中学受験の歴史

日本において名門公立高校よりも、中高一貫の進学校を優先するという歴史は、明治以来富裕層が多くいた東京と京都、阪神間で始まった。例外は名門国立大がおかれ、学費の安い附属校がブランド化した金沢と奈良である。

◆戦前の東京
もっとも歴史が古いのは東京で、戦前から武蔵は公立TOP校(日比谷、西など)に次ぐ名門として扱われた。
高校受験ではあるがナベツネは日比谷、武蔵を落ちて開成に進学した。既に開成も御三家と言われていたが、名門公立や武蔵との差はまだまだ大きく、親は泣いたという。

◆戦後の東京、阪神間、京都
戦後に阪神間と京都の富裕層が中学受験を始めた。
阪神間では灘、甲陽、六甲が進学校化し、京都ではキリスト教教会が設立した比較的厳しい洛星が超進学校化した。学費の安い京都教育大附属や同志社に進学できる同志社附属がこれに次いだ。
同様に東京でも戦前とは比にならない中学受験ブームとなり、以前からの武蔵に加え学費の安い筑駒、筑附がTOP扱いとなった。(当時筑波大は都内にあり東京教育大という名前であったため、筑駒は教駒、筑附は教附だった)
開成、麻布も武蔵に次ぐ私立名門ではあり、武蔵とともに”御三家”と言われた。また、早慶に進学できる早慶附属の中でも慶應附属校は難関化、先にあげた御三家と並んで”御三家・慶應コース”として主な塾はコースを組んだ。この中でTOPの武蔵と、筑駒・筑附が別格のイメージである。
神奈川私学は東京私学と試験日程が別であることや、神奈川の人口が大きいこともあって鎌倉の栄光も進学校化した。
60年代の進学実績では西の灘、甲陽、洛星と東の筑駒、筑附、武蔵、栄光、そして後述する金沢大附属が別格であり、三大都市の公立TOPである日比谷西、旭丘、北野天王寺がこれと並んでいた。
なんとなく日比谷や北野が別格で灘や筑駒は後でそれを抜いたイメージがあるのは、公立は定員が私立の数倍あり、東大合格者数や京大合格者数で目立つからである。”率”では最初から灘や筑駒は別格であり、洛星ですら北野以上であった。

◆戦後の金沢、奈良
金沢と奈良も戦後すぐに中学受験が流行った。
金沢には人口に見合わない金沢大学という名門大学があり、金沢大附属はブランドもあり学費も安いということで中学受験のとっかかりとなり超進学校化。金沢の人口が減ったため全国的なランキングでは目立たなくなったが、未だに東大・京大・国医が4、50%の超進学校である。
奈良にも人口に見合わない奈良女子大という名門大学があり、これは東のお茶大と同格である。奈良女子大附属が超進学校し、奈良から京大は通いにくいため、関西にありながら東大志向が強く、中央省庁に”奈良女子大附属閥”という”高校閥”を築いた。
ところが奈良では奈良女子大附属を落ちた者が高校受験で再チャレンジしたり、公立奈良高校への受験で有名な青々中という”進学”中学があった。ここが高校を設置し東大寺学園となった。定員を140人に絞ったため奈良女子大附属を抜き、今日に至るまで超進学校である。

◆高度成長期の太平洋ベルトの大都市での隆盛
その後は太平洋ベルトの大都市に中高一貫の進学校が出現しはじめた。
名古屋に東海、広島に広島学院、福岡に久留米附設、長崎に青雲などである。

◆高度成長期の新御三家の躍進と関西での遠征入試
また、関西でますます中学受験が盛んになると、関西人による”遠征”が行われ、それが地方の中学受験のきっかけにもなった。
当時関西の私立中は統一入試をしており、関西名門中学を落ちたものは地方の”受験少年院”と呼ばれる中学に入学するほかなかった。
鹿児島のラ・サール、岡山の岡山白陵、愛媛の愛光などがそれである。
この遠征入試は凄まじく、関西のTOP層は灘とラ・サール、愛光を併願したため、この三校は”西の御三家”と呼ばれた。
地元に超進学校ができたということで、岡山や四国、九州の田舎でも難関志向の中学受験がはじまった。
まさかラ・サールや愛光、岡山白陵が関西人による遠征のたまものとは思わず、九州や四国、岡山の人は素直に誇りに思ったのである。
もちろん東京でもますます中学受験が盛んになり、様相も変わってきた。
東京では阪神間とは違い統一日をずらす中学が出現した。海城、巣鴨、駒東の”新御三家”がそれである。統一日や2日目は無試験という体で統一日以降に試験を行った。
巣鴨の規模が小さいことや開成の規模が大きいことから、今では信じられないが、新御三家で最も進学実績の良かった巣鴨と御三家ベッタの開成では東大進学”率”はあまり変わらなかった。

