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残余の声を聴く――沖縄・韓国・パレスチナ

「パレスチナの民族浄化」の完成形態としての「ユダヤ人の国民国家法」  早尾貴紀

はじめに

 私が前回に論じた、ガザ地区に対するイスラエル軍による攻撃の激化に加えて、東エルサレムも含むパレスチナのヨルダン川西岸地区にも、あからさまな暴力が蔓延している。たとえば、治安や書類不備を理由とした家屋破壊、ユダヤ人入植地の建設およびユダヤ人入植者の増加、そしてその武装した入植者らによるパレスチナ人に対する暴行および主要農産物であるオリーブの伐採・放火、少年も含むパレスチナ人の令状なしの逮捕と裁判なしの長期拘置などだ。このたぐいの事件報道は毎日なされており、暴力が日常化していることを感じさせる。
 1967年の第三次中東戦争以降、イスラエルが軍事占領下に置きつづけているガザ地区とヨルダン川西岸地区は、半世紀以上にわたってまさに法の適用されない「無法地帯」であり、そこに暮らすパレスチナ人の人権は守られてこなかった。つまり法外な暴力にさらされてきたわけだが、ガザ地区への封鎖と攻撃の激化に加えて、近年の西岸地区での露骨な暴力の増大と、それに反比例するようなイスラエル国内および国際社会からの批判の声の減少は、対照的であり相関関係にあるように見える。どんな暴力も公然と行なわれ、それが批判も受けず制止されない状態になれば、占領はもはや極限状態であり、完成形態である。現状はそこにひじょうに近づいていると言える。
 この問題については、さらに二つの事柄を付け加えたい。第一には、軍事占領の起源は1967年ではなく、1948年のイスラエル建国そのもの、あるいはそれ以前から建国を目指す入植活動と軍事活動の蓄積にあるということだ(いまの西岸地区への入植ではなくイスラエル建国前のパレスチナへの入植を指す)。つまり、イスラエルという国家は、その誕生以前の入植活動から1948年と1967年を挟みつつ、それ以降現在にいたるまで、絶えざる拡張過程にあるということだ。第二に、この近年の露骨な暴力の蔓延のさなか、イスラエルでは、建国70周年を迎えた2018年に、論争的な「ユダヤ人の国民国家法」が制定されたことだ。イスラエルがユダヤ人国家であるという建国以来の自明の理念を追認した法律ではない。以下で詳細に分析していくように、起源の暴力とそこから継続する暴力とが、完成形態に近づいていることを象徴する法制定であるように思われる。


