変だというんですが、癌じゃないかって……」
 まさか、と言わんばかりに、羽田医師は一寸首を傾けていたが、
「じゃ、脱いでごらんなさい」と言う。
 瞬時、妻は当惑そうな表情を浮べる。が、妻は立って、スーツの上衣を取り、ブラウスを脱ぎ、シュミーズを頭にかぶって脱ぐ、半裸になった妻は羽田医師の前に腰かけ、殊更に胸を張った姿勢をとる。
 妻は決して美貌とはいえないが、その肌は白く、肌理も細かい。殊に乳房は授乳したことがないので、殆ど衰萎の状はなく、極めて豊かで、なめらかである。乳嘴も色を変じていない。二つの乳房はシンメトリーに、それ自身の重みで下部を垂れ、それぞれ薄い陰翳を作っている。羽田医師がその乳房を指のはらで強く押す。その触感が私の肌にも伝わるかのようである。羽田医師は乳房の上下左右を押えてから言う。
「別に、何ともありませんね。奥さん、ノイローゼですよ」
 妻はほっとした表情になる。私は本気で心配していたわけではない。当然のことのように聞き流す。
「やはりノイローゼでしたのね。何だか、急にすうっとしたようだわ」
 羽田医院を出ると、妻は私にそう言った。


 五十六になった。その十一月、私は「上顎腫瘍」という病気で、東京医科歯科大学の病院に入院、放射線の深部治療を受ける。癌の疑いがあるらしい。しかし私には自覚症状は全くない。「まさか」という気持の方が大きい。それより病院に入院するのは初めての経験である。ベッドも困る。酒が飲めないのも困る。更に酒気なくて、一人で夜を過すのが、何よりも苦痛である。
 しかし妻は務めて愁歎の表情は見せようとしない。朝夕、妻は勤務の前後に決って私の前に姿を見せる。その態度はむしろ颯爽としている。私は妻の健気さに、却って病気の重大さが感知されたが、同時に不思議な決心が湧く。献身的ともいえる、妻の愛情に応えるために、私は一切の自己を、或は自己の一切の計量を放擲ほうてきしようと試る。病気は医者任せ、後は運命に任せるより他はないではないか。
 放射線の照射の回数が重なるにつれ、私の顔面は徐徐に変色して行く。更に回数を重ねると、私の鼻下と顎の半白の髭がすっかり脱毛する。ある朝、目を覚ますと、上下の唇が癒着している。無理に引離すと、鮮血が流れ落ちて、着衣を汚す。既に私の顔の皮膚は黒褐色に焼け爛れ、やがて鼻腔や、眼窩からも出血するようになる。しかし私のそんな幽鬼のような顔を見る妻の顔には、いつも微笑が消えなかった。
 三階の十二号病室には、私を入れて、四人の患者が入院している。谷本さんはこの病室では一番古い。私が入院した時には、谷本さんは手術を受け終って既に何日かを経過していて、右上顎と、同じく右頸部から腋窩へかけて繃帯を巻いていたが、かなり元気を回復していた。A市で電気器具商を営んでいるという谷本さんは、入院したばかりの私に話しかけて来た。
「私はね、前前からひどく歯が悪かったんでね、まあ、どうにか少し余裕もできたもんでね、この際、すっかり歯を入れ替えてやろうと思いましてね」
 私は内心苦笑を禁じ得ない。私の場合も全く同様であったからである。
「ところが、歯医者はひどく待たせるんでね。私はA市でも一番はやらんとこで、入歯をやったんですがね。やっぱりはやらん医者なんていけませんや。暫くすると、変に痛んで来ましてね」
 谷本さんははやらぬ歯医者に懲り、県立病院で診察を受けた。直ぐ入院しなければならないというので、入院して、コバルトの治療を受けた。二十日ばかりで全快し、退院した。しかし三ヵ月あまりして再発したので、思い切ってこの病院に入院したという。しかしこの間の事情は、私の場合は少し異る。私も入歯をする目的で、町の歯科医へ行った。が、その歯科医は非常に良心的な人で、大きな病院へ行き、検査を受けることを切に進めたのである。
「しかし私のは癌ではないらしい。腫瘍という奴なんだが、すっかり取ってしまったから、もう心配はないですよ。傷口が直り次第、退院できるようです。もっとも来年の春あたり、念のため、放射線をかける方がよいというのですがね」
 谷本さんは初めの方は声をひそめて言った。私は内心かなり動揺したが、平静を装っているより他はなかった。
 寺川さんは最近入院して来た人である。やはり「上顎腫瘍」であろうか。寺川さんはいつも手拭で隠しているが、左上顎部に既に潰瘍を生じている。かなりの疼痛があるらしく、よくベッドで声を殺して呻いている。寺川さんも放射線の治療を受けている。が、体質の関係からか、私のように毎日は受けていない。それでも食欲が減退するらしく、食事の度に無理を言っている。
 寺川さんはかなりの年配らしいが、夫人は若い。三十代にさえ見える。時時、夫人が三つばかりの男の子を連れて来る。寺川さんの実子らしく、病苦のためひどく気難しくなっている寺川さんが、その子の顔を見ると、急に機嫌よくなるのには、私は心を打たれる。私の妻がかつて妊娠を避けようとした気持も思い合わされた。
 私は二十八日間入院し、年末、退院する。しかし全癒したから退院するのでないこと、人体に放射線を照射し得る限界に達したからであること、従って体力が回復次第、再入院しなければならない旨を、医者から繰り返し告げられる。しかし嬉しい。先のことを案じめぐらす余地もないほど嬉しい。早速、私は妻と乾杯する。ともすると、嬉しさが込み上げて来る。
 長男が帰国する。妻と長女とが横浜まで出迎える。長男は生物学を専攻している。染色体の関係から、アメリカでは主に癌細胞について勉強して来た模様である。私の病気をひどく心配しているらしい。時時、彼の姿が見えなくなる。かなり長い時間の後、帰って来た彼に、私は言った。
