6.ルイサイトと二・二六事件

満洲事変直後の昭和7年10月(1932年)4日、中国では蒋介石の組繊したファッショ団体藍衣社が次のような宣言を発表していた。

「中国民族の最大欠点は、自尊心の余りに強過ぎることである。東三省の没落後、民衆は失地を武力回復せよと叫んで対日宣戦を高唱しているが、現在の支那の実力では、対外的に武力を行使することはあまりに貧弱ではないか、また国際上の大勢を見ても、一般人は日露または日米開戦を予想しているが、これは一般の希望的構想に過ぎぬ。ロシヤは5ヶ年計画に没頭して他を顧みるひまなく、アメリカも軽率に日本と事を構えるとは信ぜられぬ。

イギリスは鋭意国内整理に努め、フランスは安南問題に没頭汲々たり。何れも対日態度は消極的である。かかる際、日支開戦せんか、支那は孤立無援に陥ることあまりにも明瞭だ。故にわれわれは今高らかに叫ぶ。支那国民は暫時満洲を放棄せよ、しかして政府、人民は共匪討伐を完成し全国統一後吾人は力を併せて回復せん。」

即ち、満洲を暫時放棄せよというのであった。

当時は大陸、特に満蒙の天地が大きくクローズ・アップし国民の関心を高めていた。従ってこれが認識も次第に向上した。藍衣社の宣言のあった翌5日には、正午を期してバイカル丸が神戸を出帆した。I中佐の指揮する満洲開拓武装移民団416名の元気な姿であった。肩章のない軍服、軍帽、リュック・サックを背負った一団であった。

この間にも時局はようやく重大となり非常時の感を深くした。東洋における日華関係の緊迫に欧州ではヒットラーの率いるドイツの動きが注視され、イタリアとエチオピアの関係は一触即発の状態にあって、底流する不安は全世界をして、微妙な動きの中に追い込んで行った。

日本国内にも、この不安のはけ口を求めようとするファッショ的思想が横溢していた。昭和10年(1935年)8月12日白昼、突如として起こった相沢中佐の永田軍務局長刺殺事件は、その発端と言い得る結果となった。夜間空襲の防空訓練が各処に始められ、何か来るべきものが来るという不安は、われわれ国民の胸から離れなかった。こうした情勢の中に製造所では「死の露」といわれたルイサイトが、戦備用として本格的な製造に着手されていた。

 

《ルイサイト製造工室》

ルイサイトの権威者久村種樹氏を東京から迎えて成功裡に試運転を終えたこの装置は、昭和11年(1936年)の年頭を期して大々的な冬季動員演習が実施された。厳寒の冷気が身に沁みる1ヶ月間の準備期間は大変な苦労であった。製造方式も触媒に就いて後年若干改良されたが、当初の方法は亜砒酸と食塩を混じたものに硫酸を加えて先ず三塩化砒素を造った。この三塩化砒素に三塩化アルミニウムを触媒としてアセチレン・ガスを反応させる合成工程から分解、変成、蒸溜と複雑な操作を経て成品とした。全工程を通じ危険なアセチレン・ガスが関係していたので、工室内での火気使用は厳に禁止されていた。当時としては最も進歩した装置で遠隔繰縦方式が採られ温度測定は電気温度計によってボタン一つで読み取れた。またアセチレン・ガス、ブライン、淡水、海水、圧空などの流量も同じ操縦室にいてこと足りた。