        著作者:現代企画室『占領ノート』編集班/遠山なぎ/パレスチナ情報センター

1 「ユダヤ人の国民国家法」の制定

 この「ユダヤ人の国民国家法」は、基本的には、イスラエルの地(エレツ・イスラエル)が「ユダヤ人の歴史的郷土」であり、イスラエル国家が「ユダヤ人が民族自決権を行使するユダヤ人の国民国家」であることを定めている。だが、イスラエルがその建国以来「ユダヤ人国家」であることは自明のことかもしれない。だとすれば、この「ユダヤ人の国民国家法」の制定は何を今さらという感は否めないし、ユダヤ人国家であるという事実を事後的に追認しただけのものとも言いうる。
 ところが、この法律には重大な争点がいくつか盛り込まれている。第一には、ヘブライ語と並んで従来「公用語」の地位を与えられていたアラビア語が、公用語から外されて、唯一ヘブライ語のみが公用語となった。これは、総人口の約二割を占めつづけている先住アラブ人の民族的・文化的な権利を否定するものだ。成文憲法のないイスラエルにおいて、憲法の代わりとなる一九四八年の国家独立宣言においては、イスラエルを「ユダヤ人国家」と定めつつも、「アラブ人住民に対して完全かつ対等の市民権」を認めてもいた。今度の国民国家法は、ユダヤ人のヘブライ語のみを唯一の公用語としつつ、アラブ人住民の言語的権利を否定することによって、この原則を覆したものと言える。
 第二に、「ユダヤ人入植地発展」を民族的に重要なものとみなし、「入植地の拡大強化に努める」と定めた点である。軍事占領地へ占領国が恒久的な建造物を設置することや自国民を入植させることは国際法に違反しており、それゆえに世界中の国々が、西岸地区の一部をなす東エルサレムを併合した拡大エルサレムをイスラエルの首都とは認めず、大使館をテルアヴィヴに置きつづけてきた。しかしイスラエルは、エルサレムについては東エルサレムの「併合」を宣言し、東西統一エルサレムがイスラエルの首都であると主張してきた。
 だが、東エルサレム以外のヨルダン川西岸地区の入植地については、正規の領土として併合したとは明言してこなかった。じわじわと既成事実を積み重ね、入植地を拡大し、分離壁や入植者専用ハイウェイでパレスチナ人の町や村を隔離し、入植地を事実上領土の延長線上に位置づけてきた。今回の法律は、とうとう基本法のなかで西岸地区を「国土」として位置づけていくべく踏み出したと言える。
 すなわちこの「ユダヤ人の国民国家法」は、「国民」と「国土」の定義をよりユダヤ人至上主義的なものへと、反アラブ・パレスチナ的なものへと変更するものである、と言える。この「国民」と「国土」について、それぞれより詳細に見ていこう。

2 イスラエルにおいて「国民」とは誰か ①サマリア人の場合

 ここまで書いてきた「ユダヤ人の国民国家法」の「国民国家」、英語で言うNation-Stateは、ヘブライ語では「メディナット・ハレオム」である。「メディナ」が「国家/State」、「レオム」が「国民/Nation」にあたる。それでは、イスラエル国籍を有するアラブ人たちは「国民」に含まれるのか、含まれないのか。国籍を有するという意味では、「イスラエル国民」であり、「イスラエル人」である。だが、通常イスラエル国内で使用される「レオム」概念は、「国民」の意味ではなく「民族的出自」を問うものだ。IDカードの「レオム」欄に記載されるのは、主に「ユダヤ人」「アラブ人」のほか、「ドルーズ派」「サマリア人」などのマイノリティの区分である。すなわち、英語で「ネイション」が「国民」と「民族」の両方を含みうる両義的な概念であるのと同様に、「レオム」もまた「国民」の意味で用いられたり「民族」の意味で用いられたりする。
 ここでマイノリティの二つのレオムについて思い出すことがある。
 「サマリア人」というのは、ヨルダン川西岸地区のナブルスにあるゲリジム山に暮らす人口数百人の宗教的コミュニティに暮らす人びとのことで、聖書に記されたあの「善きサマリア人」の末裔たちとされる。ナブルスのアラブ・パレスチナ人社会の一部をなしつつ、独自のコミュニティを維持しており、イスラエル政府はこの聖書由来の人びとをパレスチナから切り離してイスラエルに取り込むために、イスラエル国籍を付与しているのだ。聖書時代にイスラエルを結びつけて国家を正当化するのに、サマリア人は利用価値があるということでもある。
 とはいえ、このサマリア人たちがイスラエル国民として自己認識があるとか愛国心があるとかいうわけではない。経済生活はナブルスの人びとともにしつつ、イスラエル国籍を有していることをビジネス上のメリットとして利用して仕事を開拓している。すなわち、イスラエル領との往復が自由にできるため、ナブルスとの間の商取引や運送業で活躍できるのだ。ナブルスのパレスチナ人たちも、このサマリア人たちをビジネス・パートナーとして介在させつつイスラエルと商取引をする機会を得ている。
 実際私もこのサマリア人のイスラエル国籍に助けられたことがある。パレスチナ人の第二次インティファーダとそれに対するイスラエル軍の弾圧が真っ盛りのころにエルサレムに在住し研究調査をしていたのだが、封鎖下の西岸地区で外出禁止令が長く続き、訪問先のナブルスからエルサレムに戻ることがしばらくできなくなっていた。そのとき、地元のパレスチナ人が知人のサマリア人の運転手を「白タク」として呼んでくれたのだ。このサマリア人を呼んだパレスチナ人は、しばしば運転手として商品を運ぶ仕事をサマリア人運転手に頼んできたという。チノパンにTシャツにサングラスというラフな格好で迎えに来てくれたサマリア人の男性は、とくだん宗教的に敬虔であるふうでもなく、見た目には一般のパレスチナ人と何も変わりはしなかったが、エルサレムまでいくつかあるイスラエル軍の軍事検問所は、IDカードを見せるだけで簡単に通過していった。ナブルスのパレスチナ人たちが検問所を通過できないどころか、家から出ることさえ禁止されているときにだ。
 しかしだからといって、ナブルスのパレスチナ人とサマリア人とのあいだの関係が悪くなったりはしなかった。サマリア人たちは動けないパレスチナ人たちの代わりに便宜が図れるし、そのことで仕事を得て収入を得ることができる。軍事封鎖下でもたくましく生き抜いていた。もちろん私も、外出禁止令下を運転してくれたサマリア人には割増のタクシー料金を払った。「善きサマリア人」の慈悲に無償ですがったわけではない。