◆80年代以降の新興校の躍進とラサール愛光・新御三家の凋落
昭和も末期に入ると、中高一貫の進学校が”儲かるビジネス”であることが知られるようになる。”進学校化”を目的とした新しい学校や、古い学校が名前を変え学校改革をして既存の名門にとって変わろうとしはじめた。
洛南は関西ではじめて統一日をずらすことで、ラ・サール愛光にとって変わった。洛南は京都にもとからあった洛星からも優秀者を奪った。
東京で統一入試への制限が厳しくなり、海城、巣鴨などは凋落し、試験日がずれる隣県の聖光、渋幕が取って変わった。聖光も隣りの鎌倉にもとからあった栄光からも優秀者を奪ったが、そもそも栄光も鎌倉の割にはアクセスが良く、聖光は横浜の割にアクセスが悪かったために栄光もまだまだ生き残った。
また、TOPの筑駒と同じ日の試験を強いられる筑附は凋落し、それに変わって武蔵、麻布、開成などが躍進した。開成・麻布は規模が大きいので見かけの進学実績が目立ち、そのうち実力でも武蔵に取って代った。
奈良県私学は千葉や神奈川の私学がウハウハなのを見て、関西私学連盟から脱退し統一日を守らなくなった。洛南はあくまで統一日1日目、2日目は無試験という体で試験日をずらしているが、県ごと私学連盟を脱退してしまえば、試験日を統一日より前に繰り上げることが可能であり、学費の納入期限も統一日校の合格発表より前にして大儲けすることも可能だ。
このおかげで東大寺はほとんどレベルを下げずに通常の私学と同じ規模に拡大することに成功した。また大阪からアクセスのいい場所に新設された奈良学園や西大和なども躍進した。
奈良学園は東大寺に試験日をぶつけ、関西統一日校の併願校として東大寺との二択を迫ることで優秀者を確保しようとしたが、西大和が単独日程を続けたために西大和が漁夫の利を得ることとなった。
名古屋には海陽学園が新設され、ここは非常に小さな定員と、首都圏・関西の名門校不合格者を拾って東海に対抗した。

◆80年代以降の名門女子校の難関化
また、この頃に女子の難関向け中学受験も盛んになり、三大都市圏で桜蔭、南山女子、神戸女学院などが超進学校化した。
桜蔭はお茶大OGか作った学校であり、南山女子は名門南山の附属校であり、神戸女学院はお嬢様大学であった神戸女学院大の附属校であることがその権威の根拠となった。

◆80年代以降の公立凋落とその地元の私学の躍進
また、いよいよ公立が没落しはじめたために、公立に取って代わる私学も現れた。
最も有名なのが久留米附設と東海、大阪星光、四天王寺である。
久留米附設と東海は上で触れたように以前から有名な進学校ではあったが、公立凋落でますますパワーアップし、特に久留米附設はラ・サールの凋落も追い風となった。
大阪星光と四天王寺は大阪府立の没落によって躍進したそれぞれ男子校と女子校である。
男子は既に灘、甲陽、東大寺のブランド力が圧倒的であったが、女子の四天王寺は神戸女学院と進学校化した時期的にはあまり変わらず、大阪と神戸の双璧となった。

◆00年代以降の共学化の波
平成に入ると、上で触れた”進学校化を目的とした私学”が難関を演出するために男子定員を削減したり、優秀な女子を受け入れる目的で共学化をし始めた。
久留米附設は大幅にレベルアップしたが、首都圏や関西圏では男子校の共学化によってせっかく超進学校になったばかりの桜蔭や四天王寺、神戸女学院が大ダメージを受けた。
特に、ラ・サール愛光の後を継いだ洛南が共学化したために神戸女学院、四天王寺は丸ごと上位層を奪われ、また洛南が神戸女学院と試験日をぶつけたために神戸女学院と四天王寺が逆転するなど影響は大きかった。それを見て西大和も共学化したり、既に共学化していた清風南海が四天王寺を超える上位コースを設置するなどして関西の女子校は凋落した。
上であげた奈良学園や愛光、岡山白陵も再起を狙って共学化するなど、共学化は主に少子化にあえぐ西日本で始まった。しかし首都圏でも中堅校以下は共学化を始めている。
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