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No.10  稲尾さんのビンタとヨガ修行指令

 1970年(昭45)10月18日の南海(現ソフトバンク)戦(大阪)。「黒い霧事件」で主力投手がごっそり抜け、5位に9・5ゲーム差の最下位に終わったシーズンの最終戦だった。先発した私は序盤に5点をもらいながら3回途中、4安打3四球3失点でKOされた。

続いて登板した投手も打たれ、5人で20安打を浴びての17失点。西宮市甲東園の宿舎に戻ると3年目の河原明さん、2年目の私、1年目の柳田豊の3人が稲尾和久監督の部屋に呼ばれた。「こらっ、おまえらは何を考えとるんだ!」
稲尾さんは3人を並べてそう怒鳴ると、河原さんから年齢順にビンタを見舞った。簑島高校の尾藤公監督がそうだったように愛のムチ。それはわかっていても殴られてシュンとしたらしゃくだ。私は稲尾さんをにらみ返した。

それから14年後の84年、私の通算200勝達成記念パーティーで稲尾さんはそのときのエピソードを披露してくれた。
「他の選手は泣きそうな顔でもじもじしてるのに、殴るんならもっと殴ってみろと自分から顔を突き出してきたのは、この男が初めてでした」

ビンタだけなら、ちょっといい話で終わるのだが、続きがある。私たち3人は稲尾さんからヨガ修行を命じられた。
正確な場所は覚えていない。たしか静岡県の三島から入った山の中だった。12月10日、詳しいことは何も聞かされず、「心身を鍛えてこい」という指令に従った。

行って驚いた。早朝6時に太鼓で起こされ、河原さんは部屋、私は廊下、柳田は便所の掃除。終わったら山道を走らされ、到着したところは滝壺だった。素っ裸になって飛び込めという。
逃げるわけにはいかない。滝壺は冷たいというより痛かった。初日はたらたら走ったが、2日目から一生懸命走った。体を温めておかないともたなかった。

そんな荒行をしながら朝食は抜き。昼は山菜とごはん一杯で夜は茶そば一杯。腹が減ってしようがない。昼の1時間ほどの自由時間に山を下りてパンを買い、隠しておいて夜食べた。 3日目には河原さんが「夜逃げしようか」と言い出した。「1週間は我慢しようよ」と私が言い、1週間後に稲尾さんに電話して帰らせてもらおうと思ったら「オレももうすぐ行くから待っとれ!」 楽しいオフを過ごしている、チームメートがどれだけうらやましかったことか。そのうち稲尾さんもやってきて結局、予定の2週間みっちり修業した。

帰りに稲尾さんは京都の嵐山でごちそうを食べさせてくれた。59年に主演した映画「鉄腕投手 稲尾物語」でお母さん役を務めた浪花千栄子さんに紹介された店らしいが、私たちには上品すぎた。早く福岡に帰って遊びたかった。

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