3 イスラエルにおいて「国民」とは誰か ②ドルーズ派の場合

 もう一つのマイノリティの「レオム」である、「ドルーズ派」についても触れておこう。ドルーズ派というのは、イスラームの一宗派で、スンナ派とシーア派に比べるとずっと少数であり、かつ、教義が密教的でかなり特殊であるために、「ドルーズ派」というより独自の「ドルーズ教」だと見る向きも一部にはある。地域的には、イスラエル北部のガリラヤ地方から、レバノンとシリアにかけて暮らしている。ドルーズだけの村もあるが、主流のスンナ派ムスリムやキリスト教徒と混住している村もある。
 このドルーズ派で一九四八年以降イスラエル領に組み入れられた人びとは、その特異な宗派コミュニティゆえに、他のアラブ人から切り離されて、徴兵が課されるようになった。すなわち、イスラエル国籍者であっても他のほとんどのスンナ派のアラブ人とキリスト教徒のアラブ人とが治安上の理由から徴兵から外されているのに対して、ドルーズ派のみを徴兵し、ヨルダン川西岸地区やガザ地区などの軍事作戦や検問に動員し、彼らの母語たるアラビア語も占領政策に駆使させてきたのだ。そのことによって、同時にアラブ人集団を分断することもできる。ドルーズ派の人びとはイスラエル国民意識を強め、逆にその他のアラブ・パレスチナ人たちはドルーズ派を「裏切り者」として忌み嫌うようになる。アラブ人どうしを反目させることができるのだ。
 しかし、第二次インティファーダ期に私が約2年間のエルサレム在住時にフラットメイトとしていっしょに過ごしたドルーズ派の友人は、固い意志で徴兵を拒否して投獄された経験を持ち、自らを「ムスリムのドルーズ派のアラブ人のパレスチナ人」であると任じていた。「みなドルーズは『半ユダヤ人』だとけなしたり、ドルーズ自身が『イスラエル人』と言ったりしてるけど、それは本当はパレスチナ人なんだっていうアイデンティティを否定させられているからだ」。彼が徴兵を拒否したのは、いわゆる良心的兵役拒否とは異なる(イスラエルにはそもそも良心的兵役拒否の制度がないが)。彼はこう言う、「自分はパレスチナ人だから、同じパレスチナ人に対して銃口を向けるようなことはできない。イスラエルによる民族分断政策、反パレスチナ政策を拒絶するために、徴兵を拒否した」と。そうして実際彼は、ときおり分離壁を乗り越えたりすり抜けたりして、西岸地区のパレスチナ人らと交流していた(その当時はまだ分離壁は仮置きだったりして完成していなかった)。
 このドルーズ派の友人がこういう思想と行動を持ちえたのには、実はパレスチナおよびアラブ世界で広く知られる「民族抵抗詩人」サミーハ・アル=カーシム(1939-2014)が父でありその影響を受けたという面はある。日本も含め世界的に有名な抵抗詩人にマフムード・ダルウィーシュ(1941-2008)がいるが、アル=カーシムはそのダルウィーシュと幼馴染みであり、若い頃からともに詩人として、批評家として、イスラエル領に入れられたガリラヤ地方で雑誌を刊行し、集会を開催し、言論でもってイスラエルの反アラブ政策や軍事占領政策に反対してきた。二人ともイスラエルの治安警察によって何度も投獄され、雑誌は発禁処分に遭い、厳しくマークされた。結局ダルウィーシュは耐えられずに海外移住する道を選び(その後イスラエルが帰国を拒否)、結果として亡命状態となったことで海外での知名度を得ることとなった。そして1993年のオスロ和平合意後にパレスチナ自治区となったヨルダン川西岸地区に「帰還」することとなったが、厳密に言えばダルウィーシュの生まれ育った故郷は、イスラエル領北部のガリラヤ地方である。自身が痛感していたように、本当の意味での「帰還」ではなかった。
