民謡歌手吉田安敬さん(39)は、父親の故・吉田安盛さんの後を継ぎ、母の盛和子さんとともにラジオ沖縄の「暁でーびる」パーソナリティーを務め人気だ。著名な両親の下で育ったが、子ども時代は「恥ずかしさから」、民謡好きを封印。中学卒業後に民謡を志したが止められた。それでも民謡の道に進み、三線や歌、言葉を習得した。究めるほどに深まる民謡の世界に夢中だ。「民謡は歴史を歌い継いできた。ウチナーを守るためには民謡を守らないと」と力を込める。(特報・謝花直美)

「暁でーびる」は生放送。「放送のために4時半に家を出る。最初は寝るのも怖かった」と笑う吉田安敬さん=豊見城市田頭

吉田安敬さん(左)がお笑いを取り入れて仲間と活動する「シーメンズ」(吉田さん提供)

「暁でーびる」は生放送。「放送のために4時半に家を出る。最初は寝るのも怖かった」と笑う吉田安敬さん=豊見城市田頭 吉田安敬さん(左)がお笑いを取り入れて仲間と活動する「シーメンズ」(吉田さん提供)

 小学3年の時、学校で聞かれた将来の夢は「吉田、盛の後継ぎ」。生まれた時から民謡が身近だった安敬さんには自然のことだった。当時太鼓グループの一員だったが、同級生には秘密。「年寄りくさいと思われないか、恥ずかしかった」と苦笑いする。

 本格的に民謡を志したのは中学時代。「卒業後、一日でも早く芸の道に入ろうと思った」。浮沈のある業界を知る安盛さんは「高校まで頑張れ」と押しとどめた。しかし、安敬さんはあきらめずに、高校終了後、晴れて民謡の道に進んだ。

 「当初は三線も弾けなかった。できたのは『へーし』(おはやし)ぐらい」。両親は民謡界の大先輩。「皆は指導を受けたと思っているだろうが、実は自分で勉強した」。車の移動中も家でも民謡のCDをかけっぱなし。それぞれに備えた三線で音を拾い、歌い方を探り、練習した。

 民謡を歌う上で、言葉は大きな課題。「いめんしぇーびーてぃー(いらっしゃいましたか)」「がんじゅーしみそーち(お元気でしたか)」。分かる言葉が口からすんなり出るように、車中で何度も繰り返した。

 ほどなく、民謡を歌えるようになった。「英語の歌を好きで歌っている感じだった」。安敬さんは当時を振り返る。

 転機は前川朝昭さんの曲「兄弟小節(ちょーでーぐゎーぶし)」だ。「たまに友行(どぅし) 逢(いちゃ)てい ちゃし別(わか)りゆが 夜(ゆ)ぬ明(あ)きてぃ、太陽(てぃだ)ぬ上(あ)がる迄(までぃ)ん」。4番の歌詞を、安敬さんは友人同士が再会し、朝まで飲み明かそうという喜びの歌だと考えていた。

 ある時、安盛さんが曲の背景を話してくれた。作者の前川さんが、沖縄戦で生き別れになった友人と、那覇市の三越前で何十年ぶりに偶然再会した体験が元だったという。

 「沖縄戦の苦しみ。生き別れの友と会えた喜び。深い意味があると知った」。 それから、民謡に対する見方はがらりと変わった。廃藩置県や沖縄戦。民謡は沖縄の人々の思いと経験を歌い継いできた。「沖縄戦で体験者は、死ぬか生きるかの局面をくぐってきた。その生々しさを歌った歌、戦争は起こしてはいけないよという歌もある」。

 安敬さんもいつしか安盛のように若手に、歌の背景を説明するようになった。「沖縄の民謡は、歴史を歌ってきた。変えるべきではないし、変えられるものではない。ウチナーを守るためには民謡を守らないと。歌だけでなく言葉を守ることでもある」

 ファンには20代もいる。「若い子が聞きにきてくれるとうれしい。彼らと本気で切磋琢磨(せっさたくま)したい」と笑顔を見せた。民謡の魅力はその深さ。「聴き手が10人いれば、解釈もそれぞれ。それが民謡ではないかな」

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「暁でーびる」は生放送。「放送のために4時半に家を出る。最初は寝るのも怖かった」と笑う吉田安敬さん=豊見城市田頭

吉田安敬さん(左)がお笑いを取り入れて仲間と活動する「シーメンズ」(吉田さん提供)