第3回 及川眠子

アルバム15タイトルがオリジナル・リマスター盤でリリースされることを記念した特別コンテンツ。
Winkサウンドを作ったキーマンにリマスター音源を聴いてもらい、さらに当時のお話までうかがってしまおうという企画の第3弾!
今回お迎えするのは、長きにわたってWinkの詞世界を支えた及川眠子さんです。
水橋春夫プロデューサーとの関係もまじえて、当時の話を聞いた。

インタビュー&文:田渕浩久(DU BOOKS


部分的に突出したもの、それは違和感だったりもそうなんですけど、
そういうものを当て込んでいくっていう詞の作り方をしていました。

――最初に、船山さん、門倉さんとインタビューさせていただいて以降、WinkがNHKの『思い出のメロディー』で再結成、さらにはプロデューサーであり、今回の30周年記念リリースの総監修を務めた水橋春夫さんがお亡くなりになったりと、いろいろありましたが、そもそもの部分からお聞かせください。及川眠子さんと水橋さんの初タッグは「愛が止まらない」だったのでしょうか?
及川 そうです。私は85年からこの仕事を始めたんだけど、ずっとフリーランスだったんですね。それで大地真央のアルバムを1枚やったあと、その出版(権)がフジパシフィック・ミュージックだったこともあって、スタッフの人が私をマネージメントしたいって言ってくれて、フジパシフィックの所属になったんですよ。そこでWinkっていう2人組がいて、3枚目のシングルがドラマの主題歌に決まっていると。それで当初は私じゃない人に頼む予定だったところ、その人が忙しくて、"うちに入ったばかりの及川ってのがいるんですが、なかなかいい詞を書くのでいかがですか?"って言ってくれたらしくて、それで書くことになったんです。なので「愛が止まらない」は私がフジパシフィックに入って最初にやった仕事なんですよ。

――「愛が止まらない」については編曲の船山さんもそこで初参画、しかもそれがブレイク曲になりました。
及川 発注がそんな状態だったんで、Winkの音資料もなければ、本人たちがどんな子なのかもわからずという状態でした。オリジナルのカイリー・ミノーグの「Turn It into Love」のテープを"はい"って渡されただけ。それで書いてるんですよ。

――訳詞なのかどうなのかというのは?
及川 最初に"訳詞ですか?"って聞いたら"違います"ってことだったんで、"じゃあ日本語詞ね"と。Winkのカバー曲に関しては"日本語詞"っていうクレジットになってますよね。だからオリジナルの詞をまったく気にせずに書いてます。"愛が止まらない"っていうタイトルも私が考えたものなんですよ。それでカイリー・ミノーグのオリジナル盤が日本で出る時も邦題は「愛が止まらない」っていうタイトルで出ましたからね。タイトル付け料くれって感じで(笑)。

――作詞と日本語詞では、考え方はかなり変わりますか?
及川 音の取り方なんですよ。洋楽って1番、2番、3番で微妙にメロディが変わってたりするんですけど、それをカバーするとなると、私は原曲と同じメロディに合わせて日本語をあてはめてるというか。

――譜割りやタイの位置、タンタタやタタンタといった部分が日本語の語感のシンクロするように?
及川 そうそう。Winkの歌メロが洋楽っぽく聴こえるのは、そういうことなんですよ。でもそれだと歌えない場合がやっぱりあるので、そういう時は譜面にしてもらって仮歌の人がラララで歌ったものを聴きながら詞を充てていきますね。

――カバー曲はさておき、Winkのオリジナル曲の場合は曲先が多かったでしょう?
及川 ほとんど曲先ですね。

――眠子さんとしては曲先と詞先どちらがお好きなんでしょう?
及川 どっちもできますけど、曲先の方が縛りがあるんでやっぱり書きやすいでしょうね。

――少し話が逸れますが、仮歌の人がラララで歌ったものと、シンセなどでメロディが弾かれているものだと、出てくるものが変わったりしますか?
及川 変わるというよりラララの方が早く書けます。特に作曲家が歌ってたりすると思いが歌に込もるし、それにいいメロディって言葉を引き寄せるから、そういう楽さはあると思いますね。キーボードだとそれが物質的に聴こえてしまうから。

――息継ぎや言葉を切るべき部分も見えるというか。
及川 そうですね。広谷順子さんの仮歌で、息継ぎの箇所はある種のポイントになってた部分はあると思います。

――眠子さんは水橋さんを"ヒット作詞家にしてくれた恩人"と語っています。「愛が止まらない」以降、まさに快進撃の裏で怒涛の制作量をこなしていたと思うのですが。
及川 もう当時はめちゃめちゃでね、水橋さんにアドバイスをもらったりした記憶はほとんどないですね。年間でシングルを4枚、アルバムを2枚ペースで作ってましたから。ちょうどその頃って、早坂好恵をプロデュースも含めてやったり、CoCoでレギュラーで書いてたりもしましたけど、Winkは3ヵ月お休み、みたいなことが一切なくてずーっと途切れない(笑)。ある時は夜中に水橋さんから電話がかかってきて、出たら「いた!」って言うんです。「どうしたの?」って聞くと、「明日13時から歌入れなんだけど、詞の発注するの忘れてた。今からアシスタントに持って行かせるからゴメン書いて」って。