 それに対して、弾圧を耐え忍びながらしぶとくイスラエル領下ガリラヤ地方に残りつづけたのが、サミーハ・アル=カーシムであった。ドルーズ派としてイスラエルへの取り込み政策を拒絶し、1960年に徴兵を拒否し、逮捕・投獄され、その後も自宅軟禁の憂き目に遭った。盟友ダルウィーシュがイスラエル/パレスチナを去ってからも、一人、国外追放の圧力に屈せずに、「異郷」となった故郷で生涯にわたって抵抗を続けた。その筋金入りの抵抗精神は、息子にしっかりと受け継がれていた。エルサレムでいっしょに寝起きをしていたあいだ、その息子は毎月のようにガリラヤ地方の実家に帰省するごとに、私を連れていってくれて、何度も父サミーハ・アル=カーシムと引き合わせてくれた。そして私の目の前で、二人は親子で政治談義を重ね、ときには激論が高じて喧嘩となりもした。なかにはダルウィーシュの詩や言動への評価をめぐる話題もあった。私のパレスチナ/イスラエル滞在中の最もかけがえのない時間だった。
 徴兵のあるイスラエルのドルーズ派は他のアラブ人と比べて「イスラエル国民」への統合度合いが高いのは確かだ。だが、この友人はそれを全力で拒絶して「自分はパレスチナ人だ」と公言したのだ。のみならず、IDカードの「レオム」欄についても、同じアラブ人を分断する行政区分に抵抗し、交渉のあげく「ドルーズ派」記載を変更させ、たんなる「アラブ人」として記載させていた。

4 イスラエルにおいて「国民」とは誰か ③「イスラエル人」は存在しない

 このIDカードの「レオム」欄について、奇妙な裁判が一つある。あるユダヤ人のイスラエル国民がレオムの「ユダヤ人」記載を「イスラエル人」に変更するよう訴えたのだ。だが裁判所は2008年とその控訴審として2013年の二度にわたって、その訴えを却下したのだ。訴えたユダヤ人は、イスラエルが「民主国家」である以上、民族別の登録は不当であり、「レオム」は「国民」として「イスラエル人」であるか、それ以外つまり外国のどこかであるか、と求めていた。外国籍者でイスラエルの永住権・市民権を得ている場合に記載されるレオムは通常はその出身国であるからだ。その場合のレオムは、「民族性」ではなく事実上「国籍」を意味している。そうであるならば、「イスラエル国籍者」のレオムもまた「イスラエル人」であるべきだ、という論理で一貫させることは妥当であるように思われる。
 しかしイスラエルの裁判所は、政府が従来からこの「レオム」欄に求めてきた「ユダヤ人」か「非ユダヤ人」かの弁別機能を重視した。もし「イスラエル人」というレオムが存在してしまえば、この弁別機能が無化されてしまうため、政治的判断としてそれを否定するしかなかったのである。結局のところイスラエルが「国民国家」であると言う場合、事実上それは「ユダヤ人国家」という意味での「民族国家」なのだということであり、ユダヤ人だけを唯一正当な「国民」として優遇するということなのであった。
 今回の「ユダヤ人の国民国家法」は、一定の論争や訴訟のあったこの問題に対して、法案を提出した政府および議決した国会が最終的に法律によって決着をつけた、ということでもあるのだ。イスラエルはユダヤ人「だけ」の国家であるべきなのだ、と。それにしても、イスラエルにはカテゴリー上「イスラエル人」が存在しないということには驚く。

