第20章 聖奠的諸式
洗礼と聖餐が2つの福音的サクラメント(聖奠)ですが、聖公会では、他に5つのサクラメントと一般的に呼ばれているもの(聖奠的諸式)を行います。「一般的に呼ばれている(commonly called)」という言葉は、軽蔑して言っているのではありません。そうではなくて、イエス様によって明らかに命じられた2つのものと区別しているのです。しかし、たとえ5つのものが主イエス様御自身によって制定されなかったとしても、それらはキリスト教のいちばん早い時期から、確かに行われていることなのです。

堅信

洗礼の時、わたしたちはキリストのメンバー(一部分、構成要素)になり、またキリストの教会のメンバーにもなります。堅信式では、わたしたちは、洗礼の誓約を"堅める"のです。その誓約は、ふつう幼児の時、両親と教父母がわたしたちに代わって行ったものですが、この式の中で、洗礼の約束と責任を、わたしたち自身で公言するのです。

初代教会では、洗礼と堅信は、ひとつの礼拝の中での儀式でした。しかし、幼児洗礼の習慣が一般的になると、教会は、洗礼を受けた人が、キリスト教信仰の特権と責任を理解できる十分な年齢になるまで、堅信式の年齢を遅らせることが良いと考えるようになりました。今日では、キリスト教的には、堅信式でわたしたちは成人になるのです。

堅信式は、主教によって行われます。主教が祈りをこめて手を置くことが、外側の目に見えるしるしです。候補者の上に聖霊の賜物が降るように祈るのです。この行為の中で、候補者は大人として委託されたことを行うための内なる聖霊の恵みを受けます。

聖職按手式

洗礼と堅信によって、すべてのクリスチャンは奉仕職を委託されています。しかし、この共通の奉仕職の内側に、特別な奉仕職があります。監督することと仕えることです。これは、主教、司祭、執事の奉仕職です。聖職按手式は、サクラメントであり、祈りと手を置くことによって、この仕事をするために選ばれた人は、恵みと忠告の霊を持った、権威と賜物が与えられます。

旧約聖書では、手を置くことは、権威がある人から他の人に移ることを意味しました(民数記27・18以下)。この同じ趣旨が、聖職按手式のサクラメントに備えられています。主教は候補者に手を置いて、「・・神があなたに与えられた権威のしるしです。」と言います。

しかし、聖職按手式のサクラメントは、候補者が奉仕職への特別な賜物を受けることも意味します。司祭按手式の中で主教は、「主の教会における司祭の務めと働きのために、主の僕・・・に聖霊を注いでください。」と言います。

個人懺悔

司祭の働きのひとつは、イエス様の名によって、神様の赦しの宣言をすることです。最初のイースターの夕方、イエス様は弟子たちに現れて言われました。「『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」(ヨハネ20・21〜23)。主教は、それにならって言葉を語り、司祭を按手する行為の中で、使徒の仕事を委託します。

この奉仕職は、公的礼拝の中で、一般懺悔として行われます。司祭と信徒は、彼らの罪と、それを赦されることを願っていること、そして新しい命へ導かれる意志を確認します。すると、司祭は赦罪、つまり罪を悔やみ、告白する人々に、キリストの赦しを宣言します。

しかし、聖公会においては、これだけが良心に呵責のある人に提供できる道ではありません。以前の祈祷書では、聖餐式の勧告の中で、司祭はこう言っていました。「もし、(前の方法に従うとも)なお心おだやかならぬ者あらば、我にきたるか、または、ほかの司祭に行きて、その憂いを述べよ。さらば赦罪の恵みと魂を健やかならしむる教えと力とを受けて、疑いを去り、良心やすんずることを得べし。」多くのクリスチャンは、この招きを受け入れることが助けとなると知っています。そして個人懺悔を、司祭のいるところで行います。しかし、聖公会員のだれも個人懺悔は強要されません。わたしたちのルールは、「すべての人は、行うことができる。だれにも義務ではない。何人かは、するべきだ。」ということです。個人懺悔は、すべての人に用いることができます。しかし、だれも要求されません。同時に、それはわたしたちの教会の経験してきた部分です。何人かには、神様との平和を見出すために必要な道です。

聖婚式

人類は一夫一婦が自然の姿である、と言われています。だから、わたしたちには、伴侶はひとりだけです。このルールには勿論例外があります。太古の族長たちは、家畜のように、妻たちを選んでいました。ソロモン王には700人の妻がいたと言われています。また、あるハリウッドの映画スターは、その例にならおうとしているように見えます。しかし、ほとんどの人間は、今日でも、一夫一婦を保っており、結婚は人類の重要な制度です。

