「ひな祭りの日は、自分が許せなくなる。なぜ助けてやれなかったのかと、頭が狂いそうになる」-。2011年3月3日、桃の節句の夜、清水心[ここ]ちゃん(当時3歳)は、家族で出掛けた熊本市のスーパーで、大学生の男に命を奪われた。事件から9年。今春、小学校を卒業するはずだった。母親は天国の娘を思い、目を赤くした。事件発生時から取材してきた記者が、遺族の苦悩の日々を追った。(デジタル編集部・岩下勉)
法要に分身の「ドキンちゃん」
両親の清水誠一郎さん(48)と真夕さん(47)=熊本市北区=は3日、心ちゃんの遺骨を抱え、命日の法要に同市内の寺を訪れた。「一人でお墓に入れるのはかわいそう」と納骨はせず、今も自宅の一室に大切に安置している。
家族ら7人だけで静かに手を合わせる。正面には心ちゃんが3歳の誕生日プレゼントにおねだりしたアンパンマンのキャラクター「ドキンちゃん」の縫いぐるみが椅子の上から家族を見つめていた。これまでは真夕さんが抱いて法要に参加していたが、心ちゃんの“小学校卒業”に合わせ、椅子に座らせることにした。
「あの日」から髪を切ることできず
「生きていれば、卒業式を楽しみにしてたでしょう。天国で元気に成長していると信じているから、もう抱っこは変でしょ」。家族の前では笑顔を取り戻した真夕さんが、心ちゃんの「分身」のようなドキンちゃんに優しい眼差しを向けた。
殺害されたスーパーに出掛ける直前、心ちゃんに『ママ、ぎゅっとして』とせがまれた。「あの日、なぜ助けてやれなかったのか」。記憶がよみがえり、命日には特に自分を追い詰めてしまう。あの日から一度も髪の毛を切っていない。娘の髪をとかしているような気がして、切ることができないという。
最後のスキップ姿 最もつらい記憶
あの日─。4人きょうだいの4番目、夫婦待望の女の子だった心ちゃんは、保育園から帰り、家族で近所のスーパーに出掛けた。午後7時半、買い物をしている最中、心ちゃんは誠一郎さんに「トイレに行っていい?」と駆け寄ってきた。一旦は止めたが、「どうしても今行きたい」と言い、十数メートルしか離れていないトイレに一人で向かった。
「スキップをしてトイレに向かい、角を曲がった娘の姿が目に焼き付いている」。誠一郎さんの最もつらい記憶だという。
トイレにすぐに迎えに行き、「心、心」と呼んだが、返事はなかった。懸命に探したが見つからず、110番通報で警察も駆け付けた。誠一郎さんは身障者用トイレもノックした。男の声で「使用しています」と返事があった。後に、その時、その場所で娘が殺されていたことを知った。
悔しさで奥歯かみ砕いた
翌日の午後、心ちゃんは、鉄柵がある近くの川の水路で遺体で見つかった。身長100センチの小さな遺体と警察署で対面した真夕さんは、悔しさで奥歯をかみ砕いた。
逮捕されたのは近所に住む当時20歳の大学2年生の男。12年10月に熊本地裁で裁判員裁判が始まり、清水さん夫婦は被害者参加制度で、「娘の無念を訴えたい」と裁判に参加し続けた。真夕さんは、あのドキンちゃんをいつも抱いていた。
13年6月、最高裁で殺人罪などで無期懲役が確定。「小児性愛の影響で行動制御能力を失っていた」と殺意を否定する弁護側の主張は退けられた。元大学生は容疑者、被告を経て受刑者となった。
マスコミとの闘い 「家族は見せ物だった」
事件発生当時、私は県警担当の記者だった。県警から誘拐事件の可能性を視野に「報道協定」の打診があり、各社と報道自粛を議論していた最中、女児の遺体発見、容疑者逮捕の一報が入った。事件報道は一斉に過熱。全国から新聞、テレビ、雑誌などあらゆるメディアの記者たちが押し寄せてきた。
誠一郎さんは「娘を失った現実を理解できないまま、始まったのはマスコミとの闘い。自宅の周りにはドアを開けられないぐらいのマスコミとたくさんのカメラ。上空にはヘリが飛び交い、私たちは見せ物だった」と当時を振り返る。
遺体発見から1週間後、東日本大震災が発生。皮肉にも震災を契機に、マスコミは一斉に姿を消した。私も東北に向かい、震災取材に追われた。
