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ホッとニュース 【8月24日03時14分更新】
鉛筆国産、加賀・大聖寺が最初 三菱よりも早く
「真崎よりも早く大聖寺で鉛筆が量産されていたことは事実」。こう力説するのは、加 賀市の見附裕史地域振興部長だ。見附部長は若いころ、同市教委学芸員として市史編纂( へんさん)に携わり、「大聖寺の鉛筆製造」を調べたことがあるという。調べた内容を発 表した加賀江沼地方史研究会の雑誌「えぬのくに」を見せてくれた。24年前のものだ。 それによると、1875(明治8)年、江沼郡富士写ケ岳片谷村で良質の黒鉛が見つか ったことがきっかけで、旧大聖寺藩士の飛鳥井清らが、旧士族の柿沢理平に鉛筆の製造法 を学ばせた。旧士族の生活の糧にしようと考えたのだ。 飛鳥井と柿沢は明治10年、鉛筆の製造工場である「加州松島社」を現在の加賀市大聖 寺松島町付近に設立。明治11年12月に試作品の製造に成功し、明治15年には海外製 の鉛筆に劣らない製品を作り出したという。真崎が工場で鉛筆製造を始めた明治20年ご ろ、加州松島社は既に大量生産を行っていたという記録もあるそうで、どうやら「日本初 」は間違いない。 ただし、全国的には全くといっていいほど知られていないのが現実だ。見附部長は「三 菱鉛筆本社に電話をして教えたら、担当者はとても驚いてたなあ」と話す。 地元でも詳しい人は少ないが、加賀市観光ボランティア大学長の竹本利夫さんは「日本 初かどうかはさておき、大聖寺で作られていた鉛筆が国外でも評価されていたことは事実 です」と誇らしげだ。竹本さんによると、加州松島社の鉛筆は、明治16年のアムステル ダム万博に出品され、第一級第一等賞を獲得している。 柿沢理平の墓があるという大聖寺下屋敷町の久宝寺を訪ねると、墓石に刻まれた法名は 「制鉛院造筆日肇居士」とあった。同寺の川瀬泰彦住職は、「『肇』は『初め』で、鉛筆 を初めて製造したという意味が込められているのでしょう」と教えてくれた。 残念ながら、工場は跡形もなく、当時作られた鉛筆は現存しない。通説が覆らないとし たら、もう一つの「鉛筆の日」があってもいいのでは。
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