2月に在って寒い日が続いた。三塩化砒素の製造が順調になったのは2月14日からで当初の計画より幾分ずれていた。内容1立方?鉄製鉛張りの化成釜が数基あって、これに猛毒の亜砒酸とロータリーキルンで乾燥した食塩を仕込み、攪拌機をまわしながら硫酸を滴下した。この反応後行われる蒸溜作業に必要な熱源は重油バーナーによった。圧空と重油の霧状ガスが物凄く炉内で混合するので工室内は終日騒音に満ちていた。爆溜と重油バーナーのバック・ファイヤー、この二つが蒸溜作業の難関であった。化成釜の底にレンガを数箇沈めて爆溜を緩和した。またバック・ファイヤーは排風機を運転して炉内に残留する可燃性ガスを換気し点火することにより防止できた。爆溜による成品の損失は大変で、これが屡々計画破綻の原因となった。爆溜とは気化した三塩化砒素が冷却器を素通りし爆発的に蒸溜することで、硝子製の計量管を毀し床面に流出した。三塩化砒素は発煙剤としても優秀な性能を有したので、こんな時工室内に蒙々と白煙が立ち込め寸分の見分けもつかなかった。窓硝子、壁など析出した亜砒酸の結晶で、淡白色に薄化粧されていた。この作業では猛毒の亜砒酸を取り扱うので作業員はゴム布で作った防毒服の上に、防毒面、ゴム手袋、ゴム長靴、ゴム前掛、さらに頭には、木綿製の白頭布を着て危害予防に努めた。しかし、一種異様の刺戟臭に頭痛がして随分悩まされた。この作業に従事すると肌の色が白くなって美男子になれたので就労を希望するむきもあった。事実イペリットに比較するとガスによる皮膚炎の症状はなかった。

ルイサイトの動員作業が調子づいたのは、三塩化砒素のそれより1週間遅れて2月21日からであった。この日は前日が国会議員総選挙だったので忘れることができなかった。わたしは昼夜二交代制の夜勤班であった。18時20分陸地繋船場を発船したが、2月が29日の閏年の関係などで3月1日の8時まで連続9日間の夜勤であった。夜勤手当その他の加算で夜勤が長引くのはだれも異論はなかった。ルイサイトの装置では、主要部分が陶器製で釜、攪拌機、導管などの気密処置には気を配った。作業中水硝子と石綿板は手放せなかった。釜から釜への送液は圧空を用いるのがこの装置の特徴であった。



《ルイサイト製造工室の内部》

三塩化砒素、アセチレン・ガス及び三塩化アルミニウムの三者を低温反応させて中間体を造り、次に塩酸でこれを分解し、更に三塩化砒素に触媒として還元鉄を加えて、同族体である第二及び第三アルシンを第一アルシンに移行せしめる変成と呼ばれる操作を行った。この変成と次の工程で行う真空蒸溜の作業はガラス張りのチャンバー内でなされたので、完全防護の服装でありながら、三塩化砒素の刺戟臭が体臭となって付きまとった。

最後の真空蒸溜によって第一アルシンを劃温蒸溜した。高圧真空ポンプ数台を運転して内容1立方?の陶器釜に、変成工程を終わった液を約半量仕込み、絶対真空に近い状態で蒸気と重油バーナーを熱源として蒸溜した。真空破りのため取り付けた毛細管の先端が液の中央に浸っていた。蒸溜の進行につれて内容物は赤褐色の菊花が咲いたように毛細管の先端で沸騰し美観であった。蒸し暑いチャンバーに入って内容物を点検するのは全く決死的な作業であった。完全防護の服装では、皮膚と服との間に発汗がうっ積し、その湿気が全身から上昇して防毒面内に抜けた。防毒面の眼鏡が曇って吸気の都度、外気がこの曇りを消し呼気の際また曇った。プスー・プスーという呼吸音が防毒面から漏れて苦しい作業であった。

陶器が果たして絶対真空に耐えるや否や装置の接着部分に就いては眼が離せなかった。保温のため石綿粉で分厚く包んだ釜の接合部に小孔があいて、外気がスウスウと音をたてながら釜内の真空を破ることがよくあった。釜全体がメリメリと不気味な音を立てていた。

蒸溜終了ののち、釜底に泥状にこびりついた残渣を、大型の鉄製耳掻きで掬い出すのは大変で、特異な臭気が鼻を突き完全防護を絶対に必要としたので、寒中でも皆んなインキンに悩まされた。