「どこへ行ってたんだい」
「久し振りで、パチンコをして来ましたよ」
 しかし景品を持ち帰った様子もない。
「相変らずの腕前らしいね」
「だって、ボストンには、パチンコはありませんからね」と、彼は笑っている。暫く滞在して、長男は札幌に帰った。
 春になった。もう唇を破って出血するようなことはなくなったが、黒く焼けた、私の皮膚はなかなか回復しそうにもない。
 長男からある女性と結婚したい旨の来信がある。私は二人の結婚を大いに祝福すると言ってやる。折り返し、七月に挙式したいと言って来る。七月は少しく性急ではないかと言ってやる。すると、安藤助教授を通じて、相手の女性が既に懐妊しているらしいため、結婚を急ぎたい旨の手紙が来る。
「少しく不調法でしたわい」
 私は妻を顧て、噴き出すより他はない。
 私は週に一度病院へ行く。そうして口腔外科と、放射線科との診察を受けている。主任教授が経過が意外に良好であることを告げる。しかし次ぎのように言い足すことを忘れない。
「しかし念のため、もう一度、苛めてやることになるかも知れません。その時は、再入院してもらいます」
 ある日、私は下唇の下に髭が生え初めたのに気づく。鏡で見ると、奇妙なことに、再生したのは真黒い髭である。私がその旨を告げると、放射線科の教授は極めて珍しいケースとして、カラーフィルムに撮らせる。この病院のどこかで、黒い髭の生えている私の顔が、参考資料として、いつまでも残されるのかと思うと、私は少し変な気持になる。
 私が手の爪の異状に気づいたのもその頃である。どの指の爪も歪に縮れ、ひどくぶざまである。
 夏になった。私の顔面はよほどきれいになったが、それでも私の顔を見るなり、
「どうしました」と訝る人もいる。私は依然として口腔外科へは週に一度、放射線科へは月に一度の割合で、通っている。医者自身が意外とするほどの好経過をたどっているらしく、再入院はいつともなく沙汰止みになっている。
 漸く義歯を入れることになる。補綴科へ廻る。義歯は数日で出来上った。
 七月、私と貞子とは札幌へ行き、長男の結婚式に列席する。しかし新婦にそのような様子は全然ない。長男に詰問する。長男は私の現状に気を許したのか、一部始終を白状する。長男が東京に滞在中、時時姿を消したのは、口腔外科の主任教授に面会していたのであるという。また安藤助教授は偶然にも放射線科の主任教授と旧知の間であるという。更に新婦の父は国立病院の病院長である。私は極めて複雑な気持になる。
 しかしこれらのゆゆしき科学者達も、人倫的には恐らく世俗的な道徳観から脱していまい。その彼等が、新婦となる若い女性に敢て道徳的侮辱を与えてまで、長男の結婚を急がなければならなかったのである。少くとも私の健康状態――或は生命というべきかも知れない――に関する、学者達の意見は完全に一致していた、と解さなければならない。もっとも私も自分の病気の重大さを薄薄は感じていた。しかし根本に「薄薄」という形容詞がつく以上、それからの随伴感情も総て「薄薄」であることを免れない。辛うじて危機を脱し得たような緊迫感は少しもない。愚かな私は、私や、亡妻の遺伝子を幾パーセントか享けている新しい生命の発生が嘘言であったことに、むしろ失望する。
「やれやれ、するとこの秋には、危くお骨にされるところだったんだね」
 私は勿論、冗談のつもりで言う。しかし何故か、明るく笑い捨てることはできなかった。
 秋になった。私の顔面はすっかり回復したようである。上下の顎にも髭が再生する。下顎の髭は元の通り白いが、上顎のそれは唇の下のと同じように黒い。私は義歯にも徐徐に馴れる。指にも新しい爪が伸びて来、二三指に僅かにその痕を残しているに過ぎない。
 私はやはり一週に一度、通院して、診察を受けている。今日までのところでは異状はない。私も、妻も当時のような、一日一日が不安だった感情はいつか薄れ、至って平安な日日が続いているように思っている。
 私が入院してから、満一年経った。私はいつともなく私の性欲的機能が消滅していることに気づく。つまり私は性欲的不能者になったのである。放射線のためか、どうかは知らない。しかし入院以前には確かに性欲的機能はあった。入院以後は、性欲どころではなかったのである。
 私は既に五十七である。五人の子供も成長した。不能者になったことに気づいた当初は、むしろさっぱりした気持になった。やれやれといった感じでもある。しかし妻には何となくすまないと思う。妻は三十九まで独身であった。私との彼女の性生活は僅か十年にも足りない。哀れである。しかし貞子は職場の仕事にも極めて熱心である。愛着を持っていると言える。そこへ私の病気である。引き続いて、二男が腎臓結核で入院、手術する。彼女の日日は過労の連続である。幸にも、とはいえないが、女性の性欲の発し方は受動的でもある。或は妻は私以上に、やれやれと思っているのではなかろうか。
 しかし性欲的不能者といっても、色情はある。つまり全く欲望がないわけではない。或は微弱ながら、性欲も潜在するのかも知れない。しかし彼等の色欲はいつまでたっても満たされることがないから、却ってひどく好色的になる。性欲的犯罪者や、変態性欲者に不能者が多いというのも、この充足されぬ焦燥感からではないか。満たされぬ性欲が、妄想となって、夢遊病者のように、この地上を徘徊するのである。最早、肉体は抜殻に等しい。
