【巨人軍80周年あの時】巨人戦3000試合担当“伝説のウグイス嬢”山中美和子さんが語る

2014年11月27日6時0分  スポーツ報知

 巨人軍の主催試合で、選手の名前をコールする「場内アナウンス」を担当している山中美和子(58)は、後楽園球場時代の1977年から“ウグイス嬢”を務めている大ベテランだ。1軍の公式戦からオープン戦、そして、以前は2軍戦も担当するなど、ここまで3000試合以上もマイクの前に座ってきた。そんな山中がチーム80周年の節目に、忘れ得ぬ「あの時」を語ってくれた。

 山中が巨人軍の球団職員になったのは、1977年のこと。それまでは神奈川県高等学校野球連盟(高野連)の職員として、春、秋の県大会、夏の甲子園予選でウグイス嬢を務めていた。

 「子供の頃から野球が大好きで、高校(県立追浜高)時代は野球部のマネジャーをしていたんです。それで、卒業後も何か野球に携わる仕事がしたい、と思っていたところ、『県の高野連の職員にならないか』という話があったんです」

 当時、神奈川は東海大相模の全盛期。2歳年下のスター・原辰徳内野手(現巨人軍監督)の名前も当然、コールしていた。

 「『5番、サード・原辰徳君』って、フルネームで。チームに辰徳選手のいとこで『原雅己』選手がいたので、区別するためにフルネームだったんです。私が高校3年の時、原選手はまだ1年生で体が細かったけど、場内放送を担当する頃には、すごく大きくなり、大変なオーラがありました」

 そんな山中に、巨人軍への転職を勧めたのが、当時の神奈川県高野連・清水仲治理事長だった。

 「球場からの帰り道だったかな…。『巨人が場内放送係を募集しているよ。応募してみたらどうだい』って言われたんです。清水さんは『ダメだったら高野連の仕事を続ければいいんだから』と言ってくださいましてね」

 一念発起。1977年の夏、山中は巨人軍球団職員募集の試験にチャレンジした。ところが、書類選考の段階で落ちてしまう。山中の自宅は神奈川・逗子市にあった。現在のように、JR(当時は国鉄)の電車本数は多くはない。「ナイターが終わってから帰宅できない」というのが理由だった。

 「『ああ、ダメだったのか』と思っていたら、球団から電話があったんです。『入社試験を続けませんか』って。それで、試験を続けると、ある日、原稿を読まされましてね。『5番、レフト・末次、背番号〇〇』というように『〇〇』という穴を埋めるような原稿でした。アナウンスの力と知識をいっぺんに試しているようなものでした」

 実はこの時、巨人は“即戦力”のウグイス嬢を探さなければならない事態に見舞われていた。1953年から放送係を務めていた務台鶴が病気療養に入っていたのだ。古い巨人戦の映像でおなじみの「4番、ファースト、王」の声の主。王の調子の良しあしが、打席の構えで分かる―というほどの大ベテランだ。もう一人、放送係がいたが、こちらも結婚退職が決まっていた。高校野球の場内アナウンス経験がある山中は、チームにとって救世主だったのだ。

 こうして、山中は試用ながら巨人軍の球団職員となった。8月末には、さっそく多摩川で2軍戦の放送を担当。秋を迎えた頃、体調を崩していた務台が多摩川グラウンドにひょっこり姿を見せた。

 「ちょうど雨の日でした。務台さんは傘も差さずに、2軍戦を土手の上から見ていてくださったんです。試合後、お話する機会があり、私は『次打者の名前をコールするタイミングはどの辺りが良いのでしょうか?』と聞いたんです。先頭打者なら、投球練習の球が捕手から内野回しのために返球された時なんですが、先頭以外は、どうしてもタイミングがつかめなかったんです」

 すると、務台はこう答えた。

 「あなたがお客さんだったら、ジャイアンツファンだったとしたら、どのタイミングで聞きたいの…それを考えなさい」

 選手の名前のコールを聞いて、ワーッと盛り上がりたいのがファンだ。「ジャイアンツファンなら、それが分かるはず」と務台は言った。

 「それを聞いて『ハッ』としました。私がアマチュア時代、務台さんのアナウンスで『すてきだな』と思ったのは、倉田(誠)投手を呼ぶ時だったんです。倉田さんがリリーフで活躍している時期があり、務台さんが『ピッチャー、堀内に代わりまして…』と、ここでひと呼吸置いて、『倉田』とアナウンスすると、後楽園全体が沸いたんです。それが『いいな、すてきだな』って…だから、務台さんのアドバイスは効きました。それからは、ファンの気持ちを一番に考えて、コールするようになりましたね」

