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日めくりプロ野球10月

【10月23日】1955年(昭30)ヤンキース名将認めた「打者ではヤマウチ」

半世紀以上も前、ヤンキースの監督に「メジャーに行っても通用する」と評価された、毎日・山内。代名詞の背番号8から「エイトマン」とも呼ばれた
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 【ヤンキース10−2毎日】戦後10年。米大リーグの名門、ニューヨーク・ヤンキースが、名将ケーシー・ステンゲル監督に率いられ、毎日新聞の招請で単独チームとして初来日した。時差ボケも解消しないまま、後楽園で毎日オリオンズ(現ロッテ)と第1戦を行い、10−2で一蹴。格の違いをはっきり見せつけた。

 ヤンキースはこの年、ワールドシリーズでドジャースに3勝4敗で敗れたとはいえ、実力はメジャーNO.1。足の故障で主砲ミッキー・マントルがベンチスタートになった以外は、ベストメンバーを組み、先発には16勝左腕トミー・バーンを起用した。

 親善試合といえども、ヤンキースに支払われたギャラは4億円超。当時の鳩山一郎首相の月給が15万円だった時代、破格の金額にヤンキースも手抜きは許されなかったようだ。

 荒巻淳、中川隆、和田功の3投手を繰り出した毎日。初回に5点、3回に3点を奪われ勝敗の行方は早々と決まった中で、気を吐いたのが弱冠23歳の若き4番打者・山内和弘(後に一弘)左翼手。2回、バーンのスローカーブを左翼席に運ぶソロ本塁打。4回にも強烈なライナーの中前打を放ち、毎日打線の中でただ一人マルチヒットを記録した。

 山内は全日本メンバーにも選ばれ16試合中8試合に出場し、2本塁打4打点、3割7分9厘。ステンゲル監督が大リーグに連れて行っても通用する選手として「打者ではヤマウチ、フィルディングではヨシダ(吉田義男遊撃手、阪神)」の名前を挙げた。

 ヤンキースは11月13日までに、在日米軍の協力で飛行機を使って、北は札幌円山、南は福岡・平和台球場まで転戦。15勝0敗1分と完璧な成績を残した。

 日米野球で大リーグ単独チームはのべ14チーム来日しているが、無敗で帰国したのは、この時のヤンキースのみ。約半分の7試合で2ケタ得点を挙げ、投げては防御率1・37。スポンサーのビール会社社長の言葉通り「まさに大人と小学生」がゲームをやっているようだった。

 ところで、ヤンキース戦の第1戦は変則タブルヘッダーの第2試合だった。“前座”となった第1試合は、なんと巨人−南海(現ソフトバンク)の日本シリーズ第5戦。雨でシリーズの日程がずれ、あってはならないはずのダブルヘッダーになってしまったのだ。

 前座試合は午後1時1分開始。日本一へ王手をかけた南海だったが、巨人は1回、それまで控え捕手だった3番・藤尾茂の先制3点本塁打などで4点を先行、7回にも4点を取り、9−5で打ち勝った。

 両軍計21安打と打線が活発だった試合は、3時39分に終了。ヤンキースの球場入りまで2時間を切っていた。グラウンド整備に、場内の清掃、セレモニーの準備…球場関係者、職員はてんてこ舞いの忙しさで、歓迎ムードというよりは慌しい雰囲気の中で世界最強軍団を迎えたのであった。

1955年10月23日 日米親善野球第1戦 毎日−ヤンキース 後楽園第2 ヤンキース1勝
  1 2 3 4 5 6 7 8 9
ヤンキース 10
毎    日
投 手
ヤンキース ○バーン(1勝)、モーガン−ベラ、ハワード
毎    日 ●荒巻(1敗)、中川、和田功−ルイス
 
本塁打 ハワード1、2号(ヤ)山内1号(毎)
三塁打 ハワード、ノーレン(ヤ)
二塁打  
ヤンキース   10安打5三振5四死球 0盗塁3失策5残塁
毎    日   7安打3三振3四死球 0盗塁2失策8残塁
球審・スティーブンス  試合時間2時間5分 観衆3万人  
1955年10月23日 日本シリーズ第5戦 巨人−南海 後楽園第1 南海3勝2敗
  1 2 3 4 5 6 7 8 9
南  海
巨  人
投 手
南  海 宅和、円子、中村、大神、●小畑(1勝1敗)、野母−松井、筒井
巨  人 大友、安原、○別所(2勝1敗)−藤尾
 
本塁打 藤尾1号(巨)飯田2号、深見1号(南)
三塁打  
二塁打 加倉井(巨)森下(南)
南  海   10安打6三振5四死球 2盗塁2失策10残塁
巨  人   11安打1三振4四死球 5盗塁0失策8残塁
球審・二出川  試合時間2時間38分 有料入場者数1万7320人  

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