結婚は、クリスチャンだけの独特の制度ではありません。しかしながら、クリスチャンの結婚理解というのは、あります。

旧約聖書の結婚理解は、ふたつの基本的な信念によって決まりました。創造と人類の性は良いものであって、夫と妻は、"ヘセド(「愛」というヘブライ語)"によってお互い結びついています。そして、同じ愛の特徴を、神様はイスラエルに示しました。ホセア書は、かなり詳しく、この理解を探索します。ホセアは、正しい道からそれた妻に対して誠実ですが、同じ誠実さ(ヘセド)を、神様はイスラエルに表わしました。神様の、イスラエルに対するヘセドは、旧約の結婚のモデルです。

新約聖書は、夫婦間の愛が、キリストの教会に対する愛と同じでなければならない、と確信して、この旧約聖書の視点を発展させました。自己犠牲と、永遠の愛です。結婚のサクラメントで、手をたずさえ、誓いと指輪を授受することによって、男と女は、内的な真実の深まりのしるしとします。彼らの関係は、神様がキリストにおいて、明らかにされた自己犠牲の愛の性質によって強められ、清められます。彼らの、共にある生活は、愛のサクラメントになるのです。

病人への塗油

福音書は、イエス様が病人を癒された事実を証言しています。使徒たちも「そして多くの悪霊を追い出し、油を塗って、多くの病人をいやした。」(マルコ6・13)。そして初代教会もこれに続きました。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」(ヤコブ5・14〜15)。ですから、いやしの奉仕職が教会によって、初めから行われていたことは、疑いありません。

中世において、このサクラメントは、死に臨んだ人に対して行われました。ですから司祭の到着は、患者には希望のないことを示していました。しかしながら、最近、病人への塗油は、復活を経験しました。それは今では、体と心に病を持っている人のいやしに、一般的に用いられています。病人への塗油のサクラメントにおいて、患者はキリストにおけるいやしのための祈りがささげられる間に、聖別された油を塗られるのです。油は外側の目に見えるしるしで、キリストのいやしの力は、内側の霊的恵みとして、サクラメントの中で授けられます。

Q1.堅信式を行う目的は何ですか?

Q2.聖職按手式では、権威と賜物が与えられる、と著者は言いますが、「権威」と「賜物」とは、どのようなものだと、あなたは考えますか?

Q3.祈祷書の298ページには、「個人懺悔」がありますが、あなたは、今、これをやろうという気持ちがありますか?

Q4.私は大学時代、ホセア書11章を読んで、大変感動したことがあります。一度ホセア書を読んでみてください。どんな感想を持ちましたか?

Q5.祈祷書335ページには、病人への「塗油」があります。あなたは、司祭が塗油をしているのを見たことがありますか? その効果について、どのように考えますか?

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第19回のふりかえり

前回のテキストの5頁、Q3の3行目の「といういことが起こるか」は、「ということが起こるか」の間違い(誤植)でした。熱心にテキストを読んでいただき、指摘をうけて、感謝です。

Q1.について
著者は、聖餐式の外なる目に見えるしるしとしての4つの行為を「パンとぶどう酒を取ること」「神様に感謝すること」「パンを裂くこと」「洗礼を受けた共同体の中でそれを分かち合うこと」と言っています。

ただ、注意しておいていただきたいことは、この4つの行為は、祈祷書の174頁〜175頁、あるいは、178頁の司祭の唱える言葉を意味するのではないということです。

聖餐式の中で、パンとぶどう酒が聖別されるのは、司祭の言葉の部分ではなく、奉献で、献金と一緒にパンとぶどう酒が祭壇に供えられた時から、共同体が陪餐するまでの一連の礼拝のなかで聖別されているのだ、という理解が必要なんだ、ということなのです。

中世以来の伝統で、司祭の唱える制定語は、特別なものと考えられ、パンを裂くことは、キリストの十字架上の死の象徴、と考えるような傾向があったのですが、現代ではそれは違う、と言われています。4つの行為の、1番目と3番目は、2番目と4番目のための実際的な必要手順で、感謝するために、パンとぶどう酒を取るし、分かち合うために、パンは裂かれるんだ、ということでしょう。

