原爆:投下の日「煙幕」…八幡製鉄所の元従業員が証言

毎日新聞 2014年07月26日 07時30分(最終更新 07月26日 12時54分)

煙幕装置の配置を図示しながら証言する宮代暁さん=大分市で2014年5月、比嘉洋撮影
煙幕装置の配置を図示しながら証言する宮代暁さん=大分市で2014年5月、比嘉洋撮影

 長崎に原爆が投下された1945年8月9日、米軍爆撃機B29の来襲に備え、福岡県八幡市(現北九州市)の八幡製鉄所で「コールタールを燃やして煙幕を張った」と、製鉄所の元従業員が毎日新聞に証言した。米軍は当初、小倉市(同)を原爆投下の第1目標としていたが、視界不良で長崎に変更。視界不良の原因は前日の空襲の煙とされてきたが、専門家は「煙幕も一因になった可能性がある」と指摘する。【曽田拓、比嘉洋、高芝菜穂子】

 ◇米軍機「視界不良」の一因か

 「煙幕作戦」はこれまで、長崎の被爆者への配慮などから関係者も公言せず、実態がほとんど知られていなかった。だが、戦後69年がたち、当時を知る生存者も減る中、八幡製鉄所(現新日鉄住金)の元従業員ら3人が証言を決断した。

 このうち、太平洋戦争末期に製鉄所構内の堂山製缶工場で働いていた大分市在住の宮代暁(さとる)さん(85)が、実際に「煙幕を張った」と証言した。8月9日は工場隣の木造事務所におり、ラジオで「少数機編隊が北上中」と聞き、その後、敵機襲来の警報と同時に上司に命じられ煙幕装置に点火。大量の黒煙が上がったのを確認して地下壕(ごう)に避難した。B29が去って事務所に戻ると「長崎が新型爆弾で攻撃された模様」という放送があったという。

 宮代さんによると、従業員たちは、8月6日に広島市が「新型爆弾(原爆)」で壊滅したことを広島経由で八幡に戻った同僚から7日ごろに聞いていた。北九州には八幡製鉄所のほか兵器工場などもあり、「次はこっちだと考えていた」と言う。

 工藤洋三・元徳山高専教授が収集した米軍資料によると、原爆を積んだ2機は9日午前9時55分、小倉上空に到達。原爆投下を3回試みたが、目標が「もやと煙」で見えず、第2目標の長崎の攻撃を決定し、10時58分に投下した。

 一方、旧防衛庁の「戦史叢書(そうしょ)」によると西部軍管区司令部は7時48分に警戒警報、7時50分に空襲警報を発令。宮代さんが煙幕を張ったのはこの時とみられる。

 八幡製鉄所構内の煙幕装置は、宮代さん以外の2人の元従業員らも目撃。取材に「半分に輪切りにしたドラム缶にコールタールを入れたものが並んでいた」などと話した。コールタールは製鉄所で出る副産物で、燃やすと黒煙を上げる。

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