――めちゃめちゃですね(笑)。
及川 それでしょうがないから書いて、朝方にスタジオにファックスしてからちょっと寝て、それで13時にスタジオに行くんです。歌入れに合わせて直しができるように。

――書いた詞を直したいってなる場合はどういう時なんでしょう?
及川 "あれ、ちょっと違うかな"って思うと、水橋さんも同じところで引っかかってたりするんですよね。ある時、歌詞を書いていって、仮歌の人がいざ歌い始めると"あれ?"ってなったことがあるんですけど、水橋さんも"あれ?"ってなってるんです。それで思わず私が"ごめん"って言ったら、"うん、珍しいね"って。それで"明日もスタジオ押さえといて"ってことになって、私は明日までに書き直す。だから"違う"っていうのが感覚的にわかるっていうのはあるんだと思います。でもこの時は、書き直した詞でまた仮歌を入れるんだけど、やっぱり"あれ?"ってなっちゃって。その時に水橋さんがポロっと"仮歌の人がWinkと合わないんだ......"って言ったんです。当時Winkの仮歌はほとんど広谷順子さんだったんですが、彼女は"Winkの歌い方"に合わせて歌ってくれる。だから仮歌の段階で調整ができるんです。仮歌って大事なんだなぁと実感しました。

――まさに見ているものが一緒だったってことですね。
及川 Winkの作詞でひとつ言えるのは、メロディを歌詞に馴染ませていく中で、部分的に突出したもの、それは違和感だったりもそうなんですけど、そういうものを当て込んでいくっていう作り方をしていました。翔子と早智子がふたりで歌うと、混じる言葉なのか浮き上がる言葉なのか、そういう計算は私の中でやっていますね。

――門倉さんがおっしゃってたんですが、水橋さんが"フラフラ"とか"ユラユラ"っていう言葉がお好きだったとか?
及川 それは私のクセでもあるんですけど、水橋さんも"フラフラ"とか"くるくる"とか"キラキラ"とか、人にものを説明する時にそういう表現をよくするんですよ。「淋しい熱帯魚」の時は"くるくるさせて"って言われましたからね。"くるくるかいっ!"と思いながら"わかりました"っていうやりとりを。それはあとになってフジパシフィックのディレクターさんに"なんであれでわかるの?"って言われたんで、よく覚えてます。水橋さんは周りに"及川眠子は1を聞いて10を書いてくる"って言ってたらしいんですね。そう思ってもらえてたってことは、感覚的なものが似てたんでしょうね。


Winkっていうプロジェクトの中心に水橋さんがいて、水橋さんひとりが天才。
それを取り囲む人はみんな天才じゃなくて優秀な職人だった。

――本来の意味での詞の書き直しはあまりなかったということですね。
及川 そうですね。詞の内容についてはあんまり言われたことはないと思います。"ツンドラ"とか"夏がいいんじゃない?"とかくらい。むしろあまりに何も言われないから、水橋さんは詞のことがわかんない人なんだとずっと思ってました。でもあとあと、水橋春夫グループをお手伝いするようになって、彼が詞についてすごく理解が深いってことを知って。そう思うと、信頼してくれてたんだなぁって。

――なるほど。話に出た「淋しい熱帯魚」と同時期に制作された「永遠のレディードール」が、今回のリマスター盤リリースの第3弾に含まれる10thアルバム『Αφροδιτη』(アプロデーテ)に収録されています。そもそもこの曲は17枚目のシングルとして世に出たわけですが。
及川 「淋しい熱帯魚」とどちらをシングルにするかで「淋しい熱帯魚」が選ばれて、いわばお蔵入りしていた曲ですね。これ、さっきの"くるくる"が歌詞に出てくるでしょ。だから同じタイミングで発注されたものなんですよ。「淋しい熱帯魚」になった理由は、レコード大賞を狙いたいっていうのもあっただろうし(※)、「淋しい熱帯魚」の方がはるかにタイトルがいいので。でもWinkのふたりは「永遠のレディードール」がすごく気に入っててね。この曲はメロディも歌詞も大人っぽいから、ふたりが大人になったこのタイミングまで置いてたんじゃないですかね。

――眠子さんはその10thアルバム収録の「幻が叫んでる」を最後にいったんWinkを離れ、結果的にラスト・アルバムになった14th『Flyin' High』で復帰されています。この時はどのような流れだったのでしょうか?
及川 実際は水橋さんが偉くなっちゃってて、現場の仕切りは別の若い人になってたんだけど、私への連絡は水橋さんからでした。"もっかいやってくんない?"っていう感じで。その中の「恋の受難にようこそ」は及川・尾関・船山っていう「淋しい熱帯魚」チームで、その時に"もう一度、熱帯魚っぽいのを"っていう話をされたんだけど、もう違うでしょと。時代が変わってたし、焼き直しを今やっても売れないなっていうのがあったんで。ブランクとしては2年くらい空いたのかな、それでカバー曲も含めて4曲書いてるんですけど、私の中ではどこかしっくりいかなかったんです。呼び戻してもらったけど、もう気が済んじゃってるんですよね、こういう時って。

