三菱重工

三菱重工サッカー部の
系譜SPECIAL CONTENTS

VOL.4 | 2017.10.20

森 健兒Kenji MORI 環境改善の先導者

浦和レッズの前身でもある三菱重工業、その系譜をたどる連載。
第4回は、三菱重工サッカー部の環境改善に尽力し、後にJリーグ創設の功労者となった森健兒氏の元を訪ねた。

記事提供=URAWA MAGAZINE
インタビュー・文=大住良之
(Interview and text by Yoshiyuki OSUMI)

写真=兼子愼一郎
(Photo by Shin-ichiro KANEKO)

森 健兒 環境改善の先導者
三菱重工の躍進を支えた「裏方のプロ」

 1965年から1992年まで27シーズンにわたって開催された日本サッカーリーグ(JSL)。現在のJリーグとの大きな違いは、当初参加した8チームが全て企業チームだったことだ。チームはそれぞれの企業の社員だけで構成されていて、選手たちは終業後、あるいは休日にサッカーに取り組んでいた。JSLの競争の中でその在り方に一石を投じ、後のJリーグ時代につながる先進的なチーム運営で強豪にのし上がったのが三菱重工である。そしてそうした「改革」を実行するにあたって忘れることができないのが森健兒の存在だった。

 Jリーグ創設時の専務理事であり、後には日本サッカー協会の専務理事も務めた森が浦和レッズ初代監督・森孝慈の実兄であることはよく知られている。しかし2回のオリンピックで活躍して名ゲームメーカーと言われ、後に名監督となった弟とは対照的に、選手としては華々しい活躍がなかった森がどんな人であったか知る人は多くはない。森は当時のサッカー界の中では稀有な存在である「裏方のプロ」であり、その調整と実務の能力がなかったら、監督として大きな業績を残した二宮寛が主導した三菱重工の躍進も、それからずっと後のJリーグの成功もなかったと言っても過言ではない。

 「何か時代を動かす新しいことを目指す人には、柔軟な構想が必要なんです。そして目標を定めたら、周囲のことなどお構いなしにガンガン行く。しかし一方で、そうした人の構想を理解しつつ具体的な提案にまとめていく人も必要なんです。こういう人がサッカー界にはあまりいなかった。僕はそういうタイプだったんだね」

戦後の広島で育ち、高校時代に国体を制覇

 1937年8月13日生まれ。もうすぐ80歳を迎える森だが、至って健康。穏やかな表情の背後にある物事への鋭い洞察力と批判精神、そして同時に周囲の人々への深い思いやりは、今も変わらない。

 「僕の先祖は偉い坊さんなんだよ」

 20世紀後半のサッカー界を牽引してきた「森兄弟」を生んだ森家は、江戸時代に浄土真宗の僧侶だった大瀛(だいえい)の子孫だという。大瀛は親鸞以来の浄土真宗の在り方が批判にさらされたとき、江戸に出て大論戦を展開、批判派を見事に論破して親鸞の教えを守ったことで「和上」の称号が与えられている。

 父・芳麿は広島県福山市で教師となり、太平洋戦争末期には広島県庁で体育指導の仕事に従事していたが、原爆投下の数カ月前に東京に転勤していたため、被爆を逃れた。そして戦後広島に戻ると市内の何十人もの原爆孤児を引き取り、広島湾に浮かぶ似島に「社会福祉法人 少年の島 似島学園」を設立した。森兄弟もこの島で育ち、中学・高校と市内の名門私立・修道に通った。

 「私心を持たず、人のために働くことをいとわないのは、そうした先祖や父の影響かもしれないね」と、森は話す。

 修道高校1年生のときに愛媛県で開かれた第8回国民体育大会で優勝。レギュラー選手の発熱で準決勝から右ウイングとしてピッチに立った森は、山梨県の名門・韮崎高校との決勝戦で終了直前に決勝点を挙げる。そしてその感動が、慶應義塾大学、そして1960年に就職した新三菱重工(64年から三菱重工)でもサッカーを続けさせる原動力となる。

森 健兒 環境改善の先導者
コーチ兼マネジャーとして環境改善に奔走する日々

 64年の東京オリンピックにDF片山洋とMF継谷昌三の二人を日本代表に送り出し、社会人チームの強豪の一つに数えられるまでになっていた三菱重工だったが、JSL初年度の65年には14戦して4勝1分け9敗。8チーム中5位と予想外に厳しい成績に終わった。

 優勝は広島の東洋工業(現在のサンフレッチェ広島)、2位は北九州の八幡製鉄。共に練習グラウンドが会社の敷地にあり、終業後すぐにチームで練習を行うことができた。一方、東京・丸の内の本社に勤める社員、しかも営業職や事務職が多かった選手で構成された三菱重工は、ウイークデーにはチーム練習などできず、せいぜい毎朝7時半に会社に集まり、皇居一周(約5キロ)走って体力維持を図ることぐらいしかできなかった。大学サッカーで名を馳せた関西学院大や慶應義塾大卒の選手たちが集まっていても、この練習量の差を埋めることはできなかったのだ。

