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オバマ大統領に伝えたい 広島、71年の営み=玉木研二(論説室)

「70年間は草木も生えぬ」という言葉のもとになった米国人科学者の談話を掲載した1945年8月23日の毎日新聞紙面

 原爆投下から71年、現職の米大統領が立つ広島は私の故郷である。川風のにおい、街角に漂うお好み焼きの香り、球場のどよめき、夕なぎ……。オバマ大統領の訪問が「核なき世界」への確かな一歩になることを率直に願う。そして、被爆の後、復興から今日に至る無数の人々と街の営みにも想像をめぐらせてほしい。広島はさまざまなかたちで、ひっそりと、原爆にまつわる物語を織ってきた。

     不意、一瞬に広範囲に街を破壊し、焼き尽くした原爆は人々の命運も一瞬の偶然で分けた。たまたま靴のひもを結ぼうとしゃがんだところ影に入り、直撃を免れ助かったという勤労動員の元学徒の話を聞いたことがある。

     こうした瞬間的な「明暗」の逸話は、広島や長崎に限りなくあっただろう。自分は助かり、代わるように他の人が落命する悲痛事も。

     私の家族(父、母、長姉、次姉の4人)は市内平野(ひらの)町で被爆した。

     先日、毎日新聞夕刊(東京本社発行版)で廃虚になった広島を米軍が上空から撮った写真が掲載されたが、爆心地から2キロ足らずの平野町は、真っ黒に全焼した区域に入っている。

     その1945(昭和20)年8月6日は穀類の配給日で、隣組の当番だった母はむずかる幼い長姉を連れて表通りに受け取りに行こうとした。隣家の奥さんがその様子を気遣って、代わりに行ってあげると言ってくださった。

     家に入っていた母と長姉、父と次姉は壁でどうにか直撃を免れ、焼け落ちる前にそばの京橋川に逃れた。やがて船で兵隊が救護に来たというが、河口の宇品にいた陸軍船舶隊だろうか。

     町は壊滅した。後年に分かったことだが、代わりに配給を取りに行ってくださった奥さんは重傷を負い、救護されたが亡くなった。母終生の心の痛みとなった。

     広島の町々には、こうしたさまざまな善意、厚意の営みが人々の間にあっただろう。その頭上に投じられた1発の原爆が踏みにじった。

     電車停留所で行列の順番を譲ったために分かれた生死。なぜかその朝に限って登校したがらぬ子を励まし送り出してしまった母親の悔い……。無数のこうした話なども語り伝えられた。

     困窮した私の家族は転々とし、つてあって郊外に住まいを借りた。原爆投下から6年たった51年に私は生まれるが、母が深く抱いていたらしい不安は知るよしもない。

     それに気づかされたのはごく最近のこと、次姉の夫の話からだ。46年前、見合いの席でまず「娘は被爆者ですが、それでもよろしいですか」と母がまっすぐに問うたという。

     母はとうに亡いが、被爆をめぐり、耐えがたい経験や悩みを内包していただろうと今にして思う。

     広島では、早くから原爆ドームを残すべきかなくすべきか論争があった。母はなくすことを願った。「思い出しとうない」と言った。原爆ドームに近い相生(あいおい)橋を電車で渡る時も見ないようにした。

    原爆の爆心地に近い相生橋で巡幸の昭和天皇を迎える広島の人々=1947年12月7日

     しかし、原爆ドームの前身である広島県産業奨励館が、いかに美しい建物だったかはよく語った。母が愛着を持った古き良き広島の情景を原爆はかき消した。

     映画も原爆後の広島を記録している。

     戦後の占領末期に生まれた私には55年以降の記憶しかない。昭和でいえば30年代である。広島の街は復興途上のエネルギーがあふれ、広島駅前に発達したマーケット、新天地の広場に来るサーカスなど、忘れがたい思い出がある。

     しかしなお、がれきが散らばった土地は残っていたし、未舗装の広い道路は土ぼこりを立てた。

     その復興期の広島を新藤兼人監督の劇映画「原爆の子」が活写している。原爆報道を抑圧した占領期が幕を閉じた1952年に製作、公開され、反響は海外に及んだ。原作は実際に原爆を体験した子供たちの作文集である。

     こんなシーンがある。

     原爆症を発した父の急変を建設現場で働く母に知らせに行く少年。カメラが並走する。少年が駆け抜ける街は人が混み、マーケットに流れる音が割れたような音楽、けたたましく白煙を立てていくオート三輪、路面電車のきしみなど、さまざまな音に満ちる。