――眠子さんは「ニュー・ムーンに逢いましょう」で一度集大成的なものを書いて、その後は情念を掘り下げるような方向性にシフトしていったとおっしゃっていますが、この部分、詳しく教えていただけますか?
及川 要はいかに飽きさせないかなんですよ。「淋しい熱帯魚」のあと、「One Night In Heaven」の作詞は松本隆さんなんですね。そこでその時は"なんで松本さんなの?"っていう意見があったのと、私も"あれ? 私じゃないの?"って思ったんだけど、松本さんが書いてくれたことで、ブレイク後のWinkをまず最初に集大成してくれたんです。キラキラした感じっていうのかな、"都会(まち)はシャンデリア"は私には書けないですよ。だから私は「One Night In Heaven」があることで、以降Winkの世界観を壊していくことができた。「ニュー・ムーンに逢いましょう」はその、壊しながらふくらませてた時期のひとつの区切りで、そのあとは心の方をもっと掘り下げていくようになるんです。

――それにはなにか理由があったんですか?
及川 ずっと同じことやっててもつまんないと私が思ったからでしょうね。そうやって手を変え品を変え......楽曲もそうでしたよね。

――そうですね。いろんな要素を取り込みながらシングルごとにカラーが変わっていた印象です。
及川 でもね、「追憶のヒロイン」くらいからは私はもう引いた方がいいかなとは思うようになってました。「降ろさせて」って周囲に言ってたのはそのあたり。

――作詞家のかたって、最初にそのタイミングに気づくというか、そういう引き際に敏感な印象があります。
及川 一流の人ほどそうだと思いますよ。二流は書き続けます(笑)。これ以上やっても自分がみっともないって思うし、同じアーティストで新しいものを求めて裏切り続けるのはやっぱり限界があるんです。それでも周りから"あと少しあと少し"って言われながら書いてた私は一流じゃないですね(笑)。

――Winkが売れている中で、当然最初よりもWinkのおふたりのキャラというかアイデンティティーが世に浸透していきましたよね。そういったふたりのキャラが眠子さんのペンを走らせた部分はあったのでしょうか?
及川 Winkの制作って分業制で、当時はスタジオで門倉さんに会っても「こんちわ~」くらいで、五十嵐薫子(振付師。現・香瑠鼓)さんにしても、源香代子(スタイリスト)さんにしても、みんなそれぞれが忙しいし、自分のやるべきことに取り組んでたから、触発されるのはそういう体制みたいなところからだったと思います。そのね、門倉さんにしても、薫子さんにしても、源さんにしても、みんな共通しているのは聞く耳を持つ人、とにかく話を聞く人なんですよ。Winkっていうプロジェクトの中心に水橋さんがいて、水橋さんひとりが天才で、それを取り囲む人はみんな天才じゃなくて優秀な職人。だからその職人さんたちが水橋さんのやりたいことを聞いてあげて、それで作り上げたものを表現するのがWinkだったの。そういうプロジェクトだったから、Winkというものにみんな思いが強いんですよ。

――眠子さんは、流行り廃りに敏感であれ、ともおっしゃっていますが、80年代末から90年代前半というのはどういう時代だったと思われますか?
及川 当時は強い女性が台頭してきた時代だったんですよね。渡辺美里とかアン・ルイス、中村あゆみ、プリプリとか、そういった人たちが売れている時代。だからWinkには逆をやらせたんです。"待ってる"とか"我慢してる"っていうような、すごくネガティヴな感じにね。だって強い女ばっかりじゃないし、強い女が好きな男ばっかりじゃないでしょ。Winkふたりのルックスも男のサドっ気を誘う感じだから、徹底的にそっちに行かせたんですよ。だから3枚目が「淋しい熱帯魚」じゃなく「咲き誇れ愛しさよ」だったらきっと売れてないですよ。


私はふたりが元気でまた歌ってくれたってだけで嬉しかった。
当時みたいに声も出ないし、元気に踊ったりもできないだろうけど、それでいいのよ。

――作詞家デビューから3年でWinkと出会って、それからはかなり忙しくなったと思うのですが、今思い返すとどういう心境なのでしょう?
及川 忙しかったけど、忙しくて息もできないっていう感じではなかったですよ。むしろ歳を取るとやることが増えるでしょ。病院行ったりとか、身体のどこが痛いとか(笑)、あとは私たちの世代だと親の介護とかね、そういういろんな用事が増えるから、そう考えると当時と忙しさは今も変わらない。今のはほとんど雑用なんだけどね(笑)。

――Winkの時代って、レコード盤からCDへ、あと歌謡曲からJ-POPへの移り変わりの時期をまたいでいるわけですけど、作り手側としてはそういったものをどういう風に見ていたのでしょう?
及川 作詞という意味でいうと変わらないのかな。むしろね、Winkのちょっと前の時期になると思うんだけど、個人でファックスやワープロを持てるようになる頃なのね。それによって便利になった時代っていう印象はあります。ただ、今の時代はmp3をメールでポンと送って終わり。ここまできちゃうと、もう人と会わないで詞が書けちゃうでしょ。でもそれって実は遠回りしてることが多いのね。現場に行かないとわからないことっていっぱいあるんです。現場に行くと一発で解決するようなことは今でも多いし、相手に会えば何を求めているかが感じ取れるから、そういう意味では人同士のつながりがちょっと希薄になっちゃったなって思います。

