<ヘリコプター事始め50年記念講演>

富士重工業の
ヴァーティカル・フライトとの取り組み

牧 野  健

元 富士重工業(株)航空宇宙事業本部 副本部長

 

Summary

The Activities of Fuji Heavy Industries Ltd.
in the Field of Vertical Flight

Takeshi Makino
Former Deputy General Manager
Aerospace Division of Fuji Heavy Industries Ltd.

 

Fuji Heavy Industries' (FHI) participation in the helicopter business started with the first HU-1B production under license that began in 1961 for the Ground Self-Defense Force. One of the features of FHI that other domestic manufacturers do not have is a fact that FHI has an experience in manufacturing and flying actually a VTOL aircraft although its history is shorter by several years compared with the 50 years of Japan's helicopter history. The author summarizes the past history that FHI has advanced in the world of VTOL aircraft, which may be a "dream of flying sky" of mankind including author's business involvement and a little bit recollection while looking back to the past 50 years of Japan's helicopter history.

要   旨

 富士重工業のヘリコプタ事業への具体的な参画は1961年から始った陸上自衛隊向けのHU-1Bのライセンス生産が最初であり、その歴史は日本のヘリコプタの歴史の50年に比して数年短いが、ヘリコプタ以外の垂直離着陸機を実際に製作し飛ばした経験のあるメーカーと云う点が国内他社にない特徴である。人類の「空を飛ぶ夢」の本来の姿と思われる垂直離着陸の分野で富士重工業が歩んできた概要について、その多くに携わってきた筆者の思い出や多少の感懐なども交えて紹介し、「ヘリコプタ事始め50年」を振り返って、記念のよすがとしたい。

 

垂直離着陸機の飛行実績

 昭和27年にベル47のライセンス生産が始ったのが「ヘリコプタ事始め50 年」の由来ですが、富士重工がヘリコプタ事業に参入したのはもう少し後のことになります。

 昭和34年頃からヘリに関する関心が社内にポツポツ現れ始めていましたが、実際に事業として取り組み始めたのは、36年陸上自衛隊が装備することになった中型多用途ヘリコプタHU-1Bのライセンス生産を担当することになったのが最初であります。 

 何故遅くなったかということについては、私の個人的な見方ですが、次のように思います。富士重工は戦前の中島飛行機が戦後分割された第2会社の中、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車両及び東京富士産業の5社が合併して昭和28年7月に設立されました。そして航空事業の拠点を宇都宮に置き、上記各社などから航空の技術者を集結しました。勿論新しく航空に取り組む若い人も大勢含まれていました。

 私が見るところ、これらの技術者の中で、飛行機(この場合当然固定翼機)が好きで好きでしょうがない、飛行機以外のことには目もくれたくないという人の割合が当時の他の航空機メーカーよりもかなり高かったと思います。私自身もその一人でした。これがヘリコプタに対する関心がなかなか出てこなかった原因ではないかと思います。

 また会社創立直後からジェット練習機の開発に総力をあげて取り組んでおり、全く新しい航空システムであるヘリコプタに手を染める余裕が無かったのも大きな理由であることは間違いありません。

 このように富士重工がヘリコプタに手を染め垂直離着陸の世界に参入するのは少し遅くなりましたが、実は純ヘリコプタ以外の垂直離着陸機に実際に取り組み飛ばすことまでしたわが国では唯一の会社でありまして、そう云う点からこの表題も「ヴァーティカル・フライトとの取り組み」としたわけであります。

 

ヘリコプター事業の流れ

 図1は富士重工のヘリコプタ事業の流れを示す年表です。年代の新しい方の線表が白抜きのアイテムは現在も継続中またはこれから予定されているものです。線表が青色のアイテムは終了したものです。

 