 勿論、私もその例外ではあり得ない。自分ながら呆れるほど、私は好色的になっている。道を歩いていても、着物の裾から覗く女の脛を、私の目は見逃しはしない。スカートに包まれた女の尻が、歩くにつれて、左右交互に動くのを、私の目は直ぐに捉えて離さない。女の裸足も好色的なものである。小指の跳ね返ったの、親指のまん丸いの、土ふまずの深いのは清楚な感じであるが、却って擽ってみたくなる。土ふまずの浅いのはいかにも鈍臭いが、げてもの的好色をそそる。猥褻物陳列罪というものがあるそうだが、私のような不能者には、女の体のどの部分も、つまり女の体そのものが既に猥褻物である、と言ってよい。
 女の体だけでない。近所の家の庭に真白いシーツが干してある。そのシーツの一ところに、強く撮み絞った痕が残っているのを見て、私はひどく好色的な気持になる。変態性欲者の中には女の下着類を盗む者があるというが、やはり不能者に多いのではないか。
 しかし私は性的犯罪を犯す恐れはない。勿論、私には一人前の理性もある。が、そんなものよりも、私の性欲には、健康であった時から、嗜虐的な傾向は極めて少なかったからである。
 また今までから私の性欲の発し方は比較的に受動的であった。しかし私の男性は私の女性的な性欲に抵抗もし、嫌悪も感じた。が、私が不能者になってから、私の女性的傾向は更に甚しく助成された。つまり私の性欲は、最早、無に等しい。従って私の色情も虚しく、男女の別などあろうはずもない。今こそ私は私を完全に女の位置に倒錯することができる。そうして私はそうすることによって、女の感情を自由自在に愛しんでおればよい。
 例えば一枚の腰巻が干してある。やはり私の好色心は動く。しかし少年の頃、私が感じたような、遥かに遠い感情を抱いて、見ることはもうできない。また、青年の頃に抱いたような、無気味さももう感じない。この腰巻は、その所有者が若干の金銭を出して購った、一枚の赤い布に過ぎない。しかしこの布はこの竿に干されるためにあるのではない。その持主の体を包むためにあるのである。所有者の肉体を包んでいる関係と切り離して、私がこの布を見ることができないのも、また止むを得ないことであろう。
 私はこの布が、所有者の肉体の哀歓、いずれを包んでいるかは、知る由もない。しかし包んでいるものも、包まれているものも、所有者にとっては等しく「私」のものである。私は「私」のものの哀しみ、歓びも知りつくした。その布が包んでいるものの羞恥も、その布の色を通じて実感できる。しかし私は赤い布の前にいつまでも立停っているわけにはいかない。実際は、一寸その赤い布を目に入れたまま、私は街を歩いているのである。しかしそれでよいのである。何も彼もそれでよいのである。私はむしろ楽しげな微笑を浮かべ、歩いて行くより他はない。
 毎朝、私は目を覚ますと、妻の手を取り、妻の体を抱き寄せる。それから私の顔を妻の顔に摩りよせ、互の無事を確め合う。まるでそれが朝の挨拶のようにもなっている。
 時には、私は妻の胸を開くこともある。妻の胸には二つの白い乳房がある。が、最早、二つの乳房は、妻の「私」のものではない。私の「私」のものである。しかも私にとっては、唯一無二のものである。私は私の胸をそっとその上に当てる。柔かく、豊かな触感が、私を無上に喜ばせる。乳首と乳首とを触れ合わせることもある。一瞬、極めて儚い性欲的快感が蘇ったかと思うと、忽ち消える。
 しかし私のそんな行為が、妻の性欲を強く刺戟し過ぎ、妻を病的にしないか、と私は不安になって来る。妻は極めて淡白な態度を持している。毎朝の頬ずりにも、妻は静かな微笑を浮かべることを忘れはしない。しかしそれは妻の克己心の強い性格から来ているのではないか。一度、性の歓喜を知った女の体というものは、そんなものであろうはずがない。
 私は本気で妻に自慰行為を進めようと思わぬでもない。しかし妻に致命的な凌辱を与えるようで、流石に口には出し難い。そのような器具は市販されていないものか。私は決してふざけているのではない。性欲的不能者の夫だけが感じることのできる、妻に対する、切実な贖罪感情である。
 更に、妻の肉体の歓喜という貴重な代償が得られるならば、私は妻の不倫行為も少しも厭うものではない。決して私の虚勢ではない。妻に対する、むしろ私の愛である。私は以前から妻(亡妻をも含めて)の対男性関係に、嫉妬を感じたことは殆どない。妻への信頼度の強さにも因ろうが、私の性欲が受動的、女性的であることにも、大きな原因があるのではないか。その傾向は現在の私には更に拍車がかけられている。嫉妬という私の感情は不感症に近い。
 むしろ妻のそんな行為を想像するだけで、私は強烈な好色的興味を抱くのである。性欲的不能者の懐く色情がいかに不潔であるか、言葉の限りでない。
 しかし不潔といい、いやらしいといっても、その内容は空白である。性欲的不能者の色情は怪しからぬ、さまざまの妄想を描く。が、妄想は空しく荒野を駆けめぐるばかりで、いずれも荒涼、無稽の世界に過ぎない。
 ある朝、私は夢を見た。
