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だが、授業時間の半ばでノートの記述は途切れてしまう。しどろもどろになりながら、即興で講義を続けた。県内初の音楽科の授業。あらゆる面で台本が無い困難と、筋書きを作り上げる若々しい創意とが、真新しい校舎の空気を満たしていた。 「早期教育の体制は整ったが、音大への橋渡しになる高校教育が抜け落ちている」。教頭の服部頴明(現理事長)は娘が通うピアノ教室の講師荘良江の悩みを聞き、方針転換を決意した。 それまで服部は、本間彦作静大教授(当時)と音楽短大の構想を練っていたが、「刺し身のつま程度だった」高校音楽教育の改善こそが急務と知る。音楽科の設立に向けて昭和三十七年、ほぼ独断で行動を起こした。 桐朋、上野学園、菊里、東京芸大などの名門を訪ね歩いて施設設備を見学。新校舎の平面図を書き上げ、カリキュラムを研究した。経営計画も立てたが、「立てる本人さえ確信がなかった」。 建設費や人件費は計算できても、肝心の生徒が集まるかどうか。「失敗すれば経営に響く」。理事や教職員の反応は極めて冷たかった。服部は愛知県岡崎から静岡までの中学校百校余りに出向いて趣旨を説明し、生徒集めに東奔西走した。 一期生関口秋子(昭43卒、愛知県尾張旭市)の両親は当初、音楽科進学に反対だった。「服部先生が自宅にまでやって来て、親を説得したんです」。 教科書選びもままならない中、音楽科は始動した。三期生で現音楽科講師の田中(旧姓斉藤)恵子(浜松市高町)は「先生も生徒も手探りの状態。停滞することなど考えられなかった」と振り返る。 詰まるところ、楽譜に向かうほかはなかった。一日六時間もピアノを弾き、歌い、音楽談議に花を咲かせた。職員室は生徒と講師の議論の場。教育論はもとより、制服、清掃の在り方まで、すべてが論争の火種になった。 辰己(旧姓内田)光子(昭43卒、富山県呉羽町)は「三日以上もピアノを触れないのは不安」と訴え、修学旅行をボイコットしてしまう。決まりきった“台本”を必要としなかったのは、むしろ生徒の方だった。
(文中敬称略)
(次回は1月16日から掲載します)
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