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日本脚本アーカイブズ
調査・研究報告書
平成 22 年度
日本脚本アーカイブズ
特別委員会
社団法人 日本放送作家協会
[Ⅵ]
文化というものは一度花が咲いて枯れたあと、それが新たな養分になって、
次の新しい花を咲かせる、というふうに循環していくものである。
つまり「リサイクル」することによって文化が豊かになっていく。
「文化はめぐる」んです。 (香取俊介「文化アーカイブズ活性化シンポジウム」より)

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文化アーカイブズ活性化シンポジウム
第1部 「テレビ文化」と「Web文化」
   ~文化リサイクルの観点から、その可能性と問題点を探る~
東京大学大学院情報学環 学環長・石田英敬教授の司会で、韓国コンテンツ
振興院日本事務所の金泳徳所長と演出家・今野勉氏の2人のパネリストが、
それぞれの立場からテレビとWebの関連等について問題提起された。

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『文化はめぐる ―脚本アーカイブズとデジタル化―』
 平成22年11月2日 東京芸術センター 天空劇場(24頁参照)
第2部 文化アーカイブとデジタル化の意味および今後
「文化リサイクル」の発案者である東京大学大学院情報学環の吉見俊哉
教授の司会で、国立国会図書館の長尾真館長、早稲田大学演劇博物館の
竹本幹夫館長、NHK放送総局ライツ・アーカイブスセンター長の大路
幹生氏が、アーカイビングとデジタル化の問題点等について貴重な提言
を行った。

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企画展 ザ・脚本―放送作家たちの80年
 平成22年4月6~18日 江戸東京博物館(48頁参照)
80年ほど前の「放送劇脚本」から今に至る放送脚本を、年代順に構成し、展示した。
展示された脚本・台本は計153冊。
『坂の上の雲』の小道具や脚本・台本
が印刷されるプロセスのパネルや動画
等も併せて展示した。

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日本脚本アーカイブズ脚本展 北海道展
平成22年11月13~21日 北海道立文学館(54頁参照)
北海道新聞(2010年11月14日)
他に読売新聞、テレビ局が5社。マスコミの扱いも予想を超えて大きかった。
北海道で初めての脚本展。地元の特色を生かして大好評だった。

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日本大学藝術学部江古田キャンパス・リニューアル記念脚本展 
平成23年1月21~25日 江古田キャンパス(57頁参照)
あだちサークルフェア
平成22年10月9・10日 足立区千住・学びピア21(42頁参照)
放送学科のテレビスタジオを使っての展示。
紫外線がカットされた照明を使っている。
「国際ドラマフェスティバル in EKODA」も同時開催。
放送関係者や学生の見学で盛況となった。
脚本を見る近藤やよい足立区長
古い脚本・台本の
修復作業も関心を集めた。

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日本経済新聞(2010年4月3日)
テレビの脚本の利活用という大きな観点から
日本脚本アーカイブズをはじめ関係各所の現状と意見、
今後の展望に言及している。

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読売新聞(2010年11月11日 夕刊)
文化アーカイブズ活性化シンポジウムの提起する
問題を論じ、脚本を保存管理するむずかしさを
伝えている
毎日新聞(2010年4月23日 夕刊)
日本脚本アーカイブズで進む
脚本の収集保存を評価し、5年の歩みを伝える

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東京人(2010年11月号)
東京におけるさまざまなアーカイブを探訪したルポ。アカデミックなにおいが強い中で脚本アーカイブズが異彩を
放っている。そして各分野で混迷の日本。「進むべき道を探るには、自らの足跡をたどることから始めるしかない。
各所で動き始めたアーカイブズは、それを象徴しているかのようである」と結んでいる。
このほか、サンデー毎日(2010年4月4日号)は江戸東京博物館での企画展「ザ・脚本」
の魅力を紹介。読売新聞(同 5月4日)は平成21年度版の報告書に掲載のオーラルヒス
トリーの放送史的な面白さを高く評価している。また赤旗日曜版(2011年1月16日)
は「かつては廃棄⁉ 日本脚本はどこへ」という見出しで「文化アーカイブズ活性化シン
ポジウム」のその後に注目している。

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◉も く じ◉
■巻頭写真ダイジェスト・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
■新聞掲載ラインナップ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7
■「思い出」の発掘作業  市川森一(日本放送作家協会会長)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
■日本放送作家協会理事長挨拶  秋元 康・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14
■日本脚本アーカイブズ委員長挨拶  香取俊介・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
■テレビ番組アーカイブ研究の現在  石田英敬(東京大学大学院情報学環 学環長)・・・・・・・・・17
■「日本脚本アーカイブズ設立の意義」  松岡資明(日本経済新聞社文化部編集委員)・・・・・・・・20
■紙資料保存のこれから  佐野千絵 (独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所
保存修復科学センター保存科学研究室長)・・・・・・・・・・・・22
■報 告 文化アーカイブズ活性化シンポジウム
     『文化はめぐる――脚本アーカイブズとデジタル化』 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
■収集管理部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27
■脚本展報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45
■研究調査部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・59
■アーカイブズ概論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・97
■書誌データ・サンプル公開・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・101
■インターンシップ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・103
■放送映画文化講座「てら」の報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・104
■広報活動:「カフェ・ラ・テ」 HP メルマガ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・105
■年 表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・108
■組織図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・111

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「思い出」の発掘作業
市 川 森 一(日本放送作家協会会長)
芸術祭の受賞作にも輝くような優れたドラマを数々残した某脚本家が、ある日突然身ま
かり、その一作を観直したくなってテレビ局にビデオの貸し出しを頼んだところ、80 年
代前半に放映されたその作品は収録ビデオテープの再使用のため放映完了と同時に消去し
てしまったとの返事。ならば、せめて脚本なり読んでみたいと思って遺族に脚本の貸し出
しを頼んでみると、返ってきたのが、「あの人は、放送が終わると台本はいつも捨ててい
ました」という言葉だった。
自分の作品のみならず、自分という人間がこの世に存在した足跡をすべて消し去ってし
まいたいというこの種の発言は、実は、テレビ業界の中ではよく耳にするフレーズで、似
たような職種の小説家とか演劇人とか、あるいは音楽業界でもほとんど聞くことがない。
物事を創造する仕事に携わる者なら、むしろ、共感者を求めて少しでも長く自己の創作
物が持続していくことを望むのが通常の意識である。
なぜ、テレビに関わるクリエーターだけが、仕事の痕跡を残したくないと思うのか。そ
れは、おそらく当人の意思より先に、日本の放送事業者たちが、初期のテレビ機能の「一
過性」を避け難い宿命として受け入れ、テレビ番組には過去も未来もなく、たったいま流
れ去る時間の中にしか存在し得ない電波メディアであることを前提として、「残す」とい
う概念を捨て去ったことに帰因するのではないか。そこに関わる放送作家たちも、自分が
苦労して書いた脚本が、ようやく映像化された次の瞬間には泡のように消えていく光景と
向き合いながら、その状況を是認するために、「残さないことこそがテレビなのだ」と自
らに言い聞かせるよりほかになかったのではないか。
そのメディアも 50 年を経て、どんな番組もビデオやDVDで「残せる」ようになり、
文化アーカイブズの自覚が芽生え、国家も、軍事力やGNPなどのハード・パワー以上に、
文化、芸術、観光のソフト・パワーがその国の「国力」の尺度になることに気づき始めた。
ここに至ってテレビもようやく、過去の番組が価値あるテレビ資産として認知される時代
を迎えたのだ。
テレビ資産といえるものは、大きく二つに分けられる。「映像」と「台本」である。こ
のうち映像の収集作業は、NHKアーカイブスや放送ライブラリーがすでに活発な活動を

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始めていた。「台本」の収集・保存に関してはテレビ局がその任に当たってくれているも
のとばかり思い込んでいたのだが、その認識は甘かった。長年にわたってビデオテープ代
の節約のために、それの何百倍の経費をかけて作った映像を消し去ってきた制作現場で、
映像の設計図である台本が保存されているはずはなかった。
見渡せば、先輩脚本家たちの脚本の山は、その人の死と共にゴミの山として遺族に捨て
られている状況があった。
――なんとかしなければ。
テレビ開局以来、散逸に任せていたドラマ台本の収集作業を宣言はしたものの、日本放
送作家協会にはその資金もなく、保存、管理する場所も人手もなく、あるのは、「先輩作
家たちの脚本を後世に残したい」という同業者としての使命感だけだった。
幸い、文化庁が私たちの脚本アーカイブズ活動に理解を示して下さり、支援金を頂ける
体勢ができた。足立区からは協働事業として準備室や保管場所の提供をして頂いた。J
K A からの支援も有り難かった。これらの資金で、各地で「脚本展」を催し、毎回、予
想を超える反響にこちらが驚かされた。準備室の委員たちは講師を招いての研究会を重ね
アーカイブズへのさまざまな知識を体得した。その中の数人はアメリカやヨーロッパ、中
国のアーカイブ施設の視察に出向き、欧米のテレビ資産への意識の高さを再認識させられ、
その事は毎年の文化庁への報告書に明示してきた。そして、いよいよ今年度から本格的な
脚本の収集活動に入るべく陣容も新たに再始動の決意を期しているところである。一方で
は、昨年度から放送文化基金を得て、東大大学院情報学環との共同研究のための「放送脚
本デジタル化研究会」を設置し、アーカイブズ運動を軸にした他の団体組織との連帯を促
進している。当研究会では、昨年 11 月に足立区の東京芸術センターにおいて、「文化アー
カイブズ活性化シンポジウム」を開催し、ここには、長尾真国立国会図書館長、石田英敬
東大大学院情報学環学環長、吉見俊哉情報学環教授、竹本幹夫早稲田大学演劇博物館館長、
大路幹生NHK放送総局ライツ・アーカイブスセンター長、金泳徳韓国コンテンツ振興院
日本事務所所長といった専門家に、テレビ界からは今野勉さん、山田太一さんにご参加を
仰ぎ、脚本アーカイブズへの応援とさらにこの活動のあるべき指標をお示し頂いた。
テレビ文化は、恐ろしいほど多くの人々の「思い出」に根ざしている。過去のテレビド
ラマ、あるいはその時代のバラエティ番組等は、その人が生きた時代の証言者である。テ
レビ時代においては、一本のドラマがその人の青春を甦らせる呼び水にもなる。現代人は
テレビと共に人生を歩んできた。その意味において、脚本アーカイブズ活動は、多くの人々
の人生をより豊かなものにする「思い出」の発掘作業であるともいえる。時代と個人との
絆の役割も果たしていく脚本アーカイブズ運動にさらなるご支援を乞う次第である。

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日本放送作家協会理事長挨拶
                秋 元  康
テレビ放送がはじまって既に 58 年になります。当初「電気紙芝居」などと揶揄された
そうですが、テレビという斬新なメディアは日本の高度経済成長とともに発展し、文化や
教育だけでなく、経済や政治にまで多大な影響を与えてきました。良くも悪くも「戦後日
本」を象徴するものといっていいかと思います。
それほど大きな影響を与えてきたテレビですが、放送開始から 20 年間ほどの番組の大
半は消えてなくなっています。テレビは当初生放送であり、録画装置ができてからも番組
を保存するという考えがテレビ局になかったためで、今から思うと大変貴重な番組が消え
てしまいました。
消えてしまった番組がどのようなものであったか。その内容は今では脚本 ・ 台本によっ
て知るしかありません。大変重要な資料的価値をもつ脚本・台本ですが、日本にはこれを
組織的に収集する組織がないため、テレビ創生期の多くの脚本 ・ 台本が現在、消失の危機
にあります。
テレビの隆盛とともに歩んできた社団法人日本放送作家協会では、2004 年より日本脚
本アーカイブズ特別委員会を設置し、文化庁やNHK、民放連、さらに東京都足立区のご
支援のもと、散逸の危機にある脚本 ・ 台本を中心に、これを収集し保存・管理してきました。
おかげさまで、現在4万冊を超える貴重な脚本・台本を収集し保存することができました。
一方、脚本展やシンポジウム等を催した結果、我が国でも脚本をアーカイブ(収集・保存)
することの重要性が広く知られるようになりました。
本年7月、地上波テレビは地デジに移行します。インターネットという新しいメディア
が生まれたこともあって、今後「放送」という概念も大きく変わっていくかと思います。  
ボーダレス化も急速に進展しており、ソフト制作においても今後は国内だけに目を向けて
いては世界の流れに取り残されます。諸外国ではいち早く国あるいは関係組織が脚本アー
カイブズを設立しつつあります。
より面白く、より楽しく、そして、よりためになるコンテンツを作る上で、脚本・台本
が重要であることは、いくら強調してもしすぎることはありません。

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昨年秋、日本脚本アーカイブズと東京大学大学院情報学環が共催で「文化アーカイブズ
活性化シンポジウム」を開催しました。ここでの基本テーマは「文化はめぐる」。これまで「ゴ
ミ」として廃棄されたものの中に、利活用できる文化が見つかるのではないか、「捨て去っ
たもの」の中にも価値があるはずで、それを新しい創作、制作に役立てることが大事であ
る、日本はこの点で遅れているとの提言が識者からなされました。
これからの日本を支える柱のひとつは「コンテンツ産業」です。長い目で見れば、「文
化の土壌」の涵養に資する脚本アーカイブズは、コンテンツ産業の隆盛にも必ず貢献する
はずです。
脚本アーカイブズの作業は大変地味で、しかも膨大な経費がかかります。従って、そこ
から直接利益をはじき出すことはむずかしく、民間が担うには困難な点が多々あります。
50 年 100 年後のことを考えると、国家的な機関が引き受けるのがもっともふさわしいか
と考えます。6年近い調査研究を通じて国家的な機関への移行が現実的であるという判断
のもと、日本放送作家協会では今後はその方向で更に調査研究を続けていく覚悟です。 
今後とも脚本アーカイブズへの一層のご理解、ご協力をお願い申し上げます。

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日本脚本アーカイブズ 委員長挨拶
        香 取 俊 介
平成 23 年7月、地上波テレビは「地デジ」へと変わります。インターネットなどの新
しいメディアと「旧メディア」であるテレビとが、どう折り合っていけるか。今後の大き
な課題になるかと思います。
時代の経緯とともにシステムも変わっていく。それが人の世の常ですが、一方で変わら
ないこと、変えてはいけないことも多々あります。急激にものや価値観等が変化する時代
であるからこそ、過去の体験、記憶を大事に保存し、これを後世に伝えていく。換言すれ
ば「アーカイブ」ですが、これが今ほど必要なときはありません。
われわれは作品の「楽譜」「設計図」でもある脚本・台本を「文化資源」と位置づけ、従来「ゴ
ミ」として廃棄されてきたものを、「映像・音声文化を育む土壌」であるとして、これを
組織的に収集保存することに努めてきました。
これにいち早く賛同してくださった東京都足立区と共に「協働事業」として日本脚本アー
カイブズ準備室を足立区内に設けてから早くも6年余。その間、文化庁はじめNHKや民
放連その他の組織から助成・支援を受けて「調査・研究」を続けてきました。
おかげさまで、ここに6冊目にあたる平成 22 年度の「日本脚本アーカイブズ報告書」
を送り出すことができました。
脚本展やシンポジウム、研究会などを通じて、さまざまなメディアに取り上げていただ
いたおかげで、「アーカイブ」という言葉も当初とは比較にならないくらい一般に広まっ
てきています。
機運は高まっていると感じていますが、脚本アーカイブズはまだ「序走」の範囲を出て
いません。今後、当初からの課題であった「ナショナルな組織による運営」の方向に向け
て委員一同、気を引き締めて頑張りたく思います。今後とも一層のご理解、ご協力をお願
いいたします。

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テレビ番組アーカイブ研究の現在
石 田 英 敬(東京大学大学院情報学環 学環長)
Ⱚテレビ研究を変えるIT技術
東京大学の私の研究室では 10 年ほど前から、IT を使ったテレビ番組分析の研究を行っ
てきた。テレビは長い間、「フローなメディア」と形容され、放送と同時に「流れて」消
えてしまう、「書きとめることができない」メディアであるとされていた。放送されると
同時に消えてしまうのだから、検証することもできない。したがって研究の進まない対象
だったのである。しかし近年では、テレビ番組を手軽にコンピュータに取り込むことがで
きる。編集用のソフトウェアなどを使えば1コマずつ客観的に分析することさえできるよ
うになった。これは、テレビ番組の研究にとっては大きなチャンスである。IT の「テク
ノロジーの文字」を使って番組を書きとり、いわば「テキスト」を分析するようにテレビ
の「メディアテキスト」を分析することができるようになってきたことを意味するからだ。
私の研究室では、共同研究を行っている仏ポンピドゥーセンターの IRI 研究所が開発し
た、映像分析のための Lignes de temps(タイムライン)というソフトウェアを使ってい
る 。ノンリニアの映像編集ソフトを逆用したようなもので、番組映像のカット割りを自
動的に検出し、そこにコメントを付与したり、キーワードを振ったり、さまざまな映像や
語りのレベルを選り分けて分析していくことができる。
IT 技術は、テレビ番組を書き取り、分析し、検証する装置として非常に有効であるこ
とが分かってきたのである。これはテレビを「クリティーク」(批評)することが初めて
可能になったとさえいえる。
Ⱚ「リモコン」から「検索サーチ」へ
現在放送されているテレビ番組を録画し、番組データをアーカイブ化していくことは比
較的容易だ。私の研究室でも、過去2週間のテレビの全放送をストックしている。これら
によって、現在におけるテレビ番組の「共時的な」研究は可能だ。
しかし、本屋の店頭に並んでいる書籍ばかりを見ていたのでは文学とは何かが分からな
いように、どのような「文化的成層」と「記憶」に支えられて番組が生み出され放送され
続けているのかを知らないかぎり、テレビ文化についての理解は十分なものとなりえない。
こちらの方を、「通時的な」研究と呼ぶならば、テレビ放送局のアーカイブと結びつくこ

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とでこれの研究を実現させたいというのがチャレンジである。
折しも、テレビのデジタル化とアーカイブ配信が世界的に開始される時代に私たちはさ
しかかっており、テレビ自身もフロー型のメディアからストック型(アーカイブ型)のメ
ディアへと移行しつつある。テレビの視聴経験自体が「フローなメディアの視聴」でなく
「アーカイブ型視聴」へと動いていく時代になってきたのである。
私の研究室が NHK と開始した共同研究は、アーカイブを研究に開くことが「テレビに
とって何を教えるのか」という「アーカイブ研究」としての意義と、テレビがアーカイブ
型視聴へと移行していくときに「人々は何を視るようになるのか」という「アーカイブ型
視聴の研究」という2つのベクトルを同時に持つことになった。
そのときに重要になるのは、検索の問題だと私は考える。テレビがリモコンで見られて
いた時代から、検索を通して見られていく時代に移る。オンデマンド配信のような「アー
カイブ型視聴」が一般化すると、「どんな検索原理にもとづいてアーカイブを視聴するか」
という「検索のためのメタデータ付与」が「どんな視聴経験を組織するか」に直結していく。
この「メタデータをめぐる抗争」が、現在の情報生活の最大のテーマでもある。現在の情
報生活では、過剰に氾濫する情報のなかから、確かな情報を選り分けるための、「知識」が、
情報生活の「質」に直結する。「検索」が重要になればなるほど、もともと「吟味」や「選
別」を意味する「クリティーク(批評)」の問題がクローズアップされてくるのである。
Ⱚ研究の3つの戦略
こうした現在のテレビ映像のおかれた状況のなかで、より良い番組アーカイブを作るた
めに、私たちが考えたのは次のような研究戦略だった。
第1は、デジタル化したテレビ・アーカイブを検索するという理想状態を想定したうえ
で、テレビ文化に精通した知識を持つ「理想の案内人」を起用して、「テレビ的教養」の
DNA を抽出する。「理想の案内人」が検索する「痕跡」をトレースすることで、テレビ
文化の痕跡をとらえ返したいと考えた。
第2は、いま見ている任意の番組の「主題」が、視聴を成り立たせている文化的記憶の
「地平」にどのように結びついているのかを研究するという戦略。「テレビはどんな記憶に
サポートされて見られているのか」という「地平」の方を探ろうと考えた。人々の日常的
な「生活世界」がテレビを通した「生の記憶」とどうつながっているのか。テレビを見る
経験をサポートしている映像的記憶の研究である。
第3の戦略は、ノンリニアな読解。テレビ文化の記憶は、個々の番組単位で作られるわ
けではない。むしろ視聴の「地平」は、個々の番組の記憶を横断して成層している。さま
ざまな番組をノンリニアに横断しながら、どんな記憶の層からできているのかということ

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を探り出してみよう。番組をバラバラな断片に分解して、番組を横断して、番組がどのよ
うに相互に関連しているのか、テレビの作品史の成層に探りを入れる研究である。
Ⱚ研究の意義
こうしたテレビ番組アーカイブの研究にいったいどういう意味があるのだろうか。たと
えば YouTube のような動画投稿サイトも一種の自然発生的な映像アーカイブだと考える
ことはできる。あるいは、ニコニコ動画のような投稿サイトは、番組に短いコメントを次々
に書き込む、一種の集団的な「批評」の活動だとも考えられる。
私たちの研究室のテレビ研究や、放送局による番組アーカイブの編成と同時に、同じ
IT 革命を基盤として、一種の草の根の「アーカイブ」や「批評」が、大量に生まれつつ
あるわけである。
人びとの間に草の根の「図書館」が生まれ、大量の「読者」の「感想」が瞬時に寄せら
れるようになったに等しい状況であるともいえる。
そして、問題は、これからである。「読者の感想」だけからは、「文学批評」や「文学研究」は、
すぐには生まれない。そうした感想が、成熟し、作品の成り立ちを明らかにし、作品制作
の系譜を解明し、社会や世界の出来事との関係を明らかにしていったときに初めて、「作品」
が文化のなかに位置づくことになる。それと同じように、私の考えでは、映像文化もこれ
からは、今まで以上に、さまざまな「批評」が可能になり、それゆえに今まで以上に「成
熟」する可能性が生まれてくるはずだ。それは YouTube やニコ動とは対極的な文化のプ
ロセスかもしれないが、同じ技術の時代に属する文化の可能性である。
いままでフローなメディアであるがゆえに消えてしまっていた、番組を構成する要素や
作り手の仕事が、確かな手触りをもって、検証され、位置づけられていく時代がやってく
る予感があるのである。
放送がフローなメディアであることをやめる時代に、脚本アーカイブをつくることの意
義もまた、そのようなところにあるのだと私は考えている。

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「日本脚本アーカイブズ設立の意義」
松 岡 資 明(日本経済新聞社文化部編集委員)
人間の営みの記録。それがアーカイブズ(記録資料)である。対象はとてつもなく広く、
深い。まるで海である。残すには手間がかかり、人手もいる。お金もかかる。が、それで
も記録を残さなければならないのは、人間を考察するにはその「行跡」から実証的になさ
れるべきだからである。アーカイブズとは、つまり「証拠」である。
多種多様なアーカイブズが存在するなかで、脚本アーカイブズの意義は何かといえば、
その時代、その時代に人間がどう生きたかを知る手掛かりになるということではないだろ
うか。言葉を換えれば、ひとが時代とどうかかわったかを等身大でみるための手掛かりで
ある。昨年 11 月、東京都足立区の東京芸術センター・天空劇場で行われた「文化アーカ
イブズ活性化シンポジウム」の基調講演に立った山田太一氏は、「貧富に対する感覚、贅
沢感とか時代によってものすごく違いがありますね。それが全部その時代のホームドラマ
でも読めばパッとわかります」と語っている。
奥さんが亭主に向かって何かを問う言葉でも、「なさいます?」から「なさる?」、そし
て「する?」へと変わり、あとはもう聞きもしないで亭主を除外する。そういう面白さが
わかるという。言葉の端々に、時代が現れていると言ったら良いのかもしれない。恐らく、
女房に「なさいます?」などと聞かれた記憶のある亭主は皆無に近いであろう。しかし、
戦後間もない時代には、そんな言葉が普通に使われていたのだから、ひとの世の移ろいの
速さを感じざるを得ない。
ホームドラマを制作するのに、いくら凝ったセットをつくっても話す言葉がその時代に
合っていなければ、リアリティーは生まれない。移ろいの速度がますます加速する現代だ
からこそ、「今」をきちんと記録に残しておくことがこの先、ますます重要になる。
日本放送作家協会・日本脚本アーカイブズ特別委員会発行のパンフレットによれば、昭
和 28 年から平成 15 年までの間につくられたテレビ脚本・台本は、1番組を1冊と考えて
計 234 万5千冊と推定されるという。また 80 年前から現在までのラジオ番組を含めると
2倍以上の 500 万冊はあるとの推定である。これに対し、脚本アーカイブズが所蔵してい
る脚本・台本は約4万冊。1%に満たない。
アーカイブズを取材してきた一人として脚本アーカイブズのこれまでの活動を見たとき、
「よく頑張っているなあ」と正直、思う。足立区の支援で「学びピア 21」に脚本アーカイ

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ブズの準備室ができてから5年余。その間に、国内にある数多くの博物館、資料館は言う
に及ばず、アメリカやフランス、イギリス、韓国、中国に取材調査に赴き、脚本家、俳優、
声優にオーラルヒストリー(口述記録)の聞き取りを行う。東大大学院情報学環との共同
研究にも踏み出すなど、活発な動きはさすがプロの作家集団だと感服した次第である。
とはいえ、喜んでもいられない。2008 年1月に開館した韓国放送台本デジタルライブ
ラリーは、国から 10 億ウォンの資金援助を受け、約 1300 人の脚本家が制作した脚本5万
7000 冊のうち、約 1200 人、1万 3000 冊(08 年 11 月現在)がアーカイブ化されていると
いう。スタートしたのは日本より遅かったが、瞬く間に日本を追い抜いていった。
また目をヨーロッパに転ずれば、世界最大のデジタル映像アーカイブとしての INA(フ
ランス国立視聴覚研究所)がある。230 万時間分の視聴覚資料、350 万点の資料、150 万
点の写真(「世界最大デジタル映像アーカイブ INA」)という桁違いの資料を所蔵するアー
カイブ・センターである。専門職のアーキビストの養成機関としての機能もあり、世界的
なデジタル・コンテンツのセンターとなりつつある。
日本はアニメーションなどで文化発信を掲げてはいるものの、フランス、韓国などにみ
られるような、国を挙げての映像コンテンツ振興策では完全に後れをとっている。文字情
報のアーカイブズは今年4月の公文書管理法の施行でやっと周回遅れのスタートを切ろう
としているところだが、画像、音声など文字以外の記録資料については2周後れ、3周後
れが現実である。
インターネットの強力な情報伝播力によって、独裁政権がわずか1カ月で崩壊する世界
の現実を前にして、情報に対する感覚が、日本はあまりに鈍い。政治家をはじめとして内
向きの思考に凝り固まっているからだ。このままでは、文化発信による国おこしなど単な
るスローガンで終わってしまう。物質的なものだけでなく、文化や精神的なものを含めて
豊かな国であろうとするならば、国が率先して「知」を保存し、伝えていく体制を整備す
る必要がある。脚本アーカイブズはその重要な柱のひとつとなるであろう。

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紙資料保存のこれから
佐 野 千 絵
(独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所
保存修復科学センター保存科学研究室長)
脚本・台本は一時的に鑑賞された無形文化遺産の記録媒体である以上に、日本の文化史・
社会史の中で新聞に並ぶ、価値観の伝播や受容に関わる重要なアーカイブである。
社会の発展に貢献するために、公共財であるアーカイブを収集、記録、保存、研究、展
示する機関としてアーカイブズを保存活用する館は、収集→整理・記録→保存→リスト公
開・調査研究のための閲覧対応→普及などの諸事業を適正に進めることになる。
保存について検討すると、厳選された材料で多数の製造工程を経て製作される良質の和
紙が著しく長寿命なのに対して、アーカイブと総称される紙製資料を中心とした資料群は
工業製品が多く、歴史文書と比較しても材料面から長寿命は期待しにくい。寿命の短いも
のほどより良い環境で保管し、形態変化を抑制し、価値を保存するためにコストを投じる
必要がある。
資料を保存するとは、資料の形態を保存し、価値を保存することである。製作技術や収
納方法など、資料に付帯する情報も保存対象である。保存環境の設定において、資料の材
料・技術・構造について十分に理解することがもっとも重要である。
資料の保存環境整備にあたって、まず防災、防犯、安全な取扱いの状況を検討し、その
後に狭義の保存環境(温度・湿度、照明、空気環境の保全、生物被害の防止)整備につい
て検討する、という順番で取り組むことが重要である。火災・水害・地震などの災害、盗
難やヴァンダリズムなどの毀損、輸送・梱包など取扱い不備による損壊などは、資料を一
瞬にして失う。まずは建物の耐震診断を受けて保存施設として十分な強度があるかを確認
し、防犯用に必要な鍵を備える。文書資料の特徴は一点ごとの資料価値がつけづらいこと
で、文書総体を傷めないための活用上のルールづくりが重要である。
保管にあたっては、特定の箇所に圧力がかかり続けることのないように、さまざまなス
トレスを緩和できているかを常に確認し、改善していく努力をされたい。特に、ノドを開
口して写真を撮ったりコピーを作るなど、紙資料に負担がかかる作業については、デジタ
ルデータやマイクロフィルムの提供などにとどめるべきである。
狭義の保存環境の中では、一番目に生物被害の防止に着手する。生物被害の防止は、害
虫の全滅を目指すのではなく、あらゆる手段を効率的に用いて化学薬剤にのみ頼らず段階
的に生物被害を抑制する手法をお勧めする。虫を発見したらすぐにガス燻蒸するのではな
く、害虫の種類、食害対象、生息範囲などを見極め、まず低酸素濃度処理法や低温処理法、
二酸化炭素処理法など化学薬剤を使用しない方法を検討し、対応が難しい場合のみ、適し

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23
た薬剤で必要な範囲を処理する。ガス燻蒸は短期間で害虫を殺滅できる有益な方法である
が、紙製資料は吸着能が高いため薬剤残留量が多く、しかも閲覧など一般公衆~専門家が
手元で利用するアーカイブについては、公衆衛生の観点からお勧めできない。資料のガス
燻蒸には公益財団法人文化財虫害研究所の認定薬剤を使用し、指定の用量・用法を守るこ
とが肝要である。
紙製資料に対して次に影響のあるリスクは、紙の固着を呼びカビ繁殖を促す高湿度環境
である。過乾燥については、資料の取り扱いには問題を生じるが、ストレスのかからない
状態で過乾燥状態になっても、特に問題はない。物量が多くクリーニングが間に合わない
紙製資料に対しては、相対湿度は 40 ~ 60% RH に収まるよう管理することをお勧めする。
室内温度設定については外界との差が大きいと、冷気と暖気のぶつかる場所で結露や高
湿度が生じて、不具合の原因となる。たとえば夏には、湿った高温の外気が屋内の冷房と
ぶつかり結露してカビや害虫繁殖の原因になる。8時間空調のように温度が極端に変わる
ような条件は避け、室内に温度むらが生じず、温度変化が緩やかになるよう配慮する。
大気汚染の影響に関しては、セルロース素材は車の排気ガスに含まれる窒素酸化物を速
やかに吸着し室内大気を清浄化するが、セルロースそのものは脆化してしまう。紙製資料
は紙箱に入れて保管するのが安全である。収納用品はもっとも資料の傍で使用するもので
あり、その劣化で生じた分解ガスで資料が促進劣化されることのないよう、中性~アルカ
リ性に調整された中性紙素材を利用すべきである。塵埃は化学物質を吸着し、また湿気を
誘引する媒体として働くため、清掃除去することが必要である。詳細は成書1,2)を参
照されたい。
照明は、紫外線を除去し、赤外線を低減したものを選択するのが望ましい。可視光線量
の制御も必要であるが、調査や作業を安全に進める上で必要な光量を確保する。
資料保存に適した建物の基本要件は以下のとおりである。①浸水しない立地、②地震で
崩れない建物、③漏水のない建物、④防火・防犯体制、⑤十分な断熱性能がある屋根・壁
で室内に温度むらを生じない、⑥資料を安全に取り扱える十分なスペースがある、⑦やや
爽やかで快適な温度湿度環境、⑧温度湿度の変化はゆるやかになるよう、建築的に熱容量
の大きい建物とするか空調で制御管理する、⑨ゆるやかな気流、⑩清浄な空気、⑪見やす
い照明、⑫害虫に侵入されにくい開口部を作り衛生管理する。
アーカイブズの寿命は、制作段階から長寿命を期待されて作られていないため、長期間
を見込めない。日本脚本アーカイブズの保存環境設計は今後の努力が必要な状態にあり、
紙資料保存に詳しい有識者の協力を得て基礎固めを急ぐべき状況にある。資料は集まった
が、道のりはまだ遠く長い。
<参考文献>
1)三浦定俊・佐野千絵・木川りか、『資料保存環境学』、朝倉書店、(2004)
2)佐野千絵・呂俊民・吉田直人・三浦定俊、『博物館資料保存論―資料と空気汚染』、みみずく舎、
(2010)

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Ⱚ文化庁の構想がきっかけで実現
「文化アーカイブズ活性化」構想とは、平成 22
年3月、文化庁が「文化アーカイブズ」について
関係団体等からヒアリングを始めたことと関連し
ている。書籍、雑誌、レコード類は国会図書館の「納
本制度」のもと、網羅的に収集保存管理され公開
されているが、放送脚本を始め音楽関係資料、映
画、写真、メディア芸術関係、その他の大衆芸能
等の分野については、この制度から外されてきた。
これらの中には大変貴重な「文化資源」があるは
ずで、欧米諸国では「文化資源」のアーカイブ化
が進んでいる。
文化庁のこのヒアリング開始を受けて、日本脚
本アーカイブズでは、「協働事業」の相手方であ
る足立区政策経営部とともに「文化アーカイブズ
活性化」についての具体的試みに動き出した。
一方、平成 22 年度、日本脚本アーカイブズと
東京大学大学院情報学環の吉見俊哉教授の研究室
は「放送脚本デジタル化研究会」(任意団体)を
東大内に設立し、「放送文化基金」の助成を受け、
調査研究していくことが決まった。その柱の1つ
として、「文化アーカイブズ活性化」の機能と役
割などについて研究会を実施し、その意味などに
ついて調査研究を深め、その意義について理論的
裏付けを示すことを目的として、シンポジウムを
実施することとした。
Ⱚ文化アーカイブズ活性化とは?
新たな文化芸術の創造に貢献します!
平成 22 年 11 月2日、足立区内の東京芸術セン
ター天空劇場にて「文化アーカイブズ活性化シン
ポジウム 『文化はめぐる――脚本アーカイブズ
とデジタル化』」と題し開催した。
85 年にわたるラジオ・メディア。あと数年で
還暦を迎えるテレビ・メディアが培ってきた「文
化」を、アーカイブズとして集め、誰もが見るこ
とができる「しくみ」を作ることで、新たな文化
芸術の創造に貢献する。
資料としての収集・保存体制から抜け落ちてい
た脚本などを”文化関係資料“という大きな枠組
みで、アーカイブズとして収集・保存し、積極的
に活用していこうという動きが生まれている。
実際に楽譜(手稿譜)・マンガ・アニメなどでは、
具体的な取り組みが始まっている。その枠組みに
おいて、収集・保存体制から見落とされてきた脚
本・台本(シナリオ)に関しても、資料的価値に
注目し、国レベルでの収集・保存・活用体制を構
築する必要がある。
今回のシンポジウムでは、映像テレビ文化、及
び文化関係資料アーカイブズの重要性と、その枠
組みの中における脚本・台本(シナリオ)アーカ
イブズという論点から、問題を掘り下げていった。
午後1時より6時までの式次第を簡単に記す。
開会の挨拶
近藤やよい
足立区長
市川森一
日本放送作家協会会長
基調講演
山田太一
脚本家
第1部 パネルディスカッション
    「テレビ文化」と「Web文化」
コーディネーター 石田英敬
東京大学大学院情報学環 学環長 
パネリスト
金 泳徳
韓国コンテンツ振興院 日本事務所所長
今野 勉
演出家 テレビマンユニオン取締役
第2部 パネルディスカッション
    文化アーカイブズとデジタル化の意味および今後
コーディネーター 吉見俊哉
東京大学大学院情報学環 教授
パネリスト
長尾 真
国立国会図書館長
竹本幹夫
早稲田大学演劇博物館館長
大路幹生
NHK放送総局
ライツ・アーカイブスセンター長
閉会の挨拶
香取俊介
日本放送作家協会 常務理事
報告
文化アーカイブズ活性化シンポジウム
『文化はめぐる――脚本アーカイブズとデジタル化』