 ひどく殺風景な部屋である。私は二人の男の前に立っている。上半身は裸である。着物はどこで脱いだのか覚えていない。ズボン下だけの見苦しい恰好である。二人の男は医者のようでもある。何かの検査員のようでもある。が、奇妙なことに、褐色のタイツを穿いただけであることに気がつく。二人ともひどく冷やかな表情をしている。等身大の十字架のような台がある。私は台に背を向けて立ち、両手を上げて横木に当てる。二人の男が左右から私の手を横木に縛る。それまでの行動は自分から行ったはずである。が、私は何をされるのか知らない。少し不安になる。二人の男は鵝ペンのようなものを持って、私の両脇に立っている。一人の男が頷くと、一人の男が鵝ペンのようなもので、私の右の腋窩を擽り初め、脇腹の方まで擽る。しかし私はどうしたのか、少しも擽ったくない。二人の男が何か言う。ドイツ語らしい。するとやはり医者かも知れない。しかしタイツというのはおかしい。次ぎに左の男が私の左の腋の下を擽る。やはり何の感じも起らない。今度は二人の男が同時に左右の腋の下を擽る。全然、無感覚である。二人の男は私の手を解き、言う。
「お帰り下さい」
 私は帰ろうとする。二人の男は私を押し止めて言う。
「あなたはこちらからじゃない。あちらから出て下さい」
 私は指された出口から出ようとする。一人の女が入って来る。貞子である。私は思わず足を停める。貞子も上半身は裸である。二人の男は既に左右に控えている。それにしても、あの男達は何者であろうか。家へ帰ったら、貞子に尋ねてみなければならないと、私は思う。
 私と同じように、貞子は台の前に立ち、両手を上げる。二人の男が布でその手を縛る。貞子の腋の下には黒い腋毛が見えている。が、貞子は至って冷静な表情をしている。右の男が例の鵝ペンのようなものを持って、貞子の腋の下を擽り初める。貞子は急に顔を歪め、ひどく擽ったそうな、むしろ苦しげな表情をしている。右の男は漸く手を離し、何か貞子に話しかけているらしい。貞子は羞恥をさえ含んだ表情で、繰り返し頷いている。
 突然、左の男が貞子の腋の下を擽るような恰好をした。瞬間、貞子の体がぎくりと動いたようである。よほど激しく動いたらしく、二つの乳房まで揺れるのが見える。二人の男は顔を見合わせて、冷やかな笑いを浮かべる。一瞬、貞子は泣き笑いのような表情になったが、直ぐ思い返したか、平静な表情に戻る。改めて左の男が鵝ペンのようなものを持って、貞子の腋の下を緩くり擽り初める。暫く貞子は必死に堪えている風であったが、急に体をくねらせ、極めて煽情的な姿態を作る。
 左の男が何かを話しかけているらしく、貞子はまた幾度か頷いている。今度は二人の男が左右から貞子を擽る。貞子はいきなり体を仰反らせる。が、その体の部分部分は勝手勝手に悶え苦しんでいるかのようである。そのアンバランスがひどく好色的に見える。顔は醜く歪み、目には涙を溜めている。
 漸く二人の男は左右に離れ、妻の手を縛っている布を解く。二人の顔にはいつの間にか、今までの冷やかな表情は消え、むしろいたずらっぽい道化じみた表情になっている。更に妙なことに、貞子も二人の男と親しげに話し合ったり、頻りに頷いては、含羞の微笑を浮かべたりしている。が、やがて二人の男がカーテンを掲げると、貞子は一揖してその中へ入って行く。私は急いで妻の後を追おうとする。が、私の足は動かない。その夢と現実との違和感が私の目を覚まさせた。
 性欲的不能者であることに気づいて以来、妻の体についての私の煩悩が、無意識の裡に、こんな夢を構成させたのではないか。二人の男がタイツを履いていたのは、性欲という魔王お抱えの道化師とでもいった意か。
 私はそっと妻の手を取る。妻も目覚めていて、軽く私の手を握り返す。しかし私は私の頬を妻の頬に摩りよせただけで、勢よく跳ね起きた。
 去年のことである。私はこの一夏は暑さを避けるより、むしろ仕事に打込むことによって、暑さを凌いでやろうと決心する。一週一度の病院通いは、まだ止めることを許されないが、体にも異常はなく、気持も比較的昂揚している。かなり清適な日日が続いた。
 が、思いがけず、妻に休暇が取れることになった。私達は急に思い立って、小旅行に出ることにする。休暇は短いので、上越高原の湯檜曾温泉と決める。一昨年末、病院を退院して以来、初めての旅行である。ひどく楽しい。
 私は汽車の窓に顔を寄せ、夏の田園風景を眺めて飽かない。高崎、新前橋、渋川を過ぎると、既に高原に近い風景で、汽車は利根川の渓流に沿って走る。どの駅にも標高が示されていて、沼田を過ぎると、急に高度が増して行くのが判る。水上の次ぎが湯檜曾で、汽車はループトンネルに入る。トンネルを出ると、車窓の直下に、再びトンネルの入口が見える。つまり汽車は山を上って、丁度一廻りしたわけである。
 湯檜曾温泉は海抜八百メートルの高地にあるが、四方を山に囲まれていて、眺望はあまりきかない。しかし私達の通された部屋は、三方に窓が開いてい、絶えず山風が吹き通って、ひどく涼しい。
 浴後、私と妻は夕食の卓につく、鯉の洗い、姫鱒の塩焼、ぜんまい、きくらげなど、土地の珍しいものが出る。私と妻とは互のコップにビールを注ぎ合い、乾杯する。
「涼しいね」
「ほんとに、あら、だめですわ」
 灰皿の煙草の灰がすっかり飛んでしまっている。妻は灰皿にビールを流す。掛物の軸が絶えず壁を叩いている。
「ね、そう言えば、花時に、山形へ行ったことはないんだね」
「どうしたんです。突然に」
「別に、どうしたってことはないが……」
 何故、突然こんなことを言い出したか、自分ながら判らない。しかし言葉の序のように、私は言う。
「来年の春は、山形へ行こうじゃないか」
「はい、行きましょう」
「梅も、桜も、桃も一時に咲くんだってね。あんな大きな景色の中だと、白梅や、桜だけでは、少し淋しいかも知れないね」
「四月の末でしょうね。みんな一ぺんに咲いて、嬉しかったものですわ」