5 イスラエルの「国土」とはどの範囲なのか① 建国期およびゴラン高原

 次に「国土」についてだ。
 実のところイスラエルという国家は、「国境」がすなわち「国土」の範囲が確定していない。それは、たとえば日本が北方領土、竹島/独島、尖閣諸島/釣魚台について領土紛争を抱えている、というのとは状況が異なる。この場合日本政府は、歴史的な正当性や国際法的な妥当性を訴えつつ(実際に正当性・妥当性があるかはさておき)、「この範囲が領土である」と主張している。しかしイスラエルは、その領土範囲がどこまでなのかを自ら明示していないのだ。
 まず1947年に国連が決議したパレスチナ分割案の地図があり、それによると「ユダヤ人国家」が歴史的パレスチナ土地の範囲の56パーセントを占め、「アラブ人国家」が42パーセントを占めていた(エルサレムとベツレヘムは国際管理)。その分割決議をユダヤ人側が受け入れてイスラエルを建国したが、それに対してアラブ人側が拒絶して第一次中東戦争となった、という俗説は、しかしながら歴史的には虚偽である。エルサレムを最重要獲得目標とし、エルサレムを含むパレスチナの大半を排他的に占有することを意図していたユダヤ人側がこの分割案で満足したことは一瞬たりともありえない。むしろ分割案を不十分とし、国連決議と同時に沿岸地域から内陸の高地に位置するエルサレムを目指して攻め入ったのだった。欧米から第二次世界大戦で使用されたばかりの最新の武器をふんだんに供与されたユダヤ人側がアラブ人側を武力で圧倒するのは自明であり、48年の国家独立宣言を挟んで49年に休戦するまでに、パレスチナの77パーセントの土地を奪取していた。この77パーセントの土地を示す境界線いわゆるグリーンラインは、しかしあくまで「休戦ライン」「軍事境界線」であって、「国境」ではない。イスラエルはこの土地でさえ満足したわけではないのだ。
 1967年に第三次中東戦争に圧勝したイスラエルは、ヨルダン川西岸地区およびガザ地区、さらにシリアのゴラン高原とエジプトのシナイ半島までを軍事占領下に置いた。そのうちシナイ半島のみはエジプトとの講和によって返還したが、西岸地区、ガザ地区、ゴラン高原は現在にいたるまで占領下にあり、かつ、イスラエルは自国民のユダヤ人をこれらの地域に集団的に入植させてきた。狭隘かつ無資源のガザ地区からは2005年に入植地を撤去した。
 対シリアにおいて戦略的重要性の高いゴラン高原についてイスラエルは「併合」を一方的に宣言している。占領前に約15万人いたシリア人住民のほとんどをすでに戦争時に追放しており、その後イスラエル国籍のユダヤ人の組織的入植を進め、現在では約5万人の人口の過半数を占めている。そして今年2019年、イスラエルを支援するアメリカ合衆国がゴラン高原の主権はイスラエルにあることを承認し、国際社会に衝撃を与えた。ゴラン高原については、人口構成上「民族浄化」を進めているに等しく、そして国境線をそれによって事実上変更してしまったのだ。

