Jリーグ創設の立役者の1人で、Jリーグの専務理事も務めた木之本興三(きのもと・こうぞう)氏が15日午後3時38分、うっ血性心不全のため千葉市内の病院で死去した。68歳。Jリーグが16日、発表した。
その人生は、木之本氏が2013年に出版した著書『日本サッカーに捧げた両足』のタイトルがすべてを物語っている。
東京教育大(現筑波大)から古河電工(現J2千葉)入り。しかし、26歳でグッドパスチャー症候群という難病を発症した。肺や腎臓に重大なダメージを及ぼす病気で、医師から「このままでは生きられない。発症者は5年以内に亡くなっている」と説明されると、「殺してくれ」と口にしたほどショックを受けたという。
結局、両方の腎臓を摘出。選手生命を断たれ、人工透析を週3回受けることになった。それでも再びサッカーにかかわるようになり、プロ化へと先頭に立つ。
Jリーグ設立の立役者といえば初代チェアマンを務めた川淵三郎氏(現日本サッカー協会最高顧問)のイメージが強いが、木之本氏も中心の一人であったことは間違いない。
2002年日韓W杯では日本代表の団長を務めた。日本が決勝トーナメントの初戦でトルコに敗れた直後、右足を激痛が襲った。今度はパージャー病という、手足の血管が詰まる難病だった。5年後には右足を膝上から切断。1年後には左足も失う。その間には、追われるようにJリーグや日本サッカー協会を後にもした。
しかし、木之本氏は「26歳からは生きてきたのでなく、生かされてきた人生。それでもよかったと思う。これからは受けた恩を返そうと思っている」と話し、日本のサッカー界を思い続けていた。まさに、すべてをサッカーに捧げた人生だった。