上野うわのからだと、全く春が、山に来た、里に来た、野にも来たって、感じだろうからね」
「女学生の時でしたわ、花が満開だというのに、雪が降ってね、その上、夜になると大きな月が出て、素晴らしかったですわ」
「それは凄かったろうな。しかし今の僕には少し壮絶に過ぎる。僕はやっぱり花の村だ。軒端には梅が咲いている。山吹も咲いている。花公方も咲いている。遠く、在所、在所には、桜が白く霞んでいる。あんな大風景の中では、桃の花の色が却ってひどく艶に見えるだろう。ね、きっと、来年の春は山形へ行こうよ」
「はいはい、まいりましょう」
 絶えず、涼しい夜風が吹入っている。微かに湯檜曾川の川瀬の音も聞えて来る。先刻から、私は快い酔いを発しながら、静かな喜びに浸っている。
 実を言うと、私の心の中に、例えば寂寥感とでもいった、私に対して至って冷酷な奴が潜んでいるのを、私は前から知っている。私は何とかして、私の心からその忌わしい奴を振落してやろうと、随分、無駄な努力をしたものである。しかし今の私はもうそいつから顔を背けようとは思わない。むしろ私の喜びは、それをはっきり知り得た、私の心の中から生れて来るようである。
 妻の心の中にもそいつは姿のない姿を潜めているに相違ない。言わば、私と妻はそんな冷酷な奴を中に置いて、互にそっと手を添え合っているようなものである。第三者から見れば、そんな二人の姿はひどく哀れであろう。しかし私の心は晴晴しい。この上もなく幸福である。
「少し涼し過ぎやしません?」
「そうだね。一つだけしめてもらおうか」
「はい」
 妻は立って、東向きのガラス戸をしめた。


 今年のことである。私は数え年五十九、妻は五十である。
 私は机の前に坐っている。旬日前には、一寸寒い日が続いたが、数日来、温度はよほど回復した。今日も、八つ手の葉裏で、羽虫の群れが飛んでいる。この虫は、初冬の頃や、この季節に温度が少し上昇すると、きまって現れる。生殖行為であろうか。跳ねるように飛びながら、同じ動作を繰り返している。しかしひどく頼りない奴で、少しの風にも直ぐ吹き流される。先刻から、私は何か忘れごとをしているようで、妙に気にかかってならない。
 昨夜も貞子が帰って来たのは、私の記憶に残っていない。つまり既に私の酔いがかなり発していたことになる。私は例によってひつこく小言を繰り返したに相違ない。
 昨年末以来、予算がどうとか言って、毎夜、妻の帰宅は遅れた。年末の休みもとらなかった。幾分疲れているようにも見えた。
 しかし既に予算は復活したはずである。毎夜、私はおいてけぼりを食わされているようでもある。が、そんな私だけのことでもない。妻は勝気な性格から、とかく無理を押しがちになる。私は妻の過労を恐れる。しかしそれに妻がどう言ったか。私の記憶はない。言争いになったような覚えもない。
 早春の斜陽がガラス戸越しに差し入り、白い原稿用紙の上に、すりガラスの模様を映している。ガラス障子は真中を開いておくので、まだ羽虫の群れが跳ねているのが見えている。日も幾分長くなったようである。
「病院へ行って来ます」
 妻がそう言ったように思われて来る。しかし以前、夢の中で、私は妻を医者の前で裸にならせたことは幾度かある。今はもうそのようなことはないつもりでいるが、私のことであるから当てにならない。が、若しも実際に妻がそう言ったとすれば、一体、妻はどこが悪いのであろうか。
「明日、とにかく、癌研へ行って来ます」
 白紙に明礬水みょうばんすいで書いた文字が炙り出されて来るように、昨夜、妻の言った言葉が、私の頭に次第にはっきり蘇って来る。酔い痴れた私の頭にも、よほど強烈な印象を刻んだのであろう。酔っぱらって記憶を残さなかった出来事は、後になってどんなに努力しても、思い出し得た例は今までに一度もない。妻は確かに言った。
「左の乳にぐりぐりができてるのです。それがかなり大きくなっています」
 夢の中で、或いは酔いの中で、私の妄想が四年前の妻の姿を描き出したのではない。妻の上半身は裸ではない。勤め帰りのままの姿である。しかも朦朧とした姿ではない。私は妻のスーツの色も柄もはっきりと思出すことができる。
 女中の敏子が雨戸をしめに来る。そう言えば、原稿用紙の上の摩ガラスの模様もいつか消えてしまっている。それどころではない。庭には暮色が漂い、部屋の中も薄暗い。私は急いで電灯のスウィッチを拈る。
 それにしても妻は何をしているのだろう。或はそれほど案じることもなかったのかも知れない。若しも悪性のものであったら、いかに気丈の妻でも走り帰って来るに相違ない。私は強いてそう思込むことによって、気持を鎮めようとする。が、その後から新しい不安が湧き起る。
 玄関の扉が開く。貞子が帰って来たのである。
「どうだった」
 妻が書斎に入って来て、私の前に坐ったのと、私が思わず立ち上り、そう言ったのとは、殆ど同時である。従って、妻は私を少し見上げる風にして言う。
「覚えていて下さったの。昨夜はかなり廻ってたようだから、忘れていらっしゃるかと思ってた」
 ひどく落着きはらった妻の態度に、私は思い返し、ともかく妻の前に坐る。
「そんなことはいいよ。それより、どうだったの」
「やはり、乳癌ですって」
「そうか」
 一瞬、強い衝撃を受ける。しかしいつかこのことのあることは、予て覚悟していたはずではないか。そう思うことによって、私は辛うじて自分を受け止める。が、このことの恐しさに比べれば、人間の覚悟とか、理性などというものは、物の数でもなかろう。私には事の重大さが、まだ呑み込めないのかも知れない。或は妻も私と同じ心の状態にあるのではないか。しかし妻は至って平静な態度で言い続ける。
