ドキュメンタリーをつくるつもりが、配属先は「のどじまん」。

NHK 『あまちゃん』 演出・ディレクター吉田照幸氏

04個性胎動篇

 フォーマットが決まっていてあまり「演出」の余地がない「のど自慢」の担当に。どこか同期にも引け目を感じていた吉田氏は、4年目に広島局への転勤を申し出る。新天地で初めて体験したドキュメンタリー制作の楽しさ。演出家・吉田照幸の個性が少しずつ育ち始めた。

企業倒産モノ、人モノ、旅番組まで。
広島でやっとディレクターの楽しさを知った。

 どこに転勤するかは運ですが、僕は広島局でした。ツイてました。というのも直属の上司が「芸能番組はやらなくていい」って言ってくれたんです。
 普通芸能から行くと、地方のイベントなどの芸能系の番組を担当させられます。それをあえてさせずディレクターとしていろいろ経験しろと言ってもらえて。ほんとにありがたい話です。そこでドキュメンタリーを数多く作りました。
 一斉を風靡した有名ゲームソフトメーカーの没落を描いたハードなドキュメンタリーだったり、見かけは変わった町の発明家、だけど実際は名だたる企業から仕事の依頼が来るすごい人。手に障害を抱えながら、「おたふくソース」などを開発した生き様を描いたり、その他にも夕方のニュースの旅コーナー、原爆によるPTSDを扱った福祉番組をやったり。もうとにかくなんでもやらせてもらいました。ドキュメンタリーはおもしろかった。
 そもそも芸能番組は、レギュラー化が基本ですから、ある程度誰でも作れなければいい企画とは言えない。だから「仕組み」と出演者が大事であり、プロデューサーの力が強い。
 一方で、ドキュメンタリーは1回限りのものですし、現場がすべてですからディレクターの領域が大きい。当然ディレクターとしては、ドキュメンタリーのほうがおもしろいですよね。ただあの頃はドキュメンタリーそのものが楽しいと思っていたんですけど、今考えれば、そうでなくて1から作っていくということ自体が楽しかったんだって気づきました。

30代手前。自分の進路を決めるとき。
ドキュメンタリーを希望したのだが……。

 広島で4年を過ごし、東京に戻ることになりました。30代手前、次の異動は今後の人生を決める大きな岐路でした。そこで元の芸能番組部ではない別の部署を希望しました。NHKという組織は縦割り組織です。
 入局したときの部署が変わる人はあまりいません。ディレクターから他の職種になるという人もほとんどいません。そんな状況ですから、波紋が広がります。ちょうどその時の上司は芸能番組の人でした。なんというか自分の直属の部下が他の部署に行くというのは、ちょっとよくないことなんです。
 上司から希望の部署を書き直すように言われました。もちろんそれは、僕のことを思っての面もあります。いろいろ作ったとはいえ、すごい優れたものを作ったわけではない。そんな人間が縦割りを崩して出て行くことは大きなリスクです。一番得で安心なのは、戻ることなんです。みんな知っている人だし。僕はどうしたか? そうですね、書き直しました。結局、上司に言われたからだけではなく、僕の勇気がなくて古巣に戻りました。
 それで芸能番組部に戻ったら「のど自慢」ではないんですけれど、また地方を回る公開番組の担当になりました。梅沢富美男さんと前川清さんが中心となった、芝居ありトークあり歌ありの古き良き舞台公演風の番組です。
 1年のうち200日くらい出張してました。そのころには、ディレクターとしての欲もなくなり日々粛々と仕事をしていましたね。
 ただ紅白歌合戦の時期はほんとに嫌でした。同期はもうメインに近いポジションをやっているなか、僕は「警備」を担当したり、「得点(最後の集計)」を担当したり、まあ、評価は低かったんだと思います。
 もはや仕事的には芸能番組というのを受け入れてたのですが、すると今後は自分の地位が気になる。そこで自分の地位をあげるために部の中心的番組である『歌謡コンサート』に志願しました。

東京から広島へ、広島から東京へ、自分の人生を変えようと異動したが、結局は元の鞘(さや)に戻る。ただ自分の地位をあげるために歌番組を担当したいと希望を出すのだが……。
自分に活路を開いてくれたのは、あれほど嫌っていたものだった。ドラマチックな展開の次回「苦闘苦楽篇」。


  1. 01 謙虚献身篇
  2. 02 脱落入局篇
  3. 03 青春悶々篇
  4. 04 個性胎動篇
  5. 05 苦闘苦楽篇
  6. 06 NEO個性論篇

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