伝言 技能者養成所・事務所周辺
写真22 幹部用防空壕

当時、幹部防空壕に入ったことはありませんでしたが、立派なものです。ここに入るといつも敬礼をしてなくはならなかったそうです。石積みなどは、工員がみなしたそうです。

この隣に製図場があって、機械製図、あるいは木工製図をやっていました。製図場は誰でも入れました。庶務の担当事務員はえらそうに入っており、高等官(階級では、技師、少尉以上)にも慣れっこになっていました。わたしは高等官に会うのはおそれおおいような感じがしていました。

医務室に行くにはここを通らなくてはなりません。このまっすぐが所長室。海岸道路をまっすぐに通っていくと、必ず所長室の前を通ることになります。偉い人一人が通っていたら、低姿勢をとって、止まらなければなりません。二人以上だと「頭右」と歩きながらします。やってなかったら、すぐに、「あれはどこの工員か、欠礼するではないか。」と説諭されます。会いたくないので、裏通りを通っていこうとしたら、所長とばったり出会ったことがありました。敬礼をしました。非常にびっくりしました。それぐらい上下関係が厳しかった時代です。無理もないですよね。学校の先生も神さんぐらいに思っていたんですから。そういう時代を生きてきた思い出の場所です。軍隊式で、自由を束縛され、命令主義でした。良かろうが悪かろうが命令だから聞けです。自由はありません。むろん政治活動もできません。養成工でも普通工員でも、新聞、雑誌を持って入っていたら、守衛に取り上げられる。これは行き過ぎではなかったのではないかと思います。一番厳しかったのは、博打は重罪。次に不倫。不倫と言ったら私生活なのに、それを工員が告げて、自分の手柄みたいにしていました。職長と仲が悪く、敗戦になったとき、にやにや笑いながら、私らの機嫌を取りに来ました。そのとき「おまえら、覚えておれ。」というように、ぐっとにらんでやりました。その人も恐れたようでした。上下の差は激しく、敗戦のときはこのやろうという、思いが強かったです。

また、敗戦の時に「毒ガスを使えば良かったのに。(勝てたのに!)」と、女子工員が敗戦の悔しさを叫んだことを覚えています。いま思えば、毒ガス兵器が人道兵器であるはずはありません。ただ毒ガス製造の罪意識を払拭するための、一つの教育だったと思います。しかし、今もそのことがまざまざと残っているのは、悲しいことです。