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市川森一会長は、文化アーカイブズ運動を「思
い出を大切にする。思い出の人々を大切にすると
いうことは、人間の存続の根幹にも関わること。
世界を文化で平和にしていく。人類はどこへ向
かっていくのか」という素敵な未来へのメッセー
ジに言い換えた。リアルな感覚として、アーカイ
ブズというのは、収集・保存という即物的な印象
があるけれど、人類の愛の歴史を繋ぎ伝えていく
行為と気づくと、何か優しい気持ちになれた。
脚本と人間愛の関係を違った形で教えてくれた
のは、山田太一さん。作品に向き合うこだわりに
脚本家としての心構えが伝わってきた。脚本が
持っている価値を次の世代へ残していく意味とは
何か。それは、若い脚本家達への叱咤激励でもあっ
た。脚本家自身が描きたい作品を書くことを忘れ
てはいけないということ。自分の作品に愛着と責
任を持てと。遺して意味ある作品を書けと。その
上でアーカイブズというのは、民俗学的に歴史学
的に文化資料としての価値があることを語ってく
れた。
第1部のパネルディスカッションでは、文化リ
サイクルの観点から、その可能性と問題点を探る
議論が繰り広げられた。東大大学院情報学環の石
田英敬学環長は「それぞれの番組のDNAを取り
出して、蓄積されていくと番組を作ることのノウ
ハウとしていろいろなことに役に立つ。どういう
番組が、どのような視聴者に受け入れられたかを
解析することで、新しい番組作りにも生かせる。
資料を備えることが、その国の映像文化を下支え
することになる」と訴えた。
韓国コンテンツ振興院日本事務所の金泳徳所長
は、テレビ、映像文化は文化であると同時に産業
でもあることを説き、韓国の文化アーカイブズの
現状を伝えつつ「日本も文化的な資産である放送
映像アーカイブ、脚本アーカイブというものを制
度的な整備の上で残して欲しい」と語った。 
演出家の今野勉さんは「映像作品を作るときの
土台として脚本が優れていたから最終的な映像が
できた。その元になった脚本との関係が見える形
で保存されなければならない。一日も早くアーカ
イブ化を進めてほしい」と訴えた。
第2部のパネルディスカッションでは、「文化
リサイクル」の発案者である東大大学院情報学環
の吉見俊哉教授と、3人の日本の公的なアーカイ
ブ機関を代表される方々とで、脚本やテレビの文
化財をどのように保全していくかについて話し合
われた。
NHK放送総局ライツ・アーカイブスセンター
の大路幹生センター長は、外国との連携に触れ「デ
ジタルアーカイブの国際標準」が求められている
ことを語られた。
早稲田大学演劇博物館の竹本幹夫館長は「放送
というのは国家の広報の基本ですから、放送コン
テンツの保存という方向に持っていって、そこに
台本との不可分性という主張を行なって、台本も
一緒に保存していくというのが、手順としてはい
い」と発言された。
国立国会図書館の長尾真館長は「映像と脚本、
双方をデジタル化し、両者をペアにして検索でき
る電子図書館という可能性もある」と問題提起さ
れ、さらに「国会図書館などが努力して、日本の
文化財全般について保存していく」と力強く意見
を述べられた。
吉見教授からは「テレビ映像や記録映画のデジ
タル技術が浸透していく中で、さまざまなメディ
ア文化を社会として保存し、後世に伝えていくこ
とは重要である」と。
最後に香取俊介委員長が「リサイクルすること
により文化が豊かになっていく。文化はめぐるん
です」と中身の濃いシンポジウムを締めくくった。
今回のシンポジウムが「文化アーカイブズ」を
成し遂げる貴重なきっかけとなれば幸いである。
また、このシンポジウムの採録をブックレット
としても作成した。
(三原 治)

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■総  論
「脚本・台本が教えてくれるアーカイブズの道」 ・・・・・・・29
■保  存
文化財としての脚本保存 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32
■管  理
台本の修復作業 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34
台本の虫干し ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42
■見学取材
国立国会図書館 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・36
財団法人松竹大谷図書館 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・38
横浜放送ライブラリー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40
■イベント参加 あだちサークルフェア ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42
■展  望
「収集・保存の一冊と一枚」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43
「これからも地道な作業を」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・44
収集管理部

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29
今年度は二十数人の方から脚本・台本・資料を
約 7500 冊ご寄贈いただいた(平成 23 年 2 月 20
日現在)。
今年の特徴として、放送作家およびその御遺族
から数百ないし千数百冊という大量の寄贈をして
いただいたことである。もちろん、役者さんから
もいただいた。かつて何年か前に寄贈していただ
いた方から再び脚本・台本が出て来たので寄贈し
ていただいたものもある。これらの大量寄贈本を
目の当たりにして、今までより一層本が訴えてい
る声に耳を傾けなければならないと思った。昭和
30 年代、40 年代の劣化の進んだ脚本・台本が大
量に寄贈されたことで、私たちの知識をより深め
る必要を痛感。取材、見学、研究会、実習と、精
力的に活動を行った。
まず初めに、台本の錆びたホッチキスを外すこ
とはわかっているが、その後の手入れは? 私た
ちは脚本・台本を長い間、丁寧に修復し保存して
いるNHK放送博物館の学芸員・磯崎咲美氏に和
綴じの方法と破れた箇所や酸性化してボロボロに
なった紙の最小限度の裏打ちの方法を学んだ。(詳
細は「台本の修復作業」の項参照)
次に、今までは保存の方法について、袋は? 
箱は? といった観点から多く研究を進めてきた
が、本当はどういう条件の中で保存すれば良いの
かを考えた。かつて取材して来た英国や仏国とは
気象条件も文化への思い入れも法律も違うわけだ
から、改めて総合的に研究する必要があるという
思いで、脚本・台本にとって安全な保存環境とは
どういうものなのか、東京文化財研究所・佐野千
絵氏を招いて集中研究会を行った。
温度と湿度の問題、光と劣化、空気汚染、特に
風が運んで来る塩の問題、生物被害の防止、輸送
過程の振動と衝撃、火災、地震、水害等について
改めて学んだ。特に水害については、ハザードマッ
プによれば足立区は5階以上の建物に置いておく
ことが望ましいという。日本脚本アーカイブズに
寄贈された脚本・台本は、整理した後、書誌情報
を入力し、箱詰めして、中央図書館の閉架書庫と、
梅田図書館の倉庫に置いてあるが、いずれも1階
である。温度と湿度の問題については、中央図書
館は夏は 26 度、冬は 22 度に設定、湿度は設定し
ていない。梅田図書館の方は、温度・湿度共に設
定はされていないということで、保存における最
低条件が満たされていないことは非常に残念であ
る。(「文化財としての脚本保存」の項)
   
納本制度に基づいて、日本国内で出版された全
ての出版物を収集保存する国立国会図書館の取材
見学を行った。
古い刊行物は2年前からマイクロフィルムにか
わってデジタル化を進めているが、現物保存の書
籍は出来るだけ元の状態を残すことを心がけてい
るという。
NHK放送博物館の学芸員・磯崎咲美氏を招い
て研究会をした時にも同じようなことを聞かされ
ている。書籍の補修状況等も詳しく見学させてい
ただいた。(「国立国会図書館見学・取材報告」の項)
横浜放送ライブラリーは、放送番組専門のアー
カイブ施設である。2000 年に導入した番組視聴
システムの老朽化のため、2010 年にリニューア
ルした。
最新の VOD(ビデオ・オン・デマンド)シス
テムを採用している。日本脚本アーカイブズでも
デジタル化の研究を進めているが、まずは劣化し
ているラジオ・テレビの創世期の脚本・台本のデ
脚本・台本が教えてくれるアーカイブズの道

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ジタル化が急がれる。同時にデジタル保存の限界
を知り、マイクロフィルム(最近の物は PET 基材)
は 100 年は保つと言われているので、そちらへの
移行も考えなければならないだろう。(「横浜放送
ライブラリー」の項)
財団法人 松竹大谷図書館には歌舞伎・演劇・
映像分野の資料が 39 万 5000 点余あるが、その中
にラジオ・テレビ・映画の台本は2万2349点。収集・
所蔵して来た資料は一般に公開し、研究者や愛好
家の利用に供している。脚本・台本の保存・管理
と書誌情報の管理・分類方法を訪問取材した。現
在の分類方法に疑問を持っている日本脚本アーカ
イブズとしては、早い時期に分類方法を確立する
必要がある。(「財団法人 松竹大谷図書館」の項)
このように、この1年間に5ヶ所の機関及び関
係者の方々に指導を受け、又、取材をさせていた
だいて知識を深めると同時に、出来得る限りのこ
とを実行に移した。
竹内日出男氏(脚本家)が大量に寄贈して下さっ
た台本の虫干しをした。(「台本の虫干し」の項)
国立国会図書館資料保存課に取材見学した折に、
オランダ製のミュージアムクリーナー(優しい
タッチのほこり用吸引掃除機)が日本で手に入る
ことを教えていただき、さっそく購入した。
平成 20 年にパリのシネマテークフランセーズ 
フィルムライブラリーで聞いた時から、ぜひ備え
たいと思って探していたが、国産では見当たらな
かったものである。
故・横田弘行氏の夫人からは、すでに平成 17
年に寄贈していただいたが、この度、納戸の奥か
ら再び見つかったという連絡を受けた。大型ダン
ボール 20 箱に 1685 冊の脚本台本と資料が詰まっ
て送られてきた。しかも昭和 34 年から 38 年まで
の本が 596 冊。40 年以降が 1089 冊。脚本は酸性
化し、赤くなっており、天小口はほこりをかぶ
り、真っ黒になっていたが、ミュージアムクリー
ナーのブラシで丁寧にこすると見る間に明るい色
に変わってきた。写真記録を撮り、取りあえず昭
和 30 年代の本は中性紙の袋に詰めた。書誌情報
を入力するのは来年度になる。
故・津田幸於氏の夫人から 1460 冊の脚本の寄
贈を受けた。書庫にびっしり収まっていた脚本は
誰でもが知っている「水戸黄門」や「大岡越前」
「江戸を斬る」「荒野の素浪人」「七人の刑事」「あ
の橋の畔で」と時代劇から現代劇まで幅広く、お
茶の間を沸かした脚本の数々である。江戸の絵地
図をはじめ、細かく書きとめた構成表など、執筆
に入る前に丹念に練り、調べ上げていたノートな
ども多くあった。夫人は今回の寄贈に際し、「気
になっていた主人の台本のお嫁入り先が決まって
肩の荷が下りました」とおっしゃっていた。書誌
情報の入力は来年度になる。
中部支部 岸宏子氏から寄贈
岸宏子氏が支部長の芳賀倫子氏を通して脚本・
台本を 431 冊寄贈して下さった。母校の三重県上
野高校にも 400 冊寄贈されたそうだ。名古屋の放
送局を中心に、ラジオ・テレビドラマを多数執筆。
銀河テレビ小説「祈願満願」「もういちど春」を
はじめ、NHKラジオ「日曜名作座」など、昭和
40 年代から平成までの数々の脚本である。
大林丈史氏から思い出の詰まった脚本を
日本俳優連合前副事務長だった大林丈史氏か
ら 418 冊の脚本を寄贈していただいた。大河、サ
スペンス、ホームドラマ、連続テレビ小説、アニ
メ、ラジオドラマ、映画と、ジャンルを問わずに
多くの作品に出演している。脚本にはペンで印が
つけられていたり、書き込みがあったり、撮影予
定表がはさまれていたりと、仕事の記録と思い出
がいっぱい詰まった貴重なものである。

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横浜コンベンションビューロー
横浜放送ライブラリーを通して、503 冊のテレ
ビ、映画の脚本とポスターが寄贈された。横浜で
ロケをする際に、撮影地を相談したり許可を撮っ
たりする時に脚本を渡されていたとのことで、事
務所の縮小に伴い、寄贈していただけるとのお話
で、ありがたくいただいた。
竹内日出男氏から763冊(*)
竹内氏は昭和 32 年にNHKに入局し、以来 20
年間、ドラマ番組の演出と制作にあたってこられ
た。退職後は脚本家に転じ、「中学生日記」など
のテレビドラマや、「流れて遠き」等のラジオド
ラマ脚本を多数執筆。今回寄贈の脚本の中には、
演出・プロデューサーとして制作に関わった「北
の家族」(脚本・楠田芳子)や「新・坊ちゃん」(脚
本・市川森一)などのドラマ脚本も多数ある。そ
の中で目をひくのは、実在のスリの一団がモデル
になっていたことで放送中止となったドラマ「白
昼堂々」(原作・結城昌治)。放送されずとも、実
際に制作されていたことを示す貴重な資料である。
        
故・江利チエミさんの御遺族からチエミさんの
出演作の脚本・台本を 42 冊寄贈していただいた。
殺陣師 故・加賀麟太郎氏の御遺族からは 12 冊。
ドラマ制作会社カノックスからは 132 冊。服部浩
夫氏からは昭和 27 年のラジオドラマが、吉本圭
一郎氏からの 486 冊の中には昭和 29 年のラジオ
ドラマがあった。そして、紙面の都合で載せられ
なかった日本放送作家協会のみなさんや、多くの
方々に深く感謝の意を表します。
北海道の情報
11 月に北海道立文学館での脚本展を機会に、
以下の情報を得ることができた。
北海道立文学館には、脚本が 200 冊程度ある。
古書の買い入れや書籍の寄贈に際して、紛れ込ん
でいたもので、書誌情報等は取っていないため現
在手付かずの状態であるという。
北海道放送(HBC)では、脚本 ・ 台本は一切
保存していない。保存しているのは報道の映像の
みで、これは2年間保存しているという。
札幌テレビ放送(STⅤ)では、昭和 58 年か
ら27年間の脚本60冊を保存し、表紙の写真を撮っ
て記録している。メディアプロデューサー室専任
局長、林健嗣氏のご好意で、その写真を準備室に
送っていただいた。
来年度はさらなる脚本・台本の収集と、その本
たちの安全で安心な居心地の良い場所に保管でき
るように環境を整える必要がある。
3 月 11 日には東京芸術大学大学院美術研究科 
文化財保存学専攻保存科学教室 稲葉政満教授を
お招きして収集保存の知識を深める研究を行う。
1 月 5 日に逝去された大野靖子氏の御主人から、
脚本をアーカイブズに寄贈して下さるという連絡
をいただいている。3 月の半ば過ぎには、大野家
を訪問する予定である。
収集保存の作業には締め切り日がない。寄贈さ
れて来た脚本・台本に今してあげることは何なの
か。今後、ますます脚本・台本の声をしっかり聞
けるようにしたい。
(熊谷知津 :入山さと子)

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32
保存の注意点
脚本保存の基本となる注意点の指導も受けた。
Ⱚその1・防災
保存場所の防火体制を調べ、防災訓練も行った
方がよい。もちろん防犯体制も重要である。
水害については、現在の保管場所となっている
足立中央図書館、梅田図書館ともかなりの不安が
ある。ハザードマップを調べ、早急に対策を考え
る必要がある。
こうした指摘に、危機感が否応なく高まった。
Ⱚその2・温度湿度管理
理想的な温度湿度もあるが、まずは現状を知ら
なければならない。それにはデータロガーという
装置を使う。東京文化財研究所に申請すれば、デー
タロガーの貸し出しを受けられるという。
佐野氏は、日を改めてのデータロガー配置の実
地指導を申し出てくださった。
Ⱚその3・虫害とカビ
虫害とカビも、紙の大敵である。しかし、やむ
をえない場合以外、化学的な方法は避けるのが望
ましいという。薬品が紙やインクを傷め、資料を
損なう恐れがあるからだ。
むしろ、払う、風を通す、日光に当てるといっ
た昔ながらの虫干しなどが有効でもあり、資料を
傷める心配も少ない。正しい虫干しのやり方の指
導も受けたので、今後の重要な活動となるだろう。
東京文化財研究所保存修復科学センター保存科
学研究室長 佐野千絵氏を脚本アーカイブズ準備
室にお招きし、研究会を開いた。アーカイブズ委
員9名が出席。有益な知識を得るとともに、深く
感銘を受けた。
何を保存するのか
最初に佐野氏から投げかけられたのは、「何を
残そうとしているのか」という根源的な問いであっ
た。脚本の中身(情報)なのか、脚本そのものな
のか。脚本そのものなら、内容を読めることが大
切なのか、それとも形態を含めて保存したいのか。
これまで脚本アーカイブズでは、形態も含めた
現物保存を方針としてきたが、今後はその理由や
意義について深く考察してゆかなくてはならない。
それによって保存方法が変わってくるからである。
紙の強さ
脚本の中身(情報)を残す場合、最初に考える
のはデジタル保存である。しかし佐野氏は、デジ
タル保存の限界を述べられた。デジタルデータの
寿命はそれほど長くなく、物理的な衝撃にも弱い。
システム変更のたびに書き換えという問題もある。
それに対し、最近の PET 基材のマイクロフィ
ルムなら、100 年は保つと言われている。ハード
やシステムが変わる心配も少ないため、中身を長
期保存するならおすすめの方法だという。
意外なことに、最も保存に耐えるのは紙資料で
あった。上質の和紙はもちろん、普通のコピー紙
でも 30 年は保つという。
ただし脚本の場合、もともと紙質が悪いことが
多い。特に戦中から戦後 10 年ぐらいまでの粗悪
な紙は、十分な手当てが必須である。これは、日
頃から古い脚本を扱い、身に沁みて感じていたこ
とでもあった。
文化財としての脚本保存

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Ⱚその4・ホコリ
ホコリはただ汚いというだけでなく、虫の卵や
カビの胞子、資料を傷める塩分がまじっていると
いう。ホコリを払い、ホコリを防いで保管するこ
とが大切であると、改めて認識した。
脚本は個人の家の納戸や物置など、ホコリの多
いところに保管され、そのまま送られてくること
が多い。ミュージアムクリーナー導入などの対策
を急ぐ必要があると感じた。
Ⱚその5・紙には紙を
紙にとって、異質な素材はストレスとなり、傷
みを呼ぶ。理想は、同じ紙であり酸性化を防ぐ力
のある中性紙の袋に入れ、さらに中性紙の箱に入
れてホコリから遮断するという方法であるという。
しかし中性紙は高価で、すべての資料をこのよ
うな扱いにすることはできない。現状は、OPP
袋に入れ、それを段ボールに収めている。佐野氏は、
現実的な方法としては悪くはないが、OPP 袋の
寿命を考え、8年目ぐらいから点検して新しい袋
に交換することを薦めた。脚本アーカイブズ初期
のものは、やがてこの時期に差しかかってくるの
で、こうした点検も今後の活動課題となる。
文化財としての脚本
そのほか、脚本をアーカイブするための具体的
な指摘や指導をたくさん受けることができた。ま
た、他の機関や有識者をご紹介いただいた。ここ
には詳述しないが、今後の活動に非常に役だつ情
報ばかりであった。
佐野氏が終始、脚本を文化財として位置づけて
お話くださったことは、実に大きな励みとなった。
文化財というと国宝や芸術作品を思い浮かべるが、
実は日常品や工業製品、生活資材も立派な文化財
なのだという。そういう視点から、私たちの活動
を大切なこととして励まし、惜しみない援助を申
し出てくださったことはまことにありがたいこと
だった。心よりの感謝を表したい。
             (鷺山京子)
事前に台本の保存状態を点検する先生
興味深い話の連続で、大いに啓発された
古い台本が切れ目なく寄贈されて来る
後日ミュージアムクリーナーを購入した

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34
はじめは素人が貴重な台本に手を入れてよいの
かと不安だったが、「これは誰かがやらないとい
けないこと。やっていいのかではなく台本の保存
のためにむしろやってあげなきゃいけないこと」
と磯崎講師。簡単な修復ですむものなら自分たち
で手がけ、10 年でも 20 年でも長く保つようにす
ることが大事とのこと。修復や復元の専門家にす
べてを外注するにはとても予算がかかってしまう。
その必要がある台本は当然専門家にお願いすると
して、修復の基礎だけでも学び、自分たちの手で
台本を救おうと一同、真剣に作業を開始。
まずは手を消毒して白い手袋をはめ、目の前の
一冊の台本とじっくり向き合い、どの程度の傷み
かを判断する。必ずしなければならないことは、
紙の束を綴じた錆だらけのホッチキスや鋲を取り
除く作業。ほとんどの場合、その錆びた金属の周
りから紙に穴が開いて被害が広まっていく。金具
で頑丈に綴じられていた台本を一枚一枚の紙に戻
したところで錆の粉や虫の卵、埃などをチェック
して払い落とす。台本の上下 ( 天地 ) などボロボ
ロになっているものは紙の腐食が進むのを防ぐた
めにカットする。あまりに傷んだ表紙は、大事な
資料となる文字の部分だけを残して周囲をばっさ
りと切り落とすことも。
黄ばんで背がボロボロになった台本を修復
補強のための板目紙を用意し、台本の見開きサ
イズより少し大きめに切り、一枚でつながったお
もて表紙と裏表紙と背表紙にする。もとの台本を
中に挟み、孔を四ヶ所貫通させ、綴じ糸を通し、
上から力いっぱい紙を押さえつけながら和綴じし
日本脚本アーカイブズがすでに収集し保存して
いる4万冊を超える台本・脚本の中には、戦前に
放送されたラジオ台本やテレビ放送初期の台本が
多く含まれている。作家や出演者やスタッフなど
が当時、現場で使用し、各家庭の押入れや倉庫で
大事に保管していたものばかり。とはいえ、その
保管方法もまちまちで、数十年の歳月による傷み
具合も一冊ごとに大きく違っているのが現状だ。
収集保存班では、手元に集まった台本はまずそ
の保存状態を調べ、傷み具合にあわせて必要なら
ば燻蒸したり修復作業を行うこととなる。
紙に文字が印刷されている台本は、その性質上
どうしても黄ばんだり虫食いになったり黴がつく。
さらには綴じてあるホッチキスや留め金の金属が
さびてそこから紙が侵食されているものも珍しく
ない。これらは放って置くとさらにその被害を広
げ、ついにはせっかく集めた台本そのものを失う
ことになりかねない。
貴重な文化遺産を保存するためにまず自分たち
の手でできる処置を、との思いからNHK放送博
物館学芸員の磯崎咲美さんを講師にお招きして、
傷んだ台本の修復作業を2回に分けて学んだ。
(1)金具をはずして和綴じを学ぶ
第1回修復作業研究会
台本の修復作業

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35
まずは「全面補強」のもの。これは 100%植物
繊維の和紙と薄めたショウフ糊を使う。
整えたい台本の、折れ曲がった部分をきれいに
のばしてから、キリで水を吹いておく。和紙の表
全面に糊をつけて、それを台本の裏面と合わせる。
和紙の表裏の判別、台本の欠損部分の扱い、そし
て貼り合わせた時に空気が入らないように、など
細かい神経が必要とされる作業だ。
表紙や裏表紙など、角や背表紙部分がボロボロ
になって傷みが激しいものは、「部分補強」の修
復を行う。この場合も和紙を補強用に細長くのり
しろのように、或いは継ぎはぎのように使う。
部分補強
これらの補強した各頁は一枚ごとに順番を確認
しながら、もとの台本の形に並べ、板目紙を使っ
て和綴じし製本して保存する。こうして最大限、
もとの形を維持しつつ、それでもカットせざるを
得ない文字等がある場合は、間違いのないように
その旨記載し補足を付けておく。また、台本の中
に挟まれていたセット図やメモ、差し込み原稿等
の周辺資料は、補強した板目紙の中表紙に当たる
部分に封筒などを使って保存しておくとよいこと
も講師の磯崎さんから教えていただいた。
2回にわたる講習と実習で、数十冊の台本が日
本脚本アーカイブズ委員の手で修復された。現在
収集・保存されている膨大な数の台本を思うとき、
そのあまりの作業量の多さに愕然とはするが、収
集管理部ではこの先また機会を作り、着実に修復
を行っていく予定である。
(西沢七瀬)
ていく。もともと合本にしてあったものは、修復
した一冊ごとを再度合本してもとの姿に戻した。
板目紙に孔をあけて和綴じする
(2)傷みの激しい台本の修復
上記の修復作業の基礎のほかに、もう少し高度
な技術を必要とする台本もある。作品の設計図で
もあり指針となる台本は、製作現場で何度も頁を
めくったり折ったり付箋をつけたりと酷使される
もの。その結果、破れてしまった台本も多い。さ
らにはそれらを補強や修繕するつもりで、透明
テープやビニールテープが使用されているものも
ある。こうした傷みの激しい台本を修復するため
に、2回目の講習と実習を行った。
錆びた金具を取り除き、埃などを払い、一枚の
紙に戻すまでは1回目の講習と同じ要領。透明テー
プなどが付いているものは、それらをなるべく丁
寧にはがし、もとの形に戻す。さらにそこから補
修の必要な台本の修復法を学んだ。
全面補強

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36
新館地下書庫
新聞雑誌等の定期刊行物に関しては、逐次合冊、
製本を行っているということだ。
また、古い刊行物に関しては、従来はマイクロ
フィルムによって媒体変換を行ってきたが、現在
はデジタル化を中心に行っている。127 億円をか
けて平成 21 年、22 年の2年度で、デジタル化を
行っているということである。
媒体変換済みの資料は、代替物を優先的に利用
に供し、出来るだけ原本の保存を図るようにして
いるとのことである。
また関連してスキャンしたデータは、著作権が
既に消滅している物及び著作権をクリアー出来た
物から順次インターネットで公開していく予定だ
そうだ。
地下7階には、マイクロフィルム用の保存庫が
あり、保存用のマスターネガフィルムは温度 18 度、
湿度 25%に管理されているということだ。
また、国会図書館では資料保存の専門部署が置
日本脚本アーカイブズ収集管理部 10 名で国立
国会図書館を訪問。収集書誌部・資料保存課課長
補佐の中島尚子さんに案内していただいた。
国立国会図書館は 1948(昭和 23)年6月5日
に旧赤坂離宮を仮庁舎として開館した。
これは日本の国会議員の調査研究、行政、及び
日本国民のための図書館であり、納本制度に基づ
いて、日本国内で出版された全ての出版物を収集・
保存する唯一の図書館である。
施設は中央図書館と支部図書館があり、中央図
書館として東京本館、関西館がある。支部図書館
には、国際子ども図書館と行政及び司法各部門支
部図書館等がある。
現在の東京本館の千代田区永田町国立国会図書
館は 1968 年、地上6階地下1階の施設が完成した。
その後 1986 年には地上4階地下8階の新館
が完成し、2009 年3月末時点で図書約 929 万冊、
雑誌及び新聞は 1309 万点、所蔵は計 3564 万点と
なるそうだ。
書庫の空調は温度 22 度前後、湿度 55%前後と
なるように、一元的にコントロールされている。
但し、閉館後及び休館日については、空調は停
止するということだ。
これは省エネルギーについて取り組む必要があ
るためということである。
最初に案内していただいたのは新館地下の書庫
で、ここには新聞雑誌の他に有価証券報告書も保
存されていた。
これらの物は光が常時当たる事による紙の劣化
を防ぐため、書架を照らす灯りは棚の列に人が出
入りするとセンサーによって自動的に点消灯され
るよう設置されていた。
ブズ収集
部・資料
だいた。
に旧赤坂
び日本国
※写真は新館地下書庫
すると
るため
で、こ
ていた。
を防ぐ
とセン
ていた。
保存のマスターネガフィルムが温度18 度、湿度25%に管
理されているということだ。
また、国会図書館で資料保存の専門部署が置かれ、蔵
国立国会図書館見学・取材報告

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資料保存課における補修および修理の状況
さらに私たちは書籍の補修状況、修理中の状態
を見学させていただいた。
いずれの作業も書籍本体に悪影響の少ないこと
と、出来るだけ元の状態を残すことを心がけなけ
ればならないので、大変繊細で根気のいる作業で
ある。
現在マイクロフィルムの劣化等に関しては様々
な図書館で問題になっている。
書籍と脚本は自ずから異なり、本来脚本・台本
には、後世のために保存していくという発想がな
かった。そのため綴じ方や印刷は、せいぜい3、
4ケ月持てばよいという考え方で作られたものが
ほとんどである。
それだけに保存用、補修、虫類の駆除、カビの
除去には、より慎重で迅速な対応が望まれるとい
うことを実感した。
その意味で国立国会図書館から学んだものは、
大きかったと言えます。
(高谷信之)
かれ、蔵書のケアを行うとともに、国際図書館連
盟資料保存コア活動力のアジア地域センターとし
て、国内外の図書館の資料保存活動推進を支援す
るための研修会、講演会その他情報提供も行って
いるということである。
資料及び書籍の主な劣化の原因は①人的要因 
②外的要因 ③内的要因に大別される。
①は書架への書籍の並べ方、糊つき符箋紙の使
用、セロテープによる補修、ホッチキス等金属の
錆といった不適切な保管や取り扱い。
②は不適切な温湿度による虫・カビの発生や光
による褪色などがある。
③には酸性紙の劣化や、TAC(アセテートセ
ルロース)ベースのマイクロフィルムの劣化など
がある。
劣化してボロボロになった酸性紙の状態
傷む前に予防することを重視し、虫害の発生を
防ぐため、入手した資料を書庫に収める前に、虫
害が疑われるものについては、以下の殺虫処理を
行っているそうだ。
①脱酸素剤を用いる。
②低酸素濃度処理法と二酸化炭素による殺虫。
いずれの場合も 20 度以上に室温を保つ必要が
ある。二酸化炭素法では、高湿度条件下だと鉛系
顔料が変色する場合もあるので、彩色された材質
のあるものには充分に注意する必要があるようだ。
クロフィルムの劣化などがある。
※写真は劣化しボロボロになった酸性紙の状態
※資料保存課
状況
さらに私た
学させていた
いずれの作業
と、出来るだ
ればならない
ある。
現在マイク

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リアが分けられている。スチールの書架に資料・
台本が立てた状態で並べられている。
◦テレビで放送された「京都迷宮案内」シリーズ
の脚本もある。簡易製本された資料は保管する
際には、綴じてあるホチキスやセロテープを外
し、板目紙の表紙をつけて糸で綴じ、背表紙に
題名を記している。一つの回で「準備稿」「完成
稿」複数の脚本がある場合は、同じ回でカバー
を掛けている。(写真①)
◦歌舞伎台本や松竹製作の映画台本の書庫は、火
災が起きた場合、水を使用しないハロゲン消火
を設置している。(写真②)
◦作品の紹介記事などをスクラップしたスクラッ
プ帳には、脚本と同一の請求番号がつけられて
いる。ポスター類は手製の袋の中に折り畳んで
保管。スチール写真は事務用の封筒の中に入れ、
引き出しに保管。同一の作品は脚本と同じ請求
番号をつけて管理している。
■資料公開の現状
資料保存の観点から、松竹大谷図書館では、閲
覧に際し、以下のような制限を設けている。
◦松竹大谷図書館が貴重書と指定した資料を閲覧
する際は身分証明書が必要である。
◦資料のコピーは全て職員がとる。
◦演劇・映画・テレビ・ラジオ台本はコピー不可。
◦劣化が激しいものについてはデジタル化も検討
している。
◦著作権の問題もあり、脚本の中身をウェブで見
られるような公開は考えていない。将来的には、
ネット検索できる書誌情報の公開を考えている。
■財団法人松竹大谷図書館とは?
松竹株式会社の創立者のひとり故・大谷竹次郎
氏が昭和 30 年に文化勲章を受章したのを記念し
て、昭和 33 年 7 月、松竹会館9階に開館した演劇・
映画の専門図書館。長年、演劇・映画事業にたず
さわってきた松竹株式会社が、収集・所蔵してき
た資料を一般に公開し、研究者や愛好家の利用に
供して、社会文化の発展に寄与することを目的と
して設立された。平成 14 年、現在のADK松竹
スクエアの3階に移転し、翌年開館。
開館 50 周年記念パンフレット(平成 20 年刊)
によると、所蔵している資料は、歌舞伎・演劇・
映像、全てのジャンルを合わせて 39 万 5088 点。
その中の映画・テレビ脚本の保存管理と書誌情報
の管理・分類方法を伺うため取材におもむいた。
■映像脚本の保存の現状
まず、保存管理の現状について、司書の飯塚美
砂氏に伺った。
◦映画、テレビ脚本の総数は、2004年以降、パソ
コンのデータ検索システムに入力したものと、
それ以前のカード目録の件数と合わせて、
映像台本 1 万 9254 点
テレビ台本 2942 点
ラジオ台本 153 点
◦映像作品の脚本は、松竹株式会社、映倫、脚本
家個人から寄贈される。プログラムやポスター
は、松竹株式会社以外にも、他の映画会社や個
人からの寄贈がある。
◦これらの他に演劇資料を含めた膨大な資料を常
勤スタッフ6名が、担当を決めて扱っている。
一日平均10~15名ほどの閲覧者への対応やレ
ファレンスと並行して、資料管理の作業を行う。
 実際の保存状況を教えていただくために職員しか
入室できない閉架書庫の中を見せていただいた。
◦演劇・映画・テレビなど作品ジャンルごとにエ
財団法人
松竹大谷図書館
郎氏
て、
劇・
たず
てき
用に
しか入室できない閉架書庫の中を見せていた
演劇・映画
レビという
に作品のジ
ルごとにエ
が分けられ
る。スチー
書架に資料
本が立てた
で並べられ
る。
テレビで放送された
る。
送された
内」シリ
ある。簡
資料は保
、綴じて
やセロテ
板目紙の
糸で綴じ、
記している。一つの回で「準備稿」
写真①
写真②

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778=M 映画・テレビ番組
M10  映画理論
     :
M50  シナリオ
M60  文化映画・記録映画
M70  アニメーション
M80  テレビジョン
映画台本についても独自の分類がされている。
ES  松竹の映画
E   他社の日本映画
EF  外国映画
M6  文化・記録映画
M7  アニメーション
M9  ビデオ
例えば「隠し剣鬼の爪」の映画台本には、
ES 2004Ka28 B
という記号がつけられている。ESは松竹映画、
2004 は製作年、Ka28は、タイトルをアルファ
ベット順に配列するために日本著者記号表によっ
て付した記号。続くBは、同一の台本がAB二冊
あるうちのBであることを示している。
■取材を終えて
現在脚本アーカイブズでは、寄贈された脚本を
「ドラマ」=あ、「構成」=い、「ドキュメンタリー」
=う、「アニメ」=え、「その他(生原稿など)」
=おの記号をつけて分類し、収納する箱に番号を
つけて管理してきた。迅速に脚本を分類し、収納
できる利点はあるが、書誌情報に目を通さないと、
資料内容が把握できないという欠点もある。数年
前に取材したNHKの放送博物館の分類コードな
ども参考にして、脚本アーカイブズにふさわしい
分類を検討する必要があると感じた。
松竹大谷図書館の書誌情報は、以前はカードで
管理していたこともあり、項目数も少なくシンプル
である。情報公開に向けて、何をどこまで伝えるべ
きか、他に脚本を所蔵している図書館・資料館の
実態を調べて検討していきたい。 (入山さと子)
■書誌情報の記入法
検索システムと書誌情報分類法については、書
誌情報を入力している司書の井川繭子氏に伺った。
◦検索システムは2004年に導入。2004年以降の登
録分については、パソコンで検索できるように
なっている。それ以前に登録したカード目録の
情報も、調べ直しながらパソコンに遡及入力し
ており、現在約9000タイトルが入力済み。
◦検索ソフトは、図書館向けに作られた(株)ハ
ザン商会の「LXシリーズ」を使用。CSV
データの取り込みができるのと、一般図書館向
けの入力項目を、自館で扱う資料に合わせてカ
スタマイズできるので便利。
◦入力情報は映画台本の場合、基本の項目として
「資料分類番号」「タイトル」(サブタイトル
や通称なども含む)「日本での公開年」「監
督・脚本・原作」以下、注記として「製作年・
封切年月日」「製作・配給会社名」「出演者
(主な登場人物、2~3名)」「原作のタイト
ル」などを入力。
■資料分類番号の付け方
資料の分類にあたって日本十進法を採用。その
中の芸術部門を細分化して独自の分類番号を付与
している。
日本十進法では、
774  歌舞伎
775  新派・新劇
777  人形劇
778  映画・テレビ
と、分類されるが、松竹大谷図書館では、さら
に独自の枝番をつけて細分化している。以下は、
松竹大谷図書館芸術部門細分表の一部抜粋である。
774=K歌舞伎
775=S新派・新劇
S10  新派
S20  新劇
     :
S90  ラジオドラマ 

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格納・配信が可能だという。その 40 テラバイト
の HDD の大きさは、バッテリーを含めても、1
立方メートルにも満たない。従来の DVD システ
ムを収容していた部屋がすっかり空いてしまうほ
どのコンパクト化である。
仮に、日本脚本アーカイブズで収集保管してい
る4万冊の脚本・台本をデジタル保存した場合、
必要な HDD の容量は 1 テラバイトに満たないと
推測され、厚手の書籍 1 冊分の大きさで済んでし
まうと思われる。大変なコンパクト化である。
ところが、ここに大きな問題がある。HDD で
さえ劣化を免れず半永久的な保存はできない。さ
らにデジタル保存のシステムそのものが、日進月
歩で進化開発されているため、10 年単位、場合
によっては5年単位でリニューアルが必要であり、
そのたびにコストと労力がかかるということだ。
日本脚本アーカイブズ特別委員会でも、映像ス
キャンと HDD による脚本・台本のデジタル化を
考えているが、それはあくまで貴重本の閲覧用と
し、保存は現物という考え方をするべきであろう。
では、放送ライブラリーでは、番組の設計図と
なった脚本・台本の収集保存はどうしているのだ
ろうか ? 創設当初は、脚本・台本も収集すると
いう役割が掲げられていたという。しかし、計画
的組織的に収集するには至らなかったようだ。現
在ほぼ 1 万冊の脚本・台本、生原稿が所蔵されて
いるが、一般公開はされていない。
今後は、各放送局から番組収集の際に、脚本・
台本も合わせて収めていただくという、計画的組
織的な方法も検討してみてはいかがだろうか。
2010 年 11 月2日に東京・足立区で、「文化アー
カイブズ」シンポジウムが開催された。そこでパ
ネリストの国立国会図書館 長尾館長から示唆さ
れたのは脚本と映像のリンク、早稲田大学演劇博
物館 竹本館長から指摘されたのは「放送という
大きな枠組みでアーカイブズを考えるべきだ」と
いうことだった。つまり、脚本と映像はセットで
収集管理し、リンクさせるべきだということだ。
神奈川県横浜市にある放送ライブラリーは、放
送法の指定を受けた、日本唯一の放送番組専門の
アーカイブ施設で、国内で制作されたテレビ・ラ
ジオの放送番組と CM を収集・保存し、一般に
無料で公開している。テレビ・ラジオ番組の所蔵
数はおよそ 2 万本である。
2000 年に導入した番組視聴システム老朽化
のため、一億数千万円を費やして 2010 年にリ
ニューアルした。新システムの開発は、公募の結
果 NEC に決まり、最新の HDD サーバーによる
VOD( ビデオ・オン・デマンド ) システムを採用。
これにより、同じ番組が複数のブースで視聴可能
となった。HDD サーバーは、テレビ番組は H.264、
ラジオ番組は MP3 という効率的な圧縮方式を採
用し、毎年増加するコンテンツも十分格納・配信
が可能となった。
番組を視聴するブースのモニターは、フル・ハ
イビジョン対応の液晶モニターで見やすくなった。
私たち「日本脚本アーカイブズ特別委員会・収
集管理部」では、放送ライブラリーを見学させて
いただき、次のような課題を受け止めた。
放送ライブラリーでは、最新の HDD サーバー
システムを導入し、40 テラバイトの HDD に 2 万
本の番組を格納・配信している。40 テラバイト
は余裕を持った容量で、将来的には4万本の番組
横浜 放送ライブラリーが
新システムを導入

