建艦思想に見る海上防衛論―中国海軍編
●五 中国海軍と中越戦争

 第二次世界大戦後に中国は七回の対外戦争あるいは紛争にかかわったが、 そのうちの三回がベトナムとの戦争であった。 第一回はベトナム戦争が継続中の一九七四年一月一一日に、 南ベトナム政府がスプラトリー群島(中国名・南沙群島)をフートィ省の行政管轄下に入れると領有宣言をしたことを口実とするものであった。 南ベトナム政府が領有宣言をハッスルと中国政府は直ちに抗議を発したが、 一五日にはパラセル群島(中国名・西沙群島)に艦艇を派遣し、 二〇日までに駐留していたベトナム兵に攻撃を加えて占領した。 中国の発表では南ベトナム駆逐艦が中国固有の領土である西沙群島で操業していた漁船に領海侵犯であると挑戦したので、 直ちに駆潜艇二隻と掃除海艇二隻を漁船と民兵の保護のために派遣した。 中国軍民は「三〇余時間にわたって理を説いて闘争したが、 最後には敵の気違いじみた攻撃を受けたので反撃し」護衛艦一隻を撃沈し、 一〇〇余人を倒し四九人を捕虜としたと南ベトナム側が先制攻撃をしたため、 自衛上やむなく反撃したと正当性を主張している。 しかし、 この海戦の三年前の一九七一年七月七日に、 AP通信が過去数カ月にわたり西沙群島の最大の島である永楽島に中国が建設機材を運び、突堤や五〇棟以上の建築物を建築していると発表しており、また西側の報道はこの海戦に中国がMIG二一や二三などの戦闘機、 コマ型ミサイル艇三隻を投入し、 ベトナムの駆潜艇が撃沈されたと伝えている。 これらの報道から中国はベトナムの南沙群島領有発表を口実に、 南沙群島まで手を伸ばす制海権がなかったため、 それまで領有を巡って紛糾していた西沙群島に進攻し、 現れたベトナム艦艇を圧倒的な海空軍力を集中して撃破し、 翌日にはベトナム軍が防備していた甘泉島、 珊瑚島、 金銀島を占領し、 西沙群島を完全に支配したと考えるのが事実に近いのではないであろうか。

 次いで生じたのは一九七九年二月中旬から三月上旬の中越国境戦争で、 中国軍がベトナム国境を攻撃したものであったが、 小平はその理由を中国と敵対関係にあるソ連と友好相互援助条約を結び、 ソ連海軍にカムラン湾の使用を認めたため、 ソ連の艦艇が中国沿岸に進出し中国に大きな脅威を与えたベトナムの反中国の行為に、 ベトナムに「教訓を与えるため」であったと述べている。 次に生起したのも南沙群島をめぐるベトナムとの海戦であったが、 南沙群島はすでに人の住める島はフィリピン、マレーシア、ベトナム人などが住んでおり、 中国が進出できる島はなかった。 すると中国は一九八八年二月から満潮時には水没する国際法を無視して「低潮高地」に鉄筋コンクリートの建物を作り、 「永暑礁海洋観測站」と称していた。 海戦は中国側の発表によると一九八八年三月一三日に、 中国艦艇が赤爪礁付近で観測員を上陸させて観測を行っていると、 一四日にベトナム海軍の輸送艦三隻が突然現れ、 四三人が赤爪礁に上陸した。 中国側はこれに対して中国領であると退去を求めたが、 ベトナム側は応じないばかりか攻撃を加えてきたので自衛上やむなく反撃し、 ベトナムの輸送船一隻を撃沈し、 輸送船一隻と揚陸艦一隻に重大な損害を与えたが、 「わが海軍は人道主義に則り、 海に落ちたベトナム人を救助し同時にベトナム艦船が赤十字旗を掲げて救助活動を行うことを許可した」と発表している。 しかし、 この紛争の直接的原因を西欧の報道などに求めると、 中国は一九八七年四月上旬から一カ月半にわたり、 中国科学院の調査船実験二号と三号を南沙群島に送り調査活動を行い、 五月から六月には中国海軍が同諸島付近に大型艦艇を展開し二〇日にわたって演習を実施していた。 このため一五日にベトナムが共産党機関紙『ニヤンザン』で「ベトナムの領土は不可侵である」と抗議した。 すると、 中国は西南沙群島や南沙群島は紀元前の西漢時代に中国人によって発見され、 以後中国人によって利用されてきたと同群島が中国の固有領土であり、 「中国政府は適当な時期に、 それら島嶼を収復する権利を持っている」と反論した。 このような中国の動きにベトナム政府が艦艇を派遣して防備や監視を強化すると、 それを圧倒する兵力を投入して占領してしまったというのが真実に近いのではないであろうか。 『中国人民日報』は「革命精神を発揮し南ベトナム艦艇に接近し手榴弾を投げて護衛艦を撃沈した」と人民海軍兵士の勇気を称えているが、 ベトナム側は中国の艦艇は九隻であり、 一〇〇ミリ砲やミサイルで攻撃してきたと発表している。

 次いで生じたのはフィリピンが領有を主張する南沙群島にあるカラヤン諸島内の満潮時には一部水没するミスチーフ(中国名美済・フィリピン名パンガニバ)環礁の中国の漁船待避所をめぐる問題であった。 中国はそれまでベトナム領内の岩礁六か所に漁船の待避所を名目にコンクリート製の建築物を建造していたが、 アメリカがフィリピンから撤退した一九九二年には、 フィリピンが領有を主張するパラセル諸島の西側のハーフ・ムーン(半月礁)、 ファースト・トーマス(仁愛礁)、 セカンド・トーマス(信義礁)などに高脚式建造物を建て、 フィリピンの抗議には「地方当局の漁業部門が建てた漁船の防風避難施設であり、 南沙群島での漁民の生命と操業の安全を守るための施設である」と弁明し、 一九九四年四月のラモス大統領訪中時の江沢民国家主席との会談では、 「領土問題の現状維持」が確認された。 しかし、 その半年後の一九九五年二月にはラモス大統領がユーカン級揚陸艦、 補給艦、 海洋調査船二隻など九隻の艦艇が環礁内に在泊している写真を公開し中国に抗議した。 今回の中国のこの行為は海軍力の増大、 外洋作戦能力の向上にともない、 中国が南沙群島のベトナム領からフィリピン領へと領有の既製事実化を拡大し、 さらに実行支配体勢を強化しいることを示したものといえよう。
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はじめに
一 近代海軍の建設
二 軍閥混戦時代の海軍
三 日中戦争と中国(国府)海軍
四 人民解放軍海軍の誕生
五 中国海軍と中越戦争
六 中国海軍の発展
七 中国海軍の問題点
八 中国海軍の戦略
おわりに