――ちなみになのですが、詞を書かれる時、眠子さんは横書きと縦書きどちらのイメージで書かれているんですか?
及川 横書きです。私たちの時代は英語を使うからね。

――なるほど、サビ頭に英語がくる時代と本に書かれていましたね。
及川 そうなの。だから縦書きだとうまくいかない。昔ながらの作詞家は原稿用紙っていうこともあるんでしょうけど。私は横書きに慣れちゃってるので、手書きの時も横書き。しかも私は"かな入力"です。

――えっ!
及川 だから私がパソコンで文字を入力してるとすごくびっくりされます。

――きっと意味があるんですよね。
及川 私の頭の中で言葉が"ひらがな"で出てくるから。例えば"あなたは私が嫌いなの?"っていう詞が出てきた時に、"あ・な・た・は~"って入力したいんです。"A・N・A・T・A・H・A~"だとちょっと意味が変わってくるというか。これは私のパソコンを触ったことがある人しか知りません(笑)。

――なるほど(笑)。ありがとうございました。では最後に、今後のWinkの展開に期待することは何かありますか?
及川 ツイッターでも書いたんだけど、いろんなことを言う人もいるだろうけど、私はふたりが元気でまた歌ってくれたってだけで嬉しかった。当時みたいに声も出ないし、元気に踊ったりもできないだろうけど、それでいいのよ。ほんとそれだけ。

(※)カバー曲の場合、レコード大賞候補曲から外されるため。


[総評]
Winkの後期は、それまでのサウンドイメージから脱却するための変革と変貌の時期とも言える。フォークロック、リヴァプールサウンド、そしてハイパーユーロ。紆余曲折の中で終焉を迎えてしまったその歴史を、今回、及川眠子さんの証言とともに振り返ることができた。この時期のWink作品を聴いていないという人も多いかもしれないが、今回のオリジナル・リマスターを機にぜひ聴いてみてはいかがだろう。

及川眠子(おいかわ・ねこ)プロフィール
及川眠子.jpg1960年生まれ、和歌山県出身。和田加奈子「パッシング・スルー」で作詞家デビュー。Winkでは「愛が止まらない」、「淋しい熱帯魚」をはじめ多くの楽曲で作詞・日本語詞を担当。他には、やしきたかじん「東京」、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』主題歌「残酷な天使のテーゼ」、「魂のフルラン」、CoCo「はんぶん不思議」などヒット曲多数。今年7月には書籍『ネコの手も貸したい 及川眠子流作詞術』(リットーミュージック)を上梓している。

第2回 門倉 聡

アルバム15タイトルがオリジナル・リマスター盤でリリースされることを記念した特別コンテンツ。
Winkサウンドを作ったキーマンにリマスター音源を聴いてもらい、さらに当時のお話までうかがってしまおうという企画の第2弾!
今回お迎えするのは、シングルでは「Sexy Music」から、アルバムとしては『Velvet』以降、長きにわたってWinkサウンドを牽引した門倉聡さんです。まさに絶頂期、円熟期を支えた門倉氏に、当時の制作現場について話を聞いた。

インタビュー&文:田渕浩久(DU BOOKS


「背徳のシナリオ」はアクがあるメロディをうまく聴かせるために
わりと強烈なエッセンスを入れ込んだことで成功した好例だと思います。

――門倉さんがWinkの作品を手がけるようになるのは「Sexy Music」が最初ということで合ってますか?

門倉 そうですね。船山先生がやっていた頃は、カバー曲でいうとオリジナルのサウンドをよりかっこよくっていう感じでやってたと思うんですが、水橋さんが僕に「Sexy Music」のカバーのお話を持ってきてくださった時は、オリジナルのサウンドとはガラッと変えてほしいってお願いされました。それでオリジナルよりもファンキーな感じでアレンジしたんですけど、おそらくそれを水橋さんが気に入ってくれたんですよね。なのでおそらく、Winkの音楽性をちょっと変えようと考えているタイミングで僕に声をかけてくれたのかなって思いますね。

――具体的にはどういう発注があったんでしょう?
門倉 カバー曲でいうとまず原曲がありますよね。それに対して例えば"カドちゃんこれ「カム・トゥゲザー」にして"みたいな発注なんですよ(笑)。"「カム・トゥゲザー」にはなんないですよ~"って返すんですけど、そこにアイデアをつぎ込んで、「カム・トゥゲザー」のスタイルにはめ込むことによって違う音楽になりますよね。そういうのを水橋さんはやりたかったんだと思います。オシャレな中にロックテイストが入っているっていうのがお好きでしたね。

――いわば初期Winkからの脱却というか。
門倉 そうだと思います。船山先生のおかげでWinkが売れて、その後は水橋さんがやりたい音楽性に徐々にシフトしていく中で、僕は工場のように......ほんとに当時は一年中アルバム作ってて、365日中350日くらいスタジオにいましたからね。僕は水橋さん関連以外にサザンもやってましたし。だから今回音源を聴き直す機会をいただいて、"こんなことやってたんだ"っていう新鮮な驚きもたくさんありました。さっきの「カム・トゥゲザー」の話じゃないですけど、他のところから持ってくるっていうのでは、例えば「背徳のシナリオ」なんかはロシア民謡の話からああいうアレンジになったんですよ。

