ラモス瑠偉

20歳でブラジルより来日し、読売サッカークラブに入団。
Jリーグ開幕後はヴェルディ川崎の中心選手として大活躍、
いつしか「誰よりも日の丸を愛する男」と呼ばれる。
現在はJ2のサッカークラブ「FC岐阜」の監督を務める。

 

最愛の妻


ラモスの故郷は、リオデジャネイロ郊外の村。 9歳の時に、父が他界したため、生活は苦しかった。

姉のジニンヤさんは、ラモスの少年時代の印象を…

姉「彼は末っ子なのに、とても責任感があったわ。」

転機は19歳の時。
地元のクラブチームに在籍していたラモスは、日本の『読売サッカークラブ』から、勧誘をうける。
保証された給料は、ブラジルチームの約3倍。

「家族の支えになりたい…」

ラモスは、その一心で、母の反対を押し切り、一人、海を渡った。

しかし、当時の日本のサッカーは冬の時代。
企業中心のアマチュアリーグはあったが、野球や相撲に比べると、まだまだマイナーなスポーツだった。
さらに、日本の生活にも馴染めなかった。

姉「特に日本の食事が苦手で、『マヨネーズご飯ばかり食べている』と言っていました。」

当然、言葉も通じず、ラモスはホームシックに…
そんなラモスの支えになったのが…

当時のチームメイトだった、松木安太郎氏は、

松木「ホームシック解消というようり、同年代だから『とにかく一緒に盛り上がろうぜ』みたいな感じで、一緒に海に行ったり、六本木に遊びに行ったり、踊りに行ったり、そんな生活していましたからね…」
当初は、お金を貯めて数年で帰国するつもりだったラモス。
仲間に支えられ、1年、また1年と滞在を延長…

だが、来日から5年目、ラモスは、バイク事故で選手生命も危ぶまれる大ケガを負った。
そんなラモスを3ヵ月にわたり、献身的に看護し、支えてくれたのが、後に妻となる、初音さんだった。

松木「初音ちゃんが彼の近くに現れた、このあたりから彼の気持ちが変わった…日本がいいなというふうになってきた。」

初音さんを、初めてデートに誘った時のことを、ラモスは、今でも忘れないという。

出会いから4年後の1984年、二人は国際結婚。
翌年に長男、その3年後には、長女が誕生。
一家4人、幸せな生活が始まった。

実はこの頃、祖国ブラジルのチームから、スカウトの話があった
ラモスは悩んだ末に、大きな決断をする。
それが…

日本への帰化


当時、背中を押したのは、所属チームにいた、ブラジル出身のコーチだった。
かつて、ラモスを可愛がっていたというのが、
この方、ビートたけし!

—ラモスの印象は?

たけし「ブラジル人で、日本語はちゃんとしゃべって上手いんだけど、嘘をつかないっていうか、バレる。
あと、ヨイショを絶対出来ない。だから良い意味で気を使ってもらわなくて済む。ラモスは一直線のタイプだから楽だった。」

—ある番組で、ラモスと共にサッカーをした時のこと

たけし「テレビの単なるバラエティなのに勝ち負けにこだわる…負けるとたけし軍団はラモスから逃げたもの。『おまえら待て、恥ずかしくないか、負けてんだぞ』とか言って。サッカーというゲームにおいて負けるのがいかに情けないかということをよくわかっているから、すごい怒られたね。」

—ラモスから、学ぶべきところは?

たけし「とにかく熱いって感じがする…今の若い人は『たまに熱くなったっていいじゃん』っていうのはあるよね。 ひとつくらい熱くなるものを見つけた方がいいのかなと思う。」

たけし「相変わらすフットサルでも熱くなってるようだけど、そのままであなたはいいと思います。いずれ日本の監督でまた大暴れしてください。」

ドーハ


1993年、日本のサッカーが新たな時代を迎えた。
Jリーグ開幕!!

この時、ラモスは36歳。
引退してもおかしくない年齢だったが、ヴェルディ川崎の主力として、チームのみならず、日本サッカー界を引っぱった

さらにこの年、日本はアメリカW杯アジア最終予選に出場。
日本中が、カタールの首都、ドーハに釘付けになっていた。

初戦の相手、サウジアラビアと引き分けた日本。
続くイラン戦を落としてしまう。
もう後がない…敗戦ムードが漂い、あきらめかけているメンバーに、ラモスは…

元日本代表 柱谷哲二「ロッカールームでラモスさんが『(イランの選手は)必死にきているのに俺たちはユニフォームも汚れていない』と言った。『必死になってやっていない、冗談じゃない、これじゃ勝てるわけない』と怒った。我々は戦う集団を作ったはずなのに、どこかで抜けたときにラモスさんはそれを感じて言える人だった。」

すると、続く北朝鮮戦では、怒濤のゴールラッシュで勝利!

