【甲子園V腕座談会】(終)今だから話せる「蔦さん伝説」
1981年夏の報徳学園・金村義明氏(51)、83年春の池田・水野雄仁氏(49)、83年夏、85年夏のPL学園・桑田真澄氏(47)=いずれもスポーツ報知評論家=の甲子園優勝投手トリオによる豪華座談会の最終回です。ぶっちゃけトークばかりでありません。みなさん、高校野球の未来について、熱く語り合いました。
水野(以下、水)「ドラフトで近鉄は清原を指名したんですか?」
金村(以下、金)「したよ。近鉄も。それでパンチョ(パ・リーグ広報部長の伊東一雄氏)の声を聞いた時、ホッとしたのを覚えてるよ。それで、ホッとして飲みに行ったよ。こんなもん来てしもうたら、どっちも一塁と三塁しかできへんやん。で、水野の時は『やまびこ打線』のインパクトが強烈やった。で、今聞いてガックリや。そんな練習もせんとな」
水「蔦さんの執念ですよ。30年間の。プロ(東急=現日本ハム)を1年でクビになって、監督になったのが28歳。それで、甲子園初優勝が58歳だから、日本一になるまで30年かかってる。甲子園初出場は20年目だったんだけど、それまでは負け続きでね。徳島商に負け、やっと徳島商に勝っても、南四国大会で高知商とか土佐に負けるわけよ。まだ1県1代表じゃなかったから」
金「高知が強い時や」
水「相当苦労してね。蔦さんを悪く言う人って、本当に全国どこにもいないけど、池田の町の人は当時、悪いことしか言わなかった。もう、スナックとかも全部出入り禁止でね。負け続けて、飲み続けて、もう、先生の給料では飲食代が払えず、池田の町中で蔦さんが寝てるのは普通だった…っていうから」
金「好対照やなあ。『球道即人道』の(PLの)中村監督と」
水「蔦さんは、もうアル中でしたよ。甲子園に行った時も、宿舎で6時くらいに晩メシを食べるんですけど、一升瓶を持っててね。震えてるんだけど、飲むとピタッと止まる。毎日1升飲むの。それから串揚げ屋か寿司屋に行っちゃう。ミーティングなんて、やることないんだから。オレらは池田にはないマクドナルドに買い出しに行くわけ。あとはケーキとか。池田にはケーキ屋さんもないから。それで、ブン(蔦氏)が夜の10時とか11時くらいに酔っぱらって帰ってきて…」
金「お前ら、蔦さんのことを『ブン』って言ってたのか」
水「文也だから『ブン』。先輩からずっと『ブン』『ブン』って呼んでいて…近くに来ると『先生』って言うんですけど。PLの中村さんは『ボウ』だよな。由来は?」
桑田(以下、桑)「『順司』から『順ボウ』っていうあだ名だったらしいんですよね。そこかららしいです」
金「オレらの北原(功嗣)監督は、みんな『おっさん』って呼んでたな。ここだけの話」
水「目の前では『おっさん』とは言わないでしょ?」
金「目の前では『はい』と『いいえ』以外は言えへんやんか。高校時代は、監督の名前を呼ぶことないやん」
水「どこの高校も、先輩から受け継がれる監督の呼び名ってあるんですよね。いずれにせよ、ブンの執念が、勝ちたいという思いが、次々と新しいことを取り入れる柔軟性につながったんだと思います」
―1980年代は高校野球人気が非常に高く、周囲を取り巻く環境もすごかったのでは?