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番組を視聴するブース
フル・ハイビジョン対応の液晶モニター
導入された HDD サーバーシステム
40 テラバイトの HDD +バッテリー
ゆくゆくは公的国家的規模での放送・映像ミュー
ジアムの設立か、放送学科を持つ大学、または横
浜放送ライブラリーがその役割を担うのが望まし
い。脚本アーカイブズはその一部に編入されるか、
または提携するという位置づけが考えられる。
例えばテレビ創生期のバラエティ番組「光子の
窓」の貴重な映像を放送ライブラリーが、その台
本を脚本アーカイブズが所蔵している。その両方
を同時に見られるようになるのが理想的であろう。
ちなみに放送ライブラリーでの番組の検索は、
タイトルのほか、キーワード検索が充実している。
番組名をうろ覚えであっても、タイトルの一部、
内容の一部、撮影地名などで検索できるわけだ。
例えば、隠れキリシタンを描いた番組だったは
ずだという記憶があれば、「キリシタン」という
キーワードで検索すれば、「悲しみのあがりはい
つ ?」(1984 年 構成・城啓介 ) という番組がヒッ
トする。長崎県の外海地方や生月島に今も生きる
隠れキリシタンを描いたドキュメンタリーである。
また、生月島の自治体の担当者が地域おこしを
目的に、生月島を取材した番組を見たいと考えた
場合は、「生月島」というキーワードで検索すれ
ば、「悲しみのあがりはいつ ?」ほか数番組がヒッ
トすることになる。
見る人の立場になれば、「ジャンル」で検索す
るより「キーワード」で検索する方が使い勝手が
よいという考え方である。
「日本脚本アーカイブズ特別委員会」でも、書
誌情報のサンプル公開を始めたが、キーワードに
よる検索を充実すべきだ思われる。  
(城 啓介)

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台本の虫干しで保存方法の見直しを痛感
平成 22 年 12 月の晴天の日。竹内日出男氏寄贈
脚本の虫干しが、学びピア7Fのレストラン『さ
くら』の屋上テラスで行われた。時間は朝の 9 時
から 2 時間あまり。
まずブルーシートを数枚敷き、重し代わりを兼
ねて横木を置き、その上に脚本を寝かせて並べる。
「北の家族」や「中学生日記」、「新坊ちゃん」
などの懐かしいタイトルの作品群に感慨を抱きつ
つも作業は黙々と進められた。
初めの 30 分はオモテ表紙の虫干し。からりと
晴れ渡った冬の太陽の日差しにあてる。短時間で
も紫外線にあてることで、ダニやカビ、バクテリ
アなどは殺すことができるそうだ。
30 分が経過。裏返す前にぱらぱらとページを
めくって内部にも陽の光をあて塵や埃を落とす。
そうしてからもう 30 分、今度はウラ表紙の虫
干し。風が強くなってきたので、表紙やページが
飛ばないように気をつけ、目を配る。
虫干しが終わった脚本は元の箱に戻し、また新
たな箱から脚本を取り出し、これらの作業を繰り
返す。年代物の脚本は痛みや汚損が激しく、取り
扱いにも注意を要する。虫害対策を含めた保存方
法の見直しや、効果的な修復作業の検討をするこ
とで各委員の意見が一致した。
(増田貴彦)
「あだちサークルフェア」は、足立区内のボラ
ンティア団体などによる「お祭」である。脚本アー
カイブズは、学びピア 21(生涯学習センター)
に準備室がある関係で参加した。
平成 22 年 10 月 9・10 日、学びピア 21 講堂ホ
ワイエの一画で、誰もが知っているようなドラマ
やバラエティの脚本 50 冊余りを、展示台 3 台に
展示。その横で委員による脚本修復の実演を行っ
た。お祭ということで訪れる人も多く、修復の実
演を見て話しかけてくる人もあった。9 日には近
藤やよい足立区長=写真=も足を止められ、広報・
周知活動としてたいへん意義があった。
(鷺山京子)
あだちサークルフェア
日に当てるとともに、1冊ずつ風を通す

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収集・保存の一冊と一枚
の準備があってもすぐに答えられるものではない
……。結論。「ファックスという文明を使って文
化を送る……」
「インターネットという文明を使って文化を引
き出す」ってのはどうだろうという事に納まった。
台本脚本を保存してあれば文明の利器で検索し
て文化を引き出す事が出来るのだ。
普通の本……小説、文献や絵本など現在図書館
にあるものと、台本・脚本の決定的に違うところ
は字の向う側に必ず映像や音源が存在するという
ことである。
台本の文字の通りの映像がある、音源がある訳
ではない。いざカメラが廻ってから、ラジオの生
放送が始まってから、ディレクターから別のアイ
ディアが出たり、喋っているタレント・役者が別
のアイディアを思いついたりして台本のセリフと
は離れてしまう。それと瞬時のアドリブがある。
その時の台本にはボールペンで書き込みがあった
りする。勿論その書き込みも全てを残して保存す
るのだ。ラジオは生放送で生原稿、つまり放送中
にインクの乾かない原稿を渡す事もある。テレビ
もワイドショーや情報番組なども同じような事が
ある。台本にならない原稿、番組の流れを書いて
ある進行表はたった一枚の紙。その一枚の紙の中
に色んな事が書き込まれている。覚え書きメモな
どであるが、一枚でも台本は台本である。これも
資料として貴重な一枚だと思う。
ある歌番組の生放送の日に、「よど号」のハイ
ジャックがあった。番組が終わりに近づいた頃ハ
イジャック機が金浦空港に着陸したというニュー
スが入り、生放送の強味でそのまま事件だけを歌
番組の最後に司会者がコメントした。歌番組と
いう娯楽番組の中で日本初のハイジャック関連
ニュースの放送だった。司会者が「無事で良かっ
たです。もしかしたら焼肉でも食べてるなんて事
も……」安堵の気持からか? 番組終了後に、視
聴者から不謹慎な発言だと凄い数のクレーム電話
が殺到した。その時の台本があるのだろうか?
……TBS「歌のグランプリ」という番組だった。
(奥山侊伸)
台本の収集と保存はセットである。自分の書い
た台本・脚本だけなら部屋の片隅に積んで置いて
も良いのだが、仲間や先輩の台本 ・ 脚本となると
そうも行かない。ということで我々は今迄の人生
にない経験をしている。紙は普通に常温の中に
ずっと放置しておくと、黄色く変色してしまう。
もっと時間が経つと黒くなったりもする。シミも
出る。紙魚とも書くが雲母虫(きららむし)とも
いう。この虫は衣料にも穀類にもつくが、特に古
書の害虫である。台本を受け取った瞬間から、そ
れ等の害虫から日焼けから湿度からも守ってやら
なければならない保存という義務が生じるのであ
る。昔の台本はガリ版で書いて印刷していたので
台本は、大きなホッチキスで止めてあった。だか
らすっかり錆びて赤くなってしまう。その修復や
ページが破れた個所の修復なども専門家を招き、
その技術を習得したりもした。以上は収集管理部
の基本である。
またドラマ・バラエティ・ドキュメント等ジャ
ンル別に分けたり、整理番号を付けたり、特に古
い台本・脚本は一冊毎に中性紙の袋に入れて整理
している。平成 22 年度は、江戸東京博物館、足
立区、札幌、日本大学江古田校で脚本展を催した
が、一冊一冊の台本の扱いは手袋をして貴重品の
ように並べている……つまり我々放送作家、脚本
家にとっては宝物と言っても過言ではない。「台
本脚本は文化である」の合言葉?と精神でアーカ
イブズ収集班が行動している。
文化と文明について面白い話がある。
立川談志師匠と食事をしている時、ふと箸を止
めてちょっと間があって
「ウ~あのな、文化と文明の違いはなんだ?」
談志師匠は時々、突然話し始めたり質問したり
するのだが心の準備が出来ていない時にはあわて
てしまう。もっとも文化と文明の違いの説明は心

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専門家による勉強会や研究会も大切なことだ。
知らなすぎるのはいけない。知っていて実践しな
いのもいけない。最善の選択肢を求めていくべき
だ。そこには、意外な落とし穴もある。
科学技術の進歩は著しいが、それをそのまま取
り入れるかは、話は別。
例えば、デジタル保存の長所もあれば、限界も
あるという。寿命や衝撃の問題だ。
先日、東京文化財研究所の佐野千絵氏の話でも
まさに、目からウロコが落ちる思いがした。
運び込まれてくる脚本・台本は、それまで決し
て最良な状態で残されていたのではない。カビ、
害虫、ホコリにまみれ、しわくちゃに傷んでいる
場合も多い。収集したからひと安心ではなく、放
置していたら、どんどん傷みがひどくなる。その
ため可能な限り、良い状態にして保存、管理に務
めなければならない
紙の大敵であるカビ、害虫、ホコリの対処法も、
化学的薬品を使用するよりは、日光に当てたり、
風を通したりすることが有効で、紙そのものを傷
めないという。できるだけ、紙にストレスを与え
ないように……。古い時代の材質には、昔ながら
の素朴なやり方が適している場合もあるのだ。
新鮮な驚きがあった。
まだまだ、多くの課題がある。今後も、様々な
機関を視察したり、専門家の深い見識を大いに吸
収させてもらいたい。私たちも積極的に学んで、
底力をつけたいものだ。
すでに、次々と、研究会の予定が入っている。
私たちの社会には物理的な壁、制度的な壁、意
識の壁、という三つの壁があるといわれる。こう
した壁を乗り越えて、大切な脚本・台本を守って、
活用できるようにしたいと願っている。
増え続ける脚本・台本を前にして、ホコリにま
みれた地味な作業を続けながら、私たちは、誇り
を抱き、明るい思いでいる。
(山西伸彦)
今後のことを考えた時、改めて、原点に戻るこ
とが必要ではないだろうか。
放送された後、人目にも触れなかった台本の収
集、保存、そして管理。その作業は限りなく地道
である。
大切な脚本・台本を引き受けたからには、それ
だけの責任がある。時代を描き、創作者の心が染
みついている財産であり、資産であり、資源であ
る。何にもまして、脚本・台本は、次代へ伝える
放送文化である。
1年間に、6000 冊から1万冊の脚本・台本が、
運び込まれ、現在まで4万冊を超えている。どん
どん増えていく冊数。さらに、保存、管理の作業
は続く。それはとても重要なことであり、日本脚
本アーカイブズの根幹である。それぞれの担当の
垣根を取り払って、総力戦で臨んでいかなければ
ならない。
整理しようにも、てんてこ舞いとじれったさ。
スタッフの中には、自宅にある資料や本などの山
を整理できなくて、家人から皮肉を言われて肩身
の狭い思いをしている“保存・管理”が苦手な人
間もいる。とはいえ、事態は歩みを止めない。作
業の手も止められない。
今後、より効果的かつ効率的に進めていくには、
どうすればいいのか。
保存するスペースをもっと余裕あるものにした
い。それには、私たちの思いと願いを委ねること
ができる、理解ある国家的機関や組織との連携が、
もっと必要なことは明らかだ。
当然ながら、予算の確保も考えなければならな
い。
文化庁からの支援も大きな原動力となって、
アーカイブズの活動は、6年間継続することがで
きた。今さら「もう無理だ!」などと、弱音を吐
いたりするのは、絶対にできない。
これからも地道な作業を

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■脚本展総論
「なぜ脚本展をやるのか~開催の意義」 ・・・・・・・・・・・・・・・・47
   各 論
「脚本が『荘厳される』まで」
         (江戸東京博物館脚本展) ・・・・・・・・・・48
「夢のアーカイブズ脚本展」(北海道脚本展) ・・・・・・・・・・・54
「多様な年齢層に好評」(日大芸術学部脚本展) ・・・・・・・・・57
■江戸東京博物館企画展:脚本展「ザ・脚本-放送作家たちの 80 年」
2010 年 4 月 6 日(火)~ 4 月 18 日(日)
 江戸東京博物館(東京都墨田区)
■脚本・台本の半世紀~今、札幌に蘇るシナリオ達~
2010 年 11 月 13 日 ( 土 ) ~ 11 月 21 日 ( 日 )
 北海道立文学館(札幌市)
■日本大学藝術学部江古田キャンパスリニューアル記念脚本展
2011 年 1 月 21 日 ( 金 ) ~ 1 月 25 日 ( 火 )
 日本大学芸術学部江古田校舎(東京都練馬区)
脚本展報告

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47
2007 年、私たち日本脚本アーカイブズは「あ
あ懐かしの秘蔵TV・ラジオ脚本展」を都内2カ
所、横浜放送ライブラリーと共催の計3カ所で実
施しました。
以後、2009 年には東京・新宿の芸能花伝舎で
開催された「放送作家協会 50 周年記念脚本展」、
今年度は江戸東京博物館主催の脚本展、「日本脚
本アーカイブズ脚本展北海道展」、「日本大学芸術
学部江古田キャンパスリニューアル記念脚本展」
など、これまでに大小合わせて9回の脚本展を開
催および共催して来ました。
なぜ「脚本展」が必要なのか? 
それには次の理由があります。
① 私達が目指す「日本脚本アーカイブズ」はナ
ショナルな組織であり、その実現のためには
広く国民の理解と支持が必要なこと。
② 日本脚本アーカイブズの活動は散逸・消失す
る貴重な文化資産である脚本・台本の収集に
留まらず、社会還元にも及びます。そのため
に収集保存した脚本・台本(現在4万冊超)
の中から希少な作品を公開することによって、
脚本アーカイブズへの関心と興味を喚起させ
ること。
③ 収集・保存は日本脚本アーカイブズの根幹と
なる仕事。その成果を展示することで、脚
本・台本が貴重な文化資産であることをア
ピールする意義は大きい。
以上のような理由から「脚本展」は今後とも大
切にしていきます。しかし、本来の活動に予算的、
人員的影響を及ぼしてはならず、可能な限り「脚
本展」独自の公的な助成金申請や、企業・公共団
体への企画提案により、本体の予算的影響を受け
ない形で存続をはかっていきたい。
その効果およびメディアへの露出
現在、収集保存されている脚本・台本の中には
希少で珍しい作品が多くあります。
たとえば「活字未公開の向田邦子ラジオエッセ
イ」「私は貝になりたい」「太陽にほえろ!全篇」「七
人の刑事」「ウルトラマンシリーズ」「大河ドラマ
の名作」「旧ローマ法王原作のラジオドラマ」「昭
和天皇崩御特別番組台本」「8時だョ!全員集合」
「ゲバゲバ 90 分」「三匹の侍」「昭和 11 年のラジ
オドラマ(雲雀)」などなど。
こうした脚本・台本を展示することにより多く
の人にテレビ・ラジオ文化の素晴らしさを再認識
してもらえます。
またこれまでの脚本展は多くのメディアの関心
を呼び、朝日・読売・日経・東京新聞などに取り
上げられ、またNHKや民放局の番組でも紹介さ
れました。「脚本展」を通して日本脚本アーカイ
ブズのメディアへの露出は、ナショナルな脚本
アーカイブズ設立への大きな力となっています。
今後の課題
「脚本展」における課題の一つは著作権問題です。
観客からは「脚本・台本の中身を見たい」という
声が多くありました。しかし、現在の著作権法で
は出展作品すべての著者および著作権所有者の了
解を取らなければ、脚本や台本の中身を閲覧して
もらうことが出来ません。
そこで、少数ですが著者の承諾を得た分のみ閲
覧出来るようにし、同時に展示台本の内容説明や
時代背景、エピソードなどをパネル展示することで、
少しでも興味深く見て頂けるように工夫しました。
また「脚本展」では脚本や台本を展示するだけ
ではなく、同時に脚本家による「脚本講座」の開
催や、人気番組の衣装や小道具の展示、人気俳優
のパフォーマンスなど、より多くの観客を動員す
る工夫が必要だと考えています。 (南川泰三)
なぜ脚本展をやるのか~開催の意義

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脚本が「荘厳される」まで
「台本は捨ててもいいけど。作者の名前ぐらい
は覚えといてね。みんな無いチエ、絞って書いて
るんだから」(向田邦子「胃袋」昭和 54 年 2 月 1
日「放送作家ニュース」コラム「眼」より)
このすがすがしい啖呵の載った「放送作家
ニュース」のコラムを見つけたとき、会場入り口
にはぜひこれをパネルにして掲げようと思った。
台本のほとんどを捨ててしまう派だった向田さ
んが、この脚本展を見たらどう思うだろう?
博物館側の厳しい制約条件に直面するたびに、
何度、このコラムを思い起こしたことか。
江戸東京博物館脚本展 タイトルのこと
「ザ・脚本――放送作家たちの 80 年」
2009 年のわが協会 50 周年記念本では「テレビ
作家たちの 50 年」だったが、10 年 4 月の脚本展
ではラジオ作家を含む「放送作家」とした。
80 年の根拠は昭和 2(1927)年、NHK東京中
央放送局が既成作家に放送劇を委嘱、いわゆる
「五〇〇円ドラマ」だが、その作家の中に、後に
日本放送作家協会初代会長に就任する久保田万太
郎の名前があったことに拠る。ちなみに作品名は
「浮世床小景」。さらに、昭和 3(1928)年、同じ
くNHKが新人作家(放送劇作者)育成のために
懸賞募集を行った。入選作は岡崎重太郎「みんな
見えなくなる峠」。この脚本展では、放送局が委嘱、
あるいは募集することによって放送劇を書いた既
成作家または新人作家をもって「放送作家」の嚆
矢と考えた。展示担当としては 50 年前からでは
なく 80 年ほど前の放送劇脚本から展示するのが
ふさわしいと考えたのである。
展示までの制約条件
★展示室をすべて使うと広すぎるので、仕切りを
使って半分にする。
★展示する脚本は総計100冊以内にする。
★博物館同士の貸し借りは江戸東京博物館として
は避けたい。保険や運搬費用もかかる。
★できるだけ脚本アーカイブズ所蔵の脚本・台本
に絞り込み、他からの借用は必要最低限度にする。
これは企画段階で展示の素人のこちら側に示さ
れた館側の確認事項の一部である。公共の施設と
しては当然のことが、こちらにとっては難問と
なって山積したのは言うまでもない。
何しろ、会場のレイアウト図面までこちらが作
らねばならない。展示のプロのNHKプロモー
ションに伝手を求めて、見る人の動線をどう導く
かなどアドバイスを受けて、作成した。
資料の貸し借り
避けたいと言われても物の貸し借りは生じた。
早稲田の演劇博物館からは森繁久彌さんゆかりの
品々を、向田和子さんからは邦子さんゆかりのも
のたちをお借りした。その時の学芸員の実に丁寧
な仕事ぶりに立ち会って、物の貸し借りが思った
以上に容易でないことを目の当たりにした。
NHKからは「坂の上の雲」の小道具と台本を
お借りすることができた。かごしま近代文学館か
らの向田さん関連のパネルはせっかくのお申し出
だったが、クリアすべき問題があり断念した。
脚本・台本専門の印刷所三交社の協力もありが
たかった。脚本・台本の種類、印刷過程などを紹
介したパネルと動画はなかなかの出来で、評判も
上々だった。これは文化アーカイブズ活性化シン
ポジウムの冊子「文化はめぐる」の巻末資料とし
ても再活用された。
こうして、ひとつひとつの難問を解決していっ
た結果、半分といわれたスペースは一室全部に、
100 冊と限定された脚本・台本は 153 冊に上った。
かくして脚本・台本は広い展示室のガラスの向
こうに荘厳されたのである。
              (津川 泉)

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◆ご挨拶パネル
◆向田邦子エッセイパネル―脚本家の思い「胃袋」
◆略年表―放送作家80年のあゆみ
①江戸-作者は軍師なり
歌舞伎や人形浄瑠璃、落語、浮世絵、黄表紙と
いった芸能メディアが花開いた江戸時代。当時の
脚本作法書『戯財録(けざいろく)』には「芝居
は城郭、金主・座本は大将、役者は勇士、作者は
軍師なり。軍師に威勢なくば勇士下知に従はず(中
略)見物の敵に勝つこと能はず」とある。ここで
は現代の「軍師」の書きあげた時代劇脚本の数々
と、小道具類を展示。
「水戸黄門」TBS(昭和 44 年~)故・宮川一郎
氏の生原稿、台本、写真、印籠
「半七捕物帳」NHK(昭和 28 年:原作 = 岡本
綺堂 脚本 = 西川清之、久保田耕一ほか)「三匹
の侍」CX(昭和 38 年~ 44 年:柴英三郎、大野
靖子ほか)「眠狂四郎」KTV(昭和 47 ~ 48 年:
原作 = 柴田錬三郎 脚本 = 高岩肇ほか)「花の乱」
NHK(平成 6 年:市川森一)「元禄繚乱」NHK(平
成 11 年:中島丈博)
「花の乱-きりえ図集」
         全脚本 6 冊 資料 5 点
展 示 構 成
②明治-明治の東京をみせた「坂の上の雲」
初稿(野沢尚脚本)・決定稿
明治の新橋駅再現絵図・明治の東京下町再現絵
図・正岡子規愛用の机
全脚本 28 冊 資料 11 点
③ラジオ放送開始(大正14年)
「桐一葉」(大正 14 年:坪内逍遥)「大尉の娘」
(大正 14 年:中内蝶二)「炭坑の中」(大正 14 年:
作 = リチャード・ヒューズ 翻訳 = 小山内薫)「暮
れ方」(大正 14 年:久保田万太郎)「隅田川」(大
正 14 年:本郷春台郎)
全脚本 4 冊 資料 1 点
④五〇〇円ドラマはじまる-ラジオ放送の普及
著名な文士や劇作家に 1 編 500 円の脚本を依頼。
当時の 500 円は一軒家が建つほどの金額。昭和 2
年からの 2 年間に、里見惇、松居松翁、小山内薫、
長田秀雄、吉井勇、久保田万太郎、岸田国士、菊
池寛、山本有三、中村吉蔵、岡本綺堂の 10 人の
作家が脚本を寄せた。昭和 7 年にはラジオ加入者
が 100 万人を突破。
「霧の中」(昭和 3 年:山本有三)「ジャン・ヴァ
ルジャン」(昭和 8 年:川口松太郎)「なだれ」(昭
和 10 年:真船豊)「雲雀」NHK(昭和 11 年:堀
江林之助)「なぜなぜ座談会」NHK(昭和 11 年:
柚木卯馬)
全脚本 5 冊

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⑤放送作家の誕生・戦中戦後のラジオドラマ脚本
オーソン・ウェルズのポスター
「生まれた土地」(昭和 16 年:森本薫)「ラバウ
ルの爪剪り」(昭和 19 年:飯沢匡)「りよと九郎
右衛門」(昭和 20 年 8 月 15 日放送予定:原作 =
森鴎外 脚色 = 久保田万太郎)「やまびこ」(昭
和 22 年:三好十郎 表紙に GHQ 検閲印)「婦人
の時間」NHK(昭和 20 ~ 38 年:原作 = 岸田国
士 脚色 = 内村直也)
全脚本 5 冊 資料 1 点
⑥戦後-連続放送劇の時代
「鐘の鳴る丘」NHK(昭和 22 ~ 25 年:菊田一夫)
「向こう三軒両隣」NHK(昭和 22 ~ 28 年:八住
利雄、伊馬春部、北条誠、山本嘉次郎、北村寿夫)「え
り子とともに」NHK(昭和 24 ~ 27 年:内村直也)
全脚本 28 冊 資料 11 点
⑦民放ラジオ局開局(昭和26年)
「ノラ」ラジオ九州(昭和 27 年:内村直也)
「君の名は」(昭和 27 ~ 28 年:菊田一夫)「新
諸国物語~笛吹童子」(昭和 28 年:北村寿夫)
「巴里の手帳」ラジオ東京(昭和 28 年:窪田篤
人)「サンタクロースの長靴」朝日放送(昭和 29 年:
石濱恒夫)「新諸国物語~紅孔雀」NHK(昭和 29 年 :
内村直也)
全脚本 28 冊 資料 11 点
⑧テレビ放送開始(昭和28年2月1日)
「竜と珊瑚」(昭和 28 年:滝沢てるお)「ダイヤ
ル 110 番」(昭和 32 年:桂一郎、村山俊郎、布施
博一、大津皓一、向田邦子ほか)「私は貝になり
たい」(昭和 33 年:橋本忍)
「竜と珊瑚」写真
全脚本 3 冊 資料 1 点
⑨バラエティーの幕開け
「光子の窓」NTV(昭和 33 ~ 35 年:三木鮎郎
キノ・トール)「シャボン玉ホリデー」NTV(昭
和 36 ~ 47 年:前田武彦、青島幸男ほか)「夢で
あいましょう」NHK(昭和 36 ~ 41 年:永六輔ほか)
「お笑い頭の体操」TBS(昭和 43 ~ 50 年:景
山民夫、菅谷健一ほか)「8 時だョ全員集合!」
TBS(昭和 44 ~ 60 年:田村隆、大倉徹也ほか)「巨
泉×前武ゲバゲバ 90 分」NTV(昭和 44 ~ 45 年:
井上ひさし、奥山侊伸ほか)
「ミュージックフェア」CX(昭和 39 ~:奥山
侊伸ほか)「夜のヒットスタジオ」CX(昭和 43
~平成 2 年:塚田茂 木崎徹ほか)
全脚本 8 冊 
ワイドショーの誕生――
「木島則夫モーニングショー」(昭和39年)
「11PM」NTV(昭和 40 ~平成 2 年:景山
民夫 奥山侊伸ほか)「ヤング720」TBS(昭
和 41 ~ 46 年:中野健次、合田寛ほか)「3時の
あなた」CX(昭和 43 ~ 63 年:遠藤敦司、水原
明人ほか)
全脚本 3 冊
⑩ラジオバラエティーの世界
テレビの急速な普及により、放送の主役の座は
テレビに奪われ、ラジオは傍役にまわった。テレ
ビ時代到来の中、不振のラジオを救ったのは深夜
放送ブームだった。
「クイズジョッキー」NHK(昭和 45 年:井上
ひさし)「夜のドラマハウス」ニッポン放送(昭
和 51 ~ 58 年)
レコードになったラジオドラマ「音と沈黙の幻
想」(寺山修司作品収録:7枚組みレコード全集)
          全脚本 2 冊 資料 1 点

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⑪アニメの60年代――
テレビマンガと呼ばれた時代 アニメ草創期
(特撮ドラマ含む)
「鉄腕アトム」CX(昭和 38 ~ 41 年:原作 =
手塚治虫 脚本 = 鳥海尽三、鈴木良武ほか)「狼
少年ケン」NET(昭和 38 ~ 40 年:原作 = 大野
寛夫 脚本 = 飯島敬、芹川有悟ほか)「ウルトラ
マン」TBS(昭和 41 ~ 42 年:金城哲夫、佐々木
守ほか)
「コメットさん」TBS(昭和 42 ~ 43 年:佐々木守、
市川森一ほか)「巨人の星」NTV(昭和 43 ~ 46 年:
原作=梶原一騎 脚本=佐々木守、鈴木良武ほか)
「ひみつのアッコちゃん」NET(昭和 44 ~ 45 年:
原作=赤塚不二夫 脚本=雪室俊一、辻真先ほか)
「サザエさん」CX(昭和 44 年~:原作 = 長谷川
町子 脚本 = 辻真先、雪室俊一ほか)「仮面ライ
ダー」MBS ( 昭和 46 ~ 48 年:原作 = 石森章太
郎 脚本 = 伊上勝、島田真之ほか )
          全脚本 9 冊
⑫ドラマの60年代
テレビ受像器が多くの家庭に行き渡り、脚本家、
構成作家を含めた「放送作家」という職業が社会
的に認知された。視聴率などの「縛り」もなく、
現場には創りたいものを作りたいように作るとい
う空気がみなぎっていた。そこから朝の連続テレ
ビ小説や大河ドラマ、ホームドラマ、社会派ドラ
マ、定番の時代劇など多彩なジャンルが生まれた。
「にあんちゃん」CX(昭和 35 年:松田暢子ほ
か)「娘と私」NHK(昭和 36 ~ 37 年:原作 = 獅
子文六 脚本 = 山下与志一)「青年の樹」TBS(昭
和 36 ~ 37 年:原作 = 石原慎太郎 脚本 = 池田
一郎ほか)                     
「なにかこう素晴らしいこと」(ミッキー・カー
チス主演ミュージカル・ドラマ 脚本:内村直也、
小室寛)「おれの番だ」(昭和 39 年:小野田勇)
          全脚本 5 冊
⑬脚本家の時代
「東芝日曜劇場 母の夏」TBS(昭和 48 年:
田井洋子)「東芝日曜劇場 一筆啓上致します」
TBS(昭和 46 年:松山善三)「東芝日曜劇場 家族」
TBS(昭和 51 年:平岩弓枝)「東芝日曜劇場 あ
したの海」TBS(昭和 52 年:橋田壽賀子)
「お荷物小荷物」TBS・ABC(昭和 45 年:佐々
木守)「太陽にほえろ!」NTV(昭和 47 年~ 61 年:
小川英、長野洋ほか)「傷だらけの天使」NTV(昭
和 49 ~ 50 年:市川森一、柴英三郎ほか)
「岸辺のアルバム」TBS(昭和 52 年:山田太一)
「熱中時代」(昭和 53 ~ 54 年:布勢博一)
          全脚本 9 冊
⑭80年代を支えた作家たち
ハンディな撮影機材やデジタル編集などの導入
で、テレビの表現が多彩になった。ドラマでは「作
家性」が重視され、テレビ史に残る傑作、話題作
が数多くうまれた。バラエティでも旧来の「常識」
の枠を破る、「オレたちひょうきん族」などが生
まれ、有為の放送作家たちが輩出。放送作家はバ
ラエティばかりでなく、ドキュメンタリーや報道
番組、情報番組、スポーツ番組にまで深くかかわ
り、テレビの面白さの可能性を大きく広げた。
向田賞歴代作家パネル・放送作家ニュース掲載
向田邦子追悼文(松田暢子)・向田賞記念万年筆
「襤褸と宝石―佐伯祐三の生涯」NHK(昭和 55
脚本の中身が読めるタッチパネルも設置

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年:中島丈博 ) 「雄気堂々・若き日の渋沢栄一」
NHK (昭和 57 年:原作 = 城山三郎 脚色 = 岩間
芳樹 生原稿)「淋しいのはお前だけじゃない」
TBS (昭和 57 年:市川森一)「峠の群像」NHK(昭
和 57 年:原作 = 堺屋太一  脚本 = 冨川元文)「金
曜日の妻たちへ」TBS(昭和 58 年:鎌田敏夫)
「おしん」NHK(昭和 58 ~ 59 年:橋田壽賀子)
「ザ・ベストテン」TBS (昭和 53 ~平成元年:長
束利博、秋元康ほか)「夕やけニャンニャン」CX
(昭和 60 ~ 62 年:秋元康、沢口義明ほか)
全脚本 8 冊 資料 5 点
⑮FMドラマの時代
「でんしゃみち 1988」NHK-FM (昭和 63 年:
たなべまもる)「アルバイト探偵」NHK-FM(昭
和 64 年:原作 = 大沢在昌 脚色=高谷信之)
          全脚本 2 冊
⑯情報ドキュメンタリーの展開
70 年代、水曜スペシャルや木曜スペシャル、
動物のスペシャル番組、ワイドショーなどで番組
作りの根幹に参加してきた放送作家は、80 ~ 90
年代、さらに活躍の場を広げた。硬派の報道番組
に近いものからバラエティ色の強いものまで各局
が競い「情報エンタ-テインメント」とも呼ばれた。
「警視庁潜入 24 時」TV 朝日(昭和 52 年:長
須良一、中条原始ほか)「ムツゴロウの動物家族」
CX(昭和 55 ~平成 13 年:南川泰三、中村由美)
「そこが知りたい」TBS(昭和 57 ~平成 9 年)
「追跡」NTV(昭和 59 ~平成 6 年:松本醇、
山西伸彦ほか 生原稿)「Time21」NTV(昭和
60 ~平成 3 年)「なんてったって好奇心」CX(昭
和 61 ~平成 2 年)「世界・ふしぎ発見!」TBS(昭
和 61 年~:藤岡俊幸 石田章洋ほか)「いい旅夢
気分」TX(昭和 61 年~:福井貞則、新野隆司ほか)
「鉄道 115 年の新しい旅立ちに向けて」NTV(昭
和 61 年:構成:城啓介)「今、旅立ちJR」CX(昭
和 62 年:熊谷知津)「素敵にドキュメント」TV
朝日(昭和 62 ~平成 4 年)
「水曜特番~お嬢様大追跡シリーズ」TV 朝日
(平成 4 年:山西伸彦)「ザ・ノンフィクション」
CX(平成 7 年~:岩井田洋光、城啓介ほか)「記
録 平成 16 年(2004 年)新潟県中越地震」NST(平
成 17 年:熊谷知津)「素敵な宇宙船地球号」TV
朝日(平成 9 ~ 21 年:岩井田洋光、田淵寛ほか)「ガ
イアの夜明け」TX(平成 14 年~:佐藤公彦、岩
井田洋光ほか)
全脚本 22 冊 
⑰脚本アーカイブズの誕生
2003(平成 15)年、衆議院総務委員会で日本
放送作家協会理事長・市川森一が放送の現状を
証言。貴重な文化資産である脚本・台本を保管
し、システム化する施設の必要を訴え、全党の賛
同を得た。日本放送作家協会は 2005(平成 17)年、
東京都足立区の協力を得て、同区千住に準備室を
設立。緊急避難的処置としてに日々、散逸・消失
している脚本・台本の収集保存に踏み出した。
実物展示:虫害で汚損された脚本・合本された
脚本・本になった脚本
タッチパネル 2 台:著作権をクリアした脚本の
内容の一部を公開(6作品)
全脚本 2 冊 資料 3 点
【特別展示1】台本の印刷コーナー
台本印刷の三交社コーナー:パネルと映像で印
刷工程や台本にまつわるエピソードなど展示。

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【特別展示2】向田邦子コーナー
デビュー作「ダイヤル 110 番」で脚本家デビュー。
以後、多数の人気ドラマを執筆。1980(昭和 55)年、
直木賞受賞。翌年 8 月、台湾旅行中に飛行機事故
に遭い急逝。森繁久彌は、駆け出しの放送作家だっ
た向田邦子を自身のラジオ番組スタッフに抜擢。
本格的な放送作家となるきっかけを作った。向田
の墓石に刻まれた「花ひらき はな香る 花こぼれ
なほ薫る」の碑文は森繁久彌作である。
「ダイヤル 110 番」NTV(昭和 34 ~ 36 年:布
勢博一、向田邦子ほか)「ロイ・ジェームスの意
地悪ジョッキー」文化放送・ニッポン放送(昭和
35 ~ 59 年:水原明人、向田邦子ほか)「七人の孫」
TBS(昭和 39 ~ 41 年:原案 = 源氏鶏太 脚本
= 向田邦子、井手俊郎ほか)「ただいま見習い中」
CX( 昭和 41 ~ 42 年:田村多津夫、向田邦子)「ア
ナタと夜のハーモニー」ラジオ日本(昭和 45 ~
46 年:向田邦子、杉紀彦)「オレンジの季節」CX(昭
和 46 年:構成=葉村彰子 脚本=向田邦子ほか)
「阿修羅のごとく」NHK (昭和 54 年:向田邦子)
「幸福」TBS (昭和 55 年:向田邦子)「隣りの女
―現代西鶴物語―」TBS (昭和 56 年:向田邦子)
「阿修羅のごとく」構想メモ(コピー)
放送作家ニュース掲載「胃袋」(生原稿)
遺愛の品々:万年筆、眼鏡、鉛筆(向田家より)
          全脚本 17 冊 資料 8 点
【特別展示3】森繁久彌コーナー
1957(昭和 32)年から 51 年間にわたり NHK
のラジオドラマ「日曜名作座」(NHK)に出演。
ラジオドラマ振興にも尽力し、1990(平成 2)年
稲盛財団の助成を受けて、森繁久彌の名を冠した
「国際オーディオドラマコンクール森繁賞」を創設。
ローマ法王原作のラジオドラマが応募されるなど
話題になった。
「窓をひらけば風がはいる」NHK(昭和 38 年:
内村直也)「関ヶ原」TBS(昭和 56 年:原作=司
馬遼太郎 脚色=早坂暁)「大往生」NHK・BS(平
成 8 年:原作=永六輔 脚色=中島丈博)日曜名
作座「津村節子短編集 麦藁帽子」NHK(平成
12 年:原作 = 津村節子 脚色 = 入山さと子)
森繁賞に応募したローマ法王の原作ドラマ:
1991(平成 3)年第二回国際オーディオドラマコ
ンクール森繁賞応募作品 邦訳1・英訳1
日曜名作座カセット BOX(昭和 57 年)
「向田邦子追悼」自筆原稿 93 年
向田邦子・保雄からの森繁宛書簡など
全脚本 6 冊 資料 8 点
展示総計 全脚本153冊 資料44点