 JSL1年目にはMFとして8試合に出場した森だったが、2年目の66年からは選手兼任で「マネジャー」役を買って出た。

 「島田秀夫さん(後に日本サッカー協会会長)と共に1950年に会社にサッカー部をつくり、監督や部長として強烈な情熱でサッカー部を引っ張ってきた岡野良定さんが人事部部長という立場にいました。そしてその下で日本代表でもあったGKの生駒友彦さんが採用担当でした。三菱重工にはサッカーを愛する岡野さんを『神さん』と言って慕った選手がどんどん集まっていましたが、選手を採るだけで、練習場をどうするか、チームをどう運営していくかを考える人は、当時の企業にはあまりいなかったね」

 この66年には明治大学から杉山隆一、立教大学から横山謙三という2人の日本代表選手が加わることになっていた。「日本サッカーの宝」とも言うべき選手を預かるチームが、ウイークデーに練習もできないのでは、責任を果たすことができない。

 森は何よりもまず終業後に使える練習場の確保に奔走した。66年には、東京大学の御殿下グラウンドを週3回借りて、ともかくボールを使う練習ができるようになった。夜間照明などなく、隣接する東大病院の窓明かりでの練習だった。そして67年、川崎市の南武線平間駅近くにある野球部のグラウンドが夜間使えることになった。

 だが夜間照明がなければ練習はできない。練習だから150ルクスもあればいいが、業者に見積もりを依頼すると「1000万円近くかかる」と返事が来た。サッカー部長で、会社では総務部長でもあった島田に相談することにした。

 「当時、私は自家発電用のディーゼルエンジンを売っていました。それに発電機を付ける会社がちょうど同じ丸の内の丸ビルにあり、そこに頼んだら50万円でやってくれた。野球のネットに電線を這わせて電球をつけ、合計165万円で完成しました。照らし出されたのはグラウンドのほんの一部でしたが……」

 こうして、週4日、夜7時からの練習が始まった。
「しかし仕事が終わって東京駅から横須賀線に飛び乗り、川崎で南武線に乗り換えて平間まで行っての練習。埼玉から通っていた横山や落合弘は、帰ると11時過ぎになってしまいました。これでは健康に悪い。当時は、選手の健康など考える人などいなかった。会社としては、サッカー部のことは監督に任せているのだからいいだろうというスタンスでしたから」

恩人・二宮の監督業をコーチとしてサポート

 当時、三菱重工には、都市対抗で活躍する野球部の「後援会」という組織があった。社員が毎月少額を支払い、遠征費などを援助するという組織だった。森は会社の理解を得てサッカー後援会をつくった。社員は会員になると福利厚生の一環で試合を割引価格で観戦できるようになった。また、集まった会費は練習場までの交通費や「補食」費の一部となった。後援会から月10万円の援助が出るようになって、選手たちは、練習の前にパンや牛乳といった軽食を買い、帰宅ラッシュの横須賀線の中でそれを頬張って練習に向かうようになった。それだけでもコンディションは改善され、練習の成果は大きく上がった。

 そして1968年、二宮寛がサッカー部の監督に就任する。森にとっては慶應義塾大の1年先輩で、三菱重工に誘ってくれた恩人でもあった。

 「二宮さんはとにかく明るく前向きな人柄で、サッカー一筋でした。会社では原動機事業本部に在籍していて、将来の幹部候補だったはずです。しかし監督を引き受けると決めたら、もう『自分の仕事はサッカーの監督業』と割り切り、職場も厚生・勤労部に代わったんです」

 そんな二宮をサポートしなければならないと、森は考えた。そして自らコーチになることを申し出た。といっても、実際には「裏方」として、チームの環境整備をさらに進める仕事に専念するつもりだった。

 まずは選手たちが職場にいるのは12時までとした。「アマチュアスポーツ」からは程遠くなってしまったかもしれない。しかし、1968年にメキシコオリンピックで銅メダルを獲得した日本のサッカー界のトップチームには、そうした環境が必要だった。そして1969年、三菱重工は東洋工業の5連覇を阻止し、JSLで初優勝を飾る。

森 健兒 環境改善の先導者
クラブはあくまで地域のもの。それを忘れずに発展してほしい

 「選手のプレー環境だけを考えれば、1970年代の前半にプロ化されても十分できたと思いますよ」

 森はそんな大胆なことも話す。しかしサッカーは選手と監督だけでできるものではない。JSLに参加していた企業間でも、「環境改善」への道程には大きな違いがあった。何よりも、チームやリーグを運営する「裏方のプロ」がほとんどいなかった。1974年に三菱重工サッカー部から身を引いた森はJSL運営の活性化に注力し、チームを超えて「裏方のプロ」を育てることに邁進する。そして1993年のJリーグ誕生にも貢献を果たした。

 現在のJリーグや浦和レッズについて、森はどんなことを考えているのだろうか。

 「地域に根差したクラブをつくるという点で、Jリーグは日本のスポーツ界に革新的な貢献をしたと思っています。いろいろな競技がサッカーに続き、今年はBリーグがスタートしましたが、すでに地域社会全体で応援されるチームになっています。Jリーグやレッズが肝に銘じなければならないのは、クラブはあくまで地域のものであるということです。絶対に企業や団体が私物化するようなことがあってはならない。それはJリーグの理念に反する。スポーツはみんなで楽しくやるもの。それを忘れずに発展してほしいと思いますね」

大住良之 Yoshiyuki OSUMI

神奈川県横須賀市生まれ。
大学卒業後にベースボール・マガジン社に入社し、後に『サッカーマガジン』編集長に就任。88年からフリーとして活動。著書に『浦和レッズの幸福』(アスペクト)など。

URAWA MAGAZINE ISSUE125より転載

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