6 イスラエルの「国土」とはどの範囲なのか② ヨルダン川西岸地区

 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区については、広大な土地に数多くのパレスチナ人が暮らしているために、またオスロ和平合意によってパレスチナ自治政府が建前としてあるために、ゴラン高原よりも事情が複雑ではある。しかし、問題の本質と基本的な構図は変わらない。
 1967年の軍事占領以降、イスラエル国籍のユダヤ人の入植を進めており、注意すべきは、1993年のオスロ和平合意が一切の歯止めになることなく、それ以降も一貫して入植活動を拡大推進されていることである。1993年時点で約28万人だった入植者数は、第二次インティファーダが始まった2000年時点で約40万人まで増加し、オスロ体制が占領地返還とミニ・パレスチナ国家をイスラエルが許容したものではないということが明白となった。オスロ体制下でのわずか7年間で12万人も入植者数が増加し、およそ1.5倍にもなったのだ。それに対するパレスチナ人の失望と反発が、2000年からの第二次インティファーダという抵抗運動として発現するのだが、それもイスラエル軍によって徹底的に弾圧されて沈静化。インティファーダの最中およびその後もやはり入植の勢いは収まることなく、2018年時点で入植者数は約62万人に達している。1993年時点から見て2倍以上、2000年時点から見てさらに1.5倍という規模だ。
 ユダヤ人入植地の多くは、すでに「併合」を宣言された東エルサレムおよびそこに隣接する地域と、イスラエル領に隣接する地域につくられ、事実上エルサレムを拡大するように、またイスラエル領を地続きで西岸地区内部に拡張するように作られている。さらにそれらの入植地は、分離壁で囲い込まれ、イスラエルの領土と一体化されてしまっているのだ。第二次インティファーダ以降に作られた分離壁が、イスラエルと西岸地区とを治安上の理由で分離するものではなく、実際には入植地をイスラエル側に取り込みグリーンライン(軍事休戦ライン)を無効化し、イスラエルの領土を拡張するためのものであることが分かる。もちろん各入植地には、ショッピングモールや学校や工場や農場が併設され、各入植地は入植者専用のハイウェイによって結ばれ、本格的な「ニュータウン」の様相を呈している。
 2018年、つまり1948年のイスラエル建国から70周年のときに、アメリカ合衆国はついに大使館をテルアヴィヴからエルサレムに移転させ、エルサレムをイスラエルの首都として承認し、アメリカの同盟諸国に対しても同様に大使館のエルサレムへの移転に同調するように求め始めた。イスラエルによる東エルサレム併合を事実上承認したのであった。さらに今年2019年4月、イスラエルのネタニヤフ首相は総選挙に際して、西岸地区の入植地の「併合」の方針を公言し、2019年11月にはアメリカ合衆国の国務長官が、西岸入植地の併合を認める方針を打ち出した。すでに既成事実は積み重ねられている。確実にその方向に進むだろう。
 この2年間に起きたのは、エルサレムの首都承認、ゴラン高原の主権承認、西岸地区の入植地併合、そしてその一連の出来事のさなかに「ユダヤ人の国民国家法」の成立であった。アメリカ合衆国の援助を全面的に受けて、イスラエルの領土拡張は歴史的な転換点あるいは到達点であるように見える。ついに、「パレスチナ全土」を「イスラエル領」とすることを現実的な視界に入れてきたのだ。

