私はこれまで、ひとりの天才と一緒に暮らしてきた。だが、天才というのは必ずしも幸せに恵まれているわけではない。
天才の名は、唐十郎という。
私はその一人娘、美仁音。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』に登場する「ミニヨン」から名付けられた。
二〇一二年五月二六日、朝。私は母のすさまじい叫び声に叩き起こされた。
眠りを引きずる不明に、ズシリと嫌な予感がよぎった。布団を蹴り上げ、もたつく足で階段を一気に駆け降りる。家の外へ飛び出ると稽古場の玄関先、父が仰向けに倒れていた。
「救急車を呼ぶからっ、そこにいてっ!」
電話に走る母の顔が、真っ白だった。起きがけにコトの重大さを把握しきれない私は放心して、側溝に尾を引く赤黒い液体を茫然と眺めた。
瞬間、心臓が凍りついた。それは、倒れた父の頭蓋から流れ出る鮮血だった。血走った眼をカッと見開き、身動きひとつしない。私はアスファルトにゴトリと置かれた父の頭を持ち上げ、右手のひらで後頭部を抑えた。小さいが重たい頭だった。
息が止まっていた。このまま死んでしまうのか。絶望的な気持ちが襲ってきた。父の頭上に
「パパ!」
私の胸に希望が湧いた。
「パパ!」
もう一度叫ぶと、応えるようにうっすらと目を開けた。だがその視線は焦点が合わず、ぼんやりしている。そして父は、眉間に皺を寄せひとこと、「頭が痛い」と呻いた。
父が倒れたとき、母は台所に立っていた。突然、スイカがグチャと割れたような音がしたという。家のなかにまで聞こえる大きな音だった。脳挫傷。私の手のひらにある父の頭は外傷を負い、脳細胞が壊れかけていた。その衝撃と混乱は「頭が痛い」では済まされないはずだった。
しばらくすると、すぐそばに住んでいる劇団員が駆けつけ、周囲を取り巻いた。近所の人たちも混じっている。おそらく生死を
「動かないでっ!」
あのとき、確かにそう叫んだ私は、思う。頭皮の裂け目から鮮血を滴らせながらも立とうとした父は父ではなく、すでに、唐十郎だった。
私の右手のひらに、逆さまになった唐十郎の顔があった。鉄と酒のにおいがした。指と指のあいだを伝う生温かい液体は、ドロッとした感触からパリパリと乾いていくようだった。小さいが重たい、天才の頭。
やがて、父は救急車に乗って病院へ運ばれて行った。主を失った私の右手は、ずっと痺れたままだった。
私は小さいころから母や先生の言うことを聞かず、道端に落ちている木の葉をボーと眺め、その声を聞こうとする変な子だった。内気なくせに劇団員のお兄さんやお姉さんにワガママを言い、一度思い立ったらすぐに行動を起こしてしまう。妄想を現実とカン違いして木に登る塀を渡る、何度も落ちてケガをする。しかし父は、そんな私の奇行を叱るどころかいつも褒めてくれた。
小学校一年のとき、小笠原へウミガメの孵化を見に行ったことがある。私は孵化したばかりの一匹を捕まえ、手に取った。母はすぐに放せと言ったが、父はドングリ眼を輝かせそれを自分のポケットに入れてしまう。そして一晩ホテルの部屋で飼い、翌日、鳥に食べられないよう祈りながら、海へ返した。晩ごはんのシラスにタツノオトシゴが紛れているのを私が見つけると、父は大喜びして書斎に飾った。トランポリンで遊んでいて頭をぶつけると、父は「大丈夫か」と心配するより先に、私にぶつかった障害物を叱り飛ばした。そんな現実の一場面一場面が、父にとってはすでに芝居だったのだと思う。
やがて中学生になると、私は父の戯曲を読むようになった。『唐版・風の又三郎』『少女都市からの呼び声』『泥人魚』……。たった一文で胸に迫ってくるセリフの数々。詩的でグロテスクな猥雑のなかから、美しい世界が立ち上がる。ふつうなら反抗期に至る年頃になって私は、唐十郎のファンになった。
だが私は、そんな永遠の少年みたいな父だけを見てきたわけではない。その苦悩もたくさん、たくさん見てきた。とくに父が脳挫傷の大ケガを負うまでの四、五年は、見ているのもつらいほどに苦しみ、もがいていた。正直、いつか、近いうちに、何かひどいことが起こるのではないかと思っていた。
事実、父はどこでどうしたのか、よくケガをして戻ってきた。病院に担ぎ込まれたことも一度や二度ではきかない。しかし、いつもケロッとして「ミーちゃん!」と私の名を呼び、何事もなかったかのように帰宅した。
父を乗せた救急車が去ったあとも、また明日、あるいは数日で帰ってくるのではないか。私には、唐十郎ゆずりの妄想がすっかり身についていた。きっと、大丈夫。「ミーちゃん!」。その声を願わずにはいられなかった。
しかし、実際に父が家へ戻ってきたのは、八ヶ月もあとのことだった。
次回(4月8日更新)につづく
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