「最初に、予診で若いお医者さんに診て貰いましたの。それから外科部長の森岡先生の診察を受けました。森岡先生はいかにもがっちりした感じの方でした」
「それで、森岡先生はどう言われたんだい」
「シュミーズも脱いで、スカートだけになって、前から、横から、また前屈みになったりして、診ていただきました。レントゲン写真も撮りましたが、その結果を待つまでもなく、手術はしなければならないそうです」
「そうか。切り取っちゃうんだね。しかし乳癌は大丈夫だよ」
「先生も、乳癌のことだから、とはおっしゃったけど、後は何ともおっしゃいませんでした」
「そりゃそうだよ。僕なんかも、未だに大丈夫とは言われないんだからね」
「でも、私のはかなり進行しているらしいのです」
「えっ、すると、どこかへ転移しているとでも言うのかい」
「ええ」
「えっ、君、それ本当かい」
「本当です。腋の下の方へ転移しているらしい、と言われました」
「それは、君、大へんなことなんだよ。どうして、また、そんなになるまで、隠していたんだ」
「隠してなんかいませんよ。お乳の下にできていたので、気づかなかったんです。上の方は始終注意していたのですけれど」
 私はひどく腹が立つ。悔しさが後から、後から込み上げて来る。妻がそんなになるまで気づかぬはずはなかろう。少くとも昨年末には気がついていたに相違ない。しかし今更妻を責めたところで何になろう。更にこんな私と妻とが言争っているのは、憐れ極まる。私は余憤を吐き捨てるように言う。
「今日だって、こんなに遅くまで、何をしていたんだ」
「だって、入院するとなれば、受継いでもらわなければならないことも、いろいろあるんですもの」
「そうか」
「明日も出勤します。明後日はレントゲンの結果を聞きに行きます。それで、もう私、きっと大人しくしますから。心配かけて、ごめんなさいね」
 翌朝、私は妻に言う。
「ね、見せてごらんよ」
「怒るから、いや」
「怒らない。昨日は僕が浅慮だった。絶対に怒らない」
 妻は布団の上に起き上り、胸を開く。既に妻の左右の乳房はその形を異にし、左の乳房の下部は変色している。しかし妻を責める気持は今は毛頭もない。
「三十年、いや四十年近くも、大事に附けていたものが、失くなるのかと思うと、変な気持。女というものは、お乳には特別の関心を持っていますからね」
「そら、そうだろうとも」
 私が通っている病院の放射線科の診察室前の廊下で、私と知り合った、五十ばかりの上品な婦人がある。五年前に、乳癌の手術をしたという。つまりこの病院へ五年間通い続けているわけで、私の唯一の先輩である。私達は看護婦とも懇意になっていて、極寒の日などには診察室のストーブに当りながら、自分の番を待つ。ある日、その婦人が主任教授の前の椅子に腰かけて、胸を開いた。それは悲惨とか、無惨とかいう種類のものではない。いわば唯ののっぺらぼうである。が、その婦人の、女の肉体のほんの一部分の白白しさが、突然、途方もなく巨大なものに拡大されて行くのを私は覚えた。
 翌日、妻はレントゲン写真の結果を聞きに行く。妻は途中、勤務先に一寸立ち寄ったらしいが、帰りは流石に真直ぐに帰って来たようである。
「森岡先生が写真を見ながら、『しかし切りますよ。切るには切りますがね』とおっしゃったけど、思ったより、質が悪くなかったんですって。私、それを聞いて、ほんとに生き返ったように思いました」
「そうか、それはよかった」
 私はそう言ったが、その声には、妻の声のような生気はなかった。一体、質の悪くない癌などというものがあるだろうか。一昨日、医者が随分思い切ったことを言うと思ったが、やはり今日の伏線が考えられていたのか。しかし妻は今まで感情を抑圧していた反動のように、ひどく晴晴しい表情をしている。私は石より固く口を噤んでいなければならない。が、私は今まで自分の心を妻に隠した経験がない。ひどく心苦しい。
「ベッドが空き次第、入院します。そうして、手術をしてから、大塚へ移って、念のためコバルトをかけるんだそうです。いろいろ心配をかけてすみません」
「そんなことお互に当然のことだよ。しかしこの病気では先輩だからね。先輩の言うことは聞かなくちゃいかんよ」
「しかも優等生の先輩ですものね」
「そうだとも」
「それから、病院との連絡場所は郁ちゃんの勤め先にしておきました」
「そう。じゃ、郁子のところへ電話しておかなくちゃいけないね」
 二人は電話のあるところへ行く。妻が電話を掛ける。郁子は昨夜遅く、スキーから帰って来た。
「もしもし、郁ちゃん、母さんね、やはり乳癌だったの。それで入院することになったのでね、郁ちゃん、郁ちゃん、どうしたの、郁ちゃん……」
「どうしたんだ」と言う私に、妻は黙って受話器を渡す。私が受話器を耳に当てると、思いがけず娘の嗚咽する声が伝わって来た。
 以来、妻は家にいて、入院の準備をしている。同僚の岡さんから注意を受けたようで、今、妻は敏子を相手に寝巻や、白ネルの襦袢などを縫っている。岡さんは胸部疾患のため、先年、肋骨を八本も切除したという経験者である。入院には、下着も和服型の方が便利であるという。
