記者が北別府学さんと初めて会ったのは、06年2月の広島日南キャンプだった。当時所属していた新聞社の評論家だった。

「カープ、どう?」の質問に、「やばいですね」と答えた後だった。「もう気づいたか」と北別府さんは苦笑いしたのを思い出した。

当時のカープはAクラスにほど遠いチームだった。黒田博樹、新井貴浩、嶋重宣とタイトルホルダーがいても飛躍できなかった。黒田には「どうやったら、カープは強くなれるんですか?」と逆質問されることもあった。

以前に担当した星野監督率いる中日と比較しても、広島は若い投手の一部が気を抜いたキャッチボールをしていたのも気になった。

「初対面で『カープは雰囲気がいいですね』と言われるのが嫌いだった」と、北別府さんは表情を曇らせながら話した。数日後には一緒に飲みに行ったし、今思えば、考え方も似ていたかもしれない。

責任を感じていた。その時は投手コーチをやめて数年後だった。213勝した名投手は、コーチ業では成功には至らなかった。

「あの時、こんな練習ができていれば…」、「なんで、この投手はコントロールが直らないのか…」と、いら立ちを見せることもあれば、「オレにもっとできることがあったんかなあ…」と振り返ることも、しばしばだった。

記者は新聞社をやめ、フリーランスになった。縁があって、広島ホームテレビ「恋すぽ」という番組の放送作家になった。コメンテーターは北別府さんだった。

以前より話す機会は増えた。温かみのある辛口メッセージが持ち味だった。まだ、憂鬱(ゆううつ)な感じも抜けていなかった。

2012年は変化のあった1年だった。木村拓哉さん主演のフジテレビ系ドラマ「PRICELESS」に“出演”した。出たのはサインボールだった。そこには「不動心 北別府学」と書かれていた。確かキムタクがそのボールで命中させて、景品を得たシーンだったと思う。制作側が北別府さんの現役時代の制球力を表現したものだった。

「キムタクのドラマに出演することになった。絶対に見てくれ!」

わざわざ、前もって電話がかかってきたほどだった。その後の北別府さんには、何か吹っ切れるものを感じた。

「人生、一生懸命やっていれば、誰かが見てくれる。ちゃんと評価してくれる人はいる」

北別府さんは心からうれしそうだった。同時に、翌年に広島を去った記者に向けての言葉でもあった。

もちろん16年からのカープ3年連続リーグ優勝も、閉ざした心を解放してくれたのは間違いない。

「カープ」と「キムタク」。北別府さんにとって、生きがいとなっていた。

「オレ、キムタクのドラマに出演したぞ。津田にはできなかったな」

きっと今ごろ、仲の良かった津田恒実さん相手に、大好きな焼酎を飲みながら自慢げに話しているはずだ。(ボートレース福岡担当・中牟田康)