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【グラニュース】

ピクシー「優勝」するために帰ってきた きょう監督就任

2008年1月22日 紙面から

スネジャナ夫人(右)、バヤリツァ(奥左)、ジュロブスキコーチ(奥右)を伴って来日したストイコビッチ氏=中部国際空港で(横田信哉撮影)

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 名古屋グランパスの監督に就任するドラガン・ストイコビッチ氏(42)が21日、中部国際空港着の航空機で、ボスコ・ジュロブスキ・コーチ(46)、新外国人DFミロシュ・バヤリツァ(26)=いずれもセルビア=とともに来日した。22日に正式契約を結ぶピクシーは「勝つために優勝するために名古屋に帰ってきた」と戦う態勢を整えた。

 ちょっと疲れた表情で現れたピクシーは、肉をそぎ落とし、シャープな顔立ちになっていた。もうお客さんではない。仮契約を結ぶため昨年11月に来日した時とは、肉体も心意気も違っていた。

 「私の役割はグランパスを勝たせること。優勝させるために名古屋に戻ってきた」

 力強い第一声。近い将来という意味ではあっても、誰よりも負けることを拒んだ歴代最強のエースは、監督としての第2幕に「強化」ではなく「勝つ」というフレーズを選んだ。

 力強い援軍を従えた来日に、気持ちは高ぶる。懐刀のジュロブスキ・コーチと秘蔵っ子のバヤリツァ。昨年、レッドスター・ベオグラード会長時代に、見込んだ有望株を「私が選んだ素晴らしいDFだ。必ずグランパスを助けてくれる」と、185センチの長身を見上げるように、紹介した。

 2001年夏に現役引退して以来「6年間、名古屋を離れていたが、忘れることはなかった。自分の家に帰ってきた気分だ」。居心地の良さがよみがえってくる。

 22日に正式契約を結び、23日のスタッフ会議を経て24日に新たなスタートを切る。仮契約を結んだ際には、自らプレーを織り交ぜながら指導する方針を披露している。

 「(事前に)トレーニングするまでもない。必要ない。頭のなかに全部入っているから」

 永遠に忘れることのないテクニックを気取って説明してみせたが、指導者ライセンス取得に集中しながら減量にも取り組んだ。出迎えたクラブスタッフから「スリムになった?」と聞かれ「少しは絞ってきたからね」と上機嫌。戦う男ピクシーが、球団史上初のOB監督として帰ってきた。

  (木本邦彦)

◆激しい気性は勝利のため

 ストイコビッチ氏はピクシー(妖精=ようせい)の愛称とは裏腹に激しい気性の持ち主で知られた。日本デビュー戦となった94年第2ステージの広島戦では、前半18分に2つ目の警告を受けてあっという間に退場。通算13度の退場は今でもダントツのJ最多記録として残っている。来日当初は日本のレベルの低さにいらだち、スネジャナ夫人から「そんなに嫌なら帰ってもいいのよ」と諭され、日本に踏みとどまった。

 サッカーへの厳しさは味方選手にも向けられ、ミスや怠慢プレーには、試合中でも容赦ない罵声(ばせい)が浴びせられた。一方で、苦しい試合で決勝ゴールを決めた選手には、翌日、ロッカーにこっそりとプレゼントを置いて感激させたこともあった。

 【ドラガン・ストイコビッチ】 1965年3月3日、旧ユーゴスラビア(現セルビア)・ニシュ生まれの42歳。現役時代は主にMF。1981年、ラドニチュキ・ニシュでプロデビュー。同国の名門レッドスターなどで活躍。90年イタリアW杯8強。94年にグランパス入り。95年JリーグMVP、ベストイレブン3回のほか、2度の天皇杯優勝に貢献。Jリーグ通算184試合出場57得点。2001年に引退後、ユーゴスラビア協会会長、レッドスター会長を歴任。家族は妻と1男2女。

 【ミロシュ・バヤリツァ】 1981年12月15日生まれの26歳。185センチ、76キロ。2002年にOFKベオグラードでプロデビュー。07年にレッドスター移籍。

 【ボスコ・ジュロブスキ】 1961年12月28日生まれの46歳。2001年にレッドスターでアシスタント・コーチ。その後、ラドニチュキ・ニシュなどで監督を務め、昨年はレッドスターでユース監督。

 

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