金「池田はすごかったよなあ。池田町民がみんな池田高校のファンでな。優勝したら、観光バスが学校の前に止まって、優勝旗で記念撮影するんやって」
水「授業を受けていて、毎日、観光バスが10台、20台は来ていたかなあ」
金「観光ルートになってんねん」
桑「試合とかじゃなくて?」
水「授業だよ」
金「当時はそうやったんや。みんな、たらいうどん食って、あの田舎に行って、学校の前で記念撮影して、優勝旗の前で記念撮影するんや」
水「真澄、死ぬまでに1回、池田高校に行ってくれよ。荒木(大輔)さんはこの前行ったんだよ。取材で」
―13年夏から準々決勝翌日に休養日が設けられたり、大会運営は変化しています。次の100年へ向けて、高校野球はどう進んでいけばいいのでしょう。
桑「時代と共に、野球も進化していかないといけないと思うんです。日本学生野球憲章には『選手の健康を増進し、スポーツ障害から守る』と明記されてますから」
金「そうやなあ。今はもう、連投、連投の時代やない」
桑「昔は学生野球しかなかった時代でしたけど、今は大学野球、社会人野球、プロ野球の先に、メジャーリーグもある訳ですから。スポーツ医科学も進歩していて、水を飲んじゃいけない時代から、今は『水を20分おきに飲みなさい』という時代になっています。そういうのをどんどん活用し、取り入れていくべきですよね」
水「日本高野連は常に前向きにチャレンジしてほしいね。投球数とかイニング数の制限、それに日程面なども工夫していかないと。タイブレイク制も含めて、改革に柔軟になって欲しいなあ」
桑「そんなことをしたら『条件が違う』とか『高校野球が面白くなくなる』とか言う人がいるんですけど、絶対にそんなことはないです。やっぱり、甲子園球児のひたむきな姿は、必ずみんなの心を打つんです。だから、大人が勇気を持って改革しなきゃいけない。高野連もいろいろと改善しているとは思うんですけどね。打撃用手袋の使用がOKになったり、ベンチ裏にトレーナーが控えるようになったり」
水「特待生だって、どんどんやっていいと思うけどな。池田なんて田舎の公立校だから、今は有力選手はほとんど来てくれないわけ。でも、ウチみたいな公立校は50年で1回の出場でもいい。その奇跡をオレたちは楽しみにしてるから」
桑「僕も特待生でしたが、学生時代に思っていたのは、特待生だからこそ、野球だけをやっていてはいけない、ということ。それは、秀才になれというんじゃなくて、学校の規則を守ったりとか、授業中も眠いけど頑張って起きるとか。そういう姿勢を見せるのが大事だと思って、3年間を過ごしてました」
金「偉い! その通り!」
水「オレは『私学なんかに負けるか!』とか『都会のヤツに負けるか!』って思っていたけど、PLの話とか私学の話を聞くと『いいなあ』と思うようになって…それでも、心の底では公立を応援している自分がいてね。だけど、アメリカとかドミニカ共和国に行ってみると、『すっげえちっちゃいことを考えてたなあ』って。アメリカの錦織圭の学校(IMGアカデミー)じゃないけど、日本にもそういう学校を作って、世界に通用する選手を育成した方がいいんじゃないか、とか思うようになった」
金「100年の歴史で、いいものは残す、改革していくものはどんどん改革するみたいな、そういうのをやっていかないとね。高校生って純粋で、とにかく『甲子園に出たい』という一心で、必死に白球を追いかけてるから。その辺は大人が環境を整えてあげないと」
桑「高校野球は、日本の大事な文化ですからね」
金「オレは特待生制度には賛成なのよ。貧乏人の子供でも野球やらせてあげてよ、って思う」
水「各県に1校くらい、野球の専門学校があってもいいと思うけどなあ」
―最後に、現代の高校球児にエールを送ってください。
金「オレはもう根性論だから。根性しかない」
水「いいじゃないですか。今はあまりにも根性論を否定し過ぎているところがありますけど、いつの時代だって根性は必要ですからね」
金「じゃあ、『最後は根性』で。最後は精神力が強い方が残ると思うよね。例えば、延長15回、同じ投手が投げ合ってたら、最後の最後には気持ちが強い方が勝つと思う」
水「僕は『前進』。後ろに後退してもしょうがないから。前を向いて、前進していくしかないかな」
桑「僕は『挑戦』ですね。いろんなことにチャレンジして欲しいということと、挑戦って言い換えれば、根性だと思うんです。選手はマウンドや打席で、不安とか恐怖との戦いなので、それに負けないで、自分を信じて挑戦して行って、チャレンジ精神を持って戦って欲しいということですね」
金「いつの時代も、甲子園球児の汗と涙は心を打つもの。今年も後輩たちには頑張ってもらいたいな」
(2015年7月22日・都内で収録)