ですから、聖餐式は、「感謝」(ユーカリスト)と「分かち合い、交わること」(コミュニオン)という強調点がある、というが、近年の聖餐式についての考えなのです。

Q2.について
エマオ途上の弟子たちの物語全体が、聖餐式の構造をしている、というテキストの解説を読んで、私は驚いてしまいました。確かに、宿の食卓に着いて、イエス様のなさった行動は、聖餐式の4つの行為そのものなのですが、その宿につくまで、イエス様と知らずに、弟子たちは、自分たちの幻滅と混乱を告げることは、懺悔であり、イエス様が聖書全体の説明をされたことは、旧約、使徒書、福音書を読み、説教を聴いている、聖餐式の前半部分だ、というわけですね。今まで、このような説明を受けたことがなかったのですが、長い伝統の中では、このような解説もされてきたんでしょうね。

Q3.について
聖餐聖別の現象について、聖公会は極端なプロテスタントの考え方、あのパンとぶどう酒は、記念するしるしに過ぎない、象徴だ、という説明を避け、また極端なカトリックの教え、あれは本当にイエス様の体と血になった、というのも避けたい、ということで曖昧にしています。

はっきりさせることで、それ以外の考えを排除するのではなく、できるだけ、この礼拝を通して、少々の違いはあっても、ともに聖餐に与ろう、としているのです。

39箇条のうちの、「第28条 主の晩餐について」には、次のような解説があります。

主の晩餐は、キリスト者が相互に守るべき愛のしるしであるばかりでなく、それはむしろキリストの死による私達の贖いの聖奠(秘跡)である。そこで、これを正しく、ふさわしく信仰をもって受ける者にとっては、私達のさくパンはキリストのからだにあずかることであり、同様に、祝福の杯はキリストの血にあずかることである。主の晩餐における実体変化(即ち、パンとブドウ酒の実体の変化)は、聖書によって証明されることが出来ない。それは聖書の明瞭な言葉に反し、聖奠(秘跡)の本性を放棄し、多くの迷信に機会を与えた。キリストのからだは、晩餐において、ただ天的な、また霊的な仕方によってのみ与えられ、受けられ、食せられる。キリストのからだが晩餐において受けられ、食せられる方法は信仰である。主の晩餐の聖奠(秘跡)が保存され、運び廻され、また奉挙されたり、あるいは拝礼されたりするのは、キリストの定めによるものではない。

Q4.について
ある、回答者の文章を紹介しましょう。

『サクラメントの中で、わたしたちはイエス様の命と死とよみがえりを分かち合います。聖餐式の礼拝を式文に沿って進めるうちに、祈りの言葉を唱え、聖書の御言葉を聞き、懺悔の思いのうちに、わたしたちは現存するキリストの命と一体になり、その命を分かち合います。司祭の言葉を聞き、司祭のパンを取り、祝福し、裂き、与えるという行動を通して、2千年の時を隔てたキリストの行為を実際に見ます。このようにキリストのよみがえりとその命のわかちあいが聖餐の中で起こるということを信じて陪餐することが、わたしたちが聖餐に参加するということです。』

みなさんは、どのようにまとめられたでしょうか。

Q5.について
森中部教区主教は、著書マラナ・タの中で、

『初代教会では主日を中心に「感謝」(ユーカリスティア)という名前の礼拝が献げられていた。なぜなら、人間と共にすべての神による被造物の最終目的は、創造主である神に「感謝・賛美」を献げることだからである。神はその子イエス・キリストにより、ご自身と被造物との壊れた関係を和解・修復され、造り主なる神への感謝を可能にしてくださった。しかし目に見える形での全被造物の感謝は主イエス・キリストの来られる完成の日である。その間、そのことに気づいている教会は、この世界全体が神の恵み深い支配のもとにあること ― 感謝できる状態にあること ― を宣べ伝えつつ、日常生活がすでに感謝の礼拝生活になっていることの焦点として、主日に集められ、この世界を代表して神に「感謝」を献げているのである。』

ということで、

『ローマ・カトリック教会では「ミサ」が正式用語であり、表題上の変化はないが、諸聖公会では今回の改正で劇的に変わった。これまでは「ホーリー・コミュニオン」(聖なる交わり)という宗教改革時(16世紀)に回復した意味つまり陪餐を示す表題から、ほとんどが「ホーリー・ユーカリスト」(聖なる感謝)となったのである。もちろんローマ教会でも、閉祭の儀の中でミサを「感謝の祭儀」であると述べている。』

と書かれています。ただ、アメリカ聖公会の祈祷書では、「ホーリー・ユーカリスト」になっていますが、英国聖公会の、昨年出版された祈祷書は、相変わらず「ホーリー・コミュニオン」と表記されていました。

2001年7月1日
担当者 教育部長 司祭 小林史明


アングリカン