     少年が駆け込んだのは実際に建設途中の原爆資料館。作業中の母は急ぎ戻るが、間に合わない−−。

     腰を据えた広島ロケが、たくまずして貴重なドキュメント映像にもなった。

     にぎやかな音色のうちに哀調を帯びたチンドン屋が練り歩くシーンも象徴的だ。復興の息吹の中にも原爆が長く影を落としていた。

    右下に原爆ドーム。左にオープン直後の広島市民球場。手前の太田川にかかるT字形の橋は相生橋=1957年8月

     映画といえば、70年代と時代はぐっと下がるが、広島のやくざ抗争を描いた深作欣二監督の「仁義なき戦い」シリーズも原爆の焼け跡が原点といえるだろう。

     価値観の転換。権威の失墜。そうしたものも映し出されるようだ。

     「おやじさん。あんた初めからわしらが担いどる御輿(みこし)やないの。組がここまでになるのに誰が血流しとるの。御輿が勝手に歩けるん言うなら、歩いてみいや。おう?」

     下からこう突き上げられて慌てふためく親分が印象的だ。

     このシリーズ第2作である「広島死闘編」では、広島ロケで「原爆スラム」が登場する。

     原爆で住まいを失ったり、引き揚げて来たりした人々がバラック住居などに暮らしたもので、既に都市開発で消えているが、原爆を描いた他の映画にも出てくる。立ち上がる市民のたくましさを表してはいまいか。

     このうち、近年の作で、50年代後半を舞台にした佐々部清監督の「夕凪(ゆうなぎ)の街 桜の国」は被爆から十数年を経て原爆症が表れる娘の物語だ。

     その家の近くの川べりで、恋人と彼女の弟が野球中継を口まねしながら石投げに興じる場面がいい。

     「長谷川投げました! 3球目はシュート! 長嶋、空振り三振!」

     カープのエースピッチャー長谷川良平と、ジャイアンツの新鋭長嶋茂雄の対決を模している。

     私も斜面に立てかけた看板を相手にボールを投げ、実況中継付き独り野球をやった。土地の狭い広島である。

     プロ球団広島カープの誕生は、市民の「樽(たる)募金」伝説などとともに、原爆に打ちひしがれた広島の街に希望の光を与えたと、たとえられる。

     75年、カープが結成25年にして初めてリーグ優勝した時は「原爆」「廃虚」「悲願」などといった言葉がキーワードとしてメディアに躍り、街の空気は歓喜に膨れ上がった。

     広島の野球熱は、はるか戦前の中等学校野球(今の高校野球)以来である。強豪チーム同士の試合にはグラウンド周辺の木にも観戦の人々がよじ登ったと語り伝えられる。

     原爆は、戦時下で制約があったにもかかわらず野球を愛した少年たちもファンも、多くのみ込んだに違いない。

     私は、日程が合えば、オバマ大統領には広島で始球式をし、観戦もしてほしかった。27日はカープは横浜へ遠征中だから物理的にも無理な話だが、こういう発想自体、「厳粛な意味を持つ現職大統領の広島訪問に何てことを」とまゆをひそめる向きが大半かもしれない。

     だが、昨年、原爆投下日の8月6日、本拠地・広島で試合をしたカープは全員が背番号「86」を付けプレーした。「野球王国広島」ならではの心のこもった情景だった。

     カープとアメリカとは、こんな興味深い縁もある。

     54年2月、マリリン・モンローと新婚旅行を兼ねて来日した元ヤンキースの名手、ジョー・ディマジオ。彼はプロ球団の指導という仕事を請け負っていた。各地を回ったが、広島にも来てカープの選手たちをコーチした。

     ディマジオは、世界的な人気女優のモンローに視線が集中するので、彼女がグラウンドに来るのは嫌だったらしい。しかし来た。

     その時の歓声の盛り上がりを元球団職員から聞いた。

     夜間照明設備を整える広島市民球場が原爆ドームと電車通りをはさんで建ったのは、57年のことだ。

     夏。夕なぎが終わるころ、広島の町外れの高台に涼みに出ると、眼下の市街地のちょうど要の部分に、大きな宇宙船が降り立ったように光の輪が見えたものだ。市民球場のナイターである。

     あの日の爆心地あたり。照らす明かりは平和そのものだった。今もその輝きを忘れない。

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