第4戦は宿敵・韓国。これまで、苦汁を舐め続けてきた相手。
先制ゴールは三浦カズ、
そして、1点を守りきり、韓国に歴史的勝利。最下位から一転、日本は首位に躍り出た

しかし、当時ラモスだけは…

元日本代表 都並敏史「韓国戦で勝ったことによってW杯出場が近づいたとみんなが喜んで、泣いた人間もいたり大喜びして、そういう雰囲気になったとき、ラモスだけが『まだ終わっていない』とみんなにしつこく言っていた。」

そして、運命の最終戦。相手はイラク。
この試合に勝てば、日本のサッカー史上初のワールドカップ出場が決まる。
先制したのは日本。
しかし、後半、イラクは怒濤の攻撃…同点ゴールを許してしまう。
だが、勝利をたぐりよせる、中山の勝ち越しゴール。
このまま守りきれば、悲願のワールドカップへ…
試合終了寸前の、ロスタイム。
悪夢の同点ゴール。
この瞬間、つかみかけた夢は消え去った…

日本と家族


1998年、ラモスは41歳で現役を引退
その引退セレモニーで…

息子のファビアノくんが、呼ばれると、
父の現役最後のパスを受け取った。

ラモス最後の雄姿は、ファンの胸にしっかりと刻まれた。

それから15年…
ラモスは、サッカーのグラウンドに立つことになる。
今年4月、FC岐阜の監督に就任したのだ。

FC岐阜は、Jリーグ2部に所属するチーム。
ここ数年は下位に低迷し、財政的にも厳しかった。

なぜラモスは、このチームの監督を引き受けたのか?

ラモス「僕のことを必要としてくれるなら、どこのチームでも行くしかない、逃げちゃアカン。強いチームを作りたい、みんなを驚かせたい。」

サッカーへの情熱は、選手時代と何も変わっていない。

ラモスを慕って、チームに来た元日本代表メンバーの姿も…

元日本代表 川口能活「『恐れないで勇気をもってトライしろ』とラモスさんは常々言っている。自分が成長するために、ラモスさんの言葉は心にしみる。」

元日本代表 三都主アレサンドロ「いろいろな監督のもとでやってきたが、ラモスさんは常に熱い。」

もっと 試合を見に来て欲しい…
どんなに疲れていても、ラモスはファンサービスを欠かさない。

それは、グラウンドの外でも…
この日やって来たのは、岐阜の夏の風物詩『鵜飼い』。

こうして、監督自ら先頭にたち、チームの宣伝活動を行っている。
昨年度に比べ、観客数は倍増!
サッカー文化が根付いてこなかった岐阜に確実にファンが増えている。

観客「(岐阜は)昔から野球しかメジャーじゃなかった。ラモスさんが来たことでサッカーが根付いてくらたらと思います。」

さらに…
ラモスは、小学生を対象にしたサッカー教室を開催。
選手時代から続け、30年以上になる。

子供たちを本気にさせたい…
高学年相手のミニゲームでは、子供を相手にドリブルでかわし、強烈なシュート!
全く手を抜かない。

スタッフ「本気ですね〜」
ラモス「本気出さないと負けるから。負けるの嫌い、嫌だ。」

この厳しい指導が、世界的な選手を生んでいた。
なでしこジャパンのエース、澤穂希。
中学1年生の時、ラモスから指導を受けたことがある。

澤「本当にラモスさんって上手いんですよ。年齢 性別関係なく 本気で取れないのがすごい悔しかったという印象がすごく残っています。まだまだ上手くなれると思っていますし、負けたくないという気持ちは今でも持っている。」

このサッカー教室で、子供達に必ず伝えるメッセージがある。

ラモス「親孝行ね、お母さん大事にしてね。お母さんとケンカするの良くない。俺たちブラジル人は、今は日本人だけどね、あり得ない。」

それは家族の大切さ。

3年前、ラモスの最愛の妻・初音さんは、がんでこの世を去った。
告知からわずか、一週間あまりのことだった。

しかし、今も家族の絆は固く結ばれているという。

元日本代表 武田修宏「奥さんが他界したときあまり出かけなかったんですよね。その時ファビちゃんが『パパどうして出かけないの? いつもだったら出かけてたよね、出かければいいじゃん』そう言ってから、ラモスさん出かけるようになって。今は子どもたちがパパを支えてやっているなというのはすごく思います。」

今月6日。
ラモスファミリーにとって、この日は、特別な1日だった。

ラモスが呼び込んだのは、娘のファビアナさん。
この日は、彼女のバースデー。
このイベントを企画したのは、もちろんラモス。

現在、ファビアナさんは、日本で歌手として活動している。

ファビアナ「日本人にブラジルを紹介して、その後ブラジル人に日本を紹介できたらいいな…音楽を通してそういう架け橋になれたらいいなと思う。」

父親の背中を見て成長したのは、娘だけではない
もう一人、父から現役最後のパスを受け取った、息子のファビアノくんは…
現在、中学生サッカーチームのヘッドコーチを務めている。
彼の夢は?

ファビアノ「(父と)一緒のチームでコーチと監督という立場で、日本一 世界一のチームを作りたいですね。」

ラモスの日本への思い、
それは2人の子供たちにも、しっかりと受け継がれている。
もう一度 生まれ変わっても
サッカー選手になりたい
初音ちゃんと一緒になりたい
W杯に出たい
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