(1)HU-1B からUH-1Hへ

上図の中で、HU-1Bは昭和36年にライセンス契約が成立し、昭和38年から47年まで90機を生産し防衛庁に納入しました。併行してHU-1Bの民間型である204-Bの生産も行ない33機を納入しました。204-Bは機体の形状は殆どHU-1Bと同様でエンジンも同じですが、ローター直径が48フィートでHU-1Bより4フィート大きくなっています。

 HU-1Bの後継機として、その発展型であるUH-1Hが装備されることになり、新しいライセンス契約が結ばれ、昭和48年に初号機を納入、平成2年まで合計133機を納めました。UH-1Hはローターが204-Bと同じものになり、エンジンはHU-1Bよりも200馬力パワー・アップし、全備重量も1000Lb.増えて9,500Lbになっています。なお陸上自衛隊のUH-1Hは米軍のものとは異なりテール・ローターがいわゆるトラクター型になり、横風での方向制御特性が改善されています。これは富士重工の提案を陸幕が採用されたので実現されました。

 このライセンス交渉の過程で、204-BのエンジンをUH-1Hと同じ1,300馬力のものに換装した改造開発を富士重工で行なうことが認められ、204B-2としてJCABの型式証明を取得し、昭和48年から平成2年の間に22機を製造販売しました。使い勝手の良い物輸機として好評を得ましたが、実は最初は大変でした。

そもそも狙いは高空高温性能の向上でありましたが、初号機(これで型式証明の飛行試験を行ない証明取得後ユーザーに納入する)は昭和48年に初飛行して試験に入りましたがエンジンの潤滑油やエンジン・ルーム内の冷却が悪く、型式証明は耐空性審査要領ぎりぎりで合格の外気温摂氏38度でようやく取れました。この機体は朝日ヘリコプターへ納められたのですが、当然の事ながら大変怒られました。「なにが高空高温性能の改善だ」と云う訳です。それでなんとか社内試験研究費を付けてもらい、オイル・クーラーの変更やエンジン・カウリングまわりの変更などを行ない約1年かけて型式証明を取りなおしました。今では日本国内ならどんな所でも大丈夫です。

 

(2)AH-1Sを国産化

 昭和40年代の終わり頃からヘリコプタに対戦車ミサイルを搭載しようと言う考えが出始めていたようですが、昭和50年位から社内でもAH-1Sについてスタディを始めていました。昭和52年度予算でAH-1Sの運用研究用の機体輸入が決まり、その研究結果に基づいて、昭和57年度予算でライセンス生産による導入が決まりました。国産初号機は昭和59年12月に納入されました。

 ノックダウンから始めて急速に国産化率をあげる方針で国産6機目で機体構造はほぼ国産化し、9機目でダイナミック・コンポーネント部品や機能部品の大部分の国産移行を完了しました。武装関係のサブ・システムは順次国産化が進められ、17機目で大部分、22機目で国内開発品も含めて武装サブ・システムの国産化アイテムもすべて国産化が完了しました。平成12年までに89機を納入し生産を完了しています。

 

(3)UH-1Jに進む

 平成5年からUH-1Hの後継として、日本独自の発展型であるUH-1Jの納入を開始しました。機体の基本的形態はUH-1Hと同様ですが、エンジンをAH-1Sと同じものにして1485馬力にパワー・アップ、トランスミッションもAH-1S と同じにしてパワー・アップしてあります。ローター・ブレードの直径はUH-1Hと同じ48フィートですが、翼弦長を2インチほど延長し、ティップで翼厚比を小さくするなど性能向上を図ってあります。全備重量はUH-1Hよりも1,000Lb増して10,500Lbになっています。

 装備については近代化が図られていて特にコクピットの装備が近代化されています。現在までに83機を納入し、なお生産継続中です。

 205Bは、UH-1Jを独自に開発するにあたり機体としての基本的な耐空性を予め証明しておく必要があり、その目的も兼ねてベルと共同で開発し、FAAの型式証明をとりました。機体の要目等はUH-1Jと殆ど同じです。スリング能力も上がり物輸作業に向いた機体ですが目下の情勢では余り需要に結びついていません。

 