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が交替で会場に詰める、この間、2度の講演会を
開催するなど大筋を決め、動き出したのである。
実は、ここまでいくのにいくつかの幸運が重
なった。この前年秋に新会員8人が入会し、支部
の空気が一変するほど若返り、行動派がそろった
こと。もうひとつ、会場を引き受けることになっ
た北海道立文学館の担当課長が、凄い知恵で資金
を練りだし、援助する形を取ってくれたのである。
何回か実行委員会を開き、展示物の検討から展
示の方法、ポスターやチラシの製作、報道関係者
への周知などを協議した。全国的な脚本展ではあ
るが、東京以外では初の地方展なので、北海道色
も出そうということになり、亡き先輩の脚本も含
めて集めることにした。
ポスターが貼り出され、チラシが出回ったが、
意外にも脚本展への反応は低いと感じられた。実
行委員会のメンバーはテレビ局や新聞社に出向い
て「初の脚本展なので」とお願いを重ねた。
2010 年 11 月 10 日、待望の展示資料が会場と
なる北海道立文学館に届けられた。翌 11 日、本
部から熊谷さんと奥山侊伸さんが札幌に到着し、
奥山さんはその足でSTV局へ赴き、ラジオに出
演して脚本展の意義を語った。そのころ文学館に
は支部員らが集まり、展示ケースを据えつけ、展
示資料を並べ始めた。
展示は「戦前と終戦直後のラジオドラマ」「N
HK大河ドラマ」「時代劇」「現代劇」「話題のド
ラマ」「歌謡番組」「バラエティ」「ドキュメンタ
リー」「アニメーション」などのほか、向田邦子
さんなど著名な作家のコーナー、北海道の作家
コーナーなどを設けた。また女優三田佳子さん寄
贈の脚本なども並べられた。展示作業は翌 12 日
も続き、万全の態勢が整った。
報道陣が詰めかける
13 日午前9時 30 分、アーカイブズ脚本展北海
道展は開催された。案の定、見物客の出足は鈍かっ
たが、しだいに増えだした。驚いたのはマスコミ
の動向。北海道のテレビ局5局が相次いで来場し、
~夢のアーカイブズ脚本展北海道展~
「夢」を実現したい
2009(平成 21)年9月、新宿区の芸能花伝舎
で開かれた日本放送作家協会創立 50 周年記念行
事に参加し、脚本展示会場を見て回るうち、「こ
の展覧会を北海道でも開くことができないか」と
いう衝動にかられた。
なぜ、そんな思いになったのか。いま考えると
不思議なのだが、岩間芳樹さんの脚本を目にした
瞬間、遠い日が甦ったというべきかもしれない。
もう 30 年も前の話だが、私のノンフィクション
作品『流氷の海に女工節が聴える』がテレビドラ
マ化されることになり、岩間さんが脚本を書いて
くれたのである。ドラマは芸術祭作品として放映
され、高い評価を得ることができた。
「すべては脚本から始まる」ということを、展
覧会を通じて知ってほしい、との思いにかられた。
だが支部の予算など知れているから、夢のような
話といえた。何かの機会にそんな話をしたら、相
談に乗ってくれたのが日本放送作家協会 日本脚
本アーカイブズ特別委員会の熊谷知津さんだった。
でも、北海道で開催するとなると展示物をどう
やって運ぶか、会場はどこにするか、陳列は誰が
するのか、会場の運営はどうするかなど問題が続
出して、話は簡単には進まなかった。
ところが熊谷さんは、そうした難題をすべてク
リアして、「北海道開催が決まりました」と伝え
てきたのである。喜びが爆発して、一気に弾みが
ついた。
北海道色も出したい
2010 年4月の支部総会で、「日本脚本アーカイ
ブズ脚本展北海道展」の開催を決定。実行委員会
を組織して会長に合田、副会長にはアーカイブズ
委員長の香取俊介氏になってもらい、期間は 11
月 13 日から 21 日までの9日間、会期中は支部員
日本脚本アーカイブズ脚本展北海道展

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展 示 構 成
北海道在住放送作家のコーナー、北海道を舞台
にしたドラマ、ドキュメンタリー、北海道で収録
したバラエティなども展示。北海道色満載の脚本
展となった。
①北海道コーナー(故人)
「雪の巣」(昭和 37 年:原作 = 原田康子、脚色
= 佐々木逸郎)「虹の季節」(昭和 37 年:長野京子)
「かんから台鍋」ラジオ脚本(昭和 44 年:長野京
子)「助命嘆願」(昭和 47 年:原作 = 中沢茂、脚
色 = 佐々木逸郎)など全 9 冊
②北海道コーナー(現在)
「オロロンの島」(昭和 39 年:岩間芳樹)「幻の町」
(昭和 51 年:倉本聰)「流氷の海に女工節が聴える」
(昭和 56 年:合田一道)など全 10 冊
③北海道コーナー(現在~未来)
「雪国」同人作品集(1 ~ 8)
以下ラジオ脚本。
「夏の終わりに」(平成 3 年:大原守明)「ふる
さと銀河線」(平成 3 年:上田龍三)「清吉爺の昔話」
(平成 13 年:山本明弘 藤井孝子)「明日をくだ
さい」(平成 16 年:楡木啓子)「八軒物語」(平成
撮影、放映するという予想を超える状況になった。
新聞も北海道新聞、読売新聞が報道した。
2日目の 14 日午後2時から講演会が開かれ、
前北海道支部長の朝倉賢さんが『ラジオ・ドラマ
の変遷・北海道』、日本放送作家協会会長の市川
森一さんが『夢を書く』と題して講演した。会場
は満員の盛況で、シナリオの面白さに耳を傾けた。
会期中の入りはその後も順調で、放送作家の親
戚筋に当たる人や、かつてドラマ作りをした人な
ど思いがけない方々も姿を見せ、会場担当の支部
員を驚かせた。また質問を浴びせる人、ノートに
感想を綴る人なども目についた。
最終日の 21 日は午後2時から2度目の講演会。
北海道支部の森道夫さんが『北海道のシナリオは
面白い』、本部の奥山侊伸さんが『バラエティに
おける笑いと健康』と題して講演した。この日の
会場も満員の賑わいだった。
その夜遅く、打ち上げが行われた。期間中、ホ
テルに泊まりがけで会場に詰めた旭川在住の女性
支部員、一日も休まず会場を見回った中年の男性
と女性の支部員、ひそかに差し入れをしてくれた
人など、頭の下がる思いだった。これが初めての
北海道、という熊谷さんは「明日、札幌の町をゆっ
くり見て歩きます」と安堵した表情だった。こう
して北海道展は、多くの人々の力添えにより、無
事、終了した。
北海道展が終わって1カ月後、支部会員の守分
寿男さんが亡くなった。東芝日曜劇場の作品を数
多く作り、北海道放送の名ディレクターとして知
られた。陳列した脚本は倉本聰さんの作品「幻の
町」。この脚本は守分さん本人から借りたものだっ
た。お返しした時、満足そうな笑みをもらしてい
たという。ご冥福をお祈りしたい。
 (日本放送作家協会北海道支部長・合田一道)

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「おんな太閤記」(昭和 56 年:橋田壽賀子)「篤姫」
(平成 20 年:田渕久美子)など全 11 作品
⑩テレビドラマ・映画-時代劇
「水戸黄門」(昭和 44 ~:宮川一郎、窪田篤人
ほか)「鬼平犯科帳」(昭和 46 年:小川英)「半七
捕物長」(昭和 54 年:笠原和夫・安田公義ほか)
など全 9 作品
⑪テレビドラマ・映画
-昭和30年以降現代ドラマ
「私は貝になりたい」(昭和 33 年:橋本忍)「七
人の刑事」(昭和 36 年:大津皓一)「男はつらい
よ」(昭和 43 ~ 44 年:山田洋次ほか)「相棒」(平
成 12 ~:輿水泰弘ほか)など全 24 冊
⑫アニメ
「サザエさん」(昭和 44 年~)「アルプスの少女
ハイジ」(昭和49年)「ヤッターマン」(昭和52年~)
「仮面ライダーBLACK」(昭和 62 年~) など
全 6 冊
⑬ドキュメンタリー
「世界の先生たち」(昭和 55 年:野村六助)「F
NN報道特別番組 今、旅立ちJR」(昭和 62 年:
熊谷知津)「ムツゴロウの動物おもしろ報告」(平
成 8 年:南川泰三)など全 8 冊
⑭バラエティ・音楽
「ゲバゲバ90分」(昭和 44 年:奥山侊伸ほか)
「8時だョ!全員集合」(昭和 44 ~ 60 年)「夕や
けニャンニャン」(昭和 60 ~ 62 年:秋元康ほか)
「ザ・雪まつり」など全 21 冊
展示総計  全脚本167 冊
16 年:合田一道)「銀ビルを回せ!」(平成 20 年:
成樹久美子)「氷の下で」(平成 21 年:柳橋克哉)
など全 13 冊(書籍・CD 含む)
④北海道が舞台のテレビ・映画
「氷点」「北の家族」(昭和 48 年:楠田芳子)「挽
歌」(東映 昭和 50 年)など全 6 冊
⑤市川森一・倉本聰コーナー
「淋しいのはお前だけじゃない」(昭和 57 年:
市川森一)「幽婚」(平成 10 年:市川森一)「ばん
えい」(昭和 48 年:倉本聰)「ホンカンがんばる」
(昭和 49 年:倉本聰)など全 12 冊
⑥横光晃・佐々木守コーナー
「母系家族」(昭和 36 年:横光晃)「燃える女」
(昭和 57 年:横光晃)「コメットさん」(昭和 42 年:
佐々木守)「天下御免」(昭和 46 年:佐々木守)
など全 12 冊
⑦向田邦子・岩間芳樹コーナー
「オレンジの季節」(昭和 46 年:向田邦子)「石
狩の野に」(昭和 34 年:岩間芳樹)「鉄道員(ぽっ
ぽや)」(平成 11 年:岩間芳樹)など全 14 冊
⑧戦前から戦後のラジオドラマ
「なぜなぜ座談会」(昭和 11 年:柚木卯馬)「向
こう三軒両隣」(昭 22 年:八住利雄ほか)「鐘の
鳴る丘」(昭和 22 年:菊田一夫)など全 12 作品
⑨NHK大河ドラマ
「太閤記」(昭和 40 年:茂木草介)「黄金の日日」
(昭和 53 年:市川森一)「草燃える」(昭和 54 年:
中島丈博)「獅子の時代」(昭和 55 年:山田太一)

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展 示 構 成
日大サイドから「学園ドラマ」「恋愛ドラマ」
「ホームドラマ」など、細分化してコーナーを作っ
て欲しいという要望があった。それに合わせて
10 ジャンルに分けて展示。
また、日大藝術学部出身の放送作家(市川森一、
福井貞則、栗田進二など)の作品も展示した。
①バラエティ 
「8時だョ!全員集合」TBS(昭和44~60
年)や演芸台本など全23冊
②情報・ドキュメンタリー
「Time21」NTV(昭和60年~平成3
年)など全7作品
③ホームドラマ      
「寺内貫太郎一家」TBS(昭和49年:向田
邦子)など全28作品
④恋愛ドラマ  
「電車男」東宝(平成17年:金子ありさ)な
ど全18作品
⑤学園ドラマ 
「熱中時代」NTV(昭和53~54年:布勢博
一)など全12作品
⑥刑事ドラマ 
「古畑任三郎」フジテレビ(平成6年:三谷
幸喜)など全18作品
⑦大河・時代劇 
「龍馬伝」NHK(平成22年:福田靖)など
全29作品
⑧特撮ドラマ  
「ウルトラセブン」TBS(昭和42~43年:
佐々木守ほか)など全9作品
⑨アニメ  
「ひみつのアッコちゃん」NET(現・テレ
ビ朝日)(昭和44~45年:原作=赤塚不二夫、
脚本=雪室俊一ほか)など全18作品
⑩名作・話題作 
「外科医 有森冴子 スペシャル’90秋」
NTV(平成2年:井沢満)など全35作品
展示総計 全脚本・台本197 冊 その他資料
多様な年齢層に好評
「日本大学芸術学部江古田キャンパス・リニュー
アル記念」と題して、2011 年1月 21 日から 25
日まで、練馬区にある同学部テレビスタジオで脚
本展が開催されました
従って、主催は日本大学芸術学部放送学科、共
催が日本放送作家協会 日本脚本アーカイブズと
なりました。
展示台本はドラマ・バラエティを中心に約 200
冊、他に今回初めて「笑点」(日本テレビ)「初笑
いうるとら寄席」(TBS)「えぷろん寄席」(N
ETテレビ)など、1960 年代の演芸台本を展示し、
同学部の落語研究会の学生に好評でした。
江古田キャンパスの学生はもちろん、所沢キャ
ンパスの学生や卒業生も来ました。他大学からは、
筑波大学、東京農工大学、武蔵野音楽大学の学生、
OBが来てくれました。また、高校生もグループ
でやって来ました。
地元商店街のお年寄りも来場して、台本を見な
がら……なつかしい、なつかしいと連発されて、
元気づけられたと帰って行かれたのが印象に残り
ました。
同時開催された「国際ドラマフェスティバル 
in EKODA」にゲスト招待された民放、N
HKの演出家、放送作家も、フェスティバル閉会
後、脚本展を見に来られました。
総計 200 余名の来場者となりました。
同大学の学生の多くは、放送業界就職希望者で、
放送作家志望者もおり、大変参考になったとの意
見が多数寄せられました。
(福井貞則) 
日本大学藝術学部江古田キャンパス
リニューアル記念脚本展

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■総  論
全国区になった「脚本アーカイブズ」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・61
■取  材
早稲田大学演劇博物館 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・62
小田原文学館 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・64
座・高円寺 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・68
川崎市市民ミュージアム ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・69
■オーラルヒストリー
前田武彦氏(放送作家第1期生・司会者・タレント) ・・・71
小山内美江子氏(「金八先生」の生みの親) ・・・・・・・・・・・・77
嶋田親一氏(舞台、TVの名作を演出・制作) ・・・・・・・・・84
■研 究 会
烏兎沼佳代氏(フリー編集者・向田邦子研究の第一人者)
  「向田脚本を全集にまとめて」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・93
寺脇研氏(京都造形芸術大学教授・映画評論家)
  「シナリオを教育分野に生かせるのか」 ・・・・・・・・・・・・95
研究調査部

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化およびその公開法など、脚本アーカイブズとの
対比を報告している。「川崎市市民ミュージアム」
取材では、展示法や教育プログラムとの連携など
について示唆を受けた。
その他、文化財的な史料を所蔵する『国文学研
究資料館』主催の「アーカイブズ・カレッジ」に
参加し、全国から集まるアーキビストと意見交換
した。『印刷博物館』では、展示法を含め、私設アー
カイブズの可能性を調査した。広告とマーケティ
ングの資料館『アド・ミュージアム東京・広告図
書館』においては、周辺資料のデジタル化やデー
タシステムを取材し、商業放送と CM アーカイ
ブズの連携の可能性を見出すことができた。来年
度は、デジタル化研究会にてご指導を頂ければと
願っている。『かごしま近代文学館』については、
リニューアル前の取材であり掲載は控えたが、全
国に分散所蔵されている台本・脚本が想像以上に
多いことに気づかされた。
研究会は2回。講師には向田邦子研究の第一人
者で「かごしま近代文学館」とも関係が深い烏兎
沼佳代氏と、文部省から文化庁を経て退官後、映
画評論家としても活躍する寺脇研氏をお招きした。
オーラルヒストリーの取材では、その有効性を
改めて実感した。脚本・台本が作られる現場、舞
台裏、時代背景が映像のように浮き彫りにされる。
酸性化が進んで色があせた脚本・台本に、新たな
色を差し、その存在価値を高めるのは、オーラル
ヒストリーなのではないか。
今後は、作家が寄贈した地域の文書館、企業の
アーカイブズや個人蔵をくまなく調査し、全国に
点在する脚本・台本を把握することが急務となろ
う。その上で各アーカイブズとの連携の可能性を
探ることが使命と考えている。
誌面の都合で掲載できなかった取材については、
機会を改めて報告していきたい。
(石橋映里)
研究調査部として活動を始め、6年が経つ。
国内外の各種アーカイブズ施設や作家の仕事場
を訪問し、研究会を重ね、学会やシンポジウムに
積極的に参加した。最近では、活動を説明する前
に「記事で読んだことがあります」と言われるこ
とが多く驚かされる。「脚本アーカイブズ」が研
究者だけでなく一般的にも認知され、全国区にな
りつつある。そこで本年度、研究調査部では一歩
踏み込んだ研究を試みた。
一歩踏み込んだ研究
まず書誌データの作成方法を見直し、「脚本アー
カイブズ」としての基準(スタンダード)を検討
している。
書誌データ作成および分類法研究については、
筑波大学の図書館情報メディア研究科の緑川信之
教授・谷口祥一教授にご教示頂き、進むべき道の
大枠が見えてきた。脚本アーカイブズ「書誌デー
タ」の Web 公開は、その成果物といえるだろう。
今後はさらに検討を重ねたい。
基準作りの前提として、脚本・台本を「図書」
とするか「史料」と捉えるかの決定も重要となる。
この点、「文化アーカイブズ活性化シンポジウ
ム」の中で、パネリストの国立国会図書館・長尾
真館長が『数十部から 100 部以上プリントされて
いるものは出版物としてみなすことは可能』と発
言された。脚本を「図書」として位置付けた上で、
寄贈された周辺資料や、進めている「オーラルヒ
ストリー」記録と共に、史料群と捉えて分類する
ことも一案であろう。
従来から継続する調査研究として、今回は専門
アーカイブズを中心に訪問取材した。
その中で、運営方法や書誌データについての取
材と共に、企画展などの社会還元方法、デジタル
全国区になった「脚本アーカイブズ」

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早稲田大学坪内博士記念 演劇博物館
早稲田大学早稲田キャンパス内にある演劇博物
館を訪れた。大隈講堂に次ぐ古い建物で、多くの
貴重な演劇コレクションと出合うことができる。
演劇博物館の取材は平成 17 年度にも行っている
が、データベースをはじめ、デジタルアーカイブ
がさらに充実したという印象だ。
竹本幹夫館長とデジタルアーカイブ室勤務の大
野博子さんに、アーカイブのデジタル化を中心に
お話を伺った。
■概 要
1928(昭和3)年、坪内逍遙博士により設立さ
れ、当初は 2 万 5000 点の錦絵資料と逍遙寄贈資
料からスタートした。 演劇博物館を略した通称
「エンパク」は、坪内博士が命名したもの。
コレクションは、多くが演劇関係者、研究者な
どの寄贈に支えられ、購入も行なっている。錦
絵 4 万 6000 点、舞台写真 20 万枚、図書 15 万冊、
その他衣装・人形などの演劇資料 5 万 2000 点を
合わせて数十万点。世界の演劇・映画・舞踊・民
俗芸能の関係資料が集まり、コレクションは日々
増え続けている。それ以外にも、ポスター・パン
フレット他の紙資料や、写真関連資料、映像、音
源など膨大な資料が所蔵され、収蔵庫の確保に苦
慮しているという。
常設展示のほか、企画展示も充実し貴重な演劇
資料、写真や衣装なども堪能できる。取材時、企
画展示として「第三エロチカの時代 1980 ~ 2010
解散記念展」「森繁久彌展-人生はピンとキリだ
け知ればいい-」「二世 市川左團次展-生誕 130
年・没後 70 年によせて- 」が開催されていた。
企画展示などに合わせ、博物館主催の講演会や実
演も行われる。
図書室は学外の利用者にも開放され、充実した
データベースも検索でき、資料の閲覧も可能であ
る(貴重書など一部事前申請が必要)。
脚本・台本は、図書資料として配架されるもの
の他に、個人コレクションに分散しているため、
個別にカウントしていないが、概算で数万冊を所
蔵。杉村春子氏直筆入り台本などがある。テレビ・
映画脚本は立命館大学のアートリサーチセンター
でデータ化されたものが4万点。歌舞伎の台本(台
帳)や浄瑠璃本正本などの古典籍までも台本とと
らえると膨大な所蔵数にのぼる。
■デジタルアーカイブ
演博では①資料整理、②デジタルコンテンツの
作成、③インターネット公開という流れでアーカ
イブが構築されている。
特に世界最大の役者絵(錦絵)コレクション
4万 6000 点すべてをデータベース化して公開し
ている点は、世界有数の演劇研究機関の定評にふ
さわしい(次頁写真)。さらに、その役者絵・貴
重書の書誌データは専門研究会で現在も一枚一枚
考証によるデータ蓄積を続けているという。
また、現代演劇の上演記録データベースでは、
上演資料(プログラム、台本、チラシ、チケット、
ポスター、写真など)を元にデータ入力をしてい
る 。
デジタルアーカイブへのアクセス件数 は、平
成 21 年度 2100 万件。国外からのアクセスも多い。

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■デジタルアーカイブの課題
デジタルアーカイブは利便性の高い検索能力を
有するが、一方、データの安定性に乏しく、記憶
媒体やソフトなどの進歩に応じて、データを変換
していく作業が必要となり長期的には信頼性が低
い。そこで永続性のある「現物」のアーカイブと
デジタルアーカイブの併用が必要となる。
「和紙と墨による資料は、1000 年以上も失われ
ることがない」という竹本館長の言葉が印象深
かった。
見学したデジタルコンテンツの作成現場は校舎
の教室を改装されたもので、使いやすいように内
装の改良を重ね、本格的な貴重書デジタル撮影が
できる工夫をしている。インターネットで観てい
た色鮮やかな資料群が生みだされる現場には、資
料を扱う学芸員の方々の情熱が感じられた。
■脚本アーカイブズとの対比
デジタルデータだけでなく、現物所蔵の重要性
を改めて伺えた点でも、脚本アーカイブズとの共
通性を感じた。「演博」の素晴らしさは、そのコ
レクションの量と質の高さにあるのではないか。
それに加え、研究機関が母体となっている点も重
要な意義があると考えられる。
歌舞伎が生まれた当初は、大衆娯楽に過ぎな
かったものが、300 年にもわたってスターを生み
出し続けたことで伝統へと昇華した。そう考える
と、ドラマのみならず、日々生まれるバラエティ
や、放送の隙間を埋める通販番組が「伝統」へ
と変わる日が来るかもしれない。AKB48 もまた、
100 年後には「クールジャパン現象を伝える伝統」
として継承され「新・梨園の世界」と呼ばれる日
が来るかも知れない。そんな未来を思い、今こそ、
大衆文化の象徴とも言える、放送台本・脚本を集
める意義を、改めて考えさせられた取材であった。
(石橋映里・三原治)
われる
深かっ
は校舎
うに内
撮影が
観てい
は、資
重要性
との共
のコレ
か。そ
も重要
ぎなか

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小田原文学館
小田原文学館とは
幕末の志士で元宮内大臣・田中光顕伯爵が別邸
として建築。昭和 12 年建築の洋館と、大正 13 年
に建築された純和風の別館は、ともに国の登録有
形文化財に指定されている。
常設展示は、小田原出身作家の作品等を紹介。
明治以降に活躍した文士たちの愛用品や写真、
原稿などが飾られている。
今回、同館で開催された「首藤剛志展~小田原
ゆかりのシナリオライター」(平成 22 年 3 月19
日~ 4 月 18 日)を取材した。アニメ脚本のカラ
フルな表紙が展示室を彩どり、関連作品のアニメ
グッズ、フィギュア、セル画、ファンから送られて
きた手作りの首藤氏の人形などが並べられていた。
寄贈者の首藤剛志氏、小田原市教育委員会生涯
学習部図書館長・鈴木健氏、学芸員の大橋賢一氏
にお話を伺いながら「特別展示」を閲覧するとい
う貴重な体験ができた。
首藤剛志氏について
首藤剛志氏は、1949 年福岡生まれ。幼少時は
父親の転勤で東京、札幌、奈良などで過ごす。
大学受験の予備校代わりにシナリオ研究所に通
い、19 歳でテレビ時代劇「大江戸捜査網」の脚
本を執筆。しかし、納得のいかない直しの作業や、
人情物を描かされるのを嫌い、テレビドラマの脚
本から離れる。以
後 8 年ほどドラマ
の企画書や少女漫
画のプロットを書
きながら教育機材
などのセールスマ
ンの仕事をして過
ごす。仕事で貯めたお金でヨーロッパを放浪して
帰って来た時に、知り合いの脚本家・宮内婦貴子
氏の紹介で『まんが世界昔ばなし』でアニメの脚
本家として再デビュー。その後、『巴里のイザベル』
『まんがはじめて物語』などのアニメ作品のシリー
ズ構成・脚本を手掛け、『魔法のプリンセスミン
キーモモ』『アイドル天使ようこそようこ』『ポケッ
トモンスター』などのヒット作品を手掛け現在に
至る。
首藤氏と小田原との関わり
首藤氏は、昭和 63(1988)年から 17 年間、小
田原市早川に居住し、この地で数々のアニメ脚本・
小説・ミュージカル台本などを執筆していた。
平成 17(2005)年、東京に転居するにあたり、
アニメーション関連の資料を図書館に寄贈。図書
館は 1400 点余りの資料を「首藤剛志氏寄贈資料」
として目録をホームページ上で公開。これらの貴
重な資料の存在を広く知ってもらい、アニメー
ションにおけるシナリオの役割を広く理解しても
らうことを目標として、今回の第 17 回小田原文
学館特別展「首藤剛志展 小田原ゆかりのシナリ
オライター」を開催。特別展後も、文学館の常設
コーナーに首藤氏のコーナーとして1ケース分の
展示スペースが増設される予定である。
「首藤剛志展―小田原ゆかりのシナリオライター」
 展示について
以下、首藤氏から伺った解説をもとに展示品を
紹介する。

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①テレビドラマ脚本
『大江戸捜査網』「帰ってきた花嫁」
首藤氏の処女作。時代劇の脚本はこれ1本でし
ばらく脚本の世界から離れる。
『愛LOVEナッキー』「小さな動物園」
『GO!GO!チアガール』「飛ばないカップル」
アニメで再デビューを果たしてから、アイドル
物のテレビドラマも手掛ける。これらのシリーズは、
日活ロマンポルノ出身の監督たちが面白がって
作っていた。『GO!GO! チアガール』では、1話 30
分のドラマにサッカーの試合シーンを書いて、と
んでもない数の登場人物を出すなどハチャメチャ
をやったことで名前が知れ渡り、ファンの女子高
生から手作りの着せ替え人形が送られてきた。
②初期のアニメーション脚本
『まんが世界昔ばなし』「かしこいコヨーテ」
宮内婦貴子氏の紹介でアニメーシヨン脚本家と
して再デビューを果たした作品。
『まんがはじめて物語』『まんがなるほど物語』
シリーズ構成を手掛けた作品。監修は小松左京
氏。「~はじめて物語」では時代考証よりも、な
ぜそれが始まったのか「必要性」を描くように心
がけて作っていた。
『戦国魔神ゴーショーグン』
シリーズ構成・脚本担当。小学生の主人公の成
長物語になっているが、個性溢れるメカ操縦士た
ちのキャラクターに人気が集まった。
昭和 56 年のアニメ雑誌の人気投票で『さらば
銀河鉄道 999』に次いで 2 位になった作品。
『巴里のイザベル』
パリを舞台に“「ベルばら」のような作品を作る”
と制作会社に企画を通し、実際にはフランス革命
ならぬ普仏戦争、パリ・コンミューンの血生臭い
時代を舞台に成長する少女の姿を描いた。
『杜子春』
日本初のステレオアニメ。TBS の開局記念番
組で、監督・斎藤武市、音楽・山本直純、出演・
宇野重吉。芥川龍之介の短編小説を1時間半のア
ニメーションに膨らませた。
『さすがの猿飛』
主人公たちが英語の授業を受けているという設
定の英語版レコードの脚本も併せて展示。
『宇宙戦士バルディオス』
筒井ともみ、金春智子などの若手脚本家と仕事
をしたが、プロデューサー、ディレクターを通さ
ず、首藤氏が責任を持って脚本監修をした。
③ミュージカル脚本
『ピノキオの冒険』
夏休みに全国巡回する子供向けミュージカル。
長崎公演の時には、雲仙普賢岳の噴火で心に傷
を受けた子どもたちに配慮して、戦場で大砲が鳴
るシーンを別のシーンに書き換えた。
④シリーズ企画アニメーション脚本
『魔法のプリンセスミンキ―モモ』
第1シリーズはテレビ東京で放送されたが、第
2シリーズは読売テレビで放送。脚本と併せて、
日本アニメーター・演出協会代表理事長(当時)
芦田豊雄氏直筆のセル画や、ファン手作りのフィ
ギュアが展示。
『銀河英雄伝説―わが征くは星の大海―』

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映画版 シナリオ。原稿『銀河英雄伝説によせ
て 面倒臭がらない人々』
テレビ版でもBGMにはマーラーなどクラシッ
クの名曲を使用。映画版の第4次ティアマト会戦
のシーンで首藤氏が「ボレロのような曲を」と注
文し、実際に使用されたという。
⑤小説『都立高校独立国』の世界
『都立高校独立国』
設定資料・原稿、および小説本(1989 年徳間
書店刊)
渋谷区松濤にある都立松濤高校が日本からの独
立を宣言し、実行するという壮大なスケールの小
説。設定資料には、首藤氏自筆の渋谷区の地図が
あり、独立反対派から守るために、明治神宮など
渋谷の地の利を生かした作戦を練った跡が見ら
れる。1993 年にNHK ‐ FMの「青春アドベン
チャー」の枠でラジオドラマ化。その脚本(脚色・
菊池有起)も併せて展示されている。
⑥ヒットアニメーションの数々
『アイドル天使ようこそようこ』脚本
首藤氏がシリーズ構成を担当しているが、シ
リーズの半分以上は、医者、アクセサリー製作者
などの素人作家が脚本を書いている。
『ポケットモンスター』一話二話シナリオ
『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』
シナリオ
首藤氏が担当したポケモンテレビシリーズの脚
本とともに、アフレコ用の台本も展示。
同じシーンが並べてあるので、動く画像に合わ
せてセリフを入れる脚本と、アニメーターにス
トーリーを伝える普通の脚本との書式の違いがみ
られて興味深い。
絵コンテで描かれるシーンの秒数とセリフの秒
数が合わない場合には、脚本家がその場でセリフ
を書きなおすこともあるという。
企画展展示を見て
以上のシナリオ・原稿・出版販売物以外にも、
アニメーションのレコード録音盤、LDボックス・
VHビデオ、DVDなどの販売物、総数 109 点が
展示。
アニメのキャラクター画像については許可を得
ることが難しく、今回はポスターやパンフレット
に使用することはできなかったとのこと。上掲写
真は今回の企画展パンフレットであるが「首藤剛
志」の名前だけで、どれだけの人が訪れるのか、
文学館としても予測がつかなかったようである。
だが、ホームページで情報を知ったファンが全国
各地から訪れ、根強い「首藤剛志」人気がうかが
えた。
小田原市立図書館の情報デジタル化
小田原市立図書館は町立図書館時代から、郷土
の歴史や文学資料の収集等に意を注いできた。首
藤剛志氏の寄贈された脚本・制作関連資料も含め、
それら貴重資料については、一般図書と取扱が異
VHビデオ、DVDなどの販売物、総数109 点が
展示。
アニメのキャラクター画像については許可を得

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なり、閲覧等希望日の 3 日前までに申請書の提出
が必要。小田原市の図書館ホームページで、貴重
資料の目録や申請書がダウンロードできるという。
また、小田原市立図書館では、それらの貴重資
料の保存やデジタル化にも取り組んでいる。
資料の保存策としては、紙の酸化を防ぐ脱酸処
理のほか、資料の損傷状態に応じた修復など、平
成 19 年度からこれまでに、北原白秋の自筆原稿
など 135 点(約 1000 枚)について実施した。また、
それらの資料を保存する袋も、酸性紙を使わず中
性紙のものとしている。
デジタル化については、資料の保存ということ
以外にデジタル映像による資料の公開を視野にい
れている。現在まで、小田原の旧家から寄贈され
たその家代々に伝えられた古文書等約1万コマの
ほか、昭和 20 年代のスライドフィルム約 260 枚、
録音リールテープ 11 点などの視聴覚資料につい
てもデジタルデータ化している。今後、公開用ソ
フトウェアの開発や、ハード機器の整備等を進め、
近い将来の公開に備えたいとのこと。
首藤剛志氏資料も、いずれは上記の保存策やデ
ジタル化し、後世に伝えていきたいという。
取材を終えて
首藤氏は以前、「素人である脚本家に収集保存
の作業ができるのか」と、我々脚本アーカイブズ
の活動に疑問を呈していたが、今回の取材を通し
て首藤氏の言わんとすることが見えてきた。
◦17年間住んでいた小田原に自身の脚本を寄贈
することで、今回の企画展のように全国から
ファンが見学にくる。観光という形で、縁の
あった小田原市に貢献することができる。
◦首藤氏が寄贈した脚本・関連グッズは小田原
市立図書館に保管されている。専門の図書館
職員が管理・保存してくれるので安心できる。
今後は各地の図書館・文学館と連携しての脚本
の情報共有化を考えていかねばならないと感じた。
具体的には、脚本の収集保存活動と並行して、日
本中の図書館・文学館に誰の脚本が所蔵されてい
るのかを調査し、検索システムの構築が必要と
なってくるであろう。
管理・保存に関しては、地方自治体の一施設で
あるが故、脚本の保存管理だけに人員を割くこと
ができないという厳しい現実もある。その中で寄
贈リストの作成と閲覧システムを構築していった
小田原市立図書館の手法を参考にして、脚本アー
カイブズでも作家別のリストを作成し、閲覧希望
者が検索できるシステムを早急に構築しなくては
ならない。
今回の取材を通して、脚本アーカイブズの今後
の課題も具体的に見えてきたが、それ以上に、脚
本の資料的価値を認めてくれる図書館、その資料
を利活用する文学館の存在を知ったことが非常に
有意義であった。
(追記)
2010年10月29日、首藤剛志氏逝去。
取材ご協力に感謝いたしますとともにご冥福をお
祈り申し上げます。
(入山さと子・清水喜美子)

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との連携により現代戯曲を中心に関連図書、雑誌、
上演台本を収集・保存している。閉架式のため所
蔵資料の貸出は行っていないものの、それらの書
籍情報をデジタル化し、現在約 2800 冊の蔵書検
索を公開。さらに特定の閲覧日を設けて、劇場併
設のカフェで誰でも無料で手に取り、申請すれば
複写も一部可能とのこと。
実物を手にとって閲覧できる形は、保存面だけ
を取るとリスクもあるが、ここ座・高円寺の演劇
資料室では、演劇人口の裾野を拡げ、人材育成に
貢献するという考えを第一に貫いており、演劇を
愛する人々のみならず演劇を学ぶ若者や学生にも
貴重な経験と研究ができる場となっているようだ。
また、座・高円寺で公演した演目の上演台本を
読むことができるのは、劇場ならではの取組みで
ある。
書誌データなどの整理
とはいうものの現代演劇史にとって、戦後すぐ
に書かれた戯曲が掲載された雑誌や図書は貴重品。
一般が入れない書庫には、演劇人から寄贈された
1950 年代発行の演劇雑誌創刊号や、第一号以降
がまとめられている演劇雑誌、初版本など、垂涎
のものが数多く保管されていた。これらの貴重書
をいかに後世へ残すか、その保存方法は今後の課
題、とのことであった。
こうした独自の視点を持つ蔵書アーカイブが演
劇の分野で確実に行われていることを心強く思う
と共に、一日も早く放送界でも脚本アーカイブズ
が確立され、各所と連携できたらとの願いを強く
持った。
 (西沢七瀬・石橋映里・清水喜美子)
杉並区にある「座・高円寺」は、舞台芸術の創
造と発信、及び地域に根ざした文化活動の拠点と
して 2009 年 5 月に誕生した。鉄筋コンクリート
造りの地上 3 階、地下 3 階の建物は、日本の演劇
界を守る要塞のように、まさに異彩を放ちつつ存
在している。
3つの個性的な劇場ホールと併設のカフェの他
に稽古場や舞台美術、音響・映像、衣裳などの製
作室もあり、さらに同年秋には、現代劇の戯曲と
それに関わる資料の収集・保管を行う、独自の専
門性をもったアーカイブ資料室がオープンした。
「座・高円寺」外観 © 宮内勝 
今後の脚本アーカイブズの参考にさせていただ
くべく、企画・制作の川口智子さんにお話を伺った。
台本の収集・保管状況と一般公開について
座・高円寺の企画・運営は、杉並区から指定管
理者として業務委任を受けたアート系NPO法人
「劇場創造ネットワーク」が担当し、区がパート
ナーシップを結ぶ日本劇作家協会の協力のもと行
われている。区民にとって開かれた場でありなが
ら専門性を兼ね備えた、全国でも稀有なホール・
劇場運営のモデルケースとして注目を集めている。
演劇資料室(アーカイブ)は、日本劇作家協会
「座・高円寺」 現代戯曲の収集と保存、
そして人材育成のためのアーカイブ
くべく、企画・制作の川口智子さんにお話を伺った。
「座・高円寺」外観 (C)宮内勝
現代演
の掲載さ
い書庫に
の演劇雑
いる演劇
管されて
すか、そ
った。
定管理
すか、その保存方法は「今後の課題」とのことであ
った。