 私は机に向かっている。今日も非常に暖い。私は白い十姉妹を飼っている。その餌が地面にこぼれるので、雀が多く集って来る。今日は外のガラス戸も開いているので、雀が縁の上までやって来て、鳥籠のまわりに落ちている餌を啄んでいる。縁側には春の陽が差し入り、雀の影を映している。極めて静かに時が経って行く。しかし一刻、一刻何の変りもありはしない。突然、どこかで電話のベルが鳴り響いているように、私は錯覚する。昨日、娘の嗚咽の声を聞いて以来、その声は私の胸の中にも潜んでいるようである。そうしてともすると私の声となって、込み上げて来そうになるのを、私はじっと堪えている。
 その翌日、妻は私、三男、長女と、同僚の岡さんに伴われ、築地の癌研附属病院に入院する。
 しかし妻は至って元気である。入院手続を初め、総て自分の手ですませ、先頭に立って、昼食をとりに行くという。勿論、虚勢もある。自分自身に対する虚勢である。しかし肉体の苦痛を全く感じないからでもあろう。
 銀座の有名な鮓屋へ入る。妻は健啖振りを示す。私はあまり食欲がない。それをごまかすように、ビールばかり飲む。岡さんと別れ、病室へ帰って来ても、妻はなかなか寝台へ上ろうとしない。が、看護婦が来て、脈を取り、熱を計る。更に体重を計量するため、看護婦室へ来るように言われ、妻はやっと寝巻に替えた。
 私は森岡外科部長のところへ挨拶に行く。部長は大きな目で私を直視して言う。
「奥さんのはかなり進行していますから、手術後、大塚へ移って、コバルトをかけてもらいます」
 更に私は原田主任医のところへ行く。若い主任医はいきなり叱りつけるように言う。
「知っているのですか。奥さんが乳癌だということ、知っているのですか」
「乳癌だということは家内から聞きましたが」
「ところが、奥さんのは発見されるのが遅かった。その上、気づかれてからも、ここへ来られるまでに、かなり日が経っているように思われます。その間、癌はすっかり進行してしまっています」
 私の腰かけている椅子が激しく鳴った。私の体はアルコール中毒のため、常に微かに慄えている。ところが感情が昂ぶってくると、慄えは急に甚しくなる。
「乳癌は初期だったら、殆ど心配はいらないんです。どうして、こんなことにしちゃったんです」
 若い医師の気持は判る。が、私の答える言葉はない。
 翌日、私が病院へかけつけ、二階の妻の病室へ入ったのは八時二十分である。
「では、下へ参りましょう」
 そう言って、看護婦が妻を呼びに来たのは、私が手術承諾書に署名、捺印した、その直後のことである。妻は看護婦に連れられ、歩いて階下へ下りて行く。私もその後から従いて行く。
 カーテンで仕切られた、手術室の前の廊下には、一台の患者運送車が置いてある。
「これへおやすみになって」
 妻は絆纏はんてんを脱ぎ、その上に仰臥する。看護婦が赤い布で妻の目を覆い、その腕に注射を打つ。私は妻の絆纏を抱え、その側に立っている。
「スポーツ新聞でも読んで、待っていて下さい」
「そうするよ」
 手術着の下着をつけた医師や、看護婦が頻りに手術室を出入りしている。
「意識が少しだらっとして来た。注射のせいでしょうか」
「そうだろう。昨夜ね、夕御飯の時に、和夫がね、私があんたに癌をうつしたと言うんだよ」
「そんな馬鹿なことありませんわ」
「ところが、新学説でね、癌は一種のビールスだと言うんだが、その媒体は、馬鹿にしているじゃないか、愛情なんだってさ」
 妻はその口許に薄笑いを浮べる。
「早速、兄ちゃんのところへは知らせてやったがね。参考までにね」
 妻が患っているのは左である。従って右の手首に、妻の血液型を記した厚紙が括りつけてある。妻はその右手から腕時計をはずし、私に渡す。
「かぜを引かぬようにして、待ってて下さいね」
「はいはい」
 それからもかなり時間が経ったようでもある。そうでないようでもある。看護婦が来て、私に言う。
「では、あちらでお待ち下さい」
 妻は運送車に乗せられ、手術室へ運ばれて行く。九時三十分であった。
 カーテンの外の廊下には、いつの間にか、大勢の外来患者が詰めかけている。私はその椅子の一つに腰をおろす。
 あの時、私は印形の皮袋をどこへしまったか、全く意識しなかったことに気がつく。私は袂の中や、帯の間を探ってみる。が、それらしいものは指に触れない。やはりあわてていたのであろう。しかしこんな些細なことが頻りに気にかかるのも、普通の精神状態ではあるまい。私は煙草を取り出して、火をつけた。
 不意に、私の姓が呼ばれる。顔を上げると、先刻の看護婦である。一掴みの白布が私の手に渡される。妻の襦袢と腰巻である。私は妻の絆纏の下にして、傍の附添婦に渡した。それがいけなかった。附添婦は大勢の人の前で、一つ、一つ、丁寧に拡げて、たたみ始めた。
 十一時過ぎ、手術は終った模様である。カーテンを掲げて、森岡部長が出て来る。私は立って一礼する。外科部長は会釈を返して、通り過ぎた。しかしそれからも私にとってはかなり長い時間が経った。漸く妻が運送車で運び出されて来たのは、十一時二十五分である。妻は担架で階段を上り、病室に帰り、蒲団が取りのけられる。その妻の両手は紅絹もみのきれ地で縛られている。全くの偶然のことかも知れない。が、誰かの心遣いでもあるかと、私は赤い絹の色を見つめている。
 妻の体は運送夫に抱えられ、ベッドの上におろされる。早速、紅絹は解かれ、左の背中にフォームラバーが当てられる。看護婦がベッドの裾に廻り、掛蒲団を捲り、妻の左右の内股に太い注射針を刺す。吊り下げられた、ガラス器の中の注射液が徐徐に低下して行く。しかし妻は麻酔がかかっているので、意識はない。
「新村さんの奥さん、判りますか」
 看護婦が少し声を大きくして言う。妻は目を開き、頷く。しかし妻は直ぐ目を閉じ、眠ってしまう。
