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いかりや長介さんが死去…72歳、がんに勝てず

いかりや長介さん(左)

 ザ・ドリフターズのリーダーで俳優のいかりや長介さん(本名・碇矢長一=いかりや・ちょういち)が04年3月20日午後3時半、原発不明がん頚部(けいぶ)リンパ節転移のため東京慈恵医大付属病院で死去した。72歳。いかりやさんは昨年5月、体調不良を訴えて入院。頚部リンパ節がんと判明し、放射線治療などを受けた。7月に一時仕事復帰したが、その後、再び体調を崩し、休養していた。69年にスタートしたTBS「8時だヨ!全員集合」で爆発的な人気を獲得、番組終了後は個性派俳優としてドラマ、映画などで活躍していた。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 いかりやさんは家族に見守られ、眠るように亡くなった。遺体はこの日午後8時ごろに、病院から東京都目黒区内の自宅に移された。居間に安置され、家族が付き添った。昨年12月8日に行われたフジテレビ「40年だよ!! ドリフ大爆笑」(同12月23日放送)が最後の仕事になった。

 いかりやさんのがんが発見されたのは昨年5月19日。収録がスタートしていたTBSの連続ドラマ「高原へいらっしゃい」の降板を決め、同28日に都内の病院に入院した。入院当初は体に痛みなど目立った病状はほとんど見られず、頚部にわずかなしこりが感じられるだけだった。長女が身の回りの世話をするなど看病に努めていた。

 いかりやさんはその後、放射線治療などを行い、経過も良好だったことから7月17日に退院。映画「踊る大捜査線THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」の舞台あいさつに立ち、仕事に復帰した。共演者の織田裕二(36)に「おれは150歳まで生きる。まだ、折り返し地点だ、わっははは」。さらに「(主治医から)今後は犯罪以外は何をやってもいいと言われました。粉骨砕身、わが身をかえりみず頑張ります」と話し、客席を沸かせた。

 8月20日には、治療のため休業していたテレビ朝日「人生の楽園」のナレーターにも復帰したが、声が思うように出ず、納得のいく仕事ができないとわずか5週間で降板した。10月スタートのフジテレビ連続ドラマ「あなたの隣に誰かいる」にも出演。声が出ずに苦しんだが、セリフを少なくするなどして役者魂で乗り切った。

 事務所関係者によると、いかりやさんは年末から最近にかけては仕事を完全に休んで療養。経過も良好で、温泉に行ったり、軽い運動をこなすなどして過ごしていた。回復の傾向を見せており、本人は「仕事をしたい」と訴えていたが、事務所が「完全に回復するまで」とストップをかけていた。急に症状が悪化し、今月15日に再入院したという。

 いかりやさんはザ・ドリフターズのリーダーとして同グループをまとめ、69年スタートのTBSバラエティー「8時だヨ!全員集合」で人気を得た。「オイッス!」「いってみよー」「だめだこりゃ」は子供たちの流行語になった。00年2月、元メンバーの荒井注さんが亡くなった時は「(天国で)飲む場所はあんたが決めといてくれ」とユーモア交じりに弔辞を読んだ。日本中を笑いの渦に巻き込んだいかりやさんが、静かに天国に旅立った。

写真=03年7月19日、映画「踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」の舞台あいさつを行った、いかりや長介さん(左)。いかりやさんが、がんから復帰し、涙ぐむ深津絵里(中央)、織田裕二

◆いかりや長介(ちょうすけ)
 本名・碇矢長一。1931年(昭和6年)11月1日、東京生まれ。ハワイアンなどのバンドをへて64年に「いかりや長介とザ・ドリフターズ」を結成し、リーダーに。ベースギターを担当。66年のビートルズ東京公演の前座を務める。69年にスタートしたTBS「8時だヨ!全員集合」が大ヒットし、人気者に。85年、同番組終了と同時に俳優転向。映画「踊る大捜査線 THE MOVIE」のベテラン刑事役で99年日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。昨年のTBS「GOOD LUCK!!」では釣り宿の主人役でSMAP木村拓哉と共演した。私生活では、最初の夫人と78年に離婚し、翌年元デザイナーと再婚したが、夫人は89年に自殺。93年12月、ハワイで現夫人と3度目の結婚をした。子供は1男1女、99年に初孫優希(ゆき)ちゃんが誕生した。