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存。整理に7、8年かかったが、現在、権利関係
をクリアし、寄贈作品のうち複製、保存の権利を
このミュージアムが保有しているという。
このほか 1981 年より 2000 年まで川崎市が主催
した「地方の時代」映像コンクールに出品された
映像作品が 2370 本。映画監督の神代辰巳氏やテ
レビプロデューサー・演出家の大山勝美氏、それ
にスクリプターとして数々の名作映画に関わった
白鳥あかね氏らの資料を所蔵している。映画シナ
リオや美術監督のスケッチ、大道具のデザイン画、
映画のポスターなど周辺資料の収集保存にも力を
入れている。
脚本など紙資料の収集の基本方針は関係者から
の寄贈である。収蔵庫は写真のように内側に木材
を使用し、常に一定の温度と湿度に保たれ、火災
等の備えにも万全を期している。
2011 年春、日本初の映画の単科大学「日本映
画大学」が川崎市新百合ヶ丘に誕生した。映画監
督の今村昌平が自身のスタッフとともに作った日
本映画学校の延長上に出来たもので、市をあげて
映画・映像文化の育成に力を入れている。
1988 年に「都市と人間」を基本テーマに誕生
した川崎市市民ミュージアム(写真上)も、川崎
市が総力をあげてつくりあげた。等々力緑地の広
大な面積に陸上競技場や硬式野球場、サッカー場
などのスポーツ施設とともに開設した複合市民
ミュージアムである。
施設は大きく分けて「市の歴史博物館」と「美
術・文化」部門とに区分けできる。後者は写真や
漫画、グラフィックアート、映像などの「複製芸
術」の収集・展示に力を入れている。
学芸員の岩槻歩さん(映像部門映画担当)、濱
崎好治さん(映像部門担当)にお話を伺い、館内
をご案内いただいた。
豊富な映像関係の資料
保存している資料は映画関係が主体で、地元川
崎市に縁の人や組織の寄贈したものが多い。脚本
家・山田太一氏関連の資料もあるが、放送関係の
脚本は少ない。「映画の町」をうたっているだけ
に映画関係の資料が豊富だ。
圧巻はテレビ・ドキュメンタリーの草分けとも
いうべき牛山純一氏から寄贈された「すばらしい
世界旅行」など 1000 本ほどの映像作品だ。作品
の企画書や採録台本、さらに手書き原稿なども保
川崎市市民ミュージアム

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運営上の泣き所はスタッフが少ないこと。現在
フィルム(映画が中心)については担当の学芸員
が1人でほかに嘱託1名。ビデオ作品については
担当の学芸員1人と週2日勤務の嘱託2名。「こ
れでは膨大な資料の整理にはまったく不十分です。
しかし、限られた予算の中ではこれが精一杯」と
担当学芸員。
いずれにしても地元に密着した複合ミュージア
ムとして我が国には珍しい存在で、このミュージ
アムの存在そのものが川崎市のイメージアップに
大きく貢献している。
(香取俊介・清水喜美子)
社会還元
「博物館」「美術館」部門とも収蔵品はホームペー
ジの「蔵書検索サービス」で検索できる。ただし、
著作権や肖像権などの問題からインターネット上
の検索から外している収蔵品もあるとのこと。
脚本・台本については書誌情報などのデータ
ベースをファイルメーカーで作成しているが、一
般には公開していない。しかし、「特別利用制度」
枠を設け、研究者や映像関係者に所蔵の映像、シ
ナリオ等への閲覧を許可している。
これまで映画の美術監督・木村威夫氏の企画展
や映画誕生 100 年博覧会など、この館らしい特色
のある企画展を行ってきた。
また館内の映像ホールでは所蔵の映画やビデオ
の上映会を催している。
ミュージアムライブラリーでは、ビデオコー
ナーでのビデオ視聴や、検索端末が利用でき
る。ホームページ上では公開できない収蔵品も、
ミュージアムライブラリーの検索端末からは見る
ことができる。
また、図書コーナーが新設され、1300 冊のマ
ンガをはじめ、市民ミュージアムで行われた展覧
会図録や発行書籍など蔵書約 8000 冊の書籍の閲
覧ができる。

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NHKは渋谷ではなく内幸町にあって、初めて台
本を書いて持って行ったのも、映像になるのを見
たのも内幸町の放送会館。
担当ディレクターがその場で原稿を読んで即O
K。印刷に回して、翌日、生まれて初めて自分の
書いたテレビ台本を手にしました。思ったより分
厚くて立派でしたね。
刷り上ったばかりの台本2冊を、日本放送協会
と書いてある大きな袋に入れてもらって、それを
抱えて国電の新橋駅へ向かいました。あの頃、駅
前の広場で関心を集めていたのは、8 月 28 日に
放送を開始した日本テレビの街頭テレビでした。
民間放送も悪くない。いつか日本テレビでも台
本が書けたらいいな、なんて思って…間もなく民
放でも書くようになりましたね。森繁久彌とか、
大人のものです。その頃から森繁さんはスター
だったからね。
――デビュー作の思い出は?
デビュー作が放送される日、放送時間の 5 分前
には、NHKテレビスタジオのサブ(副調整室)
の隅にいました。15 秒前からカウントダウンが
始まって、「こどもの時間」のタイトル音楽「ら
んらんらん」がスタート。モニターテレビの画面
に原作に続けて、脚色・前田武彦って文字を見た
時は、嬉しくて、感激で、危うく涙が出そうにな
りました。
デビュー当時のことですが、覚えているのは、
番組終了の午後 7 時より 5 分も早く終わってし
まった時のこと。30 分の生放送が 25 分で終わっ
てしまったんですよ。その後、5 分をどうしたか
というと、ディレクターが「それでは、金魚お願
いします」と、次の番組が始まるまでのつなぎに
金魚が泳ぐフィルムの映像が流れたんです。エン
ドレスの映像になっててね。その逆に、30 分で
は収まらず、長くなってしまうときは、次の番組
に「ちょっと押しますのでよろしく」って、延長
して、次の番組のスタートをずらせてもらうんで
す。テレビってそんな風で良いと思うね。何分何
秒って終わるもんでもないし。
■プロフィール
1929(昭和4)年4月3日東京生まれ。戦争中は予科練に
在隊し、特攻兵器「蛟龍(こうりゅう)」訓練を受ける。
戦後は鎌倉アカデミア演劇科に入学。村山知義や服部之
総に学ぶ。同期に後の作曲家・いずみたく、俳優・高松
英郎がいた。
卒業後、1953年開局当初のNHKテレビ「こどもの時
間」で脚本を執筆。青島幸男、永六輔らと共に、放送作
家の1期生として活躍。
1960年代に入り、『フレッシュイン 東芝ヤング・ヤン
グ・ヤング』(ニッポン放送)などラジオ番組のパーソ
ナリティーとして、タレント活動に主軸を置き、1968年
から放送の『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)の司
会者で、「マエタケ」の名で知られる人気司会者へ。大
橋巨泉とともに“マエタケ・巨泉”の一時代を築いた。
■テレビ放送開始の当時
――放送作家の仕事を始めたのは?
NHKがテレビの本放送を始めた時だから、
1953 年あたりですね。元々映画の仕事をしたくて、
テレビは映像だから良いかなと思いました。勤め
ていた貿易会社をクビになって、鎌倉アカデミア
演劇科時代の同級生に誘われて脚本を書くように
なりました。
児童劇団のこぐま座がかかわったテレビ番組の
「こどもの時間」(NHK)で、影絵の人形劇でした。
とはいっても、アマチュアにすぎないので、実際
どう書けばいいのかわからない。用紙も、テレビ
原稿用紙ではなく、原稿用紙を買ってきて、線を
引いて画面と音声を書き込む自分流のテレビ台本
を鉛筆で書いて、NHKへ向かいました。当時、
オーラルヒストリー
テレビ作家一期生で放送タレントの第一人者
前田武彦さん

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て言えるんだろうけどね。
テレビは「マイナー」でラジオが「メジャー」
な時代でした。こんな世界で食べていけるのかな、
なんて思いました。テレビ放送が始まった当初は、
まだラジオの方が「大手」。スタジオもほとんど
がラジオ用で、私が最初に使ったテレビのスタジ
オは真ん中に大きな柱が立っていて不便でしたよ。
元々、事務室か何かだったんでしょうね。テレビ
の仕事をしていて「自分は日陰の身だな」と思っ
たものでしたよ。
ラジオの脚本を初めて書いて、やっと自分も一
人前になったと思いましたね。家を借りようと
思って、家主さんに私業を聞かれて、「テレビの
仕事」と答えると、テレビを作っているところ(家
電メーカー)と間違われたりしてね(笑)
でも仕事は面白かった。新しいことをいくらで
も試せましたからね。画面の隅から別の画面が拭
い取るように広がって切り替わる「ワイプ」とい
う手法もやりました。放送会館の中もテレビのス
タジオが増えていきましたし、伸びている業界で
自分が働いているという実感がありましたよ。
――ラジオの仕事を初めてしたのは?
中村メイコ主演のコメディー「東京チャキチャ
キ娘」など週5本のレギュラーを売れっ子作家の
三木鮎郎のピンチヒッターとして、神吉拓郎、津
瀬宏、前田武彦が起用されたんです。
――永六輔さんとも、その頃会われたのですか?
永さんとは、テレビが最初でした。夏のある日、
日本テレビの鉄塔下のレストランで、プロデュー
サーの北川から紹介されました。
「エイロクスケデス」
全部、カタカナに聞こえました。彼は当時、三
木鶏郎グループの冗談工房に属していて、風刺コ
ントやギャグを書いていました。ラジオでは「日
曜娯楽版」、テレビでは「光子の窓」をやってたね。
その他のテレビ一期生でもある青島幸男は、「お
となの漫画」(フジテレビ)。その日の新聞からネ
タを探して台本を作り、クレージーキャッツが時
――フジテレビで「オールナイトフジ」がその形
式でしたね。終わる時間がわからないってもので
したね(奥山)。
フジテレビってそういうとこが、進んでるんだ
よね。もっと自由スタイルがあってもいいよね。
NHKで最初に書いた脚本は怪盗ルパンの影絵
劇で、モーリス・ルブラン原作『ルパン』から「奇
巌城」を連続物で仕上げました。メルヘンや教育
的な劇ではなく冒険活劇。元々、映画の仕事をし
たいと思っていたから、それを影絵劇でやったと
いう感じでしょうか。先輩がいない世界ですから、
ディレクターも作家も手探りで、「一体こんなこ
とをやって、誰が見ているんだろう」という感覚
でしたよ。でも僕が子どもの時に子守をしてくれ
た女性が、私の名前を見て連絡をくれた時は、「テ
レビって凄いんだな」と思いましたね。
■NHKから民放へ
――民放の仕事はいつから?
「こどもの時間」の仕事をやってる時、道で偶
然出会った小学校時代の友人が日本テレビの社員
で、若いディレクターの北川信と千本福子を紹介
してくれたんです。この二人からもらった仕事が、
子供向けの完全オリジナルの 15 分ドラマ「どん
ぐり日記」。人形劇とは違う、人間が演じるオリ
ジナルの現代劇です。出演者は子役が中心、近藤
圭子、小鳩くるみ、浅丘ルリ子が子役でね。浅丘
ルリ子は、可愛くて、色っぽかったね。
 
――もう脚本家としての自信などはありましたか?
テレビ・ラジオの脚本家を総称して放送作家と
呼びますが、当時は、まだ自分が放送作家だとい
う認識は持っていませんでした。その頃は、テレ
ビしか経験していませんでしたから。テレビはま
だもの珍しいだけで、実生活の中には溶け込んで
いない。だから、ラジオドラマやバラエティを書
いて著名な人が「放送作家」だと思っていました。
菊田一夫、小野田勇、キノトール、三木鶏郎、彼
らくらいになれば「放送作家です」って胸を張っ

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人に仕事の場を紹介し、新人たちは忙しい先輩が
手一杯の時はピンチヒッターをこなしました。
先ほどの、ラジオ東京(現TBS)の連続ラジ
オドラマ「東京チャキチャキ娘」も、三木鮎郎先
輩の原稿が間に合わなくなったからでした。
■タレントとしてのスタート
――司会などを始めたきっかけは?
ニッポン放送の大木恵子ディレクターが担当す
る映画スターのDJ台本を書いていたとき、「前
田さん自身でしゃべったらどうか」と提案されて
ね。そんな思い出もあるけど、ラジオでしゃべる
仕事が始まったのは、ラジオ関東(現ラジオ日本)
開局の日から 13 年間も続いた「昨日の続き」の
存在が大きいですね。
この番組もDJの台本を書く予定でした。DJ
は原田洋子で共作の永六輔と担当するはずだった
んだけど、原田のしゃべりが気に入らない。そこで、
原田と一緒に永さんと私がしゃべることになった
というわけ。「今日の話は昨日の続き、今日の続
きはまた明日、提供は参天製薬、声とアイデアは
永六輔、前田武彦、それに私、原田洋子」という
私が作った番組冒頭のコメントが印象的でしたね。
原田の後は女優の富田恵子(草笛光子の妹)に
代わって、結局、永さんは途中で抜けてしまいま
した。それで、大橋巨泉やはかま満緒がその後を
担当してくれました。フリートーク番組の草分け
でね、話題は無限で、世相から身近な出来事に至
るまで好き勝手に自由自在な番組でしたね。
ニッポン放送では「ヤング・ヤング・ヤング」
でDJ担当。これも 12 年以上の長寿番組になり
ましたね。多彩なゲストと出会えたことと、日本
各地を取材できたのが印象的。あの頃のラジオは
テレビより豊富な制作費を持っていたからね。
――当時の前田さんの肩書きは?
それまではね、職業欄には「放送・あるいはテ
レビ作家」と書いていましたが、テレビ番組が増
えて「タレント」という職業が生まれて、「テレ
ビタレント」と書くようになりました。
事風刺主体のコントを演じる。青島は台本だけで
はなく、自ら画面に登場して「青島だぁ」と台詞
を吐いた。この作者が画面に登場するというギャ
グは、私の方が早かったんです。
「どんぐり日記」をきっかけに日本テレビの仕
事が増えて、ジャズ評論の大橋巨泉とも友人に
なったし、何人かのプロデューサー、ディレクター
とも知り合えましたね。
日本テレビの白井荘也もその一人でした。彼が
初めて担当するという音楽バラエティー「茶の間
のリズム」の台本を私に依頼してきたんですよ。
毎回、ミュージシャンやジャズ歌手が出演する番
組で、私にとっても大事な番組です。この番組の
司会も変わっていました。17 歳の女子高生だっ
た三田佳子だったんです。私も“変な作者”とし
て毎回出演していました。
――日本放送作家協会というのはまだ出来てない
頃ですよね?
1958 年に東京ライターズという名の草野球
チームが誕生しました。チーム結成を記念して発
行された機関誌「ベースボールライフ」もありま
したね。
第1号のトップの見出しには、「東京ライター
ズ結成!――放送関係の作家・作曲家で――放送
関係の作家・作曲家は物凄い体力が必要です。よ
い仕事はよい身体から、それには野球で身体をき
たえましょうと此度同士が集まりました。毎週一
回試合を実行します(原文のまま)」とありました。
東京ライターズの総メンバーには、監督キノ
トール、主将神吉拓郎、投手陣には小野田勇、菜
川作太郎、西島大、能見正比古、野手には永六輔、
牟田悌三、関光夫、三木鮎郎、高垣葵、藤田敏雄、
富田勲、神津善行、前田武彦、他にも、「カメラ」
「応援」「評論」なんて肩書きも。
チームも強かったのよ。佐々木信也や南村侑広
という元プロ野球選手もいたね。
この東京ライターズというのが、日本放送作家
協会発足のきっかけになっているんですよ。放送
作家の仕事の横の繋がりも作りました。先輩は新

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「テレビ・ナイトショー」「ゴールデン洋画劇場」
と何本も司会者としてレギュラー出演してました。
一番忙しい時期だったかもしれませんね。
1968 年「お昼のゴールデンショー」は突然の
大役でした。コンビを組んだのは、まだ世に出る
前のコント 55 号。若い人たちをターゲットにし
た笑わせるショーを目指しました。今で言う「笑っ
ていいとも」ですね。時間も正午から 1 時間でフ
ジテレビ。「笑っていいとも」のルーツと言って
もいいのかもしれません。公開番組で有楽町のビ
デオホールが会場でした。コント 55 号は、日替
わりでまったく未発表のコントをやるわけです。
コント作家も大変だったと思いますよ。
「夜のヒットスタジオ」に抜擢してくれたのは、
放送作家の先輩である塚田茂さん。私がDJを
やっているニッポン放送の「男性対女性」を聞い
ていて、芳村真理と出ている時、その掛け合いが
気に入り、「このコンビで行こう!」ということ
になったそうです。1 時間の生放送の歌番組。月
曜の夜 10 時から。当時はその時間帯に賑やかな
歌番組みなどは考えられなかったんだけどね。
心配されて始まった「夜のヒットスタジオ」も、
回を重ねるごとに視聴率も上昇し、20%を超えて
ついには 30%のラインも突破してしまった。
この番組には語り継がれているエピソードが多
いね。女性歌手たちが本番中に泣き出すというハ
プニングもその 1 つで、「泣きのヒットスタジオ」
とか「泣かせの名人マエタケ」なんてことも言わ
れました。
「夜のヒットスタジオ」に続いて「テレビ・ナ
イトショー」もやりましたね。放送時間帯は、夜
11 時から 1 時間の生放送。日本テレビの「11 PM」
に対抗して大人の番組を意識した情報番組で、司
会は私と豊原ミツ子でした。
■伝説の「巨泉×前武ゲバゲバ90分」のこと
――大橋巨泉さんと共演するきっかけは?
巨泉は「11 PM」をはじめ日本テレビをホー
ムグラウンドにしていて、私は「夜のヒットスタ
ジオ」などフジテレビが中心でした。お互いに巨
■「シャボン玉ホリデー」のこと
――バラエティ番組の黄金時代を築いた「シャボ
ン玉ホリデー」との関わりは?
「魅惑の宵」で親しくなっていた日本テレビの
秋元近史から連絡が入って、日劇のザ・ピーナッ
ツを一緒に見てくれと頼まれてね。彼女らを新番
組の主役に考えてとのこと。双子の彼女たちは顔
も歌もかわいく新鮮でしたね。日劇近くの喫茶店
で新番組の打ち合わせ。スポンサーは牛乳石鹸だ
から、タイトルには「シャボン玉」を付けること。
ザ・ピーナッツの他にクレージーキャッツをレ
ギュラー出演させること。音楽は宮川泰、作詞は
私が担当。「シャボン玉ホリデー」の初回から1
クール(13 回)ほどを一人で書きました。最初
のメンバーには、津瀬宏、青島幸男らがいましたね。
この番組には独特の新しいギャグが満載でした。
寝たきり老人のハナ肇にピーナッツ扮する娘がお
粥を運んでくる。「父さん、お粥が出来たわよ」「い
つもすまねえな」という決まり文句の後は、滅茶
苦茶ハッピーなオチで終わるコントでした。
植木等の「お呼びでない」も一世を風靡しまし
たね。このギャグは「魅惑の宵」で私がやった関
係のない登場人物が突然現れ、「お呼びじゃないね、
こりゃまた失礼」の台詞で全員がズッコケるとい
うもので評判のコーナーになりました。
番組のフィナーレではザ・ピーナッツが「スター
ダスト」を歌い、ロマンチックなムードの中にハ
ナ肇が登場して場違いな台詞を言うと、ザ・ピー
ナッツにひじ鉄砲をもらって退場するという場面
も定番でしたね。
この番組で渥美清とも出会っています。まだ有
名になる前で、レストランのボーイ役で登場させ
ましたが、端役なのに存在感はありましたね。
■フジテレビ時代について
――NHKから民放の日本テレビ、タレントとし
てはフジテレビの仕事が続きますね?
ある時期からフジテレビの仕事が増えましたね。
「お昼のゴールデンショー」「夜のヒットスタジオ」

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の沓脱タケ子候補の応援演説で「月曜の夜はテレ
ビの生放送です。沓脱さんが当選されたら、その
生放送でバンザイを必ずやりますから見ていてく
ださい」という旨の約束をしたんですね。それで
その候補者が当選したから「夜のヒットスタジ
オ」のエンディング時に鶴岡雅義と東京ロマンチ
カの三条正人に「三条君、おつかれさま、バンザー
イ」と両手を上げると三条もつられてバンザーイ
と両手を上げた。共産党のキョの字も言ってませ
ん。これが週刊誌の記事になって出てしまって、
その年の秋に降板。同時に 12 年間続いたニッポ
ン放送の番組も終了。そればかりか他局の大半の
レギュラーもこれと時同じくして降板の憂き目に
遭ったというわけです。
いわれなきバッシングとの思いもあるけど、ど
うでもいいさ。
■今のテレビに一言
――前田さんは、台本がなくても出来るタレント
の最初ですよね。今でこそ、たけしさんやさんま
さんが、台本無しで成立してしまうんですが。放
送作家として台本とはどのようにお考えですか?
私もドラマやコントは台本どおりにやりますが、
フリートークのような見せ方をして、台本がある
のはいやですね。私なんかは、フリートークにし
ても自然と構成ができてしゃべっているけどね。
ただ今のお笑い芸人というのは、そんな喋りがで
きないんだね。台本、脚本のように考えてないん
だ。話しているうちに起承転結ができてオチがで
きるというセンスがないんだね。僕の場合なんか
には、考えてなくても喋っているうちに出来上っ
てしまう。今のタレントさんは、自分で話のオチ
をつけてまとめられる人は少ないね。
今のフリートークで「今のとこ、これね(ハサ
ミで切るしぐさ)」というのは、絶対許せないん
ですよ。言ってはいけないことは、言わなければ
いい。話に責任を持たなければ。
泉はフジテレビにも番組を持っていたし、私も日
本テレビの番組を持っていた。それが「天下のラ
イバル」でプロデューサーは井原高忠。芸能界で
ライバルと言われている二人を他愛のないゲーム
やクイズで対決させるというもの。アシスタント
は井原の希望でうつみ宮土理だった。彼女を「ケ
ロンパ」と名付けたのは私で、彼女の芸能タレン
トとしての最初の番組ともなりましたね。
この「天下のライバル」をステップにして、井
原は私と巨泉を本格的に対決させる番組を企画し
たんですよ。それが「ゲバゲバ 90 分」。90 分間
に 150 本くらいのコントを入れ、新しい音楽、オ
リジナルのアニメーション。キャスティングもス
ゴイ。宍戸錠、ハナ肇、吉田日出子、岡崎友紀、
小川知子、熊倉一雄、萩本欽一、坂上二郎、藤村
俊二、常田富士男、うつみ宮土理。それにメイン
司会が、大橋巨泉と前田武彦というわけ。
「ゲバゲバ 90 分」は、アメリカのテレビ番組
「ラーフ・イン」をモデルにして考えたもので、
コントを羅列して、オープニングや音楽も似てい
たね。二人の男性司会者というのもそっくりだった。
コントの大部分は録画されてて、スタジオには
巨泉と私が出るシーンだけのセットが用意され、
そこだけが生放送なわけ。台本もあって二人のや
りとりが書かれていました。台本では最後に巨泉
の一言でやりこめられるようになっていたが、私
はアドリブでそれを切り返した。すると、スタジ
オ内のスピーカーから井原の怒声が響いた。「勝
手な真似はやめろ、ここはフジテレビじゃない」っ
てね。「ゲバゲバ 90 分」では、生放送と言えども
アドリブは許されなかったんですよ。
この「ゲバゲバ 90 分」は半年しかやらなかっ
たんだけど、そのインパクトは相当大きかったら
しく、今や伝説のバラエティ番組となっているね。
■「夜のヒットスタジオ」
――「夜のヒットスタジオ」降板の原因と言われ
る“バンザイ事件”とは?
1973 年 6 月の日曜、参議院の補欠選挙が大阪
で行なわれることになり、立候補した日本共産党

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てた時に横にいたんですよ。スゴイですよ
ね。
前田 あの唄は稼いだなぁ。
   でも今、奥山さんは、大したもんなんで
しょ? 誰かが言ってたよ。
奥山 そりゃ間違った情報だと思いますよ(苦
笑)
前田 ラジオの番組に出てる?
奥山 北海道のラジオでしゃべってます。それが
ぼけ防止で。でも番組中、しょっちゅう
「ほら、あの…」って、終わるまでに思い
出しますって言うんですけどね。
前田 『ほら、あの』って番組にすりゃいいん
じゃない?
奥山 『ほら、あの、なんだ』ってのにしましょ
うかね。
前田 昔、ラジオの番組で小沢昭一と出たんだけ
ど、あんなに本番中に笑ったことはないよ。
素晴らしい、さすが昭和の申し子だね。
奥山 笑わそうと思ってないのがスゴイですよ。
前田 今の人たちはね、しゃべりができないんだ
ね。昔の人はちゃんと自分で台本が書けた
からね。
前田武彦さんと奥山侊伸
かぶりつきで、生の「マエタケ・トーク」を堪
能させていただき、取材だということを忘れてし
まう時間でした。
(奥山侊伸・三原治・石橋映里)
――昔のテレビと比べて変わった点は?
昔の方が制作者にポリシーがあったように思い
ますね。タレントの方が偉くなると、物が言えな
くなる。今はタレントを捕まえたら、それで番組
は成立する。そして、スタッフがサラリーマン化
してますね。昔は、職人のテレビ屋でラジオ屋で
した。それが今はサラリーマンのテレビマン、ラ
ジオマンになってしまった。給料分だけ働くって
いう感じ。どうしてもテレビをやりたいって気持
ちの人がいなくなっちゃったね。
テレビ局ってのは最初、そんな大きなものでは
なかったですよ。今は、権威になっちゃったね。
テレビなんて、それほどのものじゃないですよ。
テレビの原点を知る人間としては、そこが違う気
がするなぁ。
■取材後記
前田さんの付き人をしていたのが、わがアーカイ
ブズの奥山侊伸。その会話がたまらなく面白いの
で、オマケに掲載してみました。
奥山 いやぁ、よく怒られましたよ。質問がキ
ツイんですよ。ある時、「君は車が嫌い
かい?」「いえ、好きですよ」て言うと、
「ぼくの車に1年乗って、一度も掃除した
ことがない」って。
前田 そりゃ失礼だね~(笑)
奥山 車はずいぶん変えましたよね。高級外車
ばっかり。ぼくは、年中免許を切らして、
助手席に乗せてもらってたんですけど、テ
レ朝からテレ東に行く間のあの距離で寝
ちゃうんですよ。それで先生に「着いた
よ」って言われて(笑)
前田 そういうおおらかなの、好きだったよ。で
も、今思うと、贅沢な付き人だったよなぁ。
奥山 そう言えば、コタツの中で前田さん、アニ
メのテーマソングを書いたんですよ。有名
な…
前田 エイトマン?
奥山 そうです。あの「エイトマン」の詞を書い

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の途端に「それは花魁、つれなかろうぜ」なんて
歌舞伎になっちゃうの。そういうリズムが小さい
時から入っているから、掛け合いなんてセリフが
書けました。
「松山家の人々」を一緒に書いていた大藪さん
は今、舞台を書かれていますが、女性のライター
がこの時期出揃いましたね。橋田壽賀子さんが5
歳年上。大野靖子さん向田邦子さんも一つ違い。
服部ケイさんも同じ頃ですね。
――この世界に入るきっかけは?
女学校を出たら嫁に行かせると思い込んでいる
父親でしたが、私はまだまだそんな気はない頃、
ある映画を見てて「あんな映画なら私が作った方
が面白い」って、監督になりたいと思いました。
なれるわけはないですけど ( 笑 )。
監督になりたかったら、まずシナリオを勉強し
て、脚本家かスクリプターになりなさいと言われ、
見習いから始めました。当時は独立プロの仕事が
多かったですね。
ある時、東映で「力道山」を撮ることになって、
監督はマキノ正博さんに決まって、私は外部から
のスクリプターとして行くことになったんです。
マキノ監督についたときはすごい勉強になりま
した。芸者さんに「そういう立ち方するんじゃな
い。そのときはスネが見えないようにこう立つん
だ。見えちゃダメなんだ。だけど見せたい客には、
さぁっと見せる。そういうことぐらいわかってな
ければダメだ」とかね(笑)。
力道山はお弟子さんをあまり信用しなかったの
で、いろいろ頼まれたりしました。その頃、深作
欣二がカチンコ叩いてたの。それでその次に行っ
たときに佐藤純弥がカチンコ叩いてたの。佐藤純
弥と深作欣二と、そのときは美術やってて後に「キ
イハンター」のプロデューサーになった近藤照男
というのと私と、四人組ができたけれど映画が下
降線を描くと四人組は一時中断しますが、それぞ
れが一本立ちしてからもう一度、仲良し四人組に
■プロフィール
1930年神奈川県生まれ。シナリオ作家・小説家。
主な作品は「マー姉ちゃん」(NHK)「3年B組金八
先生」(TBS)「徳川家康」(NHK)など。
1993年に、「特定非営利活動法人JHP・学校をつくる
会」を設立。カンボジアを主な対象国とし、「学校」や
「教育」をテーマに、人道的な支援を志す心若い人々と
共にボランティア活動を続けている。
――デビュー作は?
デビューは 1962 年のNHKテレビ指定席「残
りの幸福」です。でも当時のNHKのギャラはと
ても安く、子どもを育てられないので、1963 年
の「松山家の人々」(NTV)で、大藪郁子さん
と二人のレギュラーをとりました。山村聰さんが
監督の 30 分のドラマです。しゃべり言葉なので、
台詞が言いやすいと言われました。
実家が、さつま揚げとか練り物を作る製造問屋
で、職人さんとか小僧さんがいっぱいいたわけ。
彼らのお休みは、魚河岸の休みの月に一度、22
日だけ。娯楽は映画・歌舞伎・落語。みんな芝居
を観てましたね。歌舞伎の河こうちやまそうしゅん
内山宗俊っていう坊
主のセリフ「悪い所に(飛んだところに)北村大
膳」なんて、仕事場に借金取りなんかが来ると言っ
たりして、ウチの職場ではそんなセリフが飛び
交ってました。だから私は江戸職人弁を書かせた
ら、かなりいけますよ。父は一升瓶を3日で空け
るのが適量で、それを過ぎると人格が変わる。そ
オーラルヒストリー
「金八先生」の生みの親
小山内美江子さん

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と叫ぶのね。というのは、他のスタッフが、若い
女の子が入っているのを覗きたいかどうか知りま
せんよ。でも気遣ってやってくれてるわけ(笑)。
ほんとにそういう面でやさしい人でね。女優さん
にはほんとモテましたよ。深作がどっちかという
とそうでね、だからけっこう艶福家でね(笑)。
――スクリプターから脚本家になった経緯は?
映画が下り坂になってきてテレビに移る。最初
のテレビドラマはラジオを書いていた人も、だん
だんテレビにシフトしようかという人が出てきた
んです。その中で一番良かったのが新東宝にいた
監督さんでね、テレビに行った深町幸男さんたち
がそうです。当時私は結婚して 12 年目に出産し
たところで、なぜか4カ月目に離婚してシングル
マザーですが、赤ん坊おぶってロケ現場行かれま
せんよ。じゃあ、家にいてできるものっていうん
で、シナリオを書きはじめました。
シナリオ研究所とか行ってないんです。ないけ
ど、映画のスクリプターを9年やっていましたか
ら、ホンを分解してもう1回集める。そうすると
編集の好きな監督がいるんですよ。編集マンと編
集助手がペアを組み、こっちは監督と私がペアと
なっての作業で。これがけっこう面白い仕事でね、
構成の勉強になる。あんなに一生懸命徹夜して
撮ったのに、このシーン要らない、なんて信じら
れないようなことがあるんだけど。だから、門前
の小僧習わぬ経を読むで、師匠なしで脚本が書け
ちゃった。
――生番組は時代的にもうなかったのですか?
ありました。やってるときはドキドキ。それで
撮り終わるとね、スタッフ全員がパーッと台本を
放って「終わった!」とスッキリするわけですよ。
私の番組じゃないんですけど生ドラマで、氷壁
みたいなものが床に作ってあって、俳優さんが四
つんばいになって、氷壁をよじ登っていく芝居を
している。後ろを見て“下を見たら谷底だ”みた
いな、すごい演技力なんです(笑)。それでずーっ
とカメラが写していったら、向こう側に背広を着
なりました。その後、深作くんと近藤照男が亡く
なって、佐藤純弥さんが「勝手に行っちまってな
あ」なんて嘆いたり。
でも面白かったですよ。独立プロももちろんや
りましたよ。いわゆる東映作品の商業映画も。そ
れはそれで面白かったし勉強になりました。
――独立プロと大手映画会社とでは
現場の雰囲気やスタッフの気風は違いますか?
違いますね。ものが違いますからね。東京と京
都では作るものも違いますけど、例えば「一心太
助」で錦之助が将軍家光と魚屋の二役をやって
いるわけですよ。「そりゃけしからん」と言って、
一心太助が走っていって、お城の中の池の端で説
教しているんですよ。でも“どうやってお城の中
に入ったんだろう?”と思いますわよねえ(笑)
それはそれで娯楽で楽しむのだから“おかしい
じゃないか”と言わないで見りゃいいわけですよ。
一方、独立プロの山本薩夫監督の「真空地帯」
の時、A班とB班に分かれて撮ったんですよ。私
はまだ一番下のB班だったんですけど、途中から
A班についたんです。山本さんってハッキリ言っ
て、男前じゃないですよ。だけど女優さんにはす
ごい人気があるの。やさしいといっても、やたら
手を握っちゃうとかいうのではなくてね。
佐倉の兵舎が戦争中のままで残っていたから、
そのまま撮影です。そこの軍隊の井戸には何人飛
び込んだとか、私を脅かすようなことを言う人が
いるんです。女優さんが出ない場面では、衣裳部
も男でいいんですから、女は私だけでしょ。それ
で泊まり込みですから。兵舎の向こうにお風呂場
があるわけ。みんなが入った後に私が入ったら、
ドロドロなわけですよ。山本さんは、あと1カッ
トだから終わったら風呂場までおれと駆けっこし
よう、おまえが先に着いたら先に入ってイイとい
うわけですよ。それで私がよーい、ドンで走るわ
けですよ。そうすると下手な芝居で、監督転んだ
りしてね(笑)。それで私が先に入れてもらえる
のだけれど、そうするとその表で「いつまで入っ
ているんだ、こら! 早く出ろ、見ちゃうぞ!」