――「背徳のシナリオ」は私も大好きなアレンジです。
門倉 「背徳のシナリオ」はメロディ単体は下品とは言わないですけど、わりとアクがあるメロディですよね。水橋さんは基本下品なのは嫌いなので、そこをうまく聴かせるためにわりと強烈なエッセンスとしてロシア民謡を入れ込んだことで成功した好例だと思います。当時、布袋(寅泰)くんともよく一緒に仕事してたんですけど、"あのアレンジ最高だよ"って言ってもらった覚えがあります。

――Winkのアレンジって、ある意味振り切ってる感ありますよね。
門倉 それはもう99%が水橋さんの意向ですね。振り切ることでダサくならないっていう。「ニュー・ムーンに逢いましょう」はケチャだしね。

――「ニュー・ムーンに逢いましょう」は門倉さんの作編曲でもあります。
門倉 そう、この時はシングル候補にいい曲が上がってこなくて、その場で水橋さんにお願いされて書いた曲です。これ言うと水橋さん怒るかもですけど、"「ゴーイン・バック・トゥ・チャイナ」の転調で曲書いて"って言われたんですよ。実は同じ発注で誰かに作曲の依頼をしてたらしいんですけど、いいのが上がってこなくて僕が書くことになって。このケチャはオペレーターだった菅原(弘明)くんが入れてくれました。これは菅原くんが教授(坂本龍一)のアルバムでやったネタです(笑)。

――作編曲でいうと「追憶のヒロイン」もそうですよね。
門倉 あの曲はね、水橋さんのリクエストで『ウエスト・サイド・ストーリー』の「アメリカ」をやりたいって言われて盛り込んだんですよ。その場で作ってその場でレコーディングしました。

――サビ終わりのところですね。
門倉 そう、水橋さんはほんとに発想がブッ飛んでて、突然どこから出てきたのか、「アメリカ」って言い出すんです(笑)。"「アメリカ」って『ウエスト・サイド・ストーリー』のですか?"みたいな。だからアイデアマンなんですよね。


Winkはそのビジュアルも、そしてサウンド的にも
誰もフォローできなかった独特のものなのかなと思います。

――今回のオリジナル・リマスター盤を聴いた印象はいかがですか?

門倉 うまくいってるなと思いました。発売当時のものと両方をハードディスクに入れて聴き比べてみたんですけど、はるかに音が良くなったと思いますよ。タイミングとしては、『Sapphire』からエンジニアが変わってるんですよ。ここを境に音がガラッと変わるんで、そういうのも思い出させてもらいました。

――当時のサウンド自体にはどういう印象を持ちましたか?

門倉 10M(ヤマハのスピーカーNS-10M。通称:テンエム)の音だなぁって思いました。

――10Mをモニター・スピーカーとして詰めていった音ということでしょうか?

門倉 そうです。低域、中高域の感じはまさに10Mで、今はもう10M使ってるスタジオってほとんどないですよね。だからなおさら"当時の音だなぁ"って思いますね。

――8月発売のリマスター5枚は、3年弱という短期間の間にリリースされたものです。その間の機材の進化は感じましたか?

門倉 シンセの部分はオペレーターに任せてたんですけど、僕とずっと一緒にやってたオペレーターはさっき話した菅原くんと、あとは木本(靖夫)くんかな。彼らは仕事だから新しい機材をどんどん買うじゃないですか。そういう意味ではサウンドも日々進化してたと思います。PC-98のカモンミュージック(レコンポーザ/MIDシーケンス・ソフト)、あと大きな節目としてはMacintoshとPerformerの組み合わせですよね。当時のマックは70万くらいしましたけど、マックも今と比べるとはるかに不安定で、MIDI信号を出すにも専用のポートなんてないですし、USBみたいなのももちろんないですからね、とにかく不安定この上なくて。それでね、他のセッションの時ですけど、Performerでオペレーターがクリック出しをしてると、パーカッションの浜口茂外也さんが"クリックずれてるよ"って言うんですよ。僕が聴いてもよくわかんないんだけど(笑)、完璧なタイム感を持つ人からすればクリックのタイミングさえ揺れてると。

――なるほど。門倉さんが手がけていた時期でも初期はやむなくビートが揺れているということですね。

門倉 そう。でもその揺れがビートを決めてたとも言えるんです。それってその日の電圧にもよるし、スタジオにもよるし、"どうもこのスタジオでやると失敗するな"とか、そういう状態です(笑)。そんな中で基本となるビートを作り出しているのはあくまでコンピュータですから、今考えると機材の進化はすごく出てると思いますね。そう、AKAIのMPC(サンプラー/シーケンサー)も独特のグルーヴがあるので、わざわざ買った記憶がありますしね。Performerで作ったスタンダードMIDIファイルをMPCに送り込んで鳴らすだけでグルーヴが変わるんですよ。その後はシーケンサーとマック自体の進化によってどんどん変わって、Logicの出現で劇的に良くなったっていう感じでしょうか。

――当時、テレコ(レコーダー)は何を使っていたんでしょう?