(4)今後の新プロジェクト

 BA609はベル社がアグスタと共同で開発中の、世界初のティルト・ローター民間機です。富士重工はこれの胴体の量産を担当することになっています。これにより初めて、ロータークラフトではありますが、ヘリコプタではないVTOLの実用機の事業に加わることになりました。

富士重工が日商岩井と共に永年に亙り提案を続けてきましたAH-64Dアパッチが次期対戦車ヘリコプタに選定されました。富士重工はAH-1Sの事業で得た火力システムとしてのヘリコプタに関する多くの貴重な知識、経験も活かしてAH-64Dの生産を担当して行きたいと考えているようです。

試験研究と試作活動

 上の図2は試験研究や試作関係の活動を年表的に示したものです。

 昭和40年頃から高速化の研究が行なわれました。これは大部分紙の上での比較研究で、コンパウンド・ヘリ、リード・ラグ・ローター、ジェット・フラップ・ローター、ホット・サイクル、ストップド・ローターなどなど当時欧米で考えられていた種々のロータークラフトについて調査研究的なことをやりました。その内ジェット・フラップ・ローターについては直径2m位の模型で実験も試みました。 

 予算が大変限られていたので、空気源として工場のショップ・エアを利用することにしましたが、これが大変汚くて空気ジェットならぬ水ジェットが噴出したりして狼狽したこともありました。とにかく一応運転ができるようにしようとしている中に、ベアリングが焼き付きを起こしてしまい、修理してやり直すお金の目途も立たず、中止に追い込まれました。しかしこの高速化の研究を通じてコンパウンド化の方向へ傾いて行ったのは否めず、それが昭和43年からの有翼ヘリ実験機XMHへとつながっていきました。

 昭和40年には三菱重工との競争提案の結果選ばれて、航空宇宙技術研究所(NAL)のホバリング・テスト・リグであるフライング・テスト・ベッド(FTB)の試作を受注しました。昭和43年3月に納入し、引き続き昭和46年まで飛行試験を含む各種試験に協力・支援を致しました。

 NALの元々のVTOL研究計画ではFTBに引き続き遷移飛行を行なうVTOL実験機を開発することになっていてその初期計画や先行的な要素実験の一部を受注して進めていましたが、昭和48年のオイル・ショックの影響でNALの予算状況が激変し中止となってしまいました。NALはその後昭和51年の航空技術審議会の答申にそって、日本の航空機工業界がより広く全体的に協力する態勢でSTOL実験機「飛鳥」へと向かったわけです。

 204B-2は前述のように昭和46年から50年にかけて開発しました。

 CFRPテール・ローター・ブレードの試作を昭和46年に行なっていますが、これは新しい複合材料として注目を惹きつつあったCFRPがブレードの材料としても有望との見通しを得ていたので、先ずはブレードのような形状、構造に作り上げるのがどうすれば上手く出来るか試みてみたものであります。従ってローター・ブレードとしての特性に関しては試作の検討対象にはしていませんでした。

 AH-1Sの国産化に追いまくられていた昭和50年代の中頃から60年までは余りまとまった試験研究をする余裕がありませんでしたが、ヘリコプタの生命であるローターについては高性能化について研究を続けていました。その結果昭和60年にベアリングレス・ローターの研究開発に重点を置くことになり、昭和61年からはある程度まとまった研究開発費も得られる目途が立ったので、富士重工の主力分野である5トン・クラスの中型ヘリコプタ用のベアリングレス・ローターの試作に踏み切りました。これは平成8年にベル412を実験母機として飛行試験も成功裏に終わりました。いわゆるFBRです。

 昭和61年から64年の間ベルと共同して205Bの開発およびその先行活動として水銀を用いたLIVEという防振装置を搭載した205A-1の改良開発を行ないました。

 無人ヘリについては平成元年から開発を始め、まずRPH-1、次いで平成6年から10年でRPH-2を開発しました。ローター直径約4m、ペイロード約100kgのかなり大型の無人ヘリで、大きなペイロードと高度な遠隔操縦機能を活用した用途に期待されています。