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た生徒を見るお医者さんが九州にいた。そんな出
来事を引き出しに入れて、どの回に使おうかと考
えました。
――「金八」のオーディションは、ストーリーが
頭の中に入っていて、子どもを選ぶのですか?
そうでもない。1回目のシリーズは準備期間が
なくて、とにかく書きはじめなきゃならなかっ
た。2回目は(生徒たちに)プレッシャーがあっ
て、数学にしろ物理にしろわからないのに 45 分
座ってなきゃならない子には苦痛ですよ。腕力が
ある子はそれまでの不満を一気に爆発させますよ
ね。それが校内暴力の方程式。校内暴力が始まり
かかっていたのが、取材で各地を歩きまわってい
たのでわかったんです。で、パート1は 79 年の
10 月末に始まったけれど、うちの(息子)は 78
年の3月に卒業したんです。だから遠い話じゃな
い。
2回目のシリーズは校内暴力がテーマです。加
藤優という生徒で。なんで校内暴力をしたいのか
といえば、千之赫子さんがお母さん役でね。やっ
ぱり女性として手に職がないと、飲み屋の裏で働
くくらいしかないわけでしょ。それをバカにされ
たりするので反抗していく。
それとは対照的に、残念ながら沖田浩之という
のが死んじゃったのですが、お医者さんのお家な
ので豊かなんだけどお母さんが後妻さんなのね。
というふうにちょっとずつバランスを崩しながら
も、クラスには必ずマドンナがいないといけない
(笑)。美男美女ばっかりじゃいけない。あの子の
太り具合が良いから入れようとか、タレ目がいい
から入れようとか(笑)。
だからパート6ですか、性同一性障害。あれは、
それをやりたかったんですよ。プロデューサーと
ディレクターに読んでもらって意見を聞いたら、
「どういうものになるかわからないけど、いいん
じゃないですか」ということになって。あのモデ
ルになった人も金八世代なんですよ。金八を書い
た人なら変には書かないだろうというので、何回
た人の足が見えてる。プロデューサーが立ってい
たんです(笑)。まあ、いろいろありましたよ。
■3年B組金八先生
――金八先生が生まれた経緯は?
「マー姉ちゃん」(NKH)が終わるころ、金曜
8時を書いて下さいと言われ、初めは無理だと断
りました。取材の時間もないので。それでも、何
度も来て頂いて、10 月クールを 11 月になっても
いいと言われ、向こうも気をつかってくれたのが
わかったので考えました。
当時、金曜8時は日テレの「太陽にほえろ!」
が燦々と輝いていて、TBS はどんなものを出し
てもダメなんですよ。だから社長がもう数字で勝
負はしない。ダメもとで、欲かいたのじゃないも
のをやろう、ということだったようです。
当時、中学生の万引き・家出がニュースだった。
息子の中学生時代、同級生がよく遊びに来ていて、
みんな親の悪口、先生の悪口なんかこっちがドキ
ドキするくらい話してくる。それは高校受験のプ
レッシャーの影響で、すごいものですよ。その子
たちにとって、人生初めての選別を受けるわけで
す。良い高校に行かないと良い大学に行けない、
良い就職ができない。良い結婚ができないという
神話が歩き始めているから、親がお尻を叩くよう
になってきた。
そんな子たちの3年間を見てきたから、ニュー
スを見て、もしかしたらあの子たちにも同じよう
な事が起こるかも知れないと思いました。それで
TBSには、引き受けるとしたら「手持ち材料の
中3です」と話したんです。まさかあの頃、息子
の友だちの打ち明け話で聞いたものを引き出しに
入れておいたのが、すべて材料になるとは思わな
かった。最初のシリーズは材料に不足なしでした。
そのうち、だんだん「太陽(にほえろ!)」の
方が沈んで来て、「3B」の方が上がってきた。
終わったら、続けてやろうと言わました。でも
半年休んで、北海道から九州まで学校の先生を訪
ねて歩きました。九州の時に「不登校」という言
葉が高校生ですが、出てきたんです。不登校になっ

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奥さんにしてみれば、子どもは学校に行っている
間に何時間か働いて自分のお金が入るでしょ。そ
れはね、喜びですよ。誰にも気兼ねせずに自分の
お金でスカーフ1枚買っただけでうれしいですよ。
そういう魅力にお母さんたちは取り付かれた。そ
うすると、子どもが帰ってくると、お母さんいな
いんですよ。お母さんいなくても、テーブルの上
におやつや手紙が置いてあればいいけれども、そ
れもない。500 円玉1個あると、それを握って塾
に行って、帰りに何かパンでも買って食べて帰っ
てくる。けど、それすらないと、引き出し開けて
お母さんの財布から出していく。自分の家のルー
ルがどんどん崩れてくるんですよね。子どもが
帰ってきた時間にはお母さんはもう食べてる、お
父さんはまだ赤提灯に引っかかって家にはいない。
だから食べたい人が食べたい時に、食べたいもの
を食べる。個食の時代がはじまる。
それと、学ランと取っ組み合いしそうな先生た
ちが8年経ったら老けてるんですよ。ドンと中学
生がぶつかってきたら、よろめきますよ。それに
気づいて、これは大変だなあと。女子高生コンク
リート詰め殺人事件が、このときですよ。被害者
の女の子が、監禁されながら金八先生の主題歌「頑
張れ、頑張れ」ってフレーズを歌ってたって聞い
たら、もう中途半端なこと書けないなってね。
先ほどのお話に戻ると、シナリオライターに
なったからといって、確実に生きていけるわけ
じゃない。大藪さんは有吉佐和子さんと大学が一
緒だった。有吉さんて、やっぱりすごいですねえ。
いまでもいろいろ舞台になるじゃないですか。そ
の人とお友達で「私のがもしテレビ化するなら、
大藪さんを使ってください」というでしょ。向田
邦子さんはラジオで森繁さんと一緒だった。森繁
さんがかわいがっていた。才気があって素晴らし
いし、きれいだし。でも私にはそういう人がいな
いんですよ。だけど映画のいろいろ細かいことな
どは、私の方がはるかに知っているわけですよ。
だけど、子どもにミルクやるしかないから、幼稚
園番組でも何でもやりましたが、「尼寺の~」と
か会ってくれた。
その頃日本ではまだ手術できなくて、彼はアメ
リカで手術をしたけれど、今は日本でもできるよ
うになった。日本の執刀する先生から、アメリカ
でやった方法なんか聞かれたり。手術はある種人
体実験で、その経験をしたのは彼しかいない以上、
全面的に経験を語って協力しています。そんな動
きがあったので彼らも若い議員さんに働きかけた。
つまり男の格好なのに、パスポートとか女性の方
にマークしているわけですよね。反対に風邪をひ
いて病院に行って、髪伸ばして逆に女になってい
るのに保険証を出したら男。「男って書いて、あ
んたは何なんだ」と後ろに並んでいる人に、一番
聞かれたくないことを言わなきゃならない。それ
が嫌で、病院に行くのやめて、手遅れになって死
んだ人がいるのですよ。そうするとこれはマイノ
リティーの人権問題。その人の責任じゃないし、
調べていくと、シナリオではね、神様のちょっと
した手違いとしか言えなかったけど、染色体の問
題云々ですけどね。
それでいろいろやったら、議員立法で戸籍・名
前を変えることができたんです。たかがテレビで
もね、だから人助けができて、性別によって名前
を変えることができた。この番組をやっているこ
とを誇りに思いましょうよと語り合い、いろんな
ことに斬り込んでいきました。
――ブランクがあいた時もありましたね?
81 年から 88 年が私と鉄矢さんのスケジュール
で金八のブランクになります。81 年当時は教師
が長い学ランの生徒に「何だ、その格好は!」と
いうと「うるせえな」と反発するんですが、88
年のころはそういうとすーっといなくなってしま
う。その間に何があったのか? 88 年だと、そ
ういう子どもが家に帰っても、経済がバブルの時
代に入っている。例えば企業は、家庭の奥さんを
労働力として引っ張るわけですよ。スーパーなら
ばレジとかね、後ろでキュウリをラップに包む仕
事です。
で、好きな時間しか働かなくていい仕事です。

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なんて言うんです。そうすると、イチから書き直
しでしょ。冗談じゃないから反論するわけです。
でも向こうの顔も立てなきゃいけないから、直す
ところは直します。そうしたら、結局ほめてくれ
てね、「書き直せと言って、言うことを聞かなかっ
たのはおまえだけだ」と。書き直せと言うと、み
んな一生懸命書き直してくるんですって。だった
ら俺が書いた方がよっぽど早いって。「だったら
そんなふうにみんなイジメないでください」って
(笑)。それが月に1本か2本。あとは幼稚園番組
だとか高校生なんとか講座だとかをやってた。だ
んだんドラマっぽいのになっていったんです。
金八をやったのが 49 歳なんです。48 歳から準
備に入って、49 歳の4月番組だったのがテレビ
小説の「マー姉ちゃん」です。そのころは熱海に
いましてね、橋田さんがプールでよく泳いでいら
した。「教えてください」と言ったら、「教えたかっ
たのよ」となってその日から大特訓なのよ(笑)。
「徳川家康」「翔ぶが如く」のときは1週間に4日
は泳いでましたね。
「マー姉ちゃん」に行く前にはTBSのテレビ
小説で、NHKと競争です。どっちのヒロインの
方がよかったとか。「加奈子」というのがありま
してね、地味だけど私としては代表作のひとつで
す。主演の遙くららはいい子でしたけどねえ。
「七人の刑事」は局の人もこんなに長く続くと
は思っていなくて、ビデオテープの置くところが
ないんです。それで1年間のうちで2本か3本残
してあとは全部消してしまったんです。で、私の
が残ったんですよ。「特別機動捜査隊」もやったし、
「七人の刑事」もやったし、事件ものは任せとけっ
ていうようなところがあってね。「ウルトラQ」
もやっている。
日テレで「○○青春」という一連の青春ドラマ
があって、竜雷太さんなんかもそこから出ている
けど、それを1~2本書いているんです。で、「金
八」を書いたとき、“何だ、あれは部活ドラマだっ
たんじゃないか”とやっと気が付いた(笑)。教
室のシーンが何もないわけですよ。
か「団地妻」なんとかという凄いポスターのもの
がありますよね、ああいう人の品性を卑しめるも
のはやらないと。ポルノはやらないって言ってい
るわけじゃない。ポルノをやることによって人間
が浮きでてくるのはやる。戦争はカッコイイとい
うのはやらない。プロデューサーも含めて同業者
とは寝ない。
そのときは私 32 から 33 だから、子ども持って
る中年おばさんだと思っていたけど、いま若いで
すよね。空き家でしょ。声かけてこないこともな
かったけれど、冗談じゃないと。その3つはやり
通せたかなと。
プロデューサーなりディレクターと寝ると、“前
のやつともやったのかな”と思われたらイヤなの
と、寝たから仕事もらえたのか、自分の力でもら
えたのかわからなくなるでしょ。これは絶対歯を
食いしばってがまんして。でも一人イイ奴がいた
んですよ。そしたら後から“抜け作”だとわかっ
て、あぁ引っかからなくて良かった…って(笑)。
ひとつひとつ真面目にやれば、ひとつひとつ階
段を上っていけばね、いまに自分がやりたいもの
ができるようになると信じるしかないわけです。
確実にお金にならないと、私出戻りだから、親に
食べさせてもらうわけにいかないわけでね。何で
もやりましたね。ドキュメントの硬派の構成をや
る素晴らしい人がいて、その人とNETの教育番
組の構成で1年半くらい組ませてくれたわけ。ご
用聞きみたいな仕事で死ぬほどイヤな時もあった
けど、学童保育のはじまりもここで見ています。
ドラマを書いていると、こういうことを言う人が
いたなという実在感があるわけでね。
それをやりながらNETで「特別機動捜査隊」
という東映製作の刑事ものを書きました。あれは
プロデューサーがきびしくて、「俺はいつも馬を
10 頭くらい走らせて、鼻先が出たやつをつかま
えて“これをやれ”というんだ」と言い、脚本を
直せと言うんです。障子紙にずーっとストーリー
を書いていくわけです。「これでいいですか」「い
いだろう」。それで書くでしょ。そうすると、「い
やあ、面白いけど、犯人とこいつと逆にしたら」

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向かっていくだろうかっていうことを決めていく
ので、二枚目芝居は要らない。子どものためには
なりふりかまわず……私にもそういうところあり
ましたからね。
ひとつ話があると、どの子にしようかという
キャラクターが決まって、それに金八さんがどう
接していくか。B組の生徒はシロウトで行こうと。
でもまったくシロウトだと不安だから、ちょっと
だけお芝居の経験のある子にしようと。で、経験
のある子が杉田かおると鶴見辰吾。これは同年代
からするとスターなんですよ。だからこれは二人
のドラマだ、(それ以外の)僕たちは教室シーン
のときに椅子を埋めている存在だと思っていた。
そうしたら、お芝居が初めての子にいきなり主役、
という回があって、ボーンと行く。その次は全然
違う子のところへ。それで“これは俺たちの番組
じゃないか”っていうんで、みんな燃えてきた。「金
八」は全部を主役にしてやりたかったから、あれ
は大変だったの。誰かが台本を見て、「えっ、小
山内さんは 30 人全部名前を付けているんだ」と
言われました。
第1シリーズの子はほんとに素晴らしかった。
だいたいの子が決まったときに、ジャニーズか
らどうしても会ってくれと柳井さんのところに
言ってきたのが、「たのきん」だったんです。田
原俊彦はあの時さばを読んでいたから、みんな
15 歳なのに実際は 18 歳になろうとしていた。そ
れ知らないわけですよ。見たら 15 の子の野放図
なのとちょっと違うのね。何となく色気がある。
こういう子はあった方がいいじゃないかというの
で入れたわけ。あとマッチとヨッチャンはついで
に入れちゃおうというので、ついでだったわけ
(笑)。その3人だってテレビ初めてでしょ。マッ
チなんて、テレビカメラがパンしてくると目でカ
メラを追ってしまうの(笑)。
――「15歳の母」について
ある時、脚本家井上由美子さんから、連絡をも
らったことがある。
第1シリーズで「15 歳の母」を書きましたが、
――当時、武田鉄矢さんは金八としてスカウトし
たのですか?
ホテルの大広間で開かれたテレビ局の新春パー
ティーで向田さんと会って、立ち話で情報交換を
していたら、そこへやってきたのが鉄矢さん。向
田さんの何かのドラマに出たので、彼はあいさつ
に来たんです。私は、これが歯の裏が真っ黒けで、
歌だか何だかわからないのを歌っている若者かぁ、
なるほど足は短いや、みたいな感じで見てた(笑)。
そしたら向田さんが「あなたのお芝居は全身で
芝居しているから、実に素晴らしいわ」と言われ
た。向田さんは人をほめる天才なんですよ。だか
ら逆にいうと、オーバーだということなんです。
全身でやられたらたまらないシーンだってありま
すからね。ところが、あちらは真に受けてね、「私
は聾唖学級の教員を目指していたんです。実習に
も行きました。ドアを開けて“おはよう”と言っ
てもわからない。そのときは何回も声をかけなが
ら、こうやるんです」とホテルの大広間でタコ踊
りみたいなことをやって。面白い人だなあと思っ
て。ただ、向田さんに対して敬語と文法がしっか
りしていた。
「金八」はキャストなど決めず、とにかくもう
書くので精一杯ですよ。それでいよいよ制作準備。
それで誰にしようかということになって、マー姉
ちゃんで人気が出てきた熊谷真実といわれた。「あ
れは脇が固めているからで、そこらの子では8時
枠、半年もたない」と反対し、「今度は男で行き
たい」と言って、「じゃあ誰だ」と聞かれて、ひょ
いと出たのが武田鉄矢。
「あの武田鉄矢ですか」「そうだ。今度の話は私
自身、髪振り乱して子どものために書くんだ。だ
から二枚目はいらない。子どものためには何でも
やる役者がほしいんだ」と。それで彼のライブを
偵察に行ったのね。歌よりしゃべりが多いから、
こりゃ大丈夫だ(笑)。そうしたら鉄矢さんは「母
が期待していた教員になるつもりが歌の仕事に
なってしまったので、たとえドラマでも先生役を
やれるのはうれしい」と。
金八の場合、金八ならば、この問題にどう立ち

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キャスティングについては、金八の鉄矢さんを
除いては“ぜひこの人で”と言ったことはありま
せん。拒否権はあるにしても。TBSのテレビ小
説「加奈子」のナレーションが東山千栄子さん、「お
ゆき」が古今亭志ん朝さんで、これはとてもよかっ
たけど、私の人選ではありません。
――金八先生もいよいよ定年ですね?
足立二中というロケ現場が、未来大学に変わっ
て、全然違ってしまいました。今まで書いた台本
は 150 本以上だから、手書きの台本は段ボールに
いっぱいですよ。
ボランティア活動をしていると、一流商社なん
かで活躍している人たちに会うでしょ、向こうが
親しそうな目で観てるんですよ。すると「観てま
した」なんていわれてね。金八先生の第一期の生
徒と同世代なのね。私の主治医の先生も同じです。
なぜか金八っていうと、30 年前に戻っちゃうのね。
■取材を終えて
金八先生の初期世代である私にとって、小山内
美江子さんは「担任の先生」だ。お名前を見れば
主題歌のメロディが浮かぶ、懐かしく憧れの人。
小山内さんが送りだした生徒たちは 200 名以上に
及ぶのだろうか? 悩み、苦しみ、立ち直った生
徒たちと同じく、これほど多くの世代の視聴者に
影響を及ぼしたドラマは、他にないと思う。そし
て、あの金八先生が定年を迎え、卒業していく。
小山内さんは作家活動の傍ら、ボランティア活
動を通じ、若者たちと積極的に接している。その
姿は金八先生に重なる。
江戸弁でチャキチャキ話されるエピソードは絶
品で、そのすべてを掲載できないことが心残りだ。
映像では見えないドラマ画面の向こう側を紐解く
ことが「オーラルヒストリー」の楽しさである。
高い万年筆もあるんだけど、コレが一番書きや
すい、と見せて下さった水性ボールペン。このペ
ン先から生まれる生徒たちを、もう一度観たい。
(石橋映里・南條廣介)
彼女もオリジナルのホームドラマで「14 歳の母」
を書くことになったと仁義を切っていらした。井
上さんは実際に 14 歳の子供がいる母親そうなん
です。オリジナルのホームドラマがないというこ
とで書いてみることになった。
井上さんは金八先生を観ていた世代よりちょっ
と上だけれど、「15 歳の母」を観て、あれほど人
を感動させられるドラマはないと言われ、これは
私が言ってるわけじゃないですよ。それで「14
歳の母」を書きたいということでした。
私の時代は、PTA に呼び出され「寝た子を起
こすな」と言われた。「子供が子供を産むなんて
とんでもない」と言われたが「とんでもないから
書くんです」と言いました。ちゃんと伝えていな
いからいけない。その年頃の子どもたちは興味
津々。隠さないであっけらかんと言えるようにな
りたいと説明した。
しばらくして、井上さんからまた連絡があって
「こんなに干渉された番組はなかった」。やっぱ
り、寝た子を起こすなと言われたそうです。私が
起こしてから 25 年経ってもまだ寝ているんです
ね(笑)。今恐ろしいのは、携帯を持ち始めたこと。
アダルト画像も見られますから。
――台本の直しには応じない方ですか?
いや、そんなことないですよ。生原が上がるで
しょ。そのときにプロデューサーだけが来たり、
監督も一緒に来る場合があるんです。プロデュー
サーと私の間でここを直そうとなることもありま
す。準備稿に刷り上がると監督が来て、ここは
どうしてもわからない、ここはこうしたいとい
う。自分としては、このホンは 95 点いけてると
思っても、やっぱり若い人の意見と摺り合わせる
と 110 点になる場合があるわけです。だから私は、
そういう良い知恵を出してくれる若い人たちを排
除するということはまったくないです。だけど勝
手に現場で、向こうの俳優さんに圧されて、直し
ちゃうでしょ。そうすると怒るわけです。じゃ、
なんであの日あれだけ時間をかけて打ち合わせを
したんだ!と。

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■早稲田大学
――この世界に入られたきっかけは?
1949(昭和 24)年に、高校、大学が新制に切
りかわって、早稲田高等学院が各学年を新規に募
集したんです。私は秋田市立高校から早稲田高等
学院に合格、翌年大学に。演劇の道を志して文学
部芸術科演劇専攻へ進んだ。ところが、1年生の
時、父親(嶋田晋作)が、49 歳で亡くなってね。
間もなく 19 歳になる頃でした。臨終に立ち会っ
ても実感がなかったね。通夜の席で親族たちから、
政経学部に移籍し、代議士だった父の遺志を継ぐ
よう説得されましたが、私はその場で断りました。
演劇の道を志したことは生前父と話し合い理解し
てもらっていましたから。それで大学を辞めて劇
団新国劇に入ったんです。当時の同級生とは今で
も交流してますよ。亡くなった作曲家の中村八大、
俳優の宇津井健なんかは、在学中から売れっ子
だったね。
■新国劇
――新国劇にしたのは?
幸せなことに文学座と新国劇に研究生として入
団できることになりました。それで私は給料の出
る新国劇を選んだ。父を失った家族の長男として
の選択でしたね。
劇団新国劇に入ったのが 1950(昭和 25)年 10 月。
新橋演舞場の初日が開いて3日目に劇団総会が終
演後に開かれました。正面に島田正吾、辰巳柳太郎、
そして総務の浜田右二郎。三人がデンと座り、座
員がそれに向かって座る。150 名の大一座。19 歳
の私は一番後ろの末席に座ってました。
演出助手をしていた頃、印象深いのは菊田一夫
先生。「君の名は」「鐘の鳴る丘」なんかを山ほど
抱えてる時に新国劇の台本を書いてくれた。でも、
うちの原稿が一番遅くなる。演出助手の私が取り
に行く係。玄関開けると、靴がずらっと並んでい
るわけ。その中で私が一番の若輩者じゃない。行
くと、奥さんが「あらぁ、ごめんなさいね、先生
■プロフィール
1931(昭和6)年8月30日生まれ。1950年、劇団新国劇
文芸部入団。1954年、ニッポン放送開局に参加。プロ
デューサーを務める。1959年、フジテレビ開局で異動。
1969年(株)新国劇社長を経て、1971年、フジテレビ
制作分離で新制作(株)社長。1976年、フジテレビ本社
復帰。1978年、フジテレビと三越の合弁による(株)ス
タジオアルタに出向、同社常務取締役。1982年、フジテ
レビ退社。独立してフリーランスの演出家、プロデュー
サーとなる。その他、日本演劇協会常任理事、放送批評
懇談会理事などを務める。
主な制作作品は「にあんちゃん」「三太物語」「北野踊
り」「小さき闘い」「6羽のかもめ」「20の赤いバラ」
ほか(以上テレビ)、「娑婆に脱帽」「江戸っ子気質」
「瞼の母」「紅蓮」ほか(以上舞台)「暁の挑戦」「ブ
ルークリスマス」「廃市」(以上映画)など。
オーラルヒストリー
演劇、ラジオ、テレビ、映画にまたがっての
華麗なる裏方人生
嶋田親一さん
「6羽のかもめ」のシンポジウムで語る
(放送ライブラリーにて)

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■ニッポン放送
――ラジオではどんな番組を?
1955(昭和 30)年、連続放送劇「ふり袖太平記」
を担当しました。当時、人気絶頂の美空ひばりと、
売り出し中の大川橋蔵。ひばりと橋蔵が一緒に録
音できるのはほとんどないというスケジュールで
大変だったね。このとき、美空ひばり 18 歳。私
は 24 歳でした。
入社 3 年目の時に、ニッポン放送が文化放送と
組んでテレビ局を創立することになりました。こ
れが今のフジテレビですね。
松木ひろしと私は、舞台出身ということで出向
第一号の辞令。開局まであと 2 年。この 2 年間で
テレビ演出の修行をしろという会社側の命令。嘘
みたいだけど、「基本給は保障する。出社しなく
てもよろしい。自分で技術・知識を習得せよ」。
いい時代だったね。
フジテレビ開局に備えて何を勉強してもいいと
いう準備期間で自由な時間を与えられていました
から、1958(昭和 33)4 月、劇団現代劇場を旗揚げ。
松木ひろし脚本、私の演出で「娑婆に脱帽」を上演。
話題になりました。そして、秋の公演もその勢い
で「野良犬譚」という喜劇の稽古に入っていました。
1958(昭和 33)年 10 月 15 日、地下鉄丸ノ内線が、
西銀座といっていた駅から 1.1 キロメートル延長
して霞ヶ関駅ができた記念すべき日でした。
そのとき「芸名をつけて」と言ったのが三田佳
子。彼女も初日に向けてその芝居の稽古中。そん
な初日を前にして、地下鉄の初乗りなどをしてい
たというわけ。彼女は 17 歳で、私は 27 歳。その
日は早慶戦をやっていて「ヨシコちゃんはどっち
を応援している?」「慶応」「じゃ、三田だ」。彼
女の本名は石黒嘉子。「ヨシコはそのまま残そう」
ということで「三田佳子」の誕生となったわけです。
■日本テレビ研修
――フジテレビ開局の前に日本テレビへ?
皆に「可哀想に、君は電気紙芝居に行くのか。
まだ帰ってないの。みんな待ってるのよ」。本人
は家に帰れず、原稿取りの帰るのを待って、家の
周りをグルグル回ってたらしい。それで私は奥さ
んにお土産にラッキーストライクをもらって、ス
ゴスゴ演舞場へ帰るわけ。そうすると、「なんだ、
きょうもだめか」と言われて、タバコを先輩たち
に配るわけ。
菊田先生は4本ぐらい連載していた。雑誌、ラ
ジオ。階段の下に原稿用紙がひとつあって、書斎
にあって、寝室にあって、場所を変えて原稿を書
いていたそうです。だから名前がごちゃ混ぜに
なったらしいの。「あれ? 先生名前が違います
よ」なんてこともあってね。
菊田先生に直接聞いたんだけれども、(ラジオ
脚本で)3 分間に 1 回、場面転換する。新潟の佐
渡の波の音を「ザブーン、ザブーン」って聞かせ
るんだね。次に汽車の音を「ガー」って。そうす
ると、映像が浮かぶわけですよ。聴いてる人を、
飽きさせない。人間の時間的習性を計算していた
んだね。そんな話、普通は企業秘密じゃない。こっ
ちは若いからね、怖いもの知らずで聞いてました
ね。だから、演出助手で先生の側にいられたのは
勉強になりました。
1951(昭和 26)年 6 月の明治座は新国劇公演。
戦後、明治座が復興してすぐの頃、松木ひろしは
明治座文芸部員で、私は新国劇の駆け出し文芸部
員。二人を引き合わせたのは早大先輩の演劇評論
家、大木豊さん。「いい仲間になるよ」って。私
は 20 歳で、松木ひろしは 23 歳。いつの間にか二
人でいつも行動を共にしてたね。ただ、彼は酒が
飲めない。趣味嗜好、性格も正反対でしたけどね。
1954(昭和 29)年、私は開局間近のニッポン
放送に入社して、そのままプロデューサーに。あ
る日、松木ひろしが私に「俺もニッポン放送に入
れないかな」。これがトントン拍子に話が進んで、
私が担当していた「舞台中継」の後任でニッポン
放送へ入社しちゃったんだね。

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試してみるというもの。原作「警察日記」をテレ
ビ用に脚本にした。あと「執刀」というのがあり
ました。これは、山本雪夫の脚本。これは試験電
波でやった。誰も見ないよね。それが今思うと贅
沢だったね。俳優座に頼んで、大塚道子さんと滝
田裕介の二人で。この本はボロボロになってます
が、持っています(92 頁)
30 分程度の単発ドラマです。山本雪夫という
のは、日本テレビでせんぼんよしこさんがやった
「愛の劇場」というのがあった。30 分単発ドラマで、
そこはいろんな作家を輩出しましたね。
放送は午後 2 時頃。私らは、映画に憧れてた。
舞台からラジオに行ってテレビだからね。一度、
スーパーインポーズ(字幕スーパー)ってのをや
りたかったわけよ。会話をドイツ語でやって、スー
パーインポーズを使った。医者ものだからね。
女房の外科医が大塚道子。昭和 33 年だからま
だ若い。夫が滝田裕介で医者なんだけど女房より
腕が落ちるのね。夫婦だけどコンプレックスがあ
る。大事な手術は夫ではなくて女房がする。手術
シーンがあるわけ。東京女子医大がお隣りさんで
監修してもらった。有名な榊原研究所の榊原先生。
その先生に教えてもらって、セットに手術シーン
の部屋を作ってね。本格的でしょ。やりたいこと
を全部やってみたわけ。ただ録画は出来ない時代
です。誰も見てない。試験電波だから、親戚にも
言えない。見てたのは局の上司ぐらい。でもこれ
は、今でも名作だと思っています(笑)。
その後日談なんだけど、つい 2009 年のこと。
舞台「放浪記」に大塚道子さんも出てた。私は森
光子さんに会いに楽屋へ行ったらば、久しぶりに
大塚道子さんと会ったのよ。大塚道子さんはお母
さんの役をやってるから「放浪記」で。それで「う
わぁ!」って指さして、「覚えてる?」「覚えてる
わよ」って、「執刀」。一番最初にやったドイツ語
を覚えてる。ドイツ語でやったというのが、面白
かったらしいね。何十年ぶりだけど、覚えてた。
それがオチです。
心臓外科医の話なんて、今の時代にピッタリの
作品。しかも榊原先生のお墨付きで。アイデアは
新国劇出身だからな。でもがっかりしないで、元
気出して行けよ」って言われました。壮行会をやっ
てくれましたよ。当時、ラジオ3本のレギュラー
を持ってましたからね、それを急遽やめて行くわ
けだから。上層部はテレビの将来を考えているわ
け。
1 年間、勝手なことをやったわけですよ。2 年
目から民放のトップ同士の話で研修で行くわけで
す。日本テレビ班とTBS班に分かれて、3 ヶ月
やったら交代することになっていたんです。同僚
の松木ひろしと私は日本テレビ班で、愛川欣也な
んかと知り合うわけですよ。そして、3ヶ月たっ
て移るというと、移らないでくれと。もっといて
くれと。日テレ専属で。
1958(昭和 33)年、浜町スタジオ。日本テレ
ビの日曜お昼のコメディ「OK横丁に集れ!」の
フロアディレクター見習いをしていました。同僚
の松木ひろしと私は、二人ともニッポン放送の社
員で、日本テレビに派遣された実習生。やがてラ
イバル局になるフジテレビの要員を、日本テレビ
が研修のために受け入れてくれたわけです。当時
の民間放送局の一つの連帯感、使命感がそこにあ
りましたね。今じゃ、考えられないだろうけどね。
「OK横丁に集れ!」は人気コメディでしたが、
現場はまさに地獄。まず前日のリハーサルにレ
ギュラー出演者が全員揃わない。主役のお婆さん
役の藤村有弘が、超売れっ子のためにいない。当然、
ぶっつけ本番になる。リハーサルは段取りだけだ
から、カット割り台本はもちろん無し。台本が出
来上がるのは、当日、カメラリハーサル前。コピー
のない時代だから、私たちアシスタントが手書き
で写して、カメラマンに渡すという綱渡りでした。
■フジテレビ開局~試験電波放送~生放送ドラマ
――いよいよフジテレビ開局ですね?
フジテレビが開局したのが、1959(昭和 34)
年ですよ。試験電波というのがあったんですね。
それはまだいいんだけど、放送しない番組という
のを作った。電波に出さないで、スタジオだけで

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2つ年上でしたね。
ラジオの初期もテレビの初期も舞台を書いてた
人とかの紹介で、次の世代の人が出てくるという
ことなんですよ。小野田さんは、NHKの「日曜
娯楽版」出身。実は、新国劇に入りたかったん
だって。役者志望ではなく、文芸部が目的だった
んですよ。小野田さんとはその後ずっと仕事をし
ました。菊田一夫さんか小野田さんかというぐら
い、原稿が遅かった。「シマちゃん、セットの図
面だけ持ってきてくれ」って。連続劇だからセッ
トありますよ(笑)。
――テレビの生放送時代のエピソートは?
生放送のドラマで、脚本が出来てないこともあ
りました。ホテルニュージャパンに和室があって、
そこに作家の小野田勇さんを缶詰にしてるんだけ
ど、「どうしようかね、ストーリー」って、まだ
考えてないんだ。それで丁々発止わあわあやって
なんてこともありました。ところが、小野田さん
のここがミソなんだけど、遅いけど良い本を書く
んだね。上手い。有島さんも小野田さんと親しい
から、呼吸は合ってる。アドリブも私の許可を得
て入れるからね。その辺の節度は今の役者さんに
学んで欲しいね。昔の役者さんの節度と教養は素
晴らしかったですよ。一言で言うなら、作家と役
者とディレクターの一体化ですよ。当時はありま
したからね。そういう意味では勉強になりました
ね。私なんかは作家に育てられたし、当時は全部
先輩ですからね。
1960(昭和 35)年、その頃フジテレビは毎日
曜午後 7 時半から 8 時というゴールデン・アワー
に“富士ホーム劇場”という番組がスタート。私
が中心で企画制作を進めてました。第1回は映画
化されたベスト・セラー「にあんちゃん」(4回
連続)を松田暢子脚本で取り上げ、子役・二木て
るみの演技が茶の間を泣かせました。あまりの評
判で、演出・プロデューサーである私にはかなり
のプレッシャーでした。
凄いですよね。プロデューサー、演出、すべて私
です(笑)。
この幻の試験放送台本、(アーカイブズに)寄
付しましょうね。
――放送されたテレビドラマの初演出は?
最初にテレビドラマをやったのが有島一郎主演
の「ありちゃんのパパ先生」。これは東宝で仕組
んでて、有島さんが指名したメイン作家は小崎政
房というムーランルージュの出身の作家。
ムーランルージュ(ムーランルージュ新宿座
1931 年~ 1951 年)っていうのは、戦前から戦後
にかけて、かつて東京・新宿にあった大衆劇場
でなんですね。今年がムーラン創立 80 年。当時、
軽演劇では浅草の芸人エノケン、ロッパなどが有
名でしたが、文芸部中心というのはムーランが発
祥だった。出身の役者さんは、左ト全、有島一郎、
由利徹、満州から引き揚げてきた若き日の森繁久
彌も出ていました。
左ト全は私が演出した「三太物語」(昭和 36 年
3 月 12 日スタート)に爺っちゃま役で出てもらっ
ています。
NHK、民放のテレビの作家も多い。その代表
が、阿木翁助さん(後に日本放送作家協会の理事長、
会長を務めた)。一番最初にお付き合いした方は、
齋藤豊吉さんというムーランの文芸部長。小沢不
二夫さんは、ひばりの「リンゴ追分」の作詞もし
た。伊馬春部さんは阿木翁助さんの名付親です。
話を戻すと、私の最初のテレビドラマは、作家
は小崎政房。彼は松山宗三郎として昔は俳優も
やってたのよ。この辺りで小野田勇とも初めて仕
事しました。最終的には、小野田勇が向田邦子を
紹介してくれるんですよ。向田さんは「七人の孫」
をTBSでやりましたが、フジテレビでは「うち
の大物」というのが一番最初なんですよ。そのプ
ロデューサーが私で、演出は大野木直之とかです。
坂本九主演のドラマでした。向田邦子さんは「雄
鶏社」というところで、記者だった。「七人の孫」
を書いていて「シマちゃん良い作家がいる」って、
小野田さんの紹介で会ったんです。向田さんが、

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て、ど派手大会。見せ場オンリー。それが受けて、
すっかり宮川さんと仲良くなったというわけです
よ。それが発端ですよ。それは、2クールで視聴
率が上がらないので、終わっちゃいました。これ
はひばりもプライドが許さなかった。それでお
母さんと、「花と剣」の続編をやろうと。それで、
時代劇シナリオライターの結束信二さんに入って
もらって進めた。
ただすぐには間に合わないので、「歌こそわが
命」というタイトルで、繋ぎで4回作ったんです
よ。次の時代劇を作るまでの歌謡バラエティ番組
だね。ひばりは梅田コマに出てるんですよ。古賀
政男先生と対談したい、と言うわけですよ。古賀
さんに梅田に行ってもらわなければならない。「ひ
ばりが懇願しております」と。関西テレビで撮っ
たんですね。それで4回繋いで、次の「花と剣」
へ。その時は、ディレクターではなくてプロデュー
サーだった。富永卓二という「北の国から」を立
ち上げる彼をADから抜擢して、そのときからひ
ばりを主演にしてくれと。次の脚本家は誰だとい
うので、ひばりとコンビを組んでた沢島忠を起用。
作品的には成功とはいかなかったが、ひばりのお
かげで楽しくやらせてもらいました。
ひばりちゃんには世話になりました。
「6羽のかもめ」は 26 本やったんだけど、倉本
聰は最初から半分しか出来ないというんで、宮川
さんを推薦してきた。東大の先輩だしね。宮川さ
んというのは、お医者さんになろうとした人です
から、どこか馬が合ったんじゃないかな。なつか
しい先輩ですよ。晩年、一緒にやろうということ
になってたのよ。亡くなる直前までね。残念です。
■編 成
――女優さんで思い出に残る人は?
一番憧れた女優は高峰三枝子さん。憧れの銀幕
のスター。1965(昭和 40)年秋。私にとっては
夢に見た日がやってきました。高峰三枝子主演の
テレビドラマ「走れ! おふくろ」の演出が決定
したんですよ。憧れの人との初仕事。高峰三枝子
1966(昭和 41)年の春、フジテレビは美空ひばり、
林与一主演の時代劇「花と剣」。ひばりとは 10 年
ぶりの再会でした。私はプロデューサーとディレ
クターを兼任していました。その「花と剣」で、
宮川一郎さんと出会ったんです。
美空ひばりとは、ラジオでその前にやってるん
でよく知ってたわけですよ。ただこの作品、ひば
り主演じゃないのよ。林与一主演なわけ。林与一
とひばりは親しかったから、林与一を売り出した
いという思いがあって、2 週に 1 回ぐらいは、ひ
ばり自身も出ると。こっちは冗談じゃないよ、で
すよ。ディレクターは嶋田親一。ラジオでもやっ
てるし、時代劇も新国劇で舞台をやってるから。
全部お膳立てが出来ているのよ博報堂で。林尚之
助という早稲田大学の先輩がいて。その尚之助が
全部仕掛けて、ディレクター・嶋田、プロデュー
サー・誰々、出演・美空ひばりと、全部上層部に
通して。ところが蓋を開けたら、林与一しかいな
い。そして、作家は宮川一郎。名前は知ってまし
たが初対面でした。会ったら、飄々としたタイプ。
何考えてるんですか、何も考えていません、て感
じ。じゃあ、話作ろうと。「駿台荘」という旅館
があったんですよ御茶ノ水に。大石静さんがそこ
の娘。崖っぷちにあって、宮川さんもよく知ってて、
二人で合宿したの。前の日はお酒ばっかり。その
調子で仲良くなって。彼はあまり自信がなかった
のね。やたらと自信がないんだよ。あれも作戦だ
よね。「嶋田さんは新国劇出身でしょ?」とくる
わけよ。
「やりたいイメージってあるでしょ?」。それで
「松平長七郎、旅日記」のような話。つまり、将
軍の子供なんだけれども浪人という、そのはしり
だね。その設定を宮川さんと二人で決めてね。宮
川さんも調子いいんだよ。「シマちゃん、どうい
う出だし?」とくる。宮川さんが作家だろ。でも
すぐ乗せられて、東映時代劇で行こうと、ど派手
に行こうと。ひばりはお姫様の格好で、お城から
来るところから始まったんですよ。宮川さんもい
い加減だから。「その後どうなるの?」って、あ
なたが考えなさい。なんて大笑いで 1 作目を作っ

