【甲子園V腕座談会】(4)3年生・水野VS1年生・桑田

2015年8月13日11時0分  スポーツ報知
  • 1985年夏の甲子園でのPL学園・桑田真澄のバッティング。当時3年生
  • 1981年夏の甲子園。決勝で京都商を完封しカエル跳びのガッツポーズをする報徳学園・金村義明

 1981年夏の報徳学園・金村義明氏(51)、83年春の池田・水野雄仁氏(49)、83年夏、85年夏のPL学園・桑田真澄氏(47)=いずれもスポーツ報知評論家=の甲子園優勝投手トリオによる豪華座談会の第4回。金村さんのカエル跳びガッツポーズ、桑田さんが水野さんから打ったホームラン、いろいろありました。

 ―金村さんは優勝した3年夏の3回戦の早実戦は、9回表が終わって1―4の劣勢でした。

 金村(以下、金)「オレらはセンバツの1回戦で大府に負けたでしょ? 夏は1回戦で盛岡工に9―0で勝ったら、もうこれで取り敢えずリベンジや、って。2回戦は前年度優勝の横浜や。『これはまずいな』と思ったけど、たまたまオレが2打席連続ホームランを打って、抑えて勝っちゃった。その次が早実や。これに負けたら、『鳥取に泳ぎに行こう』と予約してたんや。キャプテン(大谷晴重)が。野球部の現役時代は泳いだこともなければ、アイシングもない。よそのチームはやってるやつはおったらしいって聞いたけど」

 水野(以下、水)「オレもなかった。桑田はどう?」

 桑田(以下、桑)「なかったですね」

 金「優勝した後、『仕上げのキャッチボールせい』って言われて。毛細血管ボロボロやで。それでもまだキャッチボールしてんねんぞ。とにかく、『鳥取に泳ぎに行こう』と。『負けたら翌日、すぐ行こう』と言ってた。相手は荒木や。『年下には負けられへんなあ』とかいうような気持ちがあった中、洗練されたヒットエンドランやら何やかまされて、中盤にやられた。それで、もうあきらめた。『もう終わった』『鳥取行こう』と。9回先頭打者はオレで、意地だけで内野安打や。(体力的に)ギリギリのオレがしんどいのに走って。そこからつながって追いついた。兵庫大会でヒット打ったことないヤツがピンチヒッターで出たりな。あの時、報徳のユニホームの重みを初めて感じたな」

 水「『逆転の報徳』ですからね。やっぱり、早実とか報徳とか、PLもそうだけど、勝ち上がって行くと、相手が勝手にコケてくれるというか」

 桑「名前負けしたりね」

 金「兵庫大会でも滝川がそうやったんや。最後、一塁手がトンネルしてくれて。ひょっとしたら、チュウ(村田真一)が甲子園に行ってたかもしれん」

 水「甲子園に行けそうで行けないチームって、絶対にずっとそういうのが続いてる。で、1回でも行くと、後輩たちも甲子園に行ってる。だから、時代を変えるのは大変なんだよね」

 金「報徳も、早実に勝ったんで優勝できたと思うな」

 水「工藤さん(公康=現ソフトバンク監督)に(準決勝で)勝ってるんでしょ?」

 金「工藤はその前に『もういいや』みたいなこと言うてた。『もう、しんどいや』みたいな」

 水「でも、カーブはすごかったんでしょ?」

 金「いや、大したことない。その前に長崎西戦でノーヒットノーランをやって、北陽に勝って、『もう、疲れたあ』みたいな、そんな感じでね」

 水「実際にボールもへばってきていた?」

 金「そうやね。でも、この時は僕、神懸かり的やったから。神がついてたからね。宝塚の清荒神がオレの背中にべったり張り付いてやな。もう、打てばヒット。もう、自分でもビックリするくらいの。(ボールが)止まっては見えへんけど、バッターボックスに行く時に観客の声援がすごいのなんの」

 水「(打率)5割以上も打ってるじゃないですか。通算成績は26打数15安打で、夏だけで見ても22打数12安打だよ」

 金「それでガッツポーズするやろ。ガッツポーズしたら、高野連から『やめろ』って。でも、関係あらへん。やり続けた。こんだけ投げてたら肘上がらないでしょうって感じやけど、(ガッツポーズで)上がりまくってたやん!(笑い) オレらの時はね、宿舎がホテルじゃないのよ。寮で選手の親が来て料理を作ってくれるんやけど、こっちは毎日投げて疲れとるのよ。それでもビフテキにトンカツとかが出てくる。『テキにカツ』やで。食えるかい!(笑い)」

 水「当時は、どこの宿舎でもはやってましたよね」

 金「だから、僕は決勝の前だけは『母親が作った焼き肉が食べたいから』と言って、母親に来てもらったんや」

 水「当時は近畿の学校は、大会中も通いでしたもんね。今は通っちゃいけないんでしょ?」 

 金「同級生が報徳の監督(永田監督)をしとるけど、みんなホテルやな」

 ―水野さんは最後の夏、桑田さんのPLに敗れ、史上初の3季連続優勝を逃しました。甲子園で記憶に残ってる試合は、やはりPL戦ですか?