門倉 Winkはデビューの時からずっとヨンパチ(SONY PCM-3348)だと思います。僕がやってた時期もずっとヨンパチでした。そうそう当時別のセッションでですけど、まず1コーラス作ったら、もう1台テレコを持ってきてその1コーラスをもとに片方で再生しながらもう片方でまずツーハーフ(一般的なポップスの構成=2コーラス+サビのこと)を作っちゃって、次の日それを聴きながらアレンジや構成を詰めていってましたね。考えてみればそれって今のDAWで作るようなやり方をテープでやっていたってことですよね。

――今だとコピペで一瞬の作業ですが、当時の現場でもその発想があったんですね。
門倉 歌直しも今は一瞬ですけど、当時はハーモナイザー使ってやってましたよ。当時のハーモナイザーはどうしても遅れるので、いったんアナログに落として、その遅れる分を計算して前倒しで録り直すんです。今では想像できないかもですけど、当時のエンジニアはとんでもなく仕事が多岐にわたってましたね(笑)。

――当時の印象に残っている出来事は何でしょう?
門倉 当時はスタジオに向かう電車の中で毎日アレンジを考えてました。前日帰るのは夜中の3時とかなんで、家で考える時間がないんですよ(笑)。あと覚えてるのは、「夜にはぐれて」のカップリング曲だった「想い出までそばにいて ~Welcome To The Edge~」はもともとビリー・ヒューズのカバーだったんですけど、水橋さんが"サビが気に入らないからメロ変えちゃって"ってことで変えたんですね、その時点でむちゃくちゃですけど(笑)、メロを変えたバージョンのアレンジをビリー本人が気に入っちゃってWinkのオケでセルフカバーするんです。で、それがドラマの主題歌(※)になって大ヒットしてしまうということがありました(笑)。

――『Nocturne』以降、門倉さんの出番がちょっとずつ減っていきますが、この理由をうかがっても良いですか?

門倉 はい、そんなペースで仕事してたんで案の定身体を壊しまして、それで仕事のペースを落としたんですよ。なので仕事をガンガン受けるのもやめて。

――なるほどそういうことだったんですね。では最後に、Winkのデビューから30年の今年、あらためて思うことをお聞かせください。

門倉 今の若い人たちってCDはなかなか買わないと思うんですけど、今のアイドルを作ってる人たちがけっこう好きでいてくれたり、面白がってパクってくれる人たちがいたりして、そういう面白さはあるんじゃないですかね。なので若い人たちはぜひ配信で聴いてほしいし、ハイレゾを聴いている人が聴くと面白がってもらえるかもしれないです。Winkの世界観はWinkの前にもなかったものだし、そのあとにもないんですよね。例えば山口百恵なら中森明菜、今ならそこに平手友梨奈(欅坂46)がいるように、フォローしていく人がいるはずなんですけど、Winkはそのビジュアルも、そしてサウンド的にも誰もフォローできなかった独特のものなのかなって思うんで。

――なるほど。

門倉 あとはあらためて、水橋さんがカバー用に提示してきた曲のすごさというかセンスですよね。時代もジャンルもバラバラなんですけど、とにかく水橋さんがピンときたもの、それが当時の日本のポップスにはなかったもので、結果それが次の時代、J-POP時代につながっている。僕以外にもオペレーターやエンジニア、仮歌、コーラス、ギター......今思うと日本を代表する人たちばっかりですけど、そういう人たちみんなが水橋さんの号令のもと、特殊な形態で日々インダストリアル(工業的)に作っていたのが実はWinkだったんだなって思います。

(※)91年に放送されたフジテレビ系ドラマ『もう誰も愛さない』の主題歌。今回は『Crescent』のボーナストラックとして収録。


[総評]
初期Winkのバキバキしたユーロサウンドから、後期に向かって多様なエッセンスを盛り込みながら音楽性を広げていくこの時代のWinkサウンドはもっと評価されるべきもの。その大部分を担った門倉聡の仕事ぶりも然りである。まさに水橋春夫=及川眠子=門倉聡という制作トライアングルこそWink中期の完成形。現代リマスタリングによってよみがえるそのサウンドにぜひ触れてみていただきたい。

追記
Winkのプロデューサーであり、元ジャックスのギタリストでもあった水橋春夫さんのご冥福をお祈りいたします。なおこのインタビューは7月25日に行われました。

門倉より
水橋春夫グループ3枚目のレコーディング最中、突然水橋さんは逝ってしまわれました。毎週水・木曜、ほぼ一年以上、うちのスタジオに来られて、ギターをいじりなから大好きな大リーグとボクシングと映画の話をされていて、なんにも進まない日もありましたけど、水橋さんのアーティストとしての才能を改めて感じていました。
今日にも「カドちゃーん」っていう声が聞こえてうちの玄関に入ってきそうな気がします。本当に本当に残念です。
ご冥福をお祈りします。


門倉聡(かどくら・さとし)プロフィール
門倉さん2.png1959年生まれ、神奈川県出身。東京芸術大学音楽学部作曲科卒業。大貫妙子、槇原敬之、サザンオールスターズ、布袋寅泰など多くのアーティストを手がける。Winkの他に手がけた曲は、森口博子「ETERNAL WIND ~ほほえみは光る風の中~」、工藤静香「メタモルフォーゼ」、サザンオールスターズ「さよならベイビー」「女神達への情歌 (報道されないY型の彼方へ)」、SMAP「世界にひとつだけの花(シングル・ヴァージョン)」(ストリングス・アレンジ)他多数。水橋春夫グループのプロデュースも手がけている。

第1回 船山基紀

アルバム15タイトルがオリジナル・リマスター盤でリリースされることを記念した特別コンテンツ。
Winkサウンドを作ったキーマンにリマスター音源を聴いてもらい、さらに当時のお話までうかがってしまおうという企画を全3回にわたってお送りします。
突撃してくれるのは書籍『ニッポンの編曲家』等の編著を手がけているDU BOOKS(ディスクユニオン)の田渕浩久さんです!