 NASDA FTBは将来月面探査のため無人で着陸する機体のテスト・ベッドで、NALのFTB以来30年振りに手掛けたジェットによるVTOLテスト・ベッドで昨年実験も行なわれました。


図3 NALフライング・テスト・ベッド自由飛行に成功
(昭和46年6月角田支所) 

 

 図3はNAL FTBのホバー飛行中の状況です。図4はFTBの概観図です。リフト・ジェット・エンジンはNALが開発したJR100で設計製作はIHIが行ないました。推力約1.5t、推力重量比10で、ピッチとロールの機体姿勢の制御はエンジンの抽気を前後,左右の機体端にあるノズルに導きその開閉により行ないます。ヨーは機体前後のノズルを左右反対に首を振らせて行ないます。

 FTBには固有の安定性は全く有りませんので、高度の制御を含めてすべて自動安定装置ASEを用います。図5はそのブロック・ダイヤグラムです。このASEはNECがまたノズルの駆動に油圧を用いていますが、油圧系統は三菱重工が担当しました。ASEはヨー系統以外は一見3重系のように見えますが、実はサーボ・シミュレータと切替クラッチを用いた準3重系です。これにより油圧駆動部が一つずつ少なくて済み、油圧源の必要パワー及び重量の軽減に役立っています。

 これはNECの故榑林部長のアイディアによるものでした。また高度制御系にはNALで発案された近似積分を含むShaping Networkにより、センサーとして加速度計を用いて準3重系を構成することができるようになり、複数の電波高度計を隣接して作動させられるか否かの問題から解放されました。 姿勢制御系はASEのオーソリティーが100%ですが、パイロットの手動操作とASE出力を加算した時、ノズルの口の形状を上手く形成することによりオーバー・トラベルを設けるという富士重工十河氏の巧みなアイディアにより、これが実現しました。このASEをやったことで富士重工は自動安定装置や自動制御について貴重な勉強をすることができ、その後のこうした分野の研究開発を進める出発点となりました。

有翼ヘリコプタXMH

 昭和43年から有翼ヘリ実験機XMHの試作がスタートしました。コンパウンド・ヘリへの第一段階としてWinged Helicopterの特性を実験的にしっかり手にしようと考えたわけです。図6に示すように、HU-1Bの社有機に小型の主翼をつけて、高速時に機体重量の一部をその揚力で支え、ローターをある程度Unloadしてやろうというものです。昭和44年3月に初飛行をしました。 


図6 有翼ヘリコプタXMH

 図7に示すように、主翼はExposed Areaが3.8uで高速時機体重量の30%前後の揚力を持たせることにしました。改造に伴う抵抗増大を抑えるため各部の整形を行ないました。この主翼には弦長の50%に及ぶフラップが備えてあります。これはオートロテーションのエントリーの時、上へ20度あげるようになっていて、ローターの負荷を増大し、姿勢のコントロール・パワーの確保とオートローテーション回転数が制限下限値を下回らないようにするため、非常に有効でありました。 達成した速度はTASで161.5Kt.で緩降下で出しました。高速時の振動は原型HU-1Bで100Ktあたりから振動が増大し始めますがXMHでは140Kt近くまで振動が増大し始めずローターの負荷を減らしたことが効いていることが体感でも感じられました。

 XMHの飛行試験は昭和48年まで行なわれ、全部で85フライトに達しましたが翼の影響について非常に多くの貴重な知識、経験を得ることが出来ました。飛行試験では本当にヒヤリとするようなこともありました。たとえば高空でのホバリング安定操縦性試験でボルテックス・リングに入ってしまい1,500フィート位落っこってしまったこともありました。XMHの試験でヘリコプタの飛行試験計測技術が設備、ソフトウェアならびに知識・経験の面で大いに前進しその後の飛行試験計測技術のベースになりました。

