CPUを6502に決める

 LSIの開発で重要な鍵はCPUの選択だった。当初の任天堂社内の意見は、業務用で慣れていたZ80以外考えられないというものだった。

 ところがリコーからは、同社がライセンス権を持つ米Rockwell社の6502を薦められた。リコーは、6502を使えばチップ面積はZ80の1/4になり、残り3/4に好きな回路を入れられると任天堂に説明した。

 (1)価格を下げるにはチップ面積が小さいほうが望ましい、(2)他社から真似をされないためには国内であまり普及していないアーキテクチャのほうがよい、という2点を考慮し、6502を採用することを上村は決断する。実際、玩具メーカ他社がファミコンのCPUを突き止めるには、発売後1年程度の時間が必要だったという。

 ただし開発当時、スタッフを説得するのはたいへんだった。Z80向けの開発ツールなら社内にごろごろしていたが、6502についてはまるで馴染みがない。上村は、とにかく使ってみてくれと開発第一部から戻ってきたばかりの沢野に指示した。

 ソフト開発を担当する沢野も反対派の一人だったが、実際に6502でプログラミングしてみると組み合わせて使う画像用プロセサの仕様と相性がよいことに気づく。沢野の言葉を借りれば「味のあるマイコン」であることがわかった。こうして、上村はなんとか開発スタッフの説得に成功し、CPUに6502を採用することが決まった。

 6502に決めたものの、満足いく開発ツールがないという欠点はあった。LSIの開発と並行して、開発ツール作りも大きな仕事になった。

生きたマニュアルが入社してきた

 LSIやツールの開発が軌道に乗り始めた1982年後半から、具体的なソフト開発や、外観デザインの検討などが始まった。

 6502という不慣れなCPUを相手にしたゲーム・ソフト開発はかなり手間のかかるものだった。開発するソフトのなかにはドンキーコングなど業務用ゲーム機からの移植作品もあった。ただし、プログラムの変換はできず、ゲーム画面を見てストップ・ウォッチで動きのタイミングを測りながら、プログラムを組むという根気のいる作業が続いた。

 ところが、1983年春からソフト開発のピッチはグンと上がる。貢献したのはその年の新入社員の加藤周平(現、開発第三部係長)である。

 学生時代にマイコン・クラブに所属していた加藤は、6502を熟知していた。通っていた大学の前に、古い業務用ゲーム機の基板などを販売するジャンク屋があった。たまたま転がっていたゲーム基板を購入し、パソコンに改造しようとしたことが6502との出会いだった。雑誌記事などを頼りにプログラミングを体で覚えたという。

 加藤は1983年4月に入社すると新人教育を受けるどころか、反対に開発スタッフに6502についてレクチャする立場になった。命令を見たら即座に機械語を答えられる生きたマニュアルの出現に、皆びっくりした。

 強力なスタッフを一人増やし、ファミコンの開発はいよいよ佳境に入るのである。

(文/高野 雅晴)

(※本記事は「日経エレクトロニクス」1994年12月19日号の「ファミコン開発物語」を再掲載したものです。登場人物の肩書きおよび企業名等は、雑誌掲載当時のものとさせていただきます。あらかじめご了承ください)

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