 務台は翌78年5月にこの世を去る。山中は、今も命日には都内にある恩人・務台の墓を墓参している。

 1軍戦のデビューは翌春のオープン戦だった。試合数をこなすようになると、とんでもない失敗もしでかした。新浦寿夫が投げている試合だった。常にスコアブックを付けながら場内放送をしているが、カウントを間違えて勝手に四球と思い込み、次打者の名前をコールしてしまった。

 「どうしていいのか分からずに、マイクのスイッチを切って、じっと下を向いていましたね。後で新浦さんが来て、『俺の球が良過ぎて三振だ、と思っちゃったんだろ』と言われたんです。『フォアボールと思って』とは言えず、『はい…』とうなずいてしまいました(笑い)」

 札幌円山球場でのこと。マイクのスイッチが入っているとは知らずに、吉田孝司捕手がキャッチャーフライを打ち上げた瞬間、「あーっ、残念!」と声に出してしまった。

 「確か吉田さんは故障明けでの出場だったんです。せっかく、けがが治って復帰したのに、キャッチャーフライなんて『残念!』と思って声に出してしまったんですが、まさかマイクのスイッチが入っているなんて…球場中に私の声が響いてしまって、長嶋監督をはじめ、選手全員が一塁ベンチから身を乗り出して、私の方を見ていましたね(笑い)」

 現在、巨人軍の場内放送係は山中を含め2名。公式戦、オープン戦、クライマックス・シリーズなど年間約80試合を担当している。以前はこれに2軍戦も担当し、シーズンで120~130試合をこなしていたそうだ。年平均90試合としても、球団職員になった77年から数えると、ゆうに3000試合を超える。

 その中で忘れられない試合の一つが、1981年の日本シリーズ第6戦だ。巨人は日本ハムと対戦。ともに後楽園球場を本拠地にしており、“後楽園シリーズ”とも呼ばれた。一つの球場だけで日本シリーズを戦ったのは、プロ野球80年の歴史の中で、この一度きりだ。

 巨人3勝2敗で迎えた第6戦。勝てばV9最後の年(73年)以来、実に8年ぶりの日本一が決まる。第1、2、6、7戦と日本ハムがホームだったため、山中は場内放送担当ではなかった。しかし、この試合は後楽園まで足を運び、巨人に声援を送っていた。

 果たして、巨人は勝ち、日本一となった。就任1年目の藤田元司監督が胴上げされ、さあ、日本一のペナントを掲げて、場内一周が始まる―という時だった。試合の場内放送を担当していた日本ハムの職員・川部栄子【注】から「代わっていいですよ」と連絡があり、席を譲られた。

 「驚きましたが、本当にうれしかったですね。川部さんに感謝しました」

 あの時の優勝セレモニーは、巨人がビジター扱いでありながら、巨人軍の放送担当である山中の「巨人軍、日本シリーズ優勝です。ご声援ありがとうございました」との声が彩っていたのだ。

 山中はウグイス嬢として務台が務めた年月を超え、60歳の定年まであと2年、というところまで来た。

 「そこ(定年)までは、頑張ってこの仕事を務めたいと思っています」

 務台の教えを胸に、来シーズンも山中の涼やかな声が東京ドームに響き渡る。=敬称略(取材・構成 名取 広紀)

 ◆山中 美和子 1956年11月4日、神奈川県生まれ。58歳。神奈川県立追浜高時代、野球部のマネジャーを務める。卒業後、神奈川県高野連勤務を経て、77年8月に巨人軍の球団職員に。現在は運営部に所属し、1軍公式戦の場内アナウンスなどを担当している。趣味は宝塚歌劇の観劇。

 【注】順心女子学園卒業後、東映フライヤーズに場内アナウンス担当として入社。日拓―日本ハムと親会社が変わる中、ウグイス嬢としてマイクの前に座った。04年、チームが札幌に移転するのを機にアナウンス係から退いた。

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