第1回となる今回お迎えするのは、3rdシングル「愛がとまらない~Turn it into love~」から、
4thアルバム『Twin Memories』までメイン・アレンジャーとして君臨した船山基紀さん。
フェアライトをいち早く導入し、ジャパニーズ・ユーロビートを牽引した巨匠にリマスター音源のこと、当時の制作秘話について聞く。


インタビュー&文:田渕浩久(DU BOOKS)


制作する時に目指してた音がようやく目の前に来たっていう感覚だね。
30年経って、そんな時代になったんだっていう。

――今回Winkがデビュー30周年で全アルバムがリマスターされることになりまして、まずその第1弾として最初の5作、『Moonlight Serenade』から『Velvet』が7月11日に発売されます。先んじて船山さんに、今回新たにリマスターされた音源を聴いていただいたわけですが、いかがでしたか?

船山 当時は日々仕事に追われてたんで、レコードやCDで完成盤をいただいても聴くことはほとんどなかったんですよ。だから当時の音源との比較っていう意味では無責任なことは言えないんだけど。

――そもそも音楽家の方々は、音質よりも音楽を聴いていらっしゃるので音質はあまり気にしないという方が多いですよね。

船山 そう。僕もまさにそういうタイプなんだけど、当時、CDにフォーマットが移行していく中で、スタジオでモニターした音がCDになるとどうしてもこぢんまりしてしまうっていう感覚はあって、でもどうやらレコードがなくなって完全にCDだけの時代がきそうだっていう、まさにその時代ですよね、僕がWinkをやってたのは。でもひとつ言えるのは、レコーディングしてるスタジオではもちろん音にこだわってるんで、音質が向上した=当時レコーディング・スタジオで出していた、聴いていた音に近いっていうことで間違いないと思いますよ。

――現在のリマスタリング事情、ハイレゾあるいはmp3の氾濫等々について、船山さんはどういう考えをお持ちですか?

船山 CDが出始めた頃っていうのは、イコライザーのメーターが赤いゾーンにかかるだけでNGだったんで、どうしても音量・音圧を下げるしかなかったと思うんだけど、最近のCDって音量も音圧も上がって、むしろ上がったところで貼り付いてるって感じかなぁ。うるさいわけじゃないんだけど、耳をそばだてる必要がないというか。制作する時に目指してた音がようやく目の前に来たっていう感覚ですね。30年経って、そんな時代になったんだっていう......それがWinkの音でっていうのは嬉しいよね。オーディオ評論家じゃないからなんて言えばいいかわからないけど、当時ワクワクしていた音が30年を経てよみがえったというか。

――船山さんがアレンジを構築される際、そのサウンドの音像は左右ステレオの2チャンネルに対して、どう広がっているのでしょうか。

船山 サラウンドに近いんだけど、基本となる左右のLRがあるでしょ。その左右の前方奥にまた左右、それとセンターの距離感として前方と自分の頭のあたりの6つくらいは普遍的にずっとあります。リヴァーブのかけ方もその中のイメージでかけるし、ピアノを少し奥にとか、歌をもっと手前にとかっていうのもそういう中で考えてますね。


Winkのサウンドは実機のシンセが出すノイズやピッチの不安定さ、
そういうのもサウンドの一部になってます。

――プロデューサーの水橋さんとのやりとりはどんな感じだったんですか?

船山 水橋さんっていい意味でユル~イ方でね、打ち合わせにもレコーディングの現場にも顔は出すんだけど、指示が感覚的で、いわゆる天才肌。最初にやった「愛が止まらない」はカバーだったんで、原曲のサウンド+αのイメージですよね。これは僕の方法論に基づいてサウンドを作ったんですが、ヒットしてくれたのでその流れでやらせてもらったという感じかな。水橋さんは典型的なミュージシャン気質で、言ってしまえば最後の、絵に書いたような業界ディレクターでした。

――当時の制作の思い出はと聞かれると?

船山 一緒にやっていたシンセ・プログラマーの助川宏くんのアシスタントの人たちが、PWL、ストック・エイトキン・ウォーターマン(イギリスのプロデューサーチーム)の情報を必死で集めてましたね。苦労したのがスネアとシンセベースの音。なんの機材を使ってるのかぜんぜんわからなくてね、その後(ヤマハの)DX-7と(オーバーハイムの)OB-8に落ち着くんだけど、どこか違うなぁって。あとブラスの音、(「涙をみせないで」のイントロを口ずさむ)この音はフェアライトと他の何かの音を混ぜてるんだろうなとかね。

――まずは完コピを目指すんですね?

