伝言 長浦毒ガス貯蔵庫周辺

毒物焼却場で焼くのに一番苦労するのはイペリットの残さです。イペリットは原料が硫黄性のもの、これはどんどん燃えるのではなくてじわりじわり燃えていきます。ルイサイトもこのような部類なのですが、三塩化砒素というて、主にヒ素を原料にしていました。だから焼いたというても、ヒ素の成分が残るということで、毒ガスのかすを焼きよるということでなかなか燃えにくかった。その燃えにくいのは、今考えるとルイサイト系の原料の中に燃えにくいものがあるんじゃないかと思うんです。亜砒酸と濃硫酸を混ぜたものに食塩を加えて、三塩化砒素、白一号になるんですよね。白一号が半製品で、最終的にルイサイトという毒性の高い液体になるということを聞いていました。ここで焼くのはその残さ、かすですよね。かすがよく燃えるようにするために焼却場に勤める人たちは、こういうようにしよう、ああいようにしようという焼却場でのマニュアルはなかったようです。ただ自分たちが、いかにすれば早く燃えるのかという考え方の中から燃やすんです。うまく燃えたら、「ようやったのう。」というて、奨励金をもらうんです。そういうようなことでありましたから、しっかりしたマニュアルがなかったところに、やりっぱなしになったものがあったんではないか、その当時働いた人がいうのには、いろいろ進歩していって、こういう大事なものを焼く電気焼却炉のようなものもあってもよかったんじゃないかともらしていました。ここは、人工的に自分らで考案する中で残さを焼いたということは確かです。そのかわり、ここで働いた人は給料としては多かったですね。そのかわり、重傷の人が多くて、早く死にました。で、そのときの燃やす方法として山の上に煙道を引っ張ろうと、煙道を長くて、吸引力をふとうすれば燃えるんじゃないんかと、煙突の高いのをつくっとりました。そうすると向こうから風が吹いてくるというので山をくりぬいて、山のてっぺんに上げたわけですね。さらに山のてっぺんでも二、三メートルは上げてました。上がるのは二本を併用してあげて、山のてっぺんで連結して一本にしてあげた。てっぺんにも煙突はありました。

戦後処理でも焼却は、ここでやっています。呉の写真に出ているのはここで、もう一度つくりなおしたものです。

それと今見ると山肌が見えますが、昔の大久野島は、山肌が見えるようなことは、おそらくありませんでした。一本枯れたら一本植えるようでね。発電場に行ったら一番ようわかる、あの発電場は沖から絶対見えませんでした。それが今もろに見えるということは、松林がなくなったということよね。ここらあたりも樹木がおおいしげっていました。この上で戦後陶器製の機械類を解体してますね。中で目立ったのは大きな何一〇リットル入りの陶器製のものですね。ここもすごい松林じゃったんです。


写真99 100 101 北部海岸に散らばる耐火レンガ

三ッ石耐火煉瓦株式会社の文字が読みとれる)