高木ブー、長さんに「バカヤロー!」…2度とできない全員集合

心境を語る高木ブー

 リーダーの元にザ・ドリフラーズのメンバーが集まった。20日夜、東京・目黒区のいかりや長介さん(72)の自宅には、加藤茶(61)志村けん(54)高木ブー(71)らが駆けつけた。日本の笑いを支えた不世出のグループのリーダー。高木さんは「ばかやろー、と言ってやりました」と悼んだ。ギャグで笑わせ、演技で泣かせたいかりやさん。「オイッス!」。あのダミ声は、ずっと心に残っている。

 メンバーからの最後の別れの言葉は万感を込めた「ばかやろー」だった。ザ・ドリフターズの結成時からのメンバーの高木は20日深夜、いかりやさんの自宅を訪れ、別れのあいさつを終えた。午後11時半ごろ、いかりやさんの自宅に入り、約1時間半後の21日午前0時55分に弔問を終えて出てきた。

 報道陣からの「いかりやさんと何を話されましたか」との質問に、高木はやりきれない表情で「(いかりやさんに)ばかやろーと言ってやりましたよ」と涙をこらえて、大声でさけび、そして車に乗り込んだ。加藤や志村は、先に弔問を済ませていた。仲本は仕事の都合でこの日は駆けつけられなかったが、メンバーは「葬式は盛大にやろう」と誓い合ったという。

 高木といかりやさんとは、メンバーの中でも特別な親交があった。99年、いかりやさんに初孫が生まれたことを、公表したのが、高木の新アルバム発表のイベントだった。ドリフのメンバーの中で年長者として、結成から頑張ってきた2人だけに一番気心が知れた仲だった。

 高度成長期の笑いを支えたザ・ドリフターズ。笑いと涙の中には、メンバー同士の確執もあった。笑いも、涙もすべてを包み込んでの「ばかやろー」。メンバーの思いに囲まれて、いかりやさんは旅立った。

写真=弔問に訪れた高木ブーは「ばかやろー!って言ってやったよ」と一言(撮影・栗山尚久)


「本当ですか?」戸惑う病院職員

 「本当ですか」。いかりや長介さんが亡くなった東京都港区の東京慈恵会医大病院では20日深夜、見舞客らが驚いた表情を浮かべた。

 病院前の道路には慌てて駆け付けたテレビ局のクルーがカメラ2台を構え、静まり返る病院を撮影。事務職員の男性は「さっきも聞かれましたが、入院していたかどうかも知らなかった。本当ですか?」と戸惑った表情を見せる。

 入院中の夫を見舞いに来たという女性は「みんなをよく笑わせてくれて、惜しい人を亡くしました」と話した。


いかりや長介さん語録

ザ・ドリフターズ

 ◆「僕は舞台の上だけでも徹底したバカをやりたいんですよ。子供はかわいいなあ。邪気がなくていい。おれは日本中の子供たち4月に笑いをふりまくぞ」(68年、TBS「進め!!ドリフターズ」出演にあたって)

 ◆「クレージーさん(クレージーキャッツ)と比べれば動きがある。(コント)55号さんと比べれば音楽がある。中途半端で泥くさいかもしれませんがそこがいいところだと言えるかもしれません」(70年、ドリフターズが人気になった感想として)

 ◆「欽ちゃんと勝った負けたはあまり意識しませんよ。うちはマンネリなりにプロとしての最低保証はつけられる」(76年、「8時だヨ!全員集合」と「欽ちゃんのドンとやってみよう」が同時間帯で放送され視聴率争いが取りざたされたことに)

 ◆「アフリカへ行く開放感を味わい、精神、肉体の休養になる。また仕事にファイトを燃やせる。肉体が老いないうちに数行くつもり。観光地はジジイになっても行けるし…」(81年、9回目のアフリカの旅を終えて)

 ◆「運がいいです。今55歳。普通の人なら衰えていく年になって、芝居の1年生になれて期待していただけるのですから」(87年、NHK「独眼竜政宗」で演技が絶賛され)

 ◆「恵津子はいい女でした。10年という短い夫婦生活でしたが、非常に幸せでその分凝縮された10年でした。病気が憎い」(89年2月、妻恵津子さんがこう原病を苦に自殺し、涙の弔辞)