 看護婦が私を呼びに来る。看護婦室へ行く。原田主任医がいる。
「これが、奥さんの取ったものです」
 原田医師がビニールの覆いを取ると、瀬戸引の盤の中に大きな肉塊が現れる。一枚の赤黒い筋肉の下に、丸い塊が葡萄状についている。その黄色なのは、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)肉などから類推して、脂肪であろうか。
「これが癌です」
 原田医師がその一つをつまんで、メスを入れる。私のような素人には、どれがそれとはっきりとは判らない。が、そのいずれにも、銀色の棘のような筋が入っている。私は或はそれが癌か、と見る。
「随分、沢山作ってくれたものです。これが大胸肉ですが、これはこんなにきれいです。しかし普通は二枚ともすっかり取ってしまうのですが、奥さんの場合は、コバルトをかける関係で、一枚だけ残しておきました」
 原田医師がそう言いながら、肉塊を取って、引っくり返す。まるで覆面を取ったように、完全な乳房の形が現れる。乳嘴にゅうしから上部三分の二ばかりのところまでは、皮膚も残されている。しかしその皮膚は既に死色を呈している。どうしたわけか、皮膚の上にも数条のメスの痕が走っている。乳房の左の下部から、肉の粒を連ねた房のようなものが、垂れ出ている。原田医師はそれにもメスを入れながら言う。
「腋の下のも、一応、取るには取りました。しかし全部取ったわけではありません。非常に危険なところに出来てるのもあるようです。しかしコバルトをかける関係で、後はあちらに任せることにしました。ですから、手術の傷がある程度直れば、直ぐ大塚の方へ廻ってもらいます」
 瀬戸引の盤の横に、「新村貞子(48)」とマジックインキで記された札がおいてあるのが、初めて私の目に入る。或はアルコール漬けにでもして、この病院のどこかで、保存されるのであろうか。私は厚く礼を述べて、看護婦室を出る。
 妻の意識はまだ回復していない。軽い鼾を立てて眠っている。私は椅子に腰をかけて、暫くその寝顔を見入っている。すると、何となく気力が蘇って来るのを覚える。勿論、この慈悲の始終ないことは十分に知っている。しかしこの空しいもののために、私は私の最後の力を振り絞りたいのだ。などと言えば、誇張に過ぎる。感傷に溺れている時ではない。私はこの妻と共に喜び勇んで生き抜かなければならない。急に気持が昂揚する。が、私はかなり疲れた。それに喉がひどく乾く。少し湿りをくれてやろうと、私は立ち上って、部屋を出る。
 看護婦室の前を通る時、思わず私の目がその方へ走る。今はひっそりとなった看護婦室の棚の上に、妻の切り取られた乳房が先刻のままに置かれている。その横に、妻のそれより一廻り小さい、新しい乳房が、やはり上向きに並んでいた。


 毎日、私は妻の病院へ通っている。国電で四谷まで行き、地下鉄に乗換え、西銀座で降りる。西銀座から病院まで、私は往復とも自動車に乗らないことにする。少しでも足を強くしたいためである。また、私は決して道を急がない。散歩のつもりで歩いて行く。舗道を横断する時も、青の途中では横切らない。赤になり、更に青になるまで待っている。少しでも神経を疲れさせないためである。
 次第に歩くのが億劫でなくなって来る。気持のせいかも知れないが、階段を上る足取りもしっかりして来る。確かに食欲も出て来る。ある日、妻は見舞に貰った鮓を食したので、私は妻の昼食を食べる。丼の飯をすっかり平げて、妻を驚かせる。昼間に酒類を口にすることも全くなくなる。病院から帰って来ると、直ぐ机に向かう。私は仕事がしたくてならないのである。
 手術の翌朝、妻は大きな岩の間に挟まれているようだと、疼痛を訴えていたが、意外に早く痛みもとれ、手術の傷の回復は至って順調である。大塚へ移るのもそう遠くはなかろう。
 ある朝、私が目を覚ますと、私の性欲的機能が回復しているのに気づく。瞬間、ひどく嬉しい。まるで生き返ったようである。或は偶然、放射線による障害が消滅する時期に当っていたのかも知れない。が、私は妙な気持になる。先日、看護婦室の棚の上に置かれた、妻の乳房を見て、私は私の性欲史に恰好の終止符が打たれたと、窃かに思った。そうしてかなり深刻に、しかし冷然と、その結論を受け止め得たつもりであった。しかしそんな生優しいものでは更にない。私の性欲史はまだ終ってなどいない。しかも私はそれほど悪い気持ではない。呆れ果てる。いっそ滑稽でさえある。私は妻のいない床の中で、文字通り苦笑するより他はなかった。
 その翌翌朝、私は鳴きしきる鶯の声を聞きながら、目を覚ました。私の性器は、やはり隆隆と勃起していた。その日、妻はコバルトをかけるため、大塚の癌研附属病院へ移ることになっている。





底本:「澪標・落日の光景」講談社文芸文庫、講談社
   1992(平成4)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「外村繁全集 第四巻」講談社
   1962(昭和37)年3月20日
初出:「群像」
   1960(昭和35)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:門田裕志
2013年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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