AH-1Sのライセンス交渉

 図8はAH-1Sです。昭和55年から56年にかけてライセンスの交渉が行なわれ、57年に締結に至りました。丁度日本へのライセンス供与に対して米国が非常に敏感になる直前であったことが幸いでした。しかしそれだけではなく、HU-1B/UH-1H等のライセンス生産を通じてライセンサーとの間で真面目に、率直に、そして粘り強く培ってきた信頼関係が大きく寄与しています。もちろん相手側にも良い人を得たということもありますが…。私はテキサスのSouthern Hospitalityというものを高く評価しています。

 また、いわゆるライセンス・エンジニアの弊に陥らないようにあらゆる努力をしました。その一つとして各種の試験や実験をかなり突っ込んでやって見るといったことも大切です。そういうことは時間と費用を掛けることになりますが、それに対し社内外の理解と協力が得られたことも非常に有り難かったことです。ただそう云う風にもって行く基本は技術者がそうした活動の意義や必要性を判りやすく且つ正確に説明し納得させるところにあると思います。

ベアリングレス・ロータ

 私が富士重工にいる間にスタートさせた最後の試験研究となりましたFBRの概観図です。昭和60年頃までにいろいろ検討した結果、ベアリングレス・ローターのハブのフレックスビームの形状として図9に示したようなものが良い特性を発揮できる筈だという見通しを得ました。これをダブルY と呼んでいました。

 昭和61年度からある程度まとまった研究費の目途も立ちましたので本格的な開発に入りました。とはいっても大量の疲労試験を行なう設備まで備える所まではなかなか行きませんので、当初は疲労試験はベルに委託してやったりしました。空力的にも新たに高性能のいわゆる第三世代に相当する翼型を開発使用しております。ちょうど私が富士重工を離れる頃から開発のピッチが上がり始め、平成8年にはベル412を実験母機として飛行試験を行ない好結果を収めました。

 

 図10にその試験結果の概略をまとめてあります。振動については412原型と比較して120KtあたりではLateralは低いがVerticalはやや高く合わせると余り差がない状況です。じつは412 はこの振動特性を得るために135Lbの吸振装置を要しており、FBRではこれが重量メリットになる訳です。騒音については一番差が出たのはフライオーバーで1.5dB、アプローチ、テイクオフでは更に差は小さくなるが何れも412を下回っている。水平飛行性能については5Kt程度の最大速度の増加とともに必要馬力の減少が認められる。このFBRが近い将来実用機に使用されるようになることを願っています。

人類の「空を飛ぶ夢」

 最近、欧米特に米国では「滑走路の要らない航空機」の重要性が唱えられ、認識されつつあります。考えて見ると、人類の「空を飛ぶ夢」はむしろVTOL的な飛び方を思い描いていたのではないかという気がします。富士重工はこれまで多様なヴァーティカル・フライトに関わる経験をしてきており、私自身もそのかなりのものにタッチすることができて幸せであったと感じていますが、これからもヴァーティカル・フライトの道が益々発展して本来の「空を飛ぶ夢」の姿に近づいていくような活動に、日本の航空に関係する人がみんなそう云う意識を持って取り組んで行けたら良いなと思っています。 

(2002年6月28日、「ヘリコプター事始め50年」講演会より)

【著者紹介】

牧野 健氏

 1930年東京市(今の東京都)生まれ。東京大学工学部航空学科卒業(1957年)、富士重工業(株)入社。T-1ジェット練習機の開発、航空宇宙技術研究所フライング・テストベッドの開発設計、有翼ヘリコプター実験機の開発・試験、204B-2の開発、AH-1S対戦車ヘリコプターの導入国産化等に従事、取締役航空宇宙事業本部副本部長を経て輸送機工業(株)常務取締役(1992)。技術士、日本航空宇宙学会会員、AHS Fellow、日本ヘリコプタ技術協会常任理事(第2代会長)。

(AHS Japan、2002.12.24) 

 

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