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談社から出ている劇画「墓場の鬼太郎」で、主題
歌の作詞は原作者、水木しげる。作曲は、いずみ
たく。「ゲ、ゲ、ゲゲゲのゲー 朝は寝床でグー
グーグー ・・・」のあの歌。フジテレビの中にある
小さな試写室で、俳優・熊倉一雄の独特の声が響
いていました。試写作品は約 10 分。白黒版で声
も音楽も入っていなかったですね。出来上がって
いるのは主題歌だけ。このアニメを採用するかど
うか、編成部企画チームのキャップで副部長の私
に決定権があった。「墓場の鬼太郎」の原作は面
白い。しかし、アニメとしてテレビで流すには不
安があった。でも主題歌は、明るくて愉快だった。
それで、「この主題歌を前面に出そう」となり、「タ
イトルを変えられないか」となった。「ゲゲゲの
鬼太郎」で行こうとキャップの私が宣言。その日
のうちに社内を説得し、講談社と交渉し、原作者・
水木しげるにも快諾をもらって、高視聴率を記録
したというわけです。「ゲゲゲの鬼太郎」の名付
け親は、私も関わっているんです。
――井上ひさしさんとの出会いは?
1968(昭和 43)年 4 月 19 日の夜、この日が井
上ひさしとの初対面でした。新番組の制作会議。
私がフジテレビの編成に移ったばかりの頃、初め
てカラーテレビの試験作品を作るときに、ライト
が凄くて、人間だとだめになるので、人形劇にし
たんですよ。それで、スポンサーを付けなくては
というので、井上ひさしだとなったわけです。脚
本は井上ひさしと山元護久を口説いて、絵は石森
章太郎。30 分の初のカラースタジオ番組。井上
ひさしのつけた題名が「ワン・チュウ・スリー作
戦」で、ねずみの人形劇でした。小さな飲み屋で
井上ひさし、山元護久、石森章太郎、ディレクター、
編成の私というメンバーで打ち合わせしていまし
た。当時、フジテレビは視聴率がどん底だったん
ですよ。変わったことをやった方が良かった。そ
れがバカ当たりするわけです。「ゲゲゲの鬼太郎」
でしょ。「サザエさん」もそうでしたね。
主演ドラマということで、キャストは豪華版でし
たね。「走れ! おふくろ」(松木ひろし脚本)は、
作家の後妻になったヒロインの奮闘ドラマで、志
村喬、水谷八重子(初代)、市川翠扇、川崎敬三
らが共演。次男坊に青島幸男という異色キャスト
でした。ドラマは単発でしたが好評で、続編、続々
編と三部作になりヒットしました。高峰三枝子
47 歳。私は 34 歳でした。子供の頃からのファン
だったと告白すると、「年齢のことは言わないの」
と、睨まれましたよ。
それから3年。1968(昭和 43)年、私は、ド
ラマディレクターから編成企画全般を統括する
キャップになってました。そこで、午後3時台に
ワイドショーを新設することになった。冒険です
よ。「女性による、女性のためのワイドショー」
という基本コンセプトで、司会者に女性の大ス
ターを起用したいと。現場からは高峰三枝子をと
強い希望が出てましたが、彼女からは、週 1 回だ
けならという返事。せめて週2回は出てもらわな
いとメインキャスターとは言えないでしょ。当時
編成トップの村上七郎常務に直々に口説いてもら
い、小川宏アナウンサーにまで出演交渉してもら
いました。それでも彼女はOKとは言わない。2
月 10 日土曜日夜、高峰三枝子が私に会いたいと
言ってきた。私は、報道企画担当の日枝久と共に
赴いた。彼女から「月曜、火曜の2回出ます。で
も半年間よ」と。
「3時のあなた」第1回は 4 月 1 日、月曜日。
担当は白鳥ディレクターで、フルオーケストラで、
高峰三枝子に 1 曲歌ってもらうという演出。会議
になぜか私が呼ばれ、彼女から曲名をリクエスト
されたんです。私はためらわず「懐かしのブルー
ス」と答えました。彼女は、「みんな普通、“湖畔
の宿”と言うんだけど」と言って、私にウインク
してくれてね。それから「3時のあなた」の司会
を5年間続けてくれたんですね。
――「ゲゲゲの鬼太郎」にもエピソードが?
1967(昭和 42)年 8 月 7 日は、「ゲゲゲの鬼太郎」
が命名された歴史的な日なんです。この原作は講

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聰は本名、山谷馨。私がフジテレビに移動した後、
ニッポン放送に入社しているんです。だから、後
輩だけれども、会ってはいない。彼が入社した時
は、ニッポン放送の文芸部に(私の)名札はあっ
たけれども、日本テレビに出向(実習)している
から会ってはいなかったわけです。
倉本聰に言わせると、松木ひろし、嶋田親一の
赤い札(不在の名札)が揺れていたと彼のエッセ
イには面白おかしく書かれています。その後、フ
ジテレビの開局となるので、ニッポン放送とは関
係なくなって結局、倉本とは会わずじまい。
倉本聰は、ペンネームで日活とかで脚本を書い
ていたから、それを松木ひろしから聞いていたの
で名前は知っていました。
私はプロデューサーの中村敏夫に 50 万円持た
せて、垣内健二と二人は北海道へ飛んだ。
その後、「かもめ座物語」という企画書が倉本
から来るわけです。ただでお金をもらうわけには
いかないという。それが彼の偉いところですね。
「かもめ座物語(仮題)」という企画書。これが「6
羽のかもめ」が生まれるきっかけとなるわけです。
それから、フジテレビとの強い絆が生まれて、「北
の国から」も出来上がる。
「6羽のかもめ」の制作がスタートしたのが、
1974(昭和 49)年 8 月 30 日。その日、スチール
撮影を行なった後、本読み。プロデューサーであ
る私が冒頭、挨拶をした。奇しくもその日は、私
の 43 歳の誕生日。倉本聰は 39 歳。倉本は「大き
な嘘をついて、小さな嘘は絶対つかないこと」と
提言したのを覚えています。
■スタジオアルタに出向
――スタジオアルタも嶋田さんと関係が?
アルタ命名にも私がからんでいます。最初は、
「スタジオ・オルタ」か「スタジオ 55」の 2 案で
どちらにするかってなって、私の打開案としての
「スタジオ・アルタ」に決まった。
1980(昭和 55)年 4 月 1 日、スタジオ・アル
タがオープン。私は制作担当の常務取締役に就任。
■出向で新国劇社長
――新国劇とは縁がありますね?
1971(昭和 46)年 10 月 4 日夕方。株式会社新
国劇の緊急役員会が、銀座ホテルダイエーで開か
れ、議論は三時間に及んだ。その日は、私が新国
劇の代表取締役社長になっての初会議だった。私
は親会社のフジテレビから財政立て建て直しを厳
命され、観客動員対策に新しい体制を求められ、
後がない責任を問われた究極の人事で社長に任命
されていたのです。私はドラスチックな改革案を
示し、向こう1年間、経営方針、劇団運営、演目
決定など私を中心にしたフロントに一任してほし
いと島田正吾、辰巳柳太郎に突きつけたんですよ。
空気は凍ったね。シーンと静まりかえって、長い
間があって、辰巳柳太郎が「わかった。俺は君に
1年あずける」と。それからまた長い沈黙の後、
島田正吾が「辰巳ィ。長い付き合いだったな。俺
は新国劇をやめる」と。ついに来たなと思ったね。
そこで私は「島田と辰巳が別れて、何が新国劇で
すか!」と、声をふりしぼって言いました。そし
て閉会にしました。新国劇の新しい歴史が始まる
日でもありましたね。
■新制作社長
――倉本聰さんともこの頃ですか?
当時フジテレビは制作部門を分離して四つの制
作プロを競い合わせていました。私はそのひとつ、
新制作を率いる社長となるわけです。
ある時、淡島千景、高橋英樹を抱えているプロ
ダクションの社長、垣内健二が、フジテレビの九
階にある「新制作」に飛び込んできた。「シンちゃ
ん、倉本聰を応援しよう」って迫ってくるわけよ。
「倉本がNHKと決裂した。大河ドラマ『勝海舟』
の脚本を降板する」。なんでも倉本はそのとき東
京から姿を隠し、脚本の原稿だけを送り届けてい
たとのこと。垣内健二は倉本聰の親友だったです
からね。前払いされているNHKの脚本料は使い
果たして立ち往生というのが判ったらしい。倉本

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です。先生の側にいて、その執筆過程を知ってい
る私にとっては、先生亡き後にこのことが頭から
離れないですね。北條秀司の創作における完全主
義の姿勢が、実際の史実との間で折り合いがつか
なかったのです。自ら「一時中断」を私に宣言し
て筆を止めました。四分の三は出来上がっている
のに。いい本なのよ。
これはスクープなんだけど、この「火の女」の
演出家は誰がいいと思う? と聞くので、「それ
は先生ですよ」「元気なら俺がやる」。先生の希望
は「浅利慶太だ」って言うんですよ。これは、浅
利慶太に是非伝えたい。私は浅利さんとは一回し
か会ってないんだけどね。さらに音楽は亡くなっ
た團 伊玖磨と言っていたね。
浅利慶太は喜ぶと思うよ。死ぬ前の北條先生が
演出に浅利慶太を指名したのは、羨ましいですね。
今から 10 年ぐらい前ですから、團伊玖磨さんも
生きてたよね。実現させたかったですね。北條秀
司のような作家は今後も出ないだろうな。私は生
原稿を持ってますけどね。偉い人というのは、人
に代筆を頼むこともしないんだ。細かいしね。晩年、
弟子に今書いてる作品の構想を壁にべたべた貼ら
せるわけ。それは凄いよ。原稿用紙が散らばって
る。忘れもしない、第一幕(序幕)を何回も書き
直している。どうみても、どこが変わってるかわ
からない。それぐらい細かいんだ。
私は思っています。この大作「火の女」を完成
させて、是が非でも世に出したい。そのためには
北條秀司家元の完全主義ともう一度向かい合い、
奇跡を祈って先生のお墓に行きたいですね。
――脚本や台本については?
菊田一夫先生が、ラジオドラマを開発したんだ
ね。波の音から入る。3 分間、勝負だって言うね。
ラジオの本質を突いていると思うね。今だって同
じだと思うんだよ。だらだらだらだらやればい
いってもんじゃないじゃない。ドラマだけじゃな
くて、トークショーでもそうだと思うんだよ。ポッ
と話題をひきつける。そういうのを論理的に考え
てないでしょ。感性だけでやってるでしょ。まだ
帯番組「生活新発見」というアルタ制作のミニ番
組を毎日放送しました。VTR録画はかなりハー
ドでしたね。この番組に岡本喜八のよきパート
ナーであり、最愛の人・みね子夫人を起用しました。
その後、公開放送は「笑ってる場合ですよ」か
ら、タモリの「笑っていいとも」に発展し、驚く
べき長寿番組になったわけです。
■最後に・・・
――嶋田さんが最も影響を受けた人は?
私には恩師が二人います。一人は私を劇団新国
劇に入れてくれた父の先輩で演出家の師・佐々木
孝丸。佐々木孝丸は当時、劇作家組合の委員長。
その劇作家組合こそ、今の日本演劇協会の前身な
んですよ。その佐々木孝丸の紹介状を持って、劇
団新国劇の門を叩くわけです。
そして、実際に舞台で鍛えてくれた師・北條秀
司(明治 35 年~平成 8 年)。大劇作家にして名
演出家。演劇界の北條天皇だった。93 歳で天寿
を全うするまで、自らが言う“禿筆一本の生涯”。
北條秀司は伝説の人ですよね。最期を見ているの
は、私と緒形拳だけですよ。その緒形も亡くなり
ました。
1951(昭和 26)年 10 月の明治座公演「霧の音」で、
私は演出助手として一本立ちしました。20 歳に
なったばかりでした。北條秀司 49 歳。私の亡き
父より一つ若かったんですね。「霧の音」に始まっ
て亡くなるまでの 45 年間、いろんな葛藤もあり
ました。お出入り禁止になったこともありました。
破門にならなかったのは、先生の厳しさの奥底に
ある、人には見せない「情」だったと思いますね。
幸せなことに私は亡くなる 3 年前から、鎌倉・岡
本にある北條邸から車で 10 分のところに住んで
いました。意図的に側にいたんですけどね。その
3 年間、毎日のように北條邸に詰めて、最晩年の
執筆に立ち会いました。
先生には、未完の遺作「火の女」があるんですよ。
大作です。大杉栄をめぐっての、伊藤野枝、神近
市子たち、新しい時代の女性たちの壮大なドラマ

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放送作家や放送台本として考えることがあるん
じゃないかな。そういう意味じゃ北條秀司なんて、
その塊でしょ。人をひきつける、人を飽きさせない、
人にショックを与える。お客との会話ですよ。ラ
ジオはまだリスナーとの会話があるよね。テレビ
なんて、流しっぱなしじゃない。自分達のやりた
いことをやってる。出てくる視聴者が、なあなあ
じゃない。それで感動がありますか? 放送作家、
構成作家の責任もあるよ。もっと頭使って、謙虚
に。何で放送作家が必要なのかと言うと、菊田一
夫の技ですよ。最近、若者はライブに戻っている
けど、舞台に学ぶものは大きいよね。放送の創作
の原点だね。菊田一夫先生の「君の名は」(昭和
27 ~ 29 年)や内村直也先生の名作「えり子とと
もに」(昭和 24 ~ 27 年)には痺れましたよ。ラ
ジオと言うのは夢を与えたんだね。その技をどう
して活かさないんだろうね。昔が良かったって話
をしているのではないんですよ。こんなに良い手
本、原点を、昭和、大正、明治の先輩達が残して
いるのに、勉強して欲しいですね。興味を持って
欲しいね。それが私の一番言いたいことです。
(三原 治・石橋映里)
“幻のドラマ”「執刀」の脚本(山本雪夫作)
1959 年、フジテレビの試験電波で放送された
主演は俳優座の滝田祐介と大塚道子
今もスーパー素材が保存されている

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えていた方だったそうです。
霞町のアパートから青山の第一マンションズに
引っ越す時に、それまで書いていた自分の脚本を
捨てたとおっしゃるんですね。「アパートの二階
の窓からどんどん捨てていったよねえ」と。下に
軽トラックかなにか停めて捨てたらしくて、そこ
にいっぱいになったというくらい捨てちゃった。
ですから昔の脚本、特にラジオ台本に関してはほ
とんど残っていませんでした。
この膨大な量の台本を保存していたのは、森繁
久彌さんでした。森繁さんがご自分のお宅に台本
を保存していらしたのです。森繁さんはご自分の
台本を全部取っていらっしゃる方なので、「重役
読本」の台本を向田さんの母校・実践女子大の図
書館に寄付をした。それがすべての基礎資料と
なって、本が作られました。
それ以前に、没後7年のとき、オール読物で“幻
の脚本”と惹句をつけ「森繁の重役読本」の中か
ら 10 作ほどピックアップして雑誌に掲載しまし
た。これだけでは一冊の本になりませんので、実
践女子大に行きまして、2448 本分のマイクロフィ
ルムから良いものを抜き出して本にしたという経
緯があります。
向田さんの魅力ですが、時代をつかまえるのが
とても上手い人だと思いました。
寺内貫太郎一家
例えば「寺内貫太郎一家」の生放送では、前日
か前々日の話題がすっと入ってきて、“台本、い
つ書いたの?”と思うくらいのつかまえ方をして
います。また、双方向でできていて、きん婆さん
が突然「先々週放送していたカミナリボシの作り
方をもう1回教えてください」なんて視聴者から
のお便りを読んで、もう1回作りましょうみたい
なことになる。そういう本筋とはまったく関係な
いところであらゆる工夫が施されています。
向田作品の中で一番好きなシーンは、「貫太郎」
の第1部の最終回で、梶芽衣子さんがお嫁に行く
シーンです。披露宴で貫太郎の返礼が音声として
流れている。でも、映像は寺貫のおうちの風景な
平成21年度の研究会ではアカデミズムや法律論に
重点を置いたので、今年度はより実践的な現場の
話、コミュニケーションのあり方を中心にした研
究会を開いた。
研究会① 2010年5月15日
テーマ:「向田脚本を全集にまとめて」
講師:烏兎沼佳代氏(フリー編集者)
■プロフィール:(うとぬま かよ)1960年、山形県生
まれ。高校教師、海外での日本教師、編集プロダクショ
ン勤務をへて、文藝春秋ネスコ編集部に勤務。2000年に
フリーとなる。日本ペンクラブ会員。編集した主な本に、
『向田邦子シナリオ集』全6巻(岩波書店)、『向田邦
子全集 新版』全13巻、『司馬遼太郎短編集』、井上ひ
さし氏の『~~に聞く』シリーズ、『藤沢周平記念館図
録』(以上文藝春秋)など
2009 年が向田邦子さんの生誕 80 年であり、
2010 年にかけて岩波書店からシナリオ集が6冊、
文藝春秋から全集が全 13 冊出た。ここでは烏兎
沼さんが担当した岩波のシナリオ集などにからめ
て向田さんと脚本の話をしていただいた。
重役読本
「森繁の重役読本」は、昭和 37 年から 44 年ま
で7年間、2448 回続いた作品です。
その台本がなぜ残っていたかという話をしたい
のですが、その前に、向田さんという人は、放映
が終ってしまった自分の脚本を大事にしなかった
人として有名というか、自分でそういうふうに考
研究会報告

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テレビ創成期の番組の台本は、この向田邦子さ
んのデビュー作のように、番組作りにかかわって
きた方々の個人の努力で保存されているケースが
ほとんどです。でも、個人の努力には限界がある
んですね。世代が変わると捨てられてしまう。こ
れが一番怖い。
昭和の日本人の話し言葉がそのまま保存されて
いるという意味でも、テレビドラマの台本は価値
があります。台本が散逸することは、昭和の話し
言葉文化を残す資料が消えてしまうことのように
感じています。
<補足質問>
Q:久世さんと向田さんの相性は感性の面でよ
かったのでしょうか?
邦子さんが久世さんを困らせていたようです。
「顎十郎捕物帖」というのが一番初めに組んだ作
品ですが、捕物帖なのに下手人がいない話を邦子
さんが書いてきて困らせたのが最初の出会いだと
いいます。ただ、困らせたというのは信頼してい
たというのと同義語です。だから「寺貫」などで
は、ここはお任せで勝手にやってみたいな書き方
をしているところもあれば、ここは譲れないぞと
いうところもある。ご自分の中のイメージがしっ
かりしているところはキッチリ書き込むんですよ
ね。そういう信頼関係だったと思いますね。書き
込まれているところに関しては久世さん、脱帽な
さっていたのではないでしょうか。
Q:直木賞の後は、小説家として精力的にやって
いこうと考えていらしたのでしょうか?
直木賞受賞時に書いていらしたのが「幸福」で、
んですね。蛇口から水道の水がポタンポタンと垂
れているとか、梶芽衣子さんが美代ちゃんに「結
婚するからあなたにあげるわ」と言ってあげてお
古のブラウスがたたんで置いてあるとか、そうい
う結婚式で出払って誰もいない家の風景を点描し
ていくシーンでした。“久世さんの演出だろうな
あ”と思ってシナリオを読んだら、ちゃんと向田
さんが書いていらっしゃる。素晴らしい脚本だと
思いました。
幻のデビュー作品
岩波のシナリオ集6巻目「一話完結傑作選」を
作るときは、脚本アーカイブズさんに非常にお世
話になりました。
これまで幻と言われていたデビュー作の「ダイ
ヤル110番」をどうしても探し出したかったのです。
向田家、遺品のほとんどを寄贈したかごしま近
代文学館、向田邦子文庫をもつ実践女子大、そし
て放映した日本テレビにも、どこにも残っていま
せん。わらにもすがる気持ちで、脚本アーカイブ
ズに出向いたら、邦子さんが書いたのはなかった
けれど、「他の方が書いた『ダイヤル 110 番』なら
ありますよ」ということで見せていただきました。
その後、縁あって日テレにいらした佐藤孝吉さ
んから演出家の高井牧人さんをご紹介いただいた
ところ、そこに台本が眠っていました。
「ダイヤル 110 番」など向田ドラマを何本か演
出なさっている方のご自宅の倉庫にこっそりと
眠っていたのです。
シナリオは日テレを退社するときに1冊残らず
段ボールに詰めてご自宅に持って帰って倉庫に詰
めたままでした。捜索して頂いて、1週間くらい
かかって発見の知らせがありました。脚本アーカ
イブズがきっかけとなって、このシナリオ集が最
後までできました。個人の努力で保存されている
この宝物のような台本は、その家のご家族ですら
向田作品であることをおわかりではなかったので
す。この時点で発見されなければ、行方がどうなっ
ていたか。
放送局で台本を保存するという意識が芽生えた
のはつい最近のことです。

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これからの文化施設は……
みなさんの懸案である脚本アーカイブズをどう
いうふうに実現するか。文化アーカイブズ、映像
アーカイブズのような大きなくくりで考えていく
方法もあるでしょう。しかし専門家だけでもダメ
で、行政も地域も加わって知恵を出して行かなく
てはいけない。
また、これからの文化施設というのは、アーカ
イブにしろ劇場にしろ、地域社会の中にあるとい
う考え方を作らなきゃいけません。いま元気のあ
る江戸東京博物館は、まわりの地域に相撲や下町
らしいものがいろいろあって、この博物館があっ
て、“おお、そうだな”という気分になります。
古い公共というのは、ボーンとコンクリでそこ
に建てましょうというものです。逆に新しい公共
というのは、地域に根ざした中から、“地域でも
こういうのがいいね。作りましょう。行政もそれ
なりにお金を出しましょう”という市民層、地域、
行政の三方一両得の思想です。
新しい公共のモデルとして
「京都国際マンガミュージアム」の成り立ちが
新しい公共のモデルです。
廃校となった小学校の一等地に京都精華大学が
マンガミュージアムを作ろうと考えた。京都市も
跡地利用を進めたいが、地域の人たちがマンガ
と聞いて反対した。そこで文化庁も乗り出して
2003 年から3年かけて三者が地元住民を説得し、
マンガミュージアムが完成した。
予算はたかだか 10 億円。京都市は建物の耐震
整備などをやりますよと。次に、建物の改装や本
を揃えたり、研究施設を作ったりという、アーカ
イブになるための費用は京都精華大学が出し、そ
れだけでは足りないので国が援助していきましょ
うとなりました。
巨大な建物ではありません。しかしいま、年
間 30 万人の来場者があり、外国からも人が来て、
国際シンポジウムなどを開いています。同時に、
地域の人が来て盆踊りをやったり、ビヤガーデン
それ以降、作風もどんどん変わっていったのです
が、おそらく両輪でやっていこうというお気持ち
だったと思います。「あ・うん」のパート3,パー
ト4の構想をすでに持っていたとお話になってい
らっしゃいますし。ただ、乳がん以降お体の調子
がけっこうしんどかったんじゃないかという話が
残っています。本の場合、活字の場合、迷惑かけ
るのって編集者1人なんですよね。そのことも
あって、小説の方にシフトしていこうかなという
気持ちもあったのではないかなと思いますけど。
(南條廣介)
研究会② 2010年7月24日
テーマ:
『シナリオを教育分野に活かせるのか
~地域活性化としての観点より~
講師:寺脇 研氏
■プロフィール:(てらわき けん)
1952(昭和27)年7月13日福岡県生まれ。
1975(昭和50)年3月東京大学法学部卒業。
同年4月 文部省(当時)入省。職業教育課長、広島県
教育長、医学教育課長、生涯学習振興課長、政策課長、
大臣官房審議官(生涯学習政策担当)、文化庁文化部長
などを歴任。
2006(平成18)年11月退官。
現在 京都造形芸術大学教授、映画評論家、NPO教育
支援協会チーフ・コーディネーター、ジャパンフィルム
コミッション理事長。

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やることではないと思われていたからです。これ
からもっともっと拡がっていく可能性があります。
(補足質問)
Q:実現までの経路を教えてください。
このミュージアムができたことにより、私がい
る京都造形芸術大学に来年からマンガ学科ができ
ることになったのです。できたならば、うちもや
りましょうという大学が出てくる。
だからここの場合、大学をいかにつかまえてく
るかという問題ですね。連帯保証人が多い方がい
いってことですよ。いま京都国際マンガミュージ
アムでそれをやろうとしているわけです。そうす
ると公益性がまた上がります。
Q:企業の寄付についてはどう思いますか?
昔、企業は儲かったら社会貢献するという考え
でしたが、儲からなくても企業イメージを上げる
ために出しています。公共の中には当然企業も
入っています。企業から寄付を受けやすくなる仕
組みにも当然変わって行かなきゃいけない。企業
の方も、儲かる前から企業が社会と一緒に生きて
いくために還元すると。企業はプレイヤーの1人
として入ってもらわなければならないと思います。
         (南條廣介)
なんかやって、地域の人たちの憩いの場にもなっ
ている。これが1つの例で、新しい公共というの
はみんなが当事者です。
脚本と教育活動
シナリオ教育は、一部ではかなり普及している。
例えば杉並区は日本劇作家協会とタイアップして
いて、杉並区における演劇教育は盛んです。高円
寺の駅前に「座・高円寺」という劇場ができまし
たよね。杉並区が建てて、運営は劇作家協会がやっ
ている。あれはいきなりできたのではなくて、劇
作家協会が 2002 年くらいから杉並区の小学校で
出前授業を行って、演劇のワークショップをやっ
てきている成果です(68 頁)
目黒区の駒場では平田オリザさんの青年団とい
うところが駒場の地域の小中学校でやっているし、
品川区では劇団四季が発声訓練を品川区の小中学
校でやっています。
これをコミュニケーションという観点で広く
使っているのが、新宿区の大久保小学校という
日本一多国籍の子ども達が通っている小学校で
す。国籍も習慣も母語も違う子どもたちのコミュ
ニケーションを作っていくために演劇のワーク
ショップを取り入れて授業をしているケースもあ
ります。
そういう意味でこれからはまず、教師もかつて
は経験がある演劇が使われ、映像世代が増えてい
くとともにシナリオを作って、映画を作る教育も
普及していくのではないか。
京都の小学校の総合的学習、社会科の授業は、
「放送局を学ぼう」という単元の中で子どもたち
自身にニュースショーをやらせるんですね。アナ
ウンサー、ディレクター、プロデューサー、カメ
ラマン役の子などがいて、段ボールでカメラを
作ってロールプレイをします。ちゃんとニュース
台本も作って読み、どういう構成で作れば確実に
ニュースは伝わるだろうかと考える授業です。
こうした例は 10 年以上前には日本のどこでも
行われてはいませんでした。そんなものは学校で

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★国民の誰もが先人たちの残した「作品」つま
り「記録の集積」にアクセスでき、それを読み、
研究し、有効利用するためのシステムおよび施
設をつくることが、「情報社会」にあってはき
わめて大事です。脚本アーカイブズはそれに資
するものです。
★さらにデジタル化の技術を応用することで、た
とえばキーワード検索によって瞬時に過去の
数々の関連シーンや関連作品を呼び出し、参照
することも可能になります。将来的には多彩か
つ多様な企画、発想の源にもなり得ます。創り
手など関係者ばかりでなく、創り手志望者、さ
らに作品の享受者にとっても鑑賞の手助けにな
ります。
★ 1970 年代までの放送番組は映像自体保存され
ていないものが多く、今や脚本・台本を通して
しか中身を知ることができません。戦後の日本
に良くも悪くも多大な影響を与えたテレビ。そ
の内容が創生期の 20 年以上にわたって残念な
がら「空白」となっています。
★わずかにその内容を伝えている「現物」が脚本・
台本です。「このままだと散逸してしまう恐れ
のある脚本・台本」を重点的に収集することが
ぜひとも必要で、これは国の文化政策として最
優先事項のひとつと思います。日本では脚本・
台本を組織的に集めている組織はほとんど皆無
で、どこかがイニシアチブをとって実施しない
と、永遠に消えてなくなってしまいます。
日本は明治維新によって農業社会から工業社
会に脱皮しましたが、21 世紀になり更に工業社
会から情報社会への脱皮が必要です。情報社会に
必須のものとしてITがありますが、あわせて「文
化土壌の涵養」がきわめて大事です。
文化アーカイブの中の脚本アーカイブズは、こ
の「文化の土壌の涵養」に大きな役割を果たすも
のです。
【文化アーカイブとは?】
従来、作品を制作する際の「周辺資料」として、
作品完成後は廃棄されるか、組織的に収集されて
こなかった「文化資料」を、「文化資源」として
位置づけ、これを組織的に収集・保存・管理して
いこうとするものです。文化庁が打ち出しつつあ
る「構想」でもあり、この流れのなかに脚本アー
カイブズもあるといっていいと思います。
▼放送脚本・台本等の関連資料
▼映画関係資料
▼美術関係資料
の収集・保存の 3 つが柱となります。
【脚本アーカイブズの意義】
★文化とは「伝統」(先人の業績)の上に新し
いものを加味したところに成り立ちます。創作も
同じで、よく「オリジナル」といいますが、まっ
たくの白紙から作りだせるものではなく「創り
手」の脳に蓄積された「記憶」(実体験、読書体
験、映画や演劇を見たり音楽を聴いたりした体験
等々)が下敷きになっています。
「文化アーカイブ」の柱としての脚本アーカイブズ
★あらゆる映像(音声)作品には脚本・シナリオがあります。
★脚本は音楽でいえば楽譜であり、建築でいえば設計図です。
★作品の善し悪しを決める最大の要素は脚本の善し悪しです。
★作品創造で重要な位置を占める脚本が散逸の危機にあります。

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を創る上の参考になります。それはそのまま「創
作支援ツール」となり、マーケティング理論の応
用などで「商品として売れ筋の作品」を制作する
上に役立ちます。
今後、人工知能等の応用と検索技術の発達等に
より、画期的な活用も期待できます。そのために
も収集した脚本・台本の内容のテキストデータ化
が必要です。
【ナショナルな施設への移行が必要】
50年後100年後を考えると「ナショナルな施設」
での収集保存が必須です。将来的には映像アーカ
イブズと脚本アーカイブズをリンクさせ、映像か
ら脚本へ、逆に脚本から映像へ飛べるシステムが
必要です。フランスや韓国では国が全面的に支援
してシステムを作りあげているし、「寄付文化」
が普及しているアメリカでは寄付による民間施設
がいくつも機能し、映像産業の発展に貢献してい
ます。
内容のテキストデータ化ひとつとっても大変な
手間と経費がかかり、しかも短期間で利益を生み
出せるものでもないので民間ではむずかしく、国
が文化政策の一環として主体的に関わることが必
要と考えます。
21 世紀、日本が「情報社会」に脱皮していく上で、
「文化の土壌」を豊かにしていくことはきわめて
大事なことです。それが「文化アーカイブ」の意
義でもありますが、脚本アーカイブズは文化アー
カイブの重要な柱の1本となり得るものです。
             (香取俊介)
【脚本・台本の特性】
★書き手が映像イメージを、基本的に「起承転結」
の構成に従って文字情報に置き換え、脚本・台
本とします。
★文字情報でのみ作成された脚本・台本から、制
作スタッフ、出演者がそれぞれのイメージを描
き、各自の作業役割にしたがって作品を完成さ
せます。
★制作の過程で常に「戻っていく」のは脚本・台
本で、ここにこそエッセンスがあります。
★脚本・台本は「資料(原作本、書籍、取材で得
た情報)」と「映像ソフト」をつなぐ媒体とし
ての機能をはたしており、作品研究等に欠かせ
ない媒体です。
★脚本・台本は文字情報なのでデジタル化、検索
システムにより良く馴染みます。
【日本がもっとも遅れている】
日本のテレビ番組は従来国内しか相手にしてこ
なかったこともあり、今や「ガラパゴス化」しつ
つあるといわれています。世界市場に打って出る
ためには、まず企画の充実。そして作品の基礎の
基礎となる脚本をいかに充実させるかです。
文化産業、映像産業を「内向き」ではなく「世
界に向けて発信」していくためにも脚本・台本の
充実が必須で、脚本アーカイブズはそれに資する
ものです。
【デジタル化による利活用】
脚本・台本は100部から200部程度しか作られず、
劣化を防ぐ意味でもデジタル化は必須です。同時
に過去の脚本・台本をデジタル化することで、膨
大なシーン、人物像、基本的ストーリーなどをキー
ワード検索で大量に瞬時に呼び出せるようになり
ます。たとえば「別れのシーン」「涙のシーン」「30
代の女」「20 代の男」といったキーワードを入力
することで、さまざまな動き、小道具、台詞など

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99
(2)意義および著作権について
脚本アーカイブズ設立の意義は、文化的な側面
および実務上の側面から、多くの協会員が認めて
いる。
アーカイブズ事業を文化的事業として評価した
上で、紙ベースの脚本・台本が消滅する事への危
機感、ひいては、歴史的資産を保護・活用しない
国民性へのいらだち、文化立国日本としての将来
を危ぶむ声もあった。アーカイブズの必要性は
様々で、協会事業としては是とするも、収集につ
いてはドラマ脚本と構成台本とでの質的相違から
収集基準に関する意見や協会の役割を事務程度に
すべきなど総合的な運営に関わる危惧をいだく意
見もあった。作家は、自分の作品を残したい、自
分が存在したことを覚えていて欲しいと思うもの
であり、構成台本もドラマ脚本も同じ土俵での議
論というのが、大方の結論といえるようだ。
アーカイブズ活用の「二次創作」の可能性、デ
ジタル時代における「著作権」の新たなあり方な
ど、放送作家の仕事を広げる方向を模索する、新
たな検討、再構築への思いも見られた。時代を生
きる放送作家ならばこそ、時代を見すえた国の文
化推進に与することが重要であり、文化推進と著
作権の忸怩たる思いもあり、(開放など)思いきっ
た転換をはかるべきとの意見もあった。
アーカイブズは、誰のため、何のためかが分か
りにくく、単に過去を懐かしむためだけの脚本の
展示には興味がない、放送は生き物なので過去の
台本がどれだけ価値があるのか分からないなどと
いった意見など、自らの作品の価値に対する素朴
な疑問や構成台本の利活用の困難さを指摘する向
きもあった。
脚本の価値に関する意見は、昨今の作家性が希
薄になっていることにも関連すると推察するが、
その声は、特に構成作家から聞く事が多い。しか
し、「NHKスペシャル」などのドキュメンタリー
はテーマの深め方、検証の正確性、再生性等の観
点から立派に科学的で、社会学や歴史学分野では
十分に学問的であり、一次資料として学術論文に
2010 年秋、日本放送作家協会は委員会活動の
一つとして「会員意向調査」を実施した。質問と
回答は郵送(回収率、約 1 割)。質問項目のQ 12
で脚本アーカイブズ委員会活動を尋ねた。多くの
示唆に富んだ意見や提案などあり、アーカイブズ
設立に向けて貴重なヒントが得られた。細かに紹
介したいが紙幅の都合もあり、今回は一部を紹介
するに留め、アーカイブズ始動に向けての課題を
列挙して本稿を終えたい。
(1)活動の総合評価と設立に関する課題
「脚本アーカイブズ」の活動については、総
じて好意的であり、その推進について積極的に関
わりたい希望や応援の意見が顕著で、設立の重要
性を認識する回答が多かった。
放送史の実証データとも言える大量の脚本・台
本の収集・保存には多大な費用がかかる。整理に
は想像を絶する困難があり、地味な収集活動の中
に人的労力など大変な作業であることへの理解が
示された。委員会の地道な努力を労う中に、その
奉仕精神に感謝の言葉もあった。それは、アーカ
イブズ推進に関わった委員への励ましとなり、大
儀の前のボランティア精神でやってきた事が報わ
れた瞬間でもあった。
今後の進め方では、次世代に引き継ぐために小
集団でやるテーマではないとの意見があり、会員
ボランティアでの実施では困難との指摘だ。専門
家や専任を置き、データの作成・収集・整理につ
いての検討や関連業界団体と大きな運動にすべき
と助言があった。しかし、進行状況などで不透明
な所もあり、可視化して、アーカイブズ活動への
疑問に応える要請も見られた。アーカイブズ設立
に向けての長・中期計画の策定および財源確保等
は急務の課題といえる。
アンケート結果に見る
「アーカイブズ活動」への
期待と今後の課題