 水「負けたのはPLさんだけですからね。真澄に打たれたホームランが、高校生活で初めてだったんだよ。3年の春は防御率0・00で優勝したんだけど、前年秋から公式戦は自責点0のまま優勝したんだから」

 桑「甲子園だけじゃなくて? すごいですね」

 水「あのホームランは、ツーストライクと追い込んで、1球高めで遊んで外で勝負にいこうかな…と思ったら、高めにいききれなかったのを『コポーン』って打たれて。動揺したまま投げたら、次のバッター(住田弘行)にもホームラン打たれた」

 金「清原は抑えたんやな」

 水「清原は4三振。でも、真っすぐがダメで…後に渡辺智男(伊野商)が清原から3三振を取るんだけど、あんな真っすぐはオレにはなかった。だから、スライダー系の球で。まだ1年生で粗さがあったから。PLはウチらに勝ったことで、この2人が劇的に伸びたと思うよね。責任を感じたんじゃないですか。負けられないというか」

 ―桑田さんにとっても大きな試合だった。

 桑「どこでも言っている話ですけど、勝てるなんて思ってもいませんでした。中村監督も『負けても、同じ高校生とは思えない、なんてことは言うな』とミーティングで言ってましたから」

 水「あの時のウチは強かった」

 桑「先輩に言われたのは『10点以内に抑えろ』と。『何でですか』って聞いたら、『大阪の代表として恥だから、9点までにしとけ。失点は1ケタにしとけ』って。僕は『1イニングに1点でいいんだ、1点は取られていいんだ』という思いで投げたんです。初回のピンチを無失点で切り抜けて、『ゼロが1個ついた。ラッキー』と思うと同時に自信が持てました。そこからはスイスイ。でも、9回2アウトまで勝てるとは思わなかったですね」

 ―金村さんが優勝した時、水野さんは1年生。桑田さんは中学2年。当時の金村投手のイメージは?

 桑「やっぱり、金村さんの『カエル跳びガッツポーズ』のパフォーマンスは一番鮮明に覚えてますね」

 金「なんで京都商であれをしたか知ってる? 最後、角(研一郎)っていう左バッターが代打で出てきたの。で、オレはセンバツの大府戦の途中からピッチャーをあきらめて以来、地方大会からずっとかわしのピッチングでやってきてた。もう、2―0で勝ったも同然や、と。オレはピッチャーの意地で『こいつだけは絶対に変化球は放らんと3球で仕留めたろ』思うて。それで、アウトコースの直球を続けて3球三振で抑えてん。もう、天にも昇る気持ちで『やったあ!!』ってガッツポーズしたんや。しかも、後で聞いたら、あれがちょうど100球目やったって。こんなん、神様がついてるとしか考えられへんわな。まあ、今、ビデオで見るとボールやけどね(笑い)」

 水「僕は1年生でしょ。甲子園に行けずに、練習ばっかりだから見ていなかった、というのが正直なところですね。その前のジャンボ宮城(弘明=横浜商)さんとか愛甲(猛=横浜)さんとか、中学校の時が一番見ているんですよ。どこかの遠征に行ってる時に、ラジオで工藤さんがノーヒットノーランをやったっていうのを聞いて、『ああ、工藤っていうピッチャーがいるんだ』って思ったことを覚えてる。でも、ラジオだから映像はない。声だけの記憶です」

 ―逆に、金村さんは2人の高校野球での活躍は?

 金「オレはもうプロに入っていたけど、PLはずっと近くで見てたし、桑田は1年から出ていたから『とんでもないやつや』って。今もよく言うんですけど、『甲子園が僕のピークでした』と。そのピークをすぐに終わらせたのがKKやからね。あと、近鉄よりPLの方が人気があったのだけは鮮明に覚えてる。当時は(近鉄の本拠の)藤井寺球場で大阪大会をやっていたけど、確実に近鉄戦より客が入っていた。ただ、近鉄に『清原だけは来るな』って。『せっかくレギュラー取ったのに、あれが来たらポジションかぶるやんけ!』って(笑い)」

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