おわりに

 こうして「ユダヤ人国家」建設の過程にともなう入植活動の歴史的展開と、「国民/民族」の定義の論争史を振り返ると、「国民国家法」は、建国運動としての入植運動の起源から内在している不可避の問題に対する最終解答であるように思われる。イスラエルの歴史家イラン・パペは、論争的な書物『パレスチナの民族浄化』で、イスラエル建国にともなうパレスチナ難民の発生を、戦時下の偶発的な悲劇としてではなく、組織的に計画された「民族浄化」政策の結果であることを実証した。それによると、すでに1940年代半ばには、パレスチナの土地の80パーセントをユダヤ人国家として獲得すること、および、その国土に暮らす国民の80パーセントをユダヤ人が占めること、これを具体的に目標として定めていた。果たして建国後のイスラエルは、先にも見たように、1949年の休戦時点で、国連分割案をはるかに超える77パーセントを獲得した。また人口は、1947年の分割決議時点でユダヤ人の人口はパレスチナ全土で33パーセントであったのに対して、1949年の休戦時点までにパレスチナ人を大量に追放することによってユダヤ人の人口比が急上昇し、82パーセントに達していた。果たして、パレスチナ全土の80パーセントの土地での建国と、全住民の80パーセントのユダヤ人という目標を、実際計画どおりに達成したのであった。土地を一気に奪取し、その土地の人口構成を一変させたこの出来事を、パペは、組織的・計画的な「民族浄化」だと呼んだ。
 その民族浄化は、これまで見てきた入植政策の拡大とその領土化、ユダヤ人至上主義と反アラブ主義の深化によって、1967年を挟みさらに現在まで継続していると言えるだろう。パペの民族浄化論の優れているところは、イスラエル建国前の計画から現在までの入植政策まで一貫して説明できる点だ。パレスチナの乗っ取りはどんどん完成形態に近づきつつあるように見える。その暴力の完成を告げる象徴が「ユダヤ人の国民国家法」制定という出来事ではないだろうか。そのとき、まだパレスチナ人たちの、そしてそのなかのマイノリティ中のマイノリティであるサマリア人の、ドルーズの声が響く余地はあるだろうか。

【参考文献】
宇野昌樹『イスラーム・ドルーズ派』(第三書館、1996年)
奥山眞知「「国民国家」イスラエルのジレンマ」(『社会イノベーション研究』第10巻第1号、2015年)
マフムード・ダルウィーシュ『壁に描く』(四方田犬彦訳、書肆山田、2006年)
ファドゥワ・トゥカン/サミーハ・アルカーシム『パレスチナ抵抗詩集(1)』(土井大介訳、アラブ連盟駐日代表部、1981年)
イラン・パペ『パレスチナの民族浄化――イスラエル建国の暴力』(田浪亜央江、早尾貴紀訳、法政大学出版局、2017年)
早尾貴紀『ユダヤとイスラエルのあいだ――民族/国民のアポリア』(青土社、2008年)
早尾貴紀『パレスチナ/イスラエル論』(有志舎、2020年近刊)

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著者略歴

  1. 早尾貴紀

    1973年生まれ、東京経済大学教員。ヘブライ大学およびハイファ大学に客員研究員として2年間在外研究。パレスチナ/イスラエル問題、社会思想史。
    主な著書に、『ユダヤとイスラエルのあいだ――民族/国民のアポリア』(青土社、2008年)、『国ってなんだろう?――あなたと考えたい「私と国」の関係』(平凡社、2016年)、『希望のディアスポラ――移民・難民をめぐる政治史』(春秋社、2020年)、『パレスチナ/イスラエル論』(有志社、2020年)。共編著に、『ディアスポラから世界を読む――離散を架橋するために』(明石書店、2008年)、『ディアスポラと社会変容――アジア系・アフリカ系移住者と多文化共生の課題』(国際書院、2008年)ほか。共訳書に、サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ――パレスチナの政治経済学』(青土社、2009年)、ジョナサン・ボヤーリン、ダニエル・ボヤーリン『ディアスポラの力――ユダヤ文化の今日性をめぐる試論』(平凡社、2008年)、イラン・パペ『パレスチナの民族浄化――イスラエル建国の暴力』(法政大学出版局、2017年)、エラ・ショハット、ロバート・スタム『支配と抵抗の映像文化――西洋中心主義と他者を考える』(法政大学出版局、2019年)ほか。

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