船山 そう。曲が決まった段階でまずは原曲の分析をして、ベースの動きからノイズの位置まで頭に入れて、オケを組み立ててましたね。だからスタジオではスタートから数時間はみんな、静まり返った中でMC-4(ローランドのプログラマブル・シーケンサー)のテンキーをカチャカチャ打ってるだけ(笑)。13時からスタジオが始まったとして、18時くらいからですね、実際に音を出し始めるのは。その上で、原曲を超えられるようにいろいろ施していく。僕らは後出しなので有利だし、いろんなことができたっていうのはあるでしょうね。あとひとつ、日本語の歌詞が乗るので、原曲のままのスカスカなオケだとあんまりフィットしないんですよ。だからリヴァーブを強めにしたり、音を厚くしたりしてね。原曲に勝った!って思えるまでガチャガチャとやってましたよ。それで骨組みができたら上モノを弾いてもらうためにキーボードで山田秀俊、富樫春生、難波弘之、あとは矢嶋マキっていうこともあったかな、弾いてもらって。最後にギターで今剛が夜9時くらいに来るっていう感じでしたね。

――まさに今回の発売される『Twin Memories』から『Velvet』の間に、船山さんから門倉聡さんにWinkサウンドのバトンが渡された構図ですが、その後のWinkサウンドをどう見ていましたか?

船山 僕らがやってた時よりスマートに作業してる印象はあるかなぁ。僕らは泥臭くやってましたからね。DX-7を3台同時に鳴らしてみたり、OB-8を4台鳴らしてみたりとか、もう"これでもか!"っていう感じで。そうすると部屋に熱がこもっちゃって、汗ダラダラ流しながらやってたからね。MIDIケーブルにまみれながら(笑)。

――今回のリマスター、当時オリジナル盤で聴いていた人ももちろんですが、若い人にも聴いてもらいたいですよね。

船山 ほんとそう思う。日本のポップスは1960年代以降から、それこそ乃木坂46まで、音符的にはなんら変わってないんですよ。その見せ方がサウンドの違いであって、Winkの頃はシンセやフェアライトによってそれをやっていたっていうだけでね。昔ながらの楽器の音ではないサウンドでいろいろやった最初の時代なのかな。むしろ今はそれがパソコンのソフトとして簡単に、しかも安く手に入るから大変だと思うよ。音色のプリセットが何千とかあるでしょ。だから膨大にある情報をうまく制御して使えた人が勝ち、みたいなところはあるかもね。音楽というより情報、ITを制したものが勝っちゃう世界。でもソフトシンセは優秀すぎるから、ある意味で無機質なの。Winkのサウンドは実機のシンセが出すノイズやピッチの不安定さ、そういうのもサウンドの一部になってるから、若い人が聴くと新鮮に感じるかもしれないよ。かといって今、昔の機材使って同じようにやれって言われてもやりたくないけど。なにせ大変だったから(笑)。


[総評]
30周年を記念した今回のリマスター盤は、オリジナルのマスターテープからリマスタリングが行われた、デジタル・リマスターならぬオリジナル・リマスター盤である。ソースとなるのは30年前のテープ。劣化やハイ落ちの恐れがある中でのデジタル化作業だったことは想像できるが、いわゆるCDスペック(16bit/44.1kHz)で視聴しても、オケはより強靭でしなやかになり、ふたりのボーカルが"一歩近くにきた"印象である。劇的な、奇をてらうような手直しはもちろんされておらず、あくまでナチュラルなグレードアップといったところか。船山基紀によるフェアライト・サウンドの円熟期と言えるこの時代。当時の空気感まで感じさせるWinkブレイク期のエッジーなサウンド群に今一度触れてみていただきたい。


船山基紀(ふなやま・もとき)プロフィール

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東京都出身。早稲田大学在学中から、先輩が勤務していたヤマハ音楽振興会に出入りするようになり、独学で編曲法を習得。デビュー作は1975年の中島みゆき「アザミ嬢のララバイ」。77年には沢田研二の「勝手にしやがれ」でレコード大賞&編曲賞を受賞。フェアライトをいち早く導入したことでも知られ、1980年代後半にはWinkや森川由加里らのジャパニーズ・ユーロビートのムーブメントを牽引した。近年はTOKIOの「AMBITIOUS JAPAN!」やKinKi Kids「薔薇と太陽」などを手がけている。また先日まで放送されていたドラマ『花のち晴れ~花男 Next Season~』の主題歌King & Princeの「シンデレラガール」も船山によるアレンジである。

[船山基紀が編曲を手がけた代表曲]
五輪真弓「恋人よ」、渡辺真知子「迷い道」「かもめが翔んだ日」、田原俊彦「ハッとして! Good」「NINJIN娘」、稲垣潤一「ドラマティック・レイン」、C-C-B「Romanticが止まらない」「Lucky Chanceをもう一度」、小泉今日子「迷宮のアンドローラ」、中山美穂「派手!!!」「WAKU WAKU させて」、少年隊「仮面舞踏会」「ABC」、Wink「愛が止まらない~Turn It Into Love~」「淋しい熱帯魚」、TOKIO「AMBITIOUS JAPAN!」「宙船」、KinKi Kids「ジェットコースター・ロマンス」「薔薇と太陽」、King & Prince「シンデレラガール」他