家族だけの静かな生活を取り戻した清水さん夫婦は、心ちゃんの3人の兄を守りたい一心で、自宅からの外出を禁じ続けた。長男に「学校に行かせて」と懇願され、ようやく登校を認めたのは4カ月後のこと。「私たちがもう一度家族として歩みだした一歩だった」と誠一郎さんは言う。
入れなかった身障者トイレ
そんなことは知らず、私は事件からしばらくして、誠一郎さんと連絡を取り合うようになった。事件から1年11カ月後、誠一郎さんが勤務先の障害者支援施設に復職する際にも立ち会った。硬い表情で「ご迷惑おかけしました」とあいさつする誠一郎さんを、同僚たちは温かい拍手で出迎えた。私は記事にはせず、日常に戻る門出を見守るだけにした。
誠一郎さんは介護士という仕事柄、身障者用トイレに入る機会がある。だが、娘が殺害された場所である、身障者トイレに入ることがどうしてもできなかった。同僚が何も言わずに、代わってくれていた。
13年と14年には誠一郎さんらとチームを組み、地元の丸太切り競争に参加。2年連続準優勝した時は屈託ない笑顔で喜び合った。
そんな時、誠一郎さんがつぶやいた一言が胸に突き刺さった。「約1時間弱の通勤中、看板に『心』の字が目に入ると、とてもつらい」。確かに「心」の文字は、街中のいたるところにある。笑顔の奥で、ずっと苦しんでいた。
「犯罪がない社会を」 全国で講演
13年11月、誠一郎さんは「くまもと被害者支援センター」の依頼で、設立10周年記念シンポジウムで講演をした。「地獄というものがあるのなら、あの日は地獄でした」「火葬の点火ボタンを押した時、私たちは1回死んだ」。心ちゃんを思い涙が流れた。
それを契機に、講演活動を始めた。「心のことを知ってほしい」「遺族の苦しさを分かってほしい」との思いからだった。
転機は熊本地震が発生した16年だった。自宅の家具は散乱したが、心ちゃんの遺骨だけは微動だにせず無事だった。その年、岡山県の「大学生」たちから講演依頼が届いた。娘を殺害した大学生という言葉を見るだけでつらく、断るつもりだった。なぜか断ることができなかった。「もしかして心が導いてくれたのかも」と思った。
その講演を終えると、学生たちが涙を流し駆け寄り、「必ず恩返しできる仕事につきます」と握手を求めてきた。別の講演では中学生の男の子から「何で人を殺すといけないのか分かりました」との手紙が届いた。
「犯罪がない社会をつくるには人同士が支え合うことが一番。人には助けてくれる人がいる。犯罪被害者の立場で、命の大切さを伝え続けたい」。そんな思いで続ける講演は、すでに全国100カ所以上に上っている。真夕さんは講演に同行する時は、あのドキンちゃんを連れていく。
ついに目通した謝罪の手紙
「元大学生から手紙が届いた。でも絶対読みません」。誠一郎さんは、私に何度も口にしていた。判決確定後、元大学生が刑務所で書いた手紙が7通届いたが、弁護士に預かってもらっていた。「犯人のことを一瞬でも思いたくない」。そう思っていた。
元号が「令和」に切り替わった19年夏、誠一郎さんは「次のステップに進まなきゃいけない」と手紙を読む決心をした。7通のうちから、最初に届いた1通だけを選んで、目を落とした。どこかに、「心ちゃんの最後」を知りたいとの思いもあった。なぜか書いてあると思った。今まで口外してこなかったが、今回の取材で初めて内容を明かしてくれた。
手紙は「真実を伝えます」と書き出しで始まった。そして、「私は小学生の女の子が死ぬところを見たかった」と続いていた。裁判では殺意を否定し続けていた犯人の独白。その瞬間、裁判で知った娘の最後が真実かどうかすら分からなくなり、号泣した。真夕さんは今も手紙を読んでいない。
事件当時、中学1年だった長男は今春、大学を卒業し、社会人となる。次男は高校3年生、三男は中学3年生へ進級する。夫婦は振り返る。「家族を守る強い親であろうとしてきたが、子どもたちの成長に私たちが支えられていたことに、心のおかげで気付くことができた」
熊本市3歳女児殺害事件
2011年3月3日夜、熊本市北区のスーパーで、家族と買い物に来ていた清水心ちゃん=当時3歳=が、多目的トイレに連れ込まれて殺害され、近くの排水路で遺体で見つかった。殺人罪などに問われた元大学生は、13年6月、無期懲役が確定し、服役中。