 ◆「報告というより業務連絡させてもらいます。海と夕日をバックに、ハワイの古式に従ったコンパクトの式でした。(新妻の義子さんは)普通のおばさんなんですよ。でも、僕にはそれ以上なんです」(93年12月、義子さんと3度目の結婚をしたことを会見で報告)

 ◆「出発間際の慌ただしい時に怒るかもしれないけど、ちょっと荒井さん、お話しましょう。今日ね、みんな来たかったんだろうけど、浮世のしがらみっていうのか、高木と志村が仕事でね。加藤は笑っちゃうな、渋滞にはまっちゃったっていうんだよ。あんたもあんたでね、偉いというか変な人というか。からっけつでドリフが始まって先が見えてきて、さあこれからお金もうかるぞ、楽になるぞという時にやめるって言いだしたんだから。(中略)長話すると嫌われるからこのへんで」(00年2月、荒井注さんの葬儀での弔辞)

 ◆「ドリフはよく言えばユニーク、悪くいうとデタラメ。ほかに類似のグループがなかった。だから存在できたんです。ドリフはテレビがなかったらプロにはなりませんでしたよ」(01年1月、日刊スポーツのインタビューでドリフを振り返り)

 ◆「生意気にもお病気、ご入院なんかしまして。派手でメジャーで一流の病気でしたが、かかった役者が二流でした」(03年7月、頚部リンパ節がんから復帰し、映画「踊る大捜査線THE MOVIE2」の舞台あいさつで)

写真=01年、NHK紅白歌合戦に出演したザ・ドリフターズ。左から志村けん、仲本工事、いかりや長介さん、加藤茶、高木ブー


関係者悲しみの声

 落語家立川談志の話「彼がドリフターズを結成する前からの友人だった。病気が悪化したと聞いて、今年に入ってすぐ彼に電話したら『大丈夫』って話していました。人望があって才能がある人だった。見事にドリフターズを率いて、素晴らしい大輪の花を咲かせた。十分に生きたと思います」。

 谷啓「突然の悲しい知らせに、ただ驚くばかりです。お体の具合が悪く、仕事から離れていることは存じていましたが、もうそろそろ元気なお姿が見られるものと信じていただけに、とても残念です。3年ほど前に映画でご一緒させていただいた時には、とても元気で、演技に対する情熱には、同世代の僕も少なからず刺激を受けました。安らかにご永眠されますようお祈り申し上げます」。

 エッセイストの海老名香葉子さんの話「まだまだのお年なのに…。何かひとつ笑いの灯が消えてしまった気がします。誰にでも分け隔てなく接する方で、夫の故林家三平が大ファンでおつきあいがあったと聞いています。新幹線で一緒になったときに、私にも深々と頭を下げて『三平師匠は本当にいい人でした』と話してくれました。忙しい中でも家族全員で『全員集合』をテレビで見て大笑いしたことが思い出されます。役者としても刑事役などいい演技をしていたのに、残念です」。


悼む

 いかりや長介さんは、芸に厳しい人だった。視聴率40%の怪物番組「8時だヨ!全員集合」では、決して妥協を許さなかった。コントのアイデアは、いかりやさんが中心になってメンバー全員で何日もかけて生み出した。加藤茶、志村けんらに、時には鉄拳も見舞った。作家に頼らず、手作りの笑いを最後まで求めた。

 後年は俳優業に打ち込んだ。ドラマ、映画「踊る大捜査線」シリーズの老刑事役をはじめ、人情派の渋い演技で新しい道を開拓した。俳優に転じて間もない十数年前、亡くなった古尾谷雅人さんと共演したテレビドラマの海外ロケに同行した。暑い東南アジアでの連日の撮影の合間、いかりやさんは身銭を切って後輩の共演者やスタッフに、よく夕飯を振る舞っていた。プライバシーは明かさず、仕事には厳しい半面、周りのスタッフや後輩には、温かい思いやりを絶えず見せた。昭和ひとケタ生まれの日本の男を感じた。

 がんで倒れた後、映画「踊る大捜査線THE MOVIE2」の完成試写会に、病院から駆け付けた。主演の織田裕二に「青島、暴れろ」と、励ましたいかりやさん。もう一度、テレビ、映画で、自分が暴れる日を夢見ていたに違いない。【元放送担当・新村明】

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