工室が一望の内に収められる操縦室は階上にあって、その隣りが待機所になっていた。ここでは採暖用にストーブが焚かれ喫煙もできた。作業が長期に亘り、皆んなは一種の脳病に取り付かれたような症状が続き、余暇さえあれば睡眠を採らずにはいられなくなっていた。こうした倦怠感の裡にあって、われわれに精神的衝撃を与えたのは、あの二・二六事件のニュースであった。

2月26日の午前5時頃、夜来の雪で銀世界と化した東京の真只中に鮮血が流れた。近く満洲へ出勤を命ぜられ待機中の野中大尉以下1,000有余名が、不意にけっ起して武力行使を決行したのであった。

「兵に告ぐ」の、解散勧告文が飛行機から叛乱部隊の頭上に撒かれたのはこの時であった。発作的興奮から覚めた兵達は、上官の命令は絶対服従の軍律のみによって動かされたのであって、封建的軍組織の悲劇がここにもあった。昼勤者が伝えてくれるこのニュースを聞いた時は、言語に表現できない感に打たれた。

さいわい事件は拡大することなく、29日午後3時には反乱軍の帰順が完了した。4日間にわたる不安に、漸く秋眉を開いたわれわれは、ルイサイト冬季動員演習とこの事件を結び合わせて、終生忘れられない印象を受けた。

ルイサイトは、50kg入りのドラム罐に詰め毒物倉庫に運搬された。鉄筋コンクリート建の倉庫が、旧事務所地帯と呼ばれた東海岸と長浦との2箇所にあった。この他要塞時代の建物を利用したものがあちこちの山中に点在していた。これも工業的大装置が整備されるにつれ、横穴式の地下貯槽が、長浦、北部の2方面に大々的に新設された。排風、送液の設備を持った横型円筒形で格納力10?級のタンク数十基は、日産イペリット6トン、ルイサイト3トンその他の製品を優に貯蔵する能力があった。



《現在の長浦貯蔵庫跡》

島にある工室の中では、敷地およそ20アールを持ったルイサイト工室が、長浦のアダムサイト工室に次いで大きかった。三塩化砒素とルイサイトの製造は1棟で行われ、隔壁をもって2部屋に仕切られていた。また、別にアセチレン、還元鉄、冷凍室、排風機室などが附属していた。

ルイサイトの毒性は猛烈なものであった。動物実験で兎の毛を刈り露出した皮膚に、この毒物一滴を着けると液の流れに従って、その跡が青色に抉られて行った。これは砒素系毒物の特性でもあった。

さいわいこの作業では、こと人命に関する事故はなかった。いつであったか合成釜が爆発して、飛散した液を被ったN工員がいたが粟粒大の水疱が顔面、頚の部分に群生した程度でイペリットの皮膚炎と大差はなかった。照明用として釜内に取り付けた電灯のスパークが、アセチレン・ガスに引火したという推定原因であった。それ以後この三塩化砒素、アセチレン・ガス、及び三塩化アルミニウムを低温反応させる合成釜は可爆式に改められた。また地下風胴改修の際、熔接用の酸素、アセチレン焔の火口から、風胴内に停滞していたアセチレン・ガスに引火したことがあったが、運転休止時だったので大爆音を伴ったが作業員、装置とも無事であった。

アセチレン・ガス製造工室では、かねてから爆発事故に対する教育が繰り返し行われた。発生装置の配管部分から一度だけ発火したことがあったが大事には至らなかった。何分200立方メートルのガス・タンク二基が近接していたので眼が離せなかった。冷凍室の脇には小山があって、その上にブライン・タンク二基が据わっていた。

その後、死の露ルイサイトは、生産コストの点でイペリットに劣るのを理由に、びらん性毒ガスの重点は専らイペリットに置かれた。

広大な工室も時の流れと共に、三塩化砒素製造工室は仏式イペリット真空蒸溜、還元鉄製造工室は青酸の工室へと変わったが、これらが長浦へ移転してからは主に倉庫として使用された。また、冷凍室の如きは昭和19年(1944年)頃建物疎開に便乗して撤去された。