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100
としての可能性を残しながら、公文書のデジタル
保存と連動するためにも、脚本アーカイブズには
デジタル化が必須条件であり、デジタル化および
その利活用に早急に取り組む必要があると、先を
見据えた意見もあった。
(4)「脚本アーカイブズ」のゴールイメージ
台本は“放送が終わったら不要”という認識が
多い中で、良い脚本は何度も映像化されるし、脚
本を通して放送作家史などを残す事も後人の役に
立つと、脚本の文学、社会学的価値を論じる意見
が見られた。
脚本のままで残すこともアーカイブズとしては
重要であるが、テレビが大衆娯楽の域のものであ
れば、オンエア脚本 ・ 台本を社会に広めて行くに
は、ノベライズ本やリライトした「小説」の様式
が望ましいとの意見もある。
また、大河、朝ドラなどは、作家にとって珠玉
の教材であり、その資料価値は重要である。検索
ワードには新たな文化の革新性があり、書誌情報
に付加されたコンテンツワードの取り組みは、日
本独自の検索分類ワードであり、作品内容に踏み
込んだシーン別の検索手法となる。これを、国語
教育に活用する場合、標準語でない会話検索と
か「ら抜き」若者言葉の歴史的解析とその社会背
景など研究対象の拡大も可能で、名作研究の分野
は、文学研究であり、社会学分野の研究対象であ
る。畢竟、日本言語をなりわいとする人々のため
の、「人づくり」のための生きた教材といえよう。
(杉原秀一)
*拙稿「グランドデザイン部報告①“産学共同”へ第一歩」、
平成 19 年度版報告書 22 ~ 23 頁に詳述。
活用できるものと考える。また、お笑い番組の構
成台本は、笑いの心理的メカニズムなどの研究対
象となり得る。学問的方法論との融合によって新
分野の理論を構築する可能性を否定できない。脚
本や台本が広く社会に公開されることで利活用の
可能性が無尽蔵に広がるものと推察する。ドラマ
脚本においては、文学、国語学、時代考証、作家
研究等の極めて利活用幅の大きいものとして、文
字小説にも匹敵すると考える。
(3)収集・保存・閲覧・利活用に関して
アーカイブズ事業の形態は、電子書籍のよう
に手数料を払っていつでも見られるのが望まし
く、それには、著作権をクリアーにして有料公開
するといった積極的な提案があった。収集方法で
は“一人一作”の代表作を会員に依頼して集める
方法や、たとえば視聴率 20%を超えた番組シリー
ズと銘打った収集法など保存・閲覧をも考慮した
ユニークな提案があった。また、電子化・英訳他
各国語版化をすすめて、学術論文などのように海
外から検索・調査の対象となるように、事業のさ
らなる充実を求めた意見があった。これは、わが
国経済の国際化と文化面での国際化が両輪を為し、
文化立国としての独自性を確立し得べき姿かと感
じ入った提案であった。
アーカイブズのデジタル化により、名作脚本に
もっと手軽にアクセスできて、作品研究に弾みが
つくようにとの意見は、まさに、アーカイブズ設
立の真骨頂である。この要望は国内・外の大学や
研究機関の関心事でもあり、全国大学図書館との
ネットワークによる利活用の形態であり、あるい
は文化立国日本の存在感を世に知らしめる国家戦
略にも通じるものとなる。(*)
アーカイブズ事業の大変さについては共通の認
識があった。放作協の単独でやれるものではない
といった意見に関連して、日本放送作家協会と日
本脚本家連盟とが共同で活動しないことへの素朴
な疑問もあった。
また脚本の大衆性、公益性が認知され、公文書

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101
ホームドラマ、社会派ドラマ、恋愛ドラマ、青
春ドラマ、学園ドラマ、コメディ、サスペンス・
ミステリー、刑事ドラマ、法廷ドラマ、時代劇、
歴史ドラマ、文芸ドラマ、翻訳ドラマ、特撮、ア
ニメ、人形劇、ファンタジー、子ども番組、ワイ
ドショー、ドキュメンタリー、情報、音楽、バラ
エティ、クイズ、教育、料理、スポーツ、報道、
教養、バレエ、ミュージカル。                 
[コンテンツデータ]
必須項目: ①管理番号 ②メディア ③ジャン
ル  ④連・単・S、シリーズ名 ⑤作品・資
料名 ⑥タイトルフリガナ ⑦サブタイトル 
⑧脚本・構成 ⑨放送開始日 ⑩制作局 ⑪出
演者 ⑫演出 ⑬プロデューサー ⑭原作名 
⑮原作者  ⑯主題歌 ⑰主な舞台設定 ⑱ロ
ケ地 ⑲提供・スポンサー ⑳備考  寄贈元 
寄贈日
任意項目:稿名、スタッフ名など 22 項目。
■データ入力
汎用性の高いエクセルを使用。
サンプル公開の脚本・台本数を約 100 冊と決め、
2010年4月の江戸東京博物館に展示された当アー
カイブズ所蔵の脚本・台本を基準として、各ジャ
ンルの担当委員が作品を選択。約 1 カ月の間に
109 冊の書誌データを入力。
■データベース公開
2010 年 12 月 16 日、脚本データベースが公開
された。
寄贈された4万冊を超える脚本・台本、資料類
の社会還元や利活用を考えた時、書誌データの公
開は必須である。
今年度は、これまで大きな課題のひとつであっ
たデータベースの Web 公開に取り組んだ。
■ジャンル分類とデータ項目の決定まで
当アーカイブズ発足以来現在まで、下記のよう
な手順で分類、保存されている。
Ⅰ.寄贈脚本の仕分け
寄贈者より送られてきた脚本・台本を「ドラマ」
「構成」「ドキュメンタリー」「アニメ」「その他
(生原稿など)」の5ジャンルに分類。
Ⅱ.管理番号の付与
一冊ずつ管理番号を付けて OPP 袋に収納。
Ⅲ.書誌データの入力
①管理番号 ②作品・資料名 ③作家名 ④ジャ
ンル ⑤放送日 ⑥放送回 ⑦放送局 ⑧制作  
⑨出演 ⑩作品情報 ⑪備考 ⑫寄贈元 ⑬寄贈
日 ⑭保管場所。以上の14項目をエクセルに入力。
2010 年 7 月、上記の現状をもとに、書誌データ・
サンプル公開プロジェクトチームにより分類法や
データ項目に関して検討を始める。
同時にシステム開発について4社に合見積を取
り、その結果、「テレビドラマデータベース」の
システム開発を手掛けた(株)キューズ・クリエ
イティブに依頼することとなった。
数度のプロジェクト会議を経て、ジャンル分類
とコンテンツデータは下記のように決まった。
[分類]
①年代による分類 ②メディアによる分類 
③回数による分類 ④ジャンルによる分類
[ジャンルによる分類詳細]全 31 ジャンル
書誌データ・サンプル公開

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102
■今後の課題
ジャンル分類法については今後、変更の可能性
もある。というのも、これまで調査研究で訪れた
関係施設の検索データベースや、Web 上で公開
されているデータベースのジャンル分類法を参照
したが、それぞれオリジナルのジャンル分け、分
類をしており基準になるジャンル分類法がない。 
そういうわけで、今回は日本脚本アーカイブズ独
自のジャンル分類法を作成した。
一方、当アーカイブズも参加する「放送脚本デ
ジタル化研究会」(任意団体・本部は東大大学院)
で分類法の研究が進められている。次年度には放
送界の基準になるような分類法が決まり、それを
採用できるかもしれない。
サンプル公開では実現しなかったが、いずれは
脚本・台本の内容を一部分だけでも公開したい。
多くの人々に脚本アーカイブズの必要性を知って
いただくためには、まず脚本・台本について興味
と関心を持って欲しい。そのためにも内容の一部
でも見ることが出来ればと思う。しかし、著作権
や公衆送信権の問題で今回は実現しなかった。今
後、日本脚本家連盟などの著作権管理団体との話
し合いが必要だと思われる。
また、当アーカイブズが現在抱えている問題と
して、設立当初から暫定的に使用している保存用
の書誌データは、そのままでは公開用に使えない
不合理さがある。一度のデータ入力で公開できる
よう改善が必要だと思われる。
予算的にも人的にも足りないという大きな壁が
あり、4万冊を超える脚本・台本すべての公開が
いつになるのか予測がつかない。
しかし、一冊でも多くの脚本・台本を順次公開
できるよう、尽力したい。
 (清水喜美子)
[トップ画面内容]
全文検索をするための検索窓、同義語検索モー
ド指定、詳細検索へのリンク、検索ヘルプへのリ
ンク、絞り込み検索欄(メディア、年代、ジャ
ンルの絞り込み検索機能)、アクセスランキング、
今週のランダムピックアップ脚本(自動表示)など。
○検索機能について
キーワード検索、あいまい検索、同義語検索な
どが可能。キーワードサジェスト機能も設置。
[詳細検索画面]
31 の項目から選んだ任意の 5 項目に対し、そ
れぞれキーワード検索を行い、メディアと年代を
設定した検索が可能。表示件数切り替え機能も設
置。
[検索結果画面]
検索条件にマッチしたコンテンツを一覧表示。
さらに絞り込んでいくことが可能。
[コンテンツ詳細画面]
検索した脚本の詳細情報を表示。

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103
また収集・保存を基本とする日本脚本アーカイ
ブズは「集めた脚本・台本を今後、どのように活
かすのか」という大きな課題があります。
私達はその大きな柱として、将来的に「シナリ
オ教育」が必要だと考えています。
このインターンシップもそのための試みの一つ
として位置づけています。
より多くの教育機関に脚本アーカイブズの必要
性を理解していただき、シナリオを教育の中にぜ
ひ取り入れて欲しいと願っています。
特に小・中学校におけるシナリオ教育の実践は
荒廃する児童の情操教育という点でも重要です。
脚本は様々な人間を描くことが必要です。子供
たちが自分以外の人間を役柄として描くことで、
人の痛みや、人と自分の違いを理解するようにな
るのです。
日本脚本アーカイブズに保存されている4万冊
を超える脚本・台本は、人間研究の宝庫でもあり
ます。
今、研修を受けているインターンシップの学生
たちに研修期間中、一冊でも多くの脚本・台本を
読むように求めているのも、将来、社会に出て教
育現場に行った時はもちろんのこと、家庭を持っ
た後でも、脚本・台本から学んだことを、子供の
教育に活かしてもらいたいからです。
インターンシップを始めておよそ3ヶ月。はじ
めは慣れない未知の世界で、何をしていいか分か
らず、指示された作業も思い通りに出来ないでい
た学生たちも、ようやくコツを飲み込みはじめた
ようです。
特に最先端の情報メディアを学ぶ彼らにとって、
パソコン操作はお手のもので、もう少し慣れてく
れば大いに力を発揮してくれるのではと期待して
います。少々の難点をあげるなら、彼らの居住地
域から遠い人で片道2時間以上かかってしまうこ
とです。
にもめげず、今のところ脱落者もなく、狭い準
備室の中で、黙々とパソコンと向き合っています。
(南川泰三)
日本脚本アーカイブズでは 2010 年度よりイン
ターンシップ(学生の研修)を受け入れています。
現在、城西国際大学メディア学部の学生4人が
毎週水曜日に日本脚本アーカイブズ準備室に来室
し、主に収集・保存された脚本・台本の公開用デ
ジタル情報の作成や、サンプルデジタル化の作業
を手伝ってもらっています。
こうした作業の合間に将来の仕事に活かすべく
「脚本とは何か」「日本脚本アーカイブズの目的
と意義」などのスタディを受けています。
城西国際大学のメディア学部は、情報・映像・
デザイン・サウンドの4つのメディアをクロスし
て、集中的、総合的に学び、日々発展・進歩する
現代メディアの多様性と先進性に対応できるビジ
ネスデザイン力を養う目的で創設されました。企
業社会で求められる「コミュニケーション力」
「問題解決力」「価値創造力」養成を目指しており、
インターンシップ先はテレビ局、IT 企業、広告
代理店、美術館、行政など多岐に渡り、個性的な
プログラムを展開しています。
こうした教育に日本脚本アーカイブズが協力す
ることも、大きな意味での社会還元であると考え
ています。
今回のインターンシップ受け入れは東京大学大
学院情報学環との共同作業の過程で成立しました。
なぜ、インターンシップを受け入れたのか?
日本脚本アーカイブズはたんに日本放送作家協
会単独の放送文化活動ではなく、将来的には脚本・
台本に関係するすべての個人・団体に開かれたも
のでなければなりません。
前記、東京大学大学院情報学環との共同作業も
こうした流れの一環ですが、現在、特定の分野(ア
ニメ脚本の動画化など)との限定的な協働を目的
とした他大学との連携にも動き始めています。
インターンシップ

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104
谷知津が担当しました。
後期は 11 月から5回、ドラマ基礎講座は西沢
七瀬、ドキュメンタリー講座は南川泰三が担当し
て、3月末まで開講しました。
また地元足立区の民話を元にした大石もり子さ
んの小説を脚色し、その朗読の稽古と発表会を行
いました。前期担当は日本放送作家協会の高谷信
之、後期は清水喜美子で、3月の発表会目指して
月1回の練習に励んでいます。これは昨年に引き
続いて足立や千住の古き良き物語を掘り起こし広
く伝えていくという試みです。
また夏、冬のそれぞれに作文教室を行いました。
元国語教師の熊谷章一さんによる親子参加の作文
の書き方講座を開きました。
地元とのコミニュケーションと文化への参画と
いう事で、今年は、地元の喫茶店と、竹ノ塚の常
福寺で出前落語を企画しました。
立川流の立川志らら、立川こしら、そして「8
時だョ!全員集合」等の構成作家でもある奥山侊
伸、高座名・立川侊志んによる落語のひとときが
大変喜ばれました。
その他、脚本おもしろ講座として、入山さと子、
藤森いずみ、山崎純の3人の脚本家が、ラジオ・
テレビの脚本の裏話や創作の苦労、実作の方法論
を分かり易く講演しました。
また、健康講座の一環として殺陣講座を行い、
テレビ、舞台で実際に殺陣をつけている菊地剣友
会の菊地竜志さんをお招きして、実際の殺陣を体
験する試みを行いました。
10 月には、足立区生涯学習センター学びピア
21 で行われた『あだちサークルフェア 2010』に
殺陣講座と脚本展で参加。広く脚本の収集と保存
への理解を深めてもらう試みを展開しました。
(高谷信之)
平成 20 年度から日本脚本アーカイブズを応援
してくださる市民団体“日本脚本アーカイブズ倶
楽部”の主催による放送映画文化講座。その企画
及び講師のアレンジをお手伝いさせていただいた
報告です。
足立区のまちづくりトラストの助成事業として
行っている講座も平成 22 年度が3年目で、一応
最後の年になります。
我々日本脚本アーカイブズとしては、ラジオ・
テレビの脚本台本の収集保存の必要性を、区民の
方や受講される方にも是非知っていただきたいと
いうことが第一です。
それにも増して大切なのは、日本脚本アーカイ
ブズにいろいろご協力いただいている足立区民に、
なんとか文化的にも実質的にも感謝の形を残した
いということです。
「ドラマ基礎講座1」の講座風景
昨年度の講座の延長上にさらに充実させた講座
と、今年度から新たに受講される方の両方を満足
させる講座の組み立てを計りました。
このため4月~3月までの期間を前期と後期に
分割しドラマ基礎講座1と2、ドキュメンタリー
講座1と2にそれぞれ分けました。
前期5回のドラマ基礎講座は月1回、日本放送
作家協会の鷺山京子、ドキュメンタリー講座は熊
放送映画文化講座「てら」の報告
ドラマ基礎講座1の講座風景
立川流
全員集合
んによる
その他
いずみ、
本の裏話
しました
また、健
舞台で実
んをお招

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105
放送作家の団体が行う脚本アーカイブズ活動を
一般の人に伝えるには、放送を通じて広く伝える
ことが重要であると認識をしている。
その一つが、日本放送作家協会が、番組の制作
協力をしているラジオ番組「カフェ・ラ・テ」(ラ
ジオ日本、毎週、木曜日 27 時~ 28 時)である。
この番組は、放送作家をゲストに呼び、放送作
家とはどんなことをするのか、あるいは、どのよ
うにして放送作家という仕事に就いたのかを聞く。
また、現在のテレビ・ラジオ界が抱えている問題や、
社会的な現象を、放送作家がどのようにとらえて、
番組作りに生かしているかを話してもらっている。
この番組の名物コーナー「ドラマ・ファクト
リー」では、民放では衰退しつつあるオーディオ
ドラマ、ラジオドラマにスポットを当てる。ラジ
オドラマ作り、脚本作りを広く一般視聴者に理解
してもらうため、実際にラジオドラマのシナリオ
を公募し、声優の専門学校などの協力のもと、新
作のラジオドラマを制作、放送し次世代の脚本家
を育てている。また、1週おきに現役の脚本家が
登場する「ラジオシナリオ講座」も放送している。
「カフェ・ラ・テ」の中には「日本放送作家協
会からのお知らせコーナー」が設けられている。
ここでは、脚本アーカイブズの主旨や目的、脚本
アーカイブズが主催するイベントや講演会、脚本
講座などのお知らせを行っている。
私たちは、どれくらいのリスナーが、「脚本アー
カイブズ」という名前を認知しているかは、分か
らない。しかし、このような実際に放送されるラ
ジオ番組という、大きなメディアを生かし、さら
なる脚本アーカイブズの広報活動につとめている
のである。  
              (東海林 桂)
ラジオでアーカイブズを応援
東海林桂、さらだたまこコンビがナビゲーター
若い声優たちが「ドラマ・ファクトリー」に取り組む
サブで自分たちのドラマを聴いて感動する

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10 月、11 月に訪問者数、ヒット数が多いのは
11 月に文化アーカイブズ活性化シンポジウムと
日本脚本アーカイブズ脚本展北海道展が開催され、
そのイベント情報などを検索して訪問者が増えた
ようだ。
6 月にヒット数が多いのは、日本脚本アーカイ
ブズ倶楽部の放送映画文化講座「てら」が開講し、
その流れでヒット数が増えたと思われる。
ドメイン別に見た時、“.jp”の訪問者が 6 ~ 7
割で、その他は教育組織や商用ドメイン、そして
10 数カ国の外国ドメインからのアクセスもあっ
た。
■今後の課題
これまで取材した脚本家・俳優・スタッフなど
のオーラルヒストリーを特集で紹介するなど、楽
しみながら読めるようなコンテンツを工夫したい。
また外国からのアクセスに対しては、英文での
日本脚本アーカイブズの紹介ページも必要だと思
われる。まだまだ改善、改良の必要があるが、日
本に脚本アーカイブズが存在することを国内外に
発信し続けたい。
「社会資産」である放送脚本・台本を収集保存
することの重要性を多くの人々に知ってもらいた
い、そして脚本アーカイブズの使命と存在意義を
理解していただきたいと開始したホームページと
メールマガジン(以下メルマガ)による広報活動。
ホームページのアクセス数やメルマガの読者数の
増加から、徐々に日本脚本アーカイブズへの関心
が高まっていると思われる。
ホームページ 着実に増加するアクセス数
■内 容
◦トップページに最新メルマガと脚本データベー
スのリンクバナーを設置。
◦「活動記録」の「脚本関連イベント情報」に下
記イベントの PR 情報掲載。
江戸東京博物館脚本展  (4 月 6 日~ 18 日)
文化アーカイブズ活性化シンポジウム
(11 月 2 日)
日本脚本アーカイブズ脚本展北海道展
(11 月 13 日~ 21 日)
日本大学藝術学部江古田キャンパスリニューア
ル記念脚本展
(2011 年 1 月 21 日~ 25 日)
■ホームページ利用統計
日本脚本アーカイブズの存在がほとんど知られ
ていなかった初年度、認知され始めた前年度を
経て、ヒット数、訪問者数ともに前年比 130 ~
170%に近い伸びを示している。(右表参照)
月ごとに見たとき、月ヒット数の最多は 6 月の
35,397 回。次に 10 月の 35,376 回。月訪問者数は
最多が 11 月の 3,636 人。次に 10 月の 3,490 人。
1日ヒット数の最多は 6 月 1,179 回。次に 11
月の 1,117 回。1日訪問者数の最多は 11 月の 121
人。次に 10 月の 112 人。
ホームページと
メールマガジンによる情報発信
2 日)
21日)
ューア
5 日)
知ら
めた前
30~
6 月の
者数は
90 人。
11 月
の 121
発信し続けたい。
ホームページ利用統計表
全ヒット
全訪問
者数
ヒット数
/1 日
訪問者
/1 日
2010(平成 22)年度
4 月~2 月
340210
33963
11205
1113
月平均
30929
3088
1019
102
月平均
前年比
131%
164%
132%
168%
2009(平成 21)年度
4 月~1 月
237304
18842
7745
610
月平均
23730
1884
775
61
月平均
前年比
167%
199%
161%
197%
2008(平成 20)年度
10 月~3 月
85169
5671
2880
187
月平均
14195
945
480
31

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◇連 載:ライターズ・アイ
日本脚本アーカイブズ委員による
   リレーエッセーのコーナー
「脚本書きこぼれ話」全 3 回
:香取俊介
「台本・脚本の『戸籍』管理」
:石橋映里
「脚本アーカイブズが必要なわけ」:杉原秀一
「脚本の力」
:鷺山京子
「台本は宝だった。昔も今もずっと」:西沢七瀬
休 載  4 回
◇捨てないでっ!:寄贈のお願い
◇編集後記
■読者数
現在の登録読者数:176 人
「melma!」と「まぐまぐ」にて読者登録を受け
付けており、その合計が上記の登録者数で、前年
より 40 人増加。
■今後の課題
読者登録数をいかに増やしていくかが今後の大
きな課題だ。そのためにはメルマガ内容構成の再
検討、そして一般への PR と同時に日本放送作家
協会会員への情報発信の方法についても検討が必
要だと思われる。
※参 考
◦日本脚本アーカイブズホームページ
 http://www.nk-archives.com/
◦日本脚本アーカイブズ 脚本データベース
 http://kyakuhon.qzc.co.jp/
◦メールマガジン melma !
 http://www.melma.com/backnumber_179041/
◦メールマガジン まぐまぐ
 http://www.mag2.com/m/0001011601.html
(清水喜美子)
メールマガジン 順調に発行中 
メルマガも 2 年目に入った。各連載コーナーを
充実させて、日本脚本アーカイブズの活動内容を
多くの人に知っていただくべく、今年度も順調に
発行を重ねることができた。
■発行回数
平成 22 年 4 月~ 23 年 2 月現在
今年度定期発行
全 11 回
通算(2009 年 4 月~)
22 回
■内 容
◇イベント・講演・講座のお知らせ
文化アーカイブズ活性化シンポジウム・脚本展
(江戸東京博物館・北海道・日大芸術学部)放
送映画文化講座「てら」などの告知
◇連 載:世界脚本アーカイブズ見聞録
世界各国の脚本アーカイブズについての報告
「英・仏の収集と補修」
3 回:熊谷知津
「韓国編」      
3 回:津川 泉
「寄稿-韓国政府による
 コンテンツアーカイブ化事業」 1 回:金 泳徳
「アメリカ編」    
2 回:香取俊介
休 載        
2 回
◇連 載:クイズ de シナリオ・アカデミー
話題のドラマからクイズを出題。
「クイズ de シナリオ・アカデミー」11 回 
        出題・解答:杉原秀一
◇連 載:セピア色の記憶
これまでに寄贈された脚本・台本の中から、  
懐かしのテレビ・映画の脚本・台本を紹介。
「ロイ・ジェームスの意地悪ジョッキー」「輿水
泰弘氏・松本基弘Pの『相棒』トーク 全 3 回」
:以上、松田雄一
「平成 17 年度寄贈脚本より 全 2 回」「平成 18
年度寄贈脚本より 全 4 回」「大野靖子脚本特
集」:以上、入山さと子

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日時
活動内容
アーカイブズ関連取材施設
脚本・台本収集数
23年  3月 ■平成22年度
日本脚本アーカイブズ調査・研究報告書【Ⅵ】
  文化はめぐる ~文化リサイクルの観点から~
23年  1 月 ■日本大学藝術学部江古田キャンパスリニューアル
記念脚本展(21~25日):(練馬区)
22年 11月 日本脚本アーカイブズ脚本展北海道展(13~21日)
:北海道立文学館(札幌市)
22年 11月 「アーカイブズ・カレッジ」(国文学研究資料館主催)参
22年 11月 ■文化アーカイブズ活性化シンポジウム「文化はめぐ
る―脚本アーカイブズとデジタル化―」(2日)
:東京芸術センター天空劇場(足立区)
22年 11月 城西国際大学メディア学部インターンシップ受入れ開
22年  4月 ■「放送脚本デジタル研究会」(任意団体:東京大学
大学院情報学環に本部)参加
22年   4月 ■日本脚本アーカイブズ倶楽部主催
「放送映画文化講座【てら】」へ講師派遣開始
■文化庁「芸術団体人材育成支援事業」
日時
活動内容
アーカイブズ関連取材施設
脚本・台本収集数
22年  3月 ■平成21年度
日本脚本アーカイブズ調査・研究報告書【Ⅴ】
 ―人類の記憶の鏡として―
22年   1月 ■中国取材調査
21年 12月 ■足立区脚本展(21~27日):学びピア21
21年 9月 ■韓国映像資料院取材調査
21年 4月 ■日本脚本アーカイブズ倶楽部主催
「放送映画文化講座【てら】」へ講師派遣開始
■文化庁「芸術団体人材育成支援事業」
その他活動 ■オーラルヒストリー取材
  プロデューサー:嶋田親一氏   放送作家・タレント:前田武彦氏   脚本家:小山内美江子氏
■研究会(全6回)
  烏兎沼佳代氏(フリー編集者・向田邦子研究の第一人者) 『向田脚本を全集にまとめて』
  寺脇   研氏(京都造形芸術大学教授・映画評論家)『シナリオを教育分野に生かせるか』
  磯崎 咲美氏(NHK放送博物館学芸員)『台本修復のやり方』全2回
  佐野千絵氏(東京文化財研究所保存科学研究室長)『文化財としての脚本保存』
  稲葉 政満氏(東京芸術大学大学院美術研究科教授)『脚本台本の収集と保存環境について』
■オーラルヒストリー取材
  俳 優:長門勇氏   声 優:永井一郎氏   脚本家:布勢博一氏   音響効果:玉井和雄氏
■一般来場者へのアンケート(放送作家協会創立50周年記念イベント・脚本展&足立区脚本展)
■研究会(3回)
  福井健策氏(弁護士・日本大学芸術学部客員教授)『脚本アーカイブスと著作権』
  吉見俊哉氏(東京大学大学院情報学環教授)『デジタルアーカイブの展望』
  西 兼志氏(東京大学大学院情報学環助教)『アーカイブの論理を捉える』
■社団法人 日本放送作家協会
 創立50周年記念イベント・脚本展(18~23日)
 :芸能花伝舎(西新宿)
■小田原文学館
■早稲田大学演劇博物館
■川崎市市民ミュージアム
■座・高円寺
■国立国会図書館
■財団法人松竹大谷図書館
■横浜放送ライブラリー
■印刷博物館
■アド・ミュージアム東京・広告
  図書館
■かごしま近代文学館
年度収集数 約7.500冊
(延べ約42500冊 ※未入力
含む)
 
【寄贈先】
■故横田弘行氏ご遺族より
昭和34年以降の脚本1685
■故津田幸於氏ご遺族より
1460冊
■脚本家岸宏子氏より431
■脚本家竹内日出男氏より
763冊
■脚本家服部浩夫氏より昭
和27年のラジオドラマ
■俳優大林丈史氏より418
■歌手、女優 故江利チエミ
さんご遺族より42冊
■殺陣師 故加賀麟太郎氏
のご遺族より12冊
■横浜コンベンションビュー
ローよりテレビ、映画の脚本
とポスターなど503冊
■制作会社カノックスより
132冊
■吉本圭一郎氏(一般)より
昭和29年のラジオドラマを
含む486冊
■そのほか多くの関係者か
らご寄贈いただきました。
22年  4月 江戸東京博物館脚本展「ザ・脚本-放送作家たちの
80年」(6~18日):江戸東京博物館(墨田区)
22年 10月 あだちサークルフェア(9・10日)
:学びピア21(足立区)
21年 9月
日本脚本アーカイブズの歩み
平成21年度
その他活動
■中国:中国テレビ芸術家協
会・中国電視台資料館
(CCTV)・中国映画博物館・中
国映画資料館・北京電影学院
■韓国映像資料院
■世田谷文学館
■アドミュージアム東京
■シナリオセンター
■大阪府立上方演芸資料館
(ワッハ上方)
■NHK大阪放送局資料保存室
年度収集数 約4.500冊
(延べ約35.000冊 ※未入
力含む)
【寄贈先】
元映画監督、元プロデュー
サー、評論家のご遺族など
多くの関係者よりご寄贈い
ただきました。
平成22年度
日本脚本アーカイブズの歩み

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日時
活動内容
アーカイブズ関連取材施設
脚本・台本収集数
21年 3月 ■平成20年度
「日本脚本アーカイブズ調査・研究報告書【Ⅳ】
 ~ソフトパワーの拠点化を~
■女優 三田佳子氏
  所蔵脚本寄贈式・記者会見(10日)
■ドミニク・シェラード教授講演会
    (英国シェフィールド大学副学長)
  「イギリスのアーカイブとシェークスピア」
20年 11月 ■韓国国家記録院ナラ記録館(NARA)・放送デジタル
図書館訪問調査
20年 11月 ■フランス・イギリス取材調査
20年  9月 ■東京大学大学院情報学環 「東京大学高度アーカ
イブ化事業5カ年計画」の一環として共同研究スター
ト。
20年  4月 ■日本脚本アーカイブズ支援組織「日本脚本アーカイ
ブズ倶楽部」発足・放送映画文化講座【てら】へ講師
派遣開始
■文化庁「芸術団体人材育成支援事業」
その他活動
日時
活動内容
アーカイブズ関連取材施設
脚本・台本収集数
20年 3月 ■平成19年度
日本脚本アーカイブズ調査・研究報告書【Ⅲ】
 ~脚本・台本は記憶と記録の宝庫~
19年 11月 ■アメリカ取材・調査
19年 10月
~12月
■脚本展
10月12日~14日:足立区シアター1010
10月22日~18日:足立区生涯学習センター
11月23日~12月9日:横浜放送ライブラリー
19年 8月 ■東京大学大学院情報学環とのコラボレーションス
タート
 
■日本シナリオ作家協会正式参加決定
■文化庁「芸術団体人材育成支援事業」
その他活動
21年 2月
21年 1月
■オーラルヒストリー取材
  声 優:坂本和子氏   脚本家:鈴木良武氏
■一般人へのアンケート(放送ライブラリー『テレビの青春! 昭和30年代番組展』にて実施)
■研究会(4回)
  秋田 孝宏氏(日本マンガ学会) 『京都国際漫画ミュージアムについて』
  中島康比古氏(独立行政法人国立公文書館業務課利用係長) 『アーカイビングの現場』
  境   真良氏(早稲田大学大学院GITS客員准教授・慶應義塾大学KMD非常勤講師) 『テレビ進化論・概論』
鈴木 嘉一氏(読売新聞編集委員・埼玉大学非常勤講師) 『デジタル時代とテレビの構造変化』
■韓国:国家記録院ナラ記録
館(NARA)・放送デジタル図書
■フランス:SACD図書館(ドラ
マ作家・作曲家協会)、フランス
国立図書館、シネマテーク・フラ
ンセーズフィルムライブラリー、
INA国立視聴覚研究所
■イギリス:大英図書館、英国
公文書館、BBC・英国放送協
会、英国映画協会
■京都国際マンガミュージアム
■NHKアーカイブス(川口)
■協同組合日本俳優連合
■社団法人日本映画俳優協会
■東映株式会社
■東宝株式会社
■アニメ制作会社「虫プロダク
ション」
■アニメ制作会社「サンライズ」
■アニメ制作会社「エイケン」
年度収集数 約4,200冊
(延べ約26,200冊)
 
【寄贈先】
■MBS(毎日放送)より361
■声優坂本和子氏より昭和
11年の構成台本など多数
■放送作家小川乃倫子氏
より昭和30~50年代放送台
本260冊余
■故岩間芳樹氏ご遺族より
生原稿や電報、葉書など資
料多数
■女優三田佳子氏より出演
脚本・台本 約1,000冊
■そのほか多くの関係者か
らご寄贈いただきました。
■放送台本デジタル図書館(韓
国放送作家協会)開館式報告
■アメリカ実地調査
ロサンゼルス:UCLA図書館、
マーガレット・へリック図書館、
ラジオ・アーカイブズ、ライター
ズ・ギルド図書館、AFI図書館な
ど。
ニューヨーク:ライターズ・ギル
ド・イースト、ニューヨーク市立
図書館など。
■TBSラジオ  ■文化放送
■エフエム東京 ■ラジオ日本
■ニッポン放送 ■大宅壮一文
庫 ■池田文庫
年度集数 約7.000冊
(延べ約22,000冊)
 
【寄贈先】
テレビ草創期に活躍した作
家の方々の作品群が多く収
集された。
■制作者・制作会社へのアンケート
■研究会(2回):講師 加藤厚子氏(映画専門大学院大学准教授)
              濱中香織氏(株・パブリッシングリンク事業推進部・モバイル担当ディレクター)
■『笑いのハイスクール』第3回開催(シアター1010)
平成20年度
平成19年度

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日時
活動内容
アーカイブズ関連取材施設
脚本・台本収集数
19年 3月 ■平成18年度
日本脚本アーカイブズ調査・研究報告書【Ⅱ】
 ~脚本・台本は記憶と記録の宝庫~
■文化庁「芸術団体人材育成支援事業」
その他活動
日時
活動内容
アーカイブズ関連取材施設
脚本・台本収集数
18年3月.
■平成17年度
日本脚本アーカイブズ調査・研究報告書【Ⅰ】
 ~脚本・台本の現状と管理・保管の実態~
■文化庁「芸術団体人材育成支援事業」
17年 10月 ■足立区の支援で北千住「学びピア21」に
日本脚本アーカイブズ準備室オープン
その他活動
日時
活動内容
アーカイブズ関連取材施設
脚本・台本収集数
年度収集数 約1.000冊
【寄贈内容】
『私は貝になりたい』(S33・
NTV)、『月光仮面』(S33)、
『ダイヤル110番』(S38)、
『歌謡曲だよ人生は』(S45・
MBS)、『欽ちゃんのどこまで
やるの!』(S51)、など。
■超党派の賛意を得たことから、日本放送作家協会内に 「日本脚本アーカイブズ特別委員会」を発足させる。
15年 3月
平成15年
■国会・総務委員会にて市川森一日本放送作家協会理事長証言。
 「脚本・台本は貴重な放送文化遺産である。テレビ放送50年を迎えた今、この膨大な数にのぼる脚本や台本が散
逸し、日々、失われつつある。 これを管理、保存し、資料として体系化することが急がれる」旨の発言。
■KBI (韓国映像産業振興院)
■テレビ朝日 ■フジテレビ
■TBS ■テレビ東京■札幌テ
レビ放送・STVラジオ■北海道
文化放送 ■毎日放送■花登
筐記念文庫■株式会社 三交
社 ■NHK放送博物館(二次取
材)■国立公文書館■国際マ
ンガミュージアム
年度収集数 約14.000冊
(延べ約15,000冊)
 
【寄贈内容】
ラジオ台本『陽気な喫茶店』
(S24)、『不知火の小太郎』
(S46)、 『トリローサンドイッ
チ』(S31)、『特番』など。
■作家&作家遺族訪問(脚本・台本の行方)
   遠藤淳氏・故石浜恒夫氏・故小川英氏
■放送作家ご遺族へのアンケート
■ラ・テ欄(ラジオ・テレビ欄)の検証
■勉強会(3回):講師 音好宏氏(上智大学文学部助教授)
              松岡資明氏(日本経済新聞社編集局文化部)
              佐藤恵太氏(中央大学法科大学院教授)
■『笑いのハイスクール』第2回開催(シアター1010)
■NHK放送博物館
■立命館ARC(アートリサーチ
センター)
■大阪府立上方演芸資料館
■伝統芸能情報館
■日本テレビ放送網(株)
■松竹大谷図書館
■早稲田大学演劇博物館
■諫早図書館
■作家&作家遺族訪問(脚本・台本の行方)
   神津友好氏、故岡本克己氏、故横光晃氏、故窪田篤人氏
■古本屋・ネットオークション調査
■ラ・テ欄(ラジオ・テレビ欄)の検証
■日本放送作家協会会員へのアンケート調査
■勉強会:講師 小川千代子氏(アーキビスト)
■『笑いのハイスクール』第1回開催(シアター1010)
平成17年度
平成18年度

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平成22年度
プロジェクトチーム
 
 
○「てら」講座協力          
事業名
(設
(子守唄協会)
放送脚本デジタル化研究会
外部関連団体
調
特別顧問
執行部会
○日大芸術学部脚本展
○報告書作成
○江戸東京博物館脚本展
○北海道脚本展

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日本脚本アーカイブズ調査・研究報告書〔Ⅵ〕
文化はめぐる
~文化リサイクルの観点から~
■平成 23(2011)年 3 月 31 日発行
発行 社団法人 日本放送作家協会
日本脚本アーカイブズ特別委員会
〒 120-0034 東京都足立区千住5-13-5 学びピア21 5F
日本脚本アーカイブズ特別委員会
TEL:03-3882-1071 FAX:03-3882-1073
E-mail:nka@star.ocn.ne.jp
www.nk-archives.com/
〒 107-0052 東京都港区赤坂 2-9-2 ウェイタワーズ 501
社団法人日本放送作家協会
TEL:03-3568-2276 FAX:03-3568-2889
www.hosakkyo.jp/
印刷・製本 株式会社 三交社
〒 162-0842 東京都新宿区市谷砂土原町 3 丁目 4 番地 生泉市ヶ谷ビル
TEL:03-3267-3641(代表) FAX:03-3267-6220
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